表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

「銅銭の数を数えるなど誰でもできる」と仰った王太子は、王国通貨の合金比率をご存知ですの?

作者: 歩人
掲載日:2026/05/16

 王宮財務省の長い廊下に、油の少なくなった燭台が一つだけ灯っていた。芯は時折細く震え、漆喰しっくいの壁に黄ばんだ影を投げ、その影が、執務机に肘をついた王太子レオポルトの背中を、黒く塗り潰している。


 レオポルトの足元には、革の袋が一つ転がっていた。


 袋の口から、銀貨が二十枚、卓の縁にこぼれていた。隣国エルドラの使者が、半刻前にここへ置いて行った袋である。


「貴国の銀貨は、重量がバラバラでございます」


 使者は丁寧な口調で、しかし刃のように冷たく告げた。


「同じ袋から二十枚をお選びいただいて結構でございます。ご覧の通り、最も重い一枚と最も軽い一枚で、〇・五グラムの差。わが国の両替商は、この袋を一晩磨きました。十二枚の表面が、薄く黒ずんでおります。鉛が、混じっておりまする」


 使者は丁重に一礼し、袋を卓の上に残して去った。


「明日より、両国間の決済を、停止いたします」


 その夜、商人組合長が、財務省の扉を二度叩いた。


 組合長の手には、辞職届が握られていた。


「殿下、為替が暴落いたしました。今朝、王国貨は、エルドラ貨に対して二割近く下げました。明日の決済が、組めませぬ。商家八つが、今夜中に倒れまする」


 組合長は深々と頭を下げ、辞職届を卓の縁に置いた。


 彼の指先が、わずかに震えていた。


「わたくしどもは、半年前まで、為替表を毎朝二度、貼り出させていただいておりました。あれを誰が作っておられたか、殿下はご存じでございましたか」


 レオポルトは、答えなかった。


 組合長は、もう一度頭を下げて、退室した。


 扉が閉まる音を聞きながら、レオポルトは、机の縁に転がる銀貨の一枚を、指の腹で摘まみ上げた。


 手のひらに乗せて、僅かに弾ませてみる。


 半年前なら、それで価値が判じられる気がしていた。彼は『貨幣は数字より重さで判じればよい』と、両替商組合長ベルナルデから吹き込まれて、信じていた。


 今は、ただ、銀貨が重いのか軽いのか、それすらも判らない。


 半年前。彼は、メリザンドに、こう言ったのだった。


「銅銭の数を数えるなど、誰でもできる。算盤を弾くのは、商人の仕事だ」


 あの時のメリザンドの返事を、レオポルトは何度も思い出した。


 彼女は、言い返さなかった。


 ただ、こう答えたのだ。


「左様でございますか」




 半年前の春。王宮の春の夜会。


 大広間の天井から下げられた水晶燭台が、千の小さな星を床に撒いていた。緋色ひいろ絨毯じゅうたん、金糸の刺繍ししゅうの卓布、銀の燭台。白磁の皿には、若鶏のロースト、若菜のサラダ、東方から取り寄せた香辛料を散らした葡萄酒のジュレ。


 メリザンドは、壁際の柱の影に立っていた。


 淡墨色の絹のドレス、低い位置で結った墨色の髪。襟元には何の装飾もない。指先には、いつも算盤の珠を弾いた小さな墨の汚れがあって、彼女はそれを隠そうとしなかった。


 扉が開いて、王太子レオポルトが入ってきた。


 彼の腕には、新しい寵妃が掴まっていた。両替商組合長ベルナルデの娘エレオノーラ。襟元から胸元にかけて、巨大な真珠の首飾りが垂れている。蛋白色の珠が三十二粒、燭台の光を吸って淡く輝いていた。


 レオポルトは大広間の中央へ歩み出ると、手を広げて言った。


「諸君、見たまえ。これは、銀貨千二百枚の値打ちの真珠だ。エルドラの真珠商から取り寄せた。我が王国の宝石商どもが、いかに信用ならぬか、よくわかるだろう」


 大広間がざわめいた。称賛の声。お追従の拍手。


 メリザンドは柱の影で、首飾りを目で量った。


 真珠の直径は、ざっと七分。比重は淡水真珠で約二・七、海水真珠で約二・八。三十二粒の珠が連なっている。直径から体積を逆算し、比重を掛けて、合計を出す。指先が反射的に、虚空で算盤の珠を弾いた。中指の腹が、見えない四つ目の桁を僅かに撫でた。


 真珠の重量は、約三百八十グラム。


 ただし——首飾りの留具が問題だった。


 彼女は、留具の銀の輝き方をじっと見た。


 あの輝きは、銀九十二・五パーセントの王国規格ではない。エルドラ規格の銀八十、銅二十の合金。色味が、僅かに鈍い。


 銀貨千二百枚の値打ちなら、銀規格は王国規格でなければならない。エルドラ銀の留具を使うなら、首飾り全体の含み価値は、銀貨で換算して八百四十枚を超えない。


 商人に騙されたまま、エレオノーラ様が大広間で誇らしげに笑い続けるのは、客への不誠実でございます。お知らせしないままここを去るのも、わたくしの家業かぎょうへの不実でございます。


 メリザンドは小さく息を吐き、柱の影から、半歩だけ進み出た。


「殿下、申し上げます」


 大広間が、わずかに静まった。


 レオポルトは、当てつけのように、扇を片手で広げた。


「何かな。算盤師殿」


 称号は、嘲りを含んでいた。


 メリザンドは、深く一礼した。


「その首飾り、銀貨で換算なさるなら、八百四十枚の含み価値でございます。千二百枚は、留具の銀規格を王国規格と誤認した値でございます」


 大広間が、凍った。


 近くの貴婦人方が、扇の陰でこちらを窺った。エレオノーラの首が、僅かにった。レオポルトの頬に、赤味がじわりと差した。


「貴様、ベルナルデ殿の品定めに、口を挟むのか」


「品定めではございません。換算の話でございます。留具に使われている銀は、銀八十、銅二十の合金。色味でわかります。比重も、磨き直せば、すぐに判じられまする」


 レオポルトは扇を音を立てて閉じた。


「銅銭の数を数えるなど、誰でもできる」


 彼の声は、大広間の隅まで届く高さだった。


「算盤を弾くのは、商人の仕事だ。算盤師という称号など、わが王家の権威に泥を塗るに等しい。お前のような数字の女は、もう要らぬ」


 メリザンドは、まばたきを一度した。


 怒りは、湧いてこなかった。


 ただ、空中で、虚しく算盤の珠が一つ落ちた音が、彼女の耳の奥に響いた。それは、彼女の家族の千年の労働の音が、たった今、卓上から床へ転がり落ちた音であった。


 彼女は、静かに、深く一礼した。


「左様でございますか」


 彼女は、襟元から、手のひら大の真鍮しんちゅうの小さな算盤を取り出した。祖父アルベリクが十二歳の時に与えてくれた、最初の算盤のついである。


 メリザンドは、それを、卓の縁にそっと置いた。


「これは、王宮にお返しいたします標準算盤でございます。銅銭十枚分の重さを、これ一つに込めてございます。わたくしどもの家の珠は、千年の間、ヴィンタリス王国の貨幣の位を、ただ確かめてまいりました」


 彼女は、もう一度、頭を下げた。


「お納めくださいませ。婚約のお話、承りましてございます」


 大広間を出る時、彼女の背は伸びていた。涙は、出なかった。


 メリザンドは、その夜のうちに、王宮造幣局に向かった。




 造幣局の地下作業場は、夜は静かだった。


 彼女は、一人で扉を開けた。鍵は、彼女の腰帯から下げてある。先代の父から受け継いだ、家業の鍵である。


 白手袋を嵌め、温度十六度・湿度五十パーセントの恒温恒湿室に入る。


 黒檀の箱が、棚に並んでいた。


 彼女は、一つずつ、箱の蓋を確かめた。


 銅一・銀一・金一・鉛一・錫一の純金属分銅。各十グラム。純度は九十九・九パーセント。これが、王国通貨の合金比率を確かめる、たった五個の標準分銅である。これらと比重計と算盤がなければ、銅銭一枚の重さも、銀貨一枚の含有率も、誰にも判じられない。


 メリザンドは、五個の分銅を、絹の包み布で一つずつ巻いた。


 次に、隣の棚から、合金配合書の羊皮紙の束を取り出した。千年分の銅銭・銀貨・金貨の合金比率と、季節ごとの補正係数。雨季に銅銭の重量が空気の水分で〇・〇二グラム揺らぐこと。冬の乾燥で銀貨の表面に静電気が乗り、比重計の誤判定を招くこと。これらの全てを、千年の算盤師たちが、一行一行、書き留めてきた。


 彼女は、配合書を、油紙で包み直した。


 そして、彼女は、最後に、自分の算盤を箱から取り出した。


 黒檀の枠、象牙の珠。祖父アルベリクが、彼女の六歳の誕生日に贈ったものである。珠の表面は、百年の指の脂で、淡く飴色に染まっていた。


 彼女が箱を閉じる音を、廊下で誰かが聞いていた。


「お嬢様」


 振り返ると、首席技官グスタフが、扉の影に立っていた。彼の頬の火傷の痕に、燭台の光が当たって、影がふっと深くなった。


 グスタフは、両手を腹の前で重ねていた。


「お持ち帰りに、なられますか」


 メリザンドは、頷いた。


「殿下が、わたくしの仕事を『誰でもできる』と仰せでございました。誰でもできることなら、これは、ここに置いていく意味がございません」


 グスタフは、深く頭を下げた。


「左様でございます。わたくしごときの手では、銀貨の合金比率の最終決定権限はございませぬ。両替商組合長ベルナルデ殿が、安銀を造幣局に納入なされるのを、わたくしは、お止めできませぬ」


 彼の声は、震えていた。


「お嬢様、ご無事で」


 メリザンドは、深く一礼した。


「グスタフ殿、長く、父の代から、ありがとう存じました。半年後、もしご連絡が必要でしたら、自由都市レーゲンへ。組合長アレクサンドル・グランツ殿の許に、おりまする」


 彼女は、馬車に分銅箱と算盤と配合書を積み込んだ。


 馬車が動き出す時、彼女は振り返らなかった。


 振り返らない、と決めていた。




 回想の中で、レオポルトは、いくつもの場面を思い出している。


 メリザンドが、地下作業場で、温度計と湿度計を毎日見ていた朝のこと。雨季の朝、彼女は手帳を開いて、湿度六十二パーセント・気温十四度・気圧七百五十二と書き留めていた。彼は、その手帳を覗き込んで、「数字ばかりだな」と笑った。彼女は、まばたきを一度して、「気温が下がる日は、銅銭の重量が、空気の水分で〇・〇二グラム揺らぎまする」と答えた。彼は、その答えを、面倒な蘊蓄うんちくだと聞き流した。


 彼女が、月の最初の日に、合金比率の管理のため三日間、造幣局に泊まり込んでいたこと。彼は、その時、彼女が政務に飽きて避けているのだと思っていた。


 彼女が、月に一度、為替の予測値を計算するために、一日中算盤を弾いていたこと。彼は、その音を、応接間の隣で、苛立たしく聞いていた。


 ある冬、彼女は、銀貨に鉛が混じっていることを、指の腹で気づいた。両替商組合長ベルナルデが、安銀を造幣局に納入しているとの報告を、彼女は、レオポルトの執務机に持ち込んだ。彼は、報告書を一行も読まずに、ベルナルデを呼んで、彼の弁明を信じた。「鉛など、混じっておりませぬ。算盤師どのは、ご自分の権威を護るために、ありもせぬ疑いを持ち込まれるのでございます」と、ベルナルデは穏やかに笑った。レオポルトは、報告書を、卓の引き出しに、しまい込んだ。半年経って、その引き出しを開けることは、もうなかった。


 ある夏、彼女は、為替が一週間後に二パーセント下がると予測した。


 商人組合は、彼女の警告に従って、決済を一週間早めた。商家八つが、損失を回避した。組合は、メリザンドに金貨十枚の謝礼を申し出た。


 彼女は、深く一礼して、こう答えた。


「家訓により、お受けできません。校正料は、王家からの手間賃で十分でございます。為替は、明日の信頼を、今日の数字で抵当に入れる仕事でございます。抵当を、商家から預かるいわれはございませぬ」


 その時、彼は、彼女の堅さを『商人風情に媚びぬ高慢さ』と判じた。


 今は、その堅さが、家業の矜持であったと、彼には判ってしまっている。


 彼の手のひらには、半年前にメリザンドが置いていった真鍮の算盤がある。机の上から、いつ落ちたのか、誰かが拾って、執務机の縁に戻していた。


 彼は、初めて、その珠を、指で動かした。


 珠は、位を超えた。


 鉛のように、重い音を立てた。




 婚約破棄から四日後。


 メリザンドの馬車は、カウンタ伯爵領の郊外、葡萄畑に囲まれた小さな石造りの隠棲屋の前に止まった。


 母が、玄関の階段で、彼女を迎えた。


 母の頬は、半年前より、痩せていた。父が亡くなってから、母は静かにここで暮らしている。


「メリザンド」


 母は、彼女の頭にそっと触れた。


「立派でしたね」


 メリザンドは、母の肩に、額を一度だけ預けた。


 母は、地下蔵から、もう一つの分銅箱を出した。


「祖父の二号分銅一式。一号より少しだけ軽いのよ。〇・〇〇〇三グラム。許される範囲」


 メリザンドは、深く頷いた。


「お持ちくださいませ」


「あなたが、信じる者と並ぶ場所で、これが据え付けられるのを、わたくしは、ここで聞いておりますよ」


 母は、彼女の墨で汚れた指先を、しばらく見つめた。


祖父おじいさまが、よく仰っていらしたわ。算盤の珠は、数えるためではなく、位を確かめるためにあるって」


「はい」


「位を確かめる人がいなければ、数字は、嘘になるわ」


 メリザンドは、頷いた。


 母は、紹介状を一通、彼女に渡した。封蝋には、二十年前に交わされた古い商家の印章が押されていた。


「自由都市レーゲンの、グランツ家へ。おとうさまが、若い頃に作った縁よ」


 メリザンドは、紹介状を懐に納めた。


 馬車が動き出す時、彼女は、振り返らなかった。


 母の小さな手のひらが、馬車の窓に当たる音を、彼女は背中で聞いた。




 自由都市レーゲンは、河口の街であった。


 木造の橋がいくつも架かり、河沿いに二十四軒の商家の倉庫が並んでいる。倉庫の屋根は、海風と河風のために、低く重くかれていた。市場の通りには、王国貨・エルドラ貨・南方諸国貨の三色の硬貨が、両替商の硝子板の上で、淡く光っていた。


 メリザンドが交易組合本部の扉を開けると、執務室で算盤を弾いている男がいた。


 焦茶の髪を肩で切り揃え、襟元に革紐栞の覗く詩集が一冊。アレクサンドル・グランツ。


 彼は、扉の音に振り返り、彼女の墨で汚れた指先を見た。それから、彼女の腕に抱えられた算盤箱を見た。瞳が、一度静かに止まった。


「カウンタのお家の方を、十年お待ちしておりました」


 彼の声は、穏やかで、低かった。


 メリザンドは、紹介状を差し出した。


「亡き父の縁でございます。算盤師メリザンド・カウンタと申しまする」


 アレクサンドルは、紹介状を確かめてから、深く頭を下げた。


「これは、王家原器の写しでございますか」


 彼の視線は、彼女の分銅箱にあった。


「いえ」


 メリザンドは、答えた。


「王家原器のほうが、わたくしの家の原器の写しでございます」


 アレクサンドルは、しばらく動かなかった。


 それから、もう一度、深く頭を下げた。


「ようこそ、レーゲンへ」


 彼は、机の上の詩集を、丁寧に閉じた。


「明日から、三方為替表の仕組みを、わたくしどもにご教授くださいまし」




 メリザンドが工房に入った最初の朝、アレクサンドルは机を一脚と、窓際に算盤掛け台を据え付けた。


 彼女は、算盤箱から黒檀の算盤を取り出した。窓から差し込む朝の光が、象牙の珠の飴色を、淡く透かした。


 彼女は、三方為替の試算を、最初の三十分で組み立てた。


 王国貨・エルドラ貨・南方諸国貨。商家二十四軒の取扱量を、彼女は配合書から取り出した古い表を参照しながら、一つの板の上に整えた。


 指が、珠の上を走った。


 四桁の珠が一斉に動き、五桁目が一つ、繰り上がった。


 扉の影で、アレクサンドルが、その音を聞いていた。


 彼は、入って来ようとして、敷居の手前で止まった。


「これは、詩でございます」


 彼は、ぽつりとそう言った。


 メリザンドは、振り返らなかった。


 ただ、指先は、止めなかった。彼が動かす空気が、珠の振動を僅かに乱したからである。彼女は、彼の足音が遠ざかるまで、息を整えた。


 扉が完全に閉まってから、彼女は、最後の桁を確かめて、紙に書き留めた。


 翌朝、彼女は、組合本部の掲示板に、最初の三方為替表を貼り出した。


 商家二十四軒のうち、十六軒が、その朝のうちに為替表を写し取った。


 午後、金細工師組合長が、訪ねてきた。


「お嬢様、わたくしどもの装身具は、四十年前まで、純度がバラバラでございました。買い手から、信頼が得られませぬ。同じ細工で、同じ重さの指輪が、店ごとに、銀貨で換算して二割の差で売られておりまする」


 メリザンドは、配合書から金純度の三段階——金九十、八十五、七十五——を取り出して、刻印を統一する案を作成した。三日後、レーゲンの全金細工師十二名が、一堂に会した。彼らの腰には、新しい刻印鏨たがねが下げられた。鏨の刻印は、金九十が三本線、八十五が二本線、七十五が一本線。客は、刻印の本数だけで、純度を判じられる。


 ある老職人が、彼女の前で涙ぐんだ。


「四十年、この技を持っておりました。今日初めて、信じて売れる気がいたしまする」


 その夜、メリザンドは、修道院長三人の合同会議に呼ばれた。


「お嬢様、わたくしどもの貧者救済資金は、三修道院でそれぞれに帳簿を付けておりまする。ある月、北の修道院の支出が、南の修道院の倍に膨らんでおりました。横領の疑いが、絶えませぬ」


 メリザンドは、三冊の帳簿を、一晩で統一の様式に整えた。月次報告書を作成し、組合本部の掲示板に貼り出すことにした。信徒は、誰がいつ何を支出したかを、読むことができる。


 翌月、北の修道院の支出は、南と同じ水準に戻った。信徒の喜捨は、二倍に増えた。


 ある夕べ、修道院長の一人が、工房を訪ねてきた。


「お嬢様、貧者の数は、半年で、半分に減りました。喜捨が増え、配り分が増え、もう一度働けるようになる方が、増えたのでございまする」


 彼は、深く頭を下げて、帰っていった。


 その夜、メリザンドは工房に戻り、机の前に座った。


 窓の外、河口の灯火が、淡く揺れていた。


 扉が、軽く叩かれた。


 アレクサンドルが、蜂蜜湯の入った素焼きの杯を、二つ持って入ってきた。


「お疲れさまでございます」


 彼は、机の縁に、片方の杯を置いた。蒸気が、糸のように立ち上った。


 メリザンドは、杯に手を伸ばしかけて、止めた。指先には、まだ墨の汚れが乾いていた。


 アレクサンドルは、それを見た。


 彼は、自分の手巾ハンカチを取り出した。柔らかい亜麻布の手巾だった。


 彼は、それを彼女の指先に、そっと差し出した。


「あなたの指は、数字の声を聞く手でございます。おぬぐいになっても、また同じ墨が、明日には乗りまする」


 メリザンドは、手巾を受け取らなかった。


 ただ、自分の指を、自分でじっと見た。


 薬指の腹に、小さな黒ずみがあった。算盤の珠を弾いた指の、長年の癖の場所。


「これは、家業のしるしでございます」


 彼女は、そう答えた。


 アレクサンドルは、頷いた。


「左様でございます。わたくしは、その印を、消していただきたくはございませぬ」


 彼は、手巾を引っ込めた。


 代わりに、蜂蜜湯の杯を、もう少し彼女の手の届くところに寄せた。


「殿下のことは、グスタフ殿から、文が届いておりまする。半年後、必ず参られましょうと」


 メリザンドは、頷いた。


「左様でございましょう。為替が崩れる速度は、計算してございますわ」


「お受けに、なられまするか」


「お会いいたします。お話だけ、申し上げまする」


 アレクサンドルは、それ以上、何も訊かなかった。


 彼は、自分の杯に口をつけて、窓の外を見た。


 河口の灯が、揺れていた。


 メリザンドは、蜂蜜湯を、ゆっくり口に運んだ。


 久しぶりに、温かいものが、喉を通った。




 半年が、過ぎた。


 その間、メリザンドは、レーゲンの三修道院の貧者救済資金を統一の帳簿に整え、両替商組合の硬貨計量器を全て校正し直し、商人組合の月次決済を新しい為替予測値で組み替えた。


 信徒の喜捨は、二倍に増えた。両替手数料は、四割下がった。商家二十四軒の総取扱量は、一年で五割増えた。


 その間、王国の貨幣は、静かに崩れていった。


 グスタフからの文には、こう書かれていた。


『お嬢様。

 銅銭の重量が、揺らいでおりまする。最も重い一枚と最も軽い一枚で、〇・四グラムの差。市場の者どもは、『重い銅銭』『軽い銅銭』と呼び分けを始めました。両替手数料は、半年前の三倍でございまする。


 銀貨は、両替商組合長ベルナルデ殿が、安銀を納入し続けておりまする。鉛混入が、〇・八パーセントに達しております。エルドラの両替商は、磨いた瞬間に、表面の黒ずみで判じまする。


 金貨は、合金比率の管理が滞り、金九十パーセントの基準が崩れ、八十九・三パーセントになっておりまする。〇・七パーセントの差は、エルドラの基準では『含有率違反』にあたりまする。


 お嬢様。これは、わたくしの手では、止められませぬ。


 殿下が、必ず、お訪ねになりまする』


 メリザンドは、文を読み終えると、それを油紙に包み、配合書の束の最後に挟んだ。


 翌週、王宮からの早馬が、レーゲンに着いた。




 秋の昼下がり。


 メリザンドの工房に、レオポルトが現れた。


 彼は、半年で十歳老けたような顔をしていた。襟元の刺繍は同じであったが、刺繍の糸は擦り切れていた。三つ嵌めていた指輪のうち、二つが、なかった。


 工房の机の前に立つと、レオポルトは、声を絞り出した。


「メリザンド、戻ってきてくれ」


 メリザンドは、立ち上がりも、頭を下げもしなかった。——王家との契約は、半年前に解けていた。


 彼女は、机の上に、二枚の銀貨を置いた。


 片方は、王宮から取り寄せた最近の鋳造の銀貨。片方は、メリザンドが校正したレーゲンの新しい銀貨。


「殿下、どちらが王家の銀貨でございますか」


 レオポルトは、二枚の銀貨を、しばらく見比べた。


 大きさは同じ。色も、同じに見える。


「同じに見える」


 彼は、答えた。


「同じでございません」


 メリザンドは、淡く首を振った。


「片方には、鉛が、〇・八パーセント混じっておりまする」


 彼女は、机の縁から、小さな天秤を取り出した。皿の縁に、祖母の代から伝わる微細な刻印——『十九〇二』。


 彼女は、二枚の銀貨を、左右の皿に載せた。


 天秤の針は、わずかに、右へ傾いた。メリザンドの銀貨のほうへ、傾いたのである。


「殿下の銀貨は、〇・〇五グラム重うございます。鉛が混じっているからでございまする」


 彼女は、淡々と続けた。


「銅銭の話を、申し上げます」


 彼女は、もう一度、机の引き出しから、銅銭を二十枚取り出した。革袋の口を開けて、卓上に転がす。


「銅銭は、銅九十五・銀五の合金でございます。半年前まで、誤差は〇・〇五グラム以内でございました。半年校正されていない銅銭を百枚集めますと、最も重い一枚と最も軽い一枚で、〇・四グラムの差。市場で『重い銅銭』『軽い銅銭』と呼び分けが始まり、両替手数料が三倍に膨らみまする。下層の労働者の一日の賃金が、銅銭十枚分。三倍の手数料は、彼らの一週間分の食事代でございまする」


 レオポルトは、銅銭の山を見ていた。


 メリザンドは、続けた。


「銀貨に鉛が混じった経緯を、申し上げます。両替商組合長ベルナルデ殿が、安値で買い叩いた粗悪銀を、造幣局に納入し続けました。グスタフ首席技官は、沈黙のうちに止めようとなさいましたが、首席技官の権限では、合金比率の最終決定はできませぬ。半年で、銀貨の鉛含有率は、〇・八パーセントに達しました。エルドラの両替商は、銀貨を磨いた瞬間に、表面の黒ずみで判じまする」


 彼女は、もう一度、息を整えた。


「金貨は、金九十パーセントが基準でございます。半年校正されていない金貨は、八十九・三パーセントになっておりまする。〇・七パーセントの差は、エルドラの基準では『含有率違反』にあたりまする。為替の信頼が崩れ、交易が停止いたしました。商人組合の決済が一週間で半減し、辞職届が殿下の机に届くのは、必然でございました」


 レオポルトは、立っていられず、机の縁に手をついた。


 彼の手のひらが、卓をこする音が、工房の静寂に響いた。


「なぜ、こんなことが、半年で」


 メリザンドは、淡々と答えた。


「殿下、半年は、短うございません」


 彼女の声は、低くなった。


「貨幣の真実を計る者がいなくなった瞬間から、世界は、静かに狂い始めまする。誰も気づきませぬ。皆、自分の硬貨を信じておりますから」


 工房の外で、河風が、軽く窓硝子を鳴らした。


 メリザンドは、机の縁の二枚の銀貨に、静かに視線を落とした。


「貨幣は、誰が作ったかではなく、誰が校正したかを覚えています」


 その一言は、彼女が、今、初めて口にした言葉ではなかった。祖父アルベリクが、最後の冬、彼女の手のひらに白い分銅を一つ握らせて、そう言ったのである。算盤師の家の、最後の口伝であった。


 レオポルトは、頭を下げた。


「戻ってきてくれ。何でも約束する。爵位も、領地も、何でも与える。お前を、王妃に迎える」


 メリザンドは、首を横に振った。


「殿下」


 彼女の声は、変わらなかった。


「わたくしの仕事を『誰でもできる』と仰ったのは、あなた様でございまする。もう、その言葉は、取り消せませぬ。取り消した瞬間に、あなた様の言葉そのものが、軽くなりまする」


 彼女は、机の上に置いた小さな算盤に、指を一本、添えた。


「算盤の珠は、数えるためではなく、位を確かめるためにございまする。位を確かめずに口にした言葉は、後から幾ら数を重ねても、位の桁が、合いませぬ」


 彼女は、銀貨の片方——王家の銀貨——を、レオポルトの方へ、机の上で滑らせた。


「殿下の銀貨は、お持ち帰りくださいませ。再校正には、エルドラの算盤師に、ご相談くださいませ。手数料は——もちろん、王国の銀貨でなく、エルドラの銀貨でお支払いを」


 レオポルトは、震える指で、銀貨を懐に納めた。


「では、誰が、王国の通貨を、これから」


 メリザンドは、答えなかった。


 彼女は、ただ、机の縁に、もう一度、視線を落とした。


 工房の戸口に、いつの間にかアレクサンドルが立っていた。彼は何も言わず、ただ、戸口の柱に肩を預けて、メリザンドの背中を見ていた。


 レオポルトは、戸口で、アレクサンドルの姿に気づいた。


 彼は、何も言えなかった。


 ただ、深く一礼して、退室した。


 扉が閉まる時、河風の音が、また、窓硝子を鳴らした。




 その夜、王宮。


 レオポルトは、自室の机に、半年前にメリザンドが置いていった真鍮の小さな算盤を、置き直した。


 彼は、寵妃エレオノーラを呼ぼうとした。


 声が、出なかった。


 彼は、椅子に腰を下ろし、算盤の珠を、指で一つだけ動かした。


 珠は、位を超えた。


 鉛のように、重い音を立てた。


 彼は、両手で頭を抱えた。


 彼の手のひらの中で、半年分の沈黙が、ゆっくりと、彼の重さになっていった。




 翌春。


 レーゲンの中央広場には、御影石の台座が一つ、新しく据え付けられた。


 台座の上に、鉄枠の硝子箱が載っていた。箱の中には、五個の純金属分銅が、絹の布の上に並んでいた。銅一・銀一・金一・鉛一・錫一。各十グラム。純度九十九・九パーセント。これが、レーゲンの貨幣の真実を、これから千年、ただ一つの基準として支える分銅一式である。


 箱の蓋は、薄水色のリボンで結ばれていた。


 メリザンドが、リボンの結び目に、軽く指を添えた。


 アレクサンドルが、彼女の隣に立っていた。彼の手には、組合員全員の名簿があった。


「あなたのおかげで、この街は、信じられる場所になりました」


 彼は、静かに言った。


 メリザンドは、少し笑った。


「街がもともと、信じる準備をしていたのです」


 広場には、商家二十四軒の組合員、金細工師十二名、両替商三十名、修道院長三人、それから、街の子供たちも集まっていた。


 誰もが、帽子を脱ぎ、頭を下げた。


 メリザンドは、リボンを、ゆっくり解いた。


 硝子箱の蓋を、彼女は両手で支えた。


 春の風が、広場を渡った。


 夕暮れ、メリザンドは工房に戻り、机の前に座った。


 母から、小さな手紙が届いていた。


 封筒の中には、もう一通の、古い手紙が同封されていた。封蝋は、祖父アルベリクの紋章。八年前の冬の日付。彼がく三日前に書いたものを、母が大切に保管していた。


『よくやったね、メリザンド。


 数字は、嘘をつかない。

 校正する者がいなければ、嘘になる。


 位を確かめる珠を、毎日動かしなさい。

 動かす指が、家業を継ぐ。

 継ぐ手が、千年の信頼を支える。


 振り返らずに済む数字を、毎日校正しなさい。


 祖父じじより』


 メリザンドは、手紙を、机の縁に置いた。


 目尻に、涙が、滲んだ。


 悲しみではなかった。


 半年前の春の夜会から、初めて流れた、一滴の涙であった。


 算盤の珠が、机の上で、ぴたりと止まっていた。指の脂で淡く飴色に染まった百年の珠が、夕日の最後の色を、静かに含んでいた。


 工房の扉が、軽く叩かれた。


 アレクサンドルが、入ってきた。


 彼は、机の縁の手紙を見て、そして、メリザンドの目尻を見た。


 彼は、何も訊かなかった。


 ただ、机の上に、温かい蜂蜜湯の杯を、もう一つ置いた。


 それから、窓の外の夜空を、しばらく見上げた。


「明日は、何の数字を聞こうか」


 彼は、ぽつりと言った。


 メリザンドは、淡く笑った。


「明日は、街の子供たちの背丈の平均を計りまする。育つ速さの記録に」


 アレクサンドルは、頷いた。


「最高の算盤師でございます」


 メリザンドは、机の縁の手紙を、もう一度読み返した。


 振り返らない、と決めていた。


 けれど、振り返らずに済む数字を、わたくしたちは、毎日校正している。


 窓の外、河口の灯が、淡く揺れていた。


 春の風は、塩の匂いを運んできた。河口から、上流の葡萄畑の方へ、風が抜けていた。


 メリザンドは、算盤の珠に、指を一本、添えた。


 珠は、静かに、位を確かめた。


 わずかな音が、机の縁を、淡く渡っていった。


 その音を、アレクサンドルは、戸口で、また聞いていた。


 彼は、扉を閉めずに、しばらく、その音だけを聞いていた。


 河風が、もう一度、窓硝子を鳴らした。


 夕陽が、机の縁に、最後の赤を残していた。



お読みくださって、ありがとう存じます。歩人あゆとでございます。


 この作品は、シリーズ「捨てられ令嬢は最後に笑う」の第九十七作目でございます。今回は、専門職型ざまぁの王道——「貨幣の信頼を作る基準」を主題にいたしました。


 前作 P90「分銅」(bundou)が「基準を測る基準」、つまり度量衡の重さ全般のお話だったのに対し、本作は貨幣に特化しております。合金比率の管理、為替の予測、流通速度の計算——これらは、銅銭・銀貨・金貨という、毎日誰もが手にする物の背後で、誰かが算盤を弾き続けている仕事でございます。「銅銭の数を数えるなど誰でもできる」と仰る方は、王国通貨の合金比率を、ご存じでございましょうか。


 三人称一元視点でメリザンド視点で書きました。地の文は「メリザンドは〜」「彼女は〜」、内心は推測形——感情の表出を最小限に抑え、算盤の珠の音と指先の墨の汚れで、家業の矜持を伝える書き方を試みております。


 核心の台詞「貨幣は、誰が作ったかではなく、誰が校正したかを覚えています」は、書きながら何度も書き直しました。シリーズを通して言いたかったことが、この一行に集約されているように思います。誰でもできることに見えるものほど、誰かの校正する手がなければ、信頼は、半年で静かに崩れる。


 次作以降も、捨てられ令嬢シリーズを書き続けてまいります。


 もし本作が心に残りましたら、★評価・ブックマーク・感想・キーワード「歩人」での作者検索など、いずれかの形で応援いただけますと、続きを書く力になります。


 また別の校正する手の物語で、お会いできれば幸いでございます。


 歩人

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 これ、王太子が貨幣改鋳や贋金作りを奨励したようなものじゃないか。  金銀銅本位制の通貨制度で貨幣の含有率の規制を撤廃するという事はそういう事だ。  為替手数料が膨れあがる以前に、通貨の信用度が地に落…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ