0001:気が付けばFNG
世間は、夏休みの最中である。
見上げるほどに濃さを増す紺碧の空に、数キロから十数キロいう高さまで立ち昇る巨大な積乱雲。
ここ100年で数を増やしたアブラゼミが大合唱し、やる気を出した太陽が地上を真っ白に染め上げている。
剥き出しの地面は溜め込んだ熱を返し、陽炎が景色を揺らしていた。
気温は40度近く、湿度も非常に高い。
緑が多く自然豊かな場所だが、何日も雨が降っていない為に、僅かな風でも砂煙を舞い上げる。
そんな所に、何人もの戦闘靴が駆け足して行き、更に細かい粉塵を蹴り上げていった。
ところは山梨県南都留郡忍野村、北富士駐屯地。富士裾野訓練地域。
過酷な実戦を終え、損耗した自衛隊は未だに再編成の途上にあったが、危機は何時またやって来るか分からない。
陸上自衛隊東部方面隊第1師団第32普通科連隊第6中隊。
その第1小隊は、現在部隊訓練評価隊、通称『富士訓練センター』での訓練の真っ最中だ。
第1小隊を構成する3分隊28名は、超炎天下の中、剥き出しの地面を89式小銃――――――3.5キログラム――――――を両手で構えた姿勢でランニングしている。
だが、
「黒衣! 何をやっとるか走り続けろ!!」
「歩くな黒衣!」
「しっかり抱えろ黒衣! 小銃を下ろすな!」
ここに、自衛隊員に混じって訓練を行っている29人目が居た。
「ヒッ! ヒィッ!? し、死ぬ……死んじゃうゥ……!」
近年では女性自衛官の存在も珍しくはない。
しかし、共に走る自衛隊員、そして厳しい目を向ける中隊長に叱咤され、今にも死にそうな様子で走っている女性は、自衛官ではなかった。
身長170センチ前後で、周囲が黒髪の坊主頭ばかりなのに対し、彼女は胸の高さまで来る銀色混じりの金髪。
手足は良く伸び、一見細身だが出る所は出たメリハリのある体型に、胸元が開いて谷間が強調され、屈めば見えてしまいそうなミニスカートのエプロンドレスを纏っている、のだが、今はその上から迷彩色の防弾チョッキ3型を身に付け、更にその上からマントに似た黒いコートを羽織っている。当然、重ね着で殺人的に暑い。
普段はガンメタルシルバーのリボンを着けている頭部も、同様に迷彩色の鉄兜――――――と言っても鉄製ではない――――――が覆い、ニーソックスの足元は、他の自衛隊員同様の戦闘靴となっている。
そんなチグハグな格好をしている少女。
普段は冷めた眼差しの美貌を疲労と炎天下で汗だくにし、過酷過ぎるしごきに耐え兼ね情けない泣きっ面になっているのは、
「黒衣アリス、遅れているぞ! もう一周追加だ!!」
「ぅぐッ!? ぅ……うわぁあああああああん!!?」
「泣くな黒衣ー! もう一周追加するぞ!」
魔法少女、『黒いアリス』に変身した旋崎雨音であった。
これは吸血鬼の一件で自衛隊に酷い事をした祟りか何かですか。でも、先の怪獣騒動では目一杯貢献したじゃありませんか。それで許してくれませんかね。
誰に懇願するでもなく、黒アリスは朦朧とした頭で思う。
魔法少女と言ったって、雨音は普通の高校一年生だ。体力は恐らく、人並かやや下。
と言うか、似非魔法少女である。
『ニルヴァーナ・イントレランス』なる謎の存在により、『コンポーネント』という特殊な能力を与えられた能力者達。
その能力は、個人の希望と言うか欲望と言うか、そういったモノを肥大化させ、特化した特殊能力として発現させる。
その為に万能なモノにはならず、場合によっては手品程度の能力に留まっていた能力者も雨音は見て来た。その手品で、女の子達がえらい事になっていたが。
他方雨音の能力は、ある意味で汎用性があるが、少なくとも超人的な体力や膂力を授けてくれる、某巫女侍の様なモノではなかった。
体力的にはただの高校一年生でしかない黒アリスの雨音が、自衛隊の訓練なんかについて行ける筈が無い。
ところが現実はこの通り。
貴重な高校一年生の夏休みを、中隊長の三等陸佐殿の直々の監視の下、自衛隊の地獄の訓練で盛大にブッ潰しているとなれば、そりゃ泣きたくもなるだろう。
「ぅう……せっかく、生き残ったのに……なんで、こんな、事に…………」
「無駄口を叩くな黒衣! 集中しろ!!」
「い!? イエッサぁあ……!」
おっかない鬼軍曹、ではなく三佐に怒鳴られ、小心者の黒アリスは泣き声で応えていた。
やたら重い小銃を抱え、空気ごとローストされているかのような暑さの中、軍隊式に尻を蹴飛ばされて、デスロードに脚を引き摺る黒アリス。
何故こんなヒドイ事になっているか。
それを説明しようとすると、話せば長く、事の起こりから順を追って話そうと思えば、ひと月以上前にまで遡らねばならない。
吸血鬼の大量発生とは比較にならない大事件。
いや、災害や天災と言って良いその出来事の発端は、雨音や親友のカティがのほほんと過ごす日常から遠い所で、少しづつ進行していたのだった。
その頃の雨音の日常は、とても『のほほん』としたモノとも言えなかったが。




