わだいがない 12
金崎くんの場合
誰かのセリフだ。いや流行語かなにかだったのだろうか。
「亭主は留守で元気がいい」
聞いたときはひどい話だとため息をついたが、離婚した先輩を持つ俺が思う正解は「それは愛を込めて言ってくれているならまだいい」である。
「離婚?離婚って、離婚ですか?」
「何度も言うな。」
「す、すいません、でも離婚……。」
この間、結婚して三年たった僕には、まったく縁のない言葉ではないところが、恐ろしい。先輩は酒を飲みながら、話を進めた。
「もーさ、子供たちは完全に母親側でさ。当然だよな、一緒にいる時間が長いんだからさ。しかも二人とも女の子だしさ。あの子たちに苦労させまいと頑張って、頑張って働いてきたのにぃーーー。」
「な、泣かないで下さいよ。ね?ね?ね?」
俺は慌てて、先輩の背中をぽむぽむ叩いた。
「ただいま。」
「しぃー。」
夜中というほど遅くはないが、夜である。通常の声でただいまと言っただけだが、玄関を開けてくれた妻は口に指を当てて出てきた。
「寝てるのか?」
「そうよ。いま、さっきなの。」
つい、小声になる。部屋をそっと覗くと、自分の娘が万歳の形で寝ている。最初は、なぜ万歳をしているのか不思議だったが、あるとき妻が俺と子供が一緒に寝ている姿を写真に撮って見せてくれると、まったく同じ格好で寝ていた。それには笑うしかなかった。
「万歳のまま、寝てるな。」
「いつもね。」
妻も微笑む。
「なにか、食べる?」
「いや、今日は飲んできたからいい。」
「そう。じゃ、風呂は?」
「ん。入ってくる。」
「はー。」
風呂に入りながら、今日の先輩の言葉を思い出していた。たしか、先輩は結婚して5年か6年だったはずだ。子供が二人。たしかに、奥さんの話はほとんど聞いたことがなかったが、子供のことはかわいがっていたような印象がある。
「いーか、金崎、離婚なんて急だよ?」
「そうですか?」
「もー。奥さんが決めたら、昨日まで普通に笑っていてもさらっと食器棚から紙を出してくるぞ。離婚しましょうか?じゃないんだよ、してね、のハンコも押してある状態で紙切れが出てくるんだ。」
「怖いこと言わないで下さいよ。」
「怖いぞー。ケンカしているうちはまだいい。ケンカもなく、奥さんと会話もなく、子供と話すこともなく、向こうの両親と奥さんでちゃくちゃくと話が進んでるんだぞ。当然、自分は全く知らずに。」
「はぁ。」
「飲み会だって、出世のためを思って参加して、日曜だって会社に行って仕事して、残業して、車だって買ったのに、なんでだぁ……。」
「ちょ、泣かないでくださいよ、先輩。」
「出た?湯加減どうだった?」
「ちょっとぬるいな。」
「沸かせばよかったのに。」
「ん。まぁ、いい。」
「そう?」
小さなリビングに、自分と妻だけ。子供が寝ているから、テレビも付けられない。いや、付けられないこともないが、付けると子供が起きてくる。そうすると、子供が寝るまで妻が起きていることになり、翌日の朝ごはんに影響するという事がわかっている。
俺は、読んだはずの新聞をカバンから取り出して広げながら、考えた。なにを話そう。こっそり妻の様子を見ると本を読んでいる。話しかけてもいいものか。話しかけるなの意味なのか。そっと新聞の次のページをめくった。
「昔はなぁ。そんなことはなかった。」
完全に愚痴になっている。
「僕が帰るまで起きていてくれた。僕が何時に帰っても、温かい夕飯が出てきた。風呂も温かかった。」
「はぁ。」
「それが、いつのころからか酷いときはチェーンまでして寝てるし、ご飯はないし、風呂もシャワーだ。いやでも、それでも僕はいいと思ってた。奥さんも二人の子供の面倒を見てるんだし、大変だろうと!それなのにぃーーーー。」
「泣かないでくださいよー。」
「はぁー。」
無意識にため息をついていたらしい。
「どうしたの?ため息なんかついて。」
「ん?いや、別に。」
「そう。」
妻はまた本に目を移した。
「出会ったころは可愛かった!ほかの女の子と話しただけで、目を吊り上げて怖かった。」「はぁ。」
「結婚しても、怖いのは変わらないが。」
「ですねぇ。」
「ゴホンと咳をすれば心配をしてくれた。熱なんか出した時には、寝ずに看病してくれた。感動したもんだ。だのにーーーー。」
「泣かないで、先輩!」
「実はさ、」
俺は話し出した。
「ん?」
「今日、会社の先輩と飲んでたんだけど。ほら、ぼくらの結婚式にも来てくれた人。」
「うん。」
「離婚したらしいんだ。」
「あらま。いつ?」
「前月って言ったかな?」
「あらまー。お子さんいなかった?」
「二人いるんだけど、奥さんの両親が面倒を見てくれるらしい。」
「へぇ……。ま、うちは母さんたち、遠いからねぇ。」
「だねぇ……。」
「……。」
会話が切れた。なにを話そうとか昔は考えなかったような気がする。これが先輩のいう危機の始まりだろうか。正直なところ、いままで離婚の「り」の字も考えたことはなかったが、俺だけだと言い切れるだろうか。
「さて、そろそろ寝るか。」
「そうね。」
布団が引いてある。俺はそこに横になるだけだ。いつもそれが当然のように思っていたが、先輩はぼやいていた。
「荷物が多くて邪魔だな、狭いなと思っていた我が家。それがある日、荷物を持っていかれてみろ。家具なんかほとんどそのまま残っているのにもかかわらず、部屋が広く感じるんだ。寒いんだぞー。」
「はぁ。」
「電気はついてないし。遅くなっても誰にも怒られない代わりに、誰も飲みすぎて叱ってもくれない。お帰りの声もなければ、いってきますを言う相手もいない。」
「はぁ。」
「いいか、金崎。結婚して、子供ができたからって油断してると、幸せなんかあっというまに消えるんだからな!」
「脅さないでくださいよ!」
「いーや、日ごろから注意しておけって警告だ!……僕も。僕も、誰かに言ってもらって……。いや。言われたな。神保部長から言われた。あの人は……でも再婚したんだよなぁ。」
「え?そうなんですか?」
「ああ。再婚かぁ……。はぁ。離婚するんじゃなかったかなぁ……。う。う。」
「先輩、明日目が腫れますよ。」
「うううう……。」
翌日。先輩は朝から会社には来ずに、直接出張に東京に出かけた。目がかなり腫れているんじゃないかと思うのだが、聞かずにいることにした。
俺はさっさと帰ることにした。空が明るいうちに帰るのは久しぶりだ。ふと見るとなにやら人が並んでいる。パンの安売りらしい。俺はそれを買って帰ると、妻が目を丸くした。
「おかえりなさい。だけど、どうしたの?こんなに早くに。」
「たまにはいいだろ。」
「いいけど、連絡してよ、夕飯まだできてないのよ。」
「あ、パン買ってきたし。」
「パンを買ってくるなら、夕飯作る前に連絡してよー。」
文句を言う妻に俺は素直に謝った。
「ごめん。」
「おかえりー。」
娘が奥から走ってきた。
「ただいまー。」
俺は笑った。




