第05話 邂逅
この家の敷地は、やたらと広い。
真織は未だに全容を把握できていなかったし、間取り図を渡されたところで意味があるとも思えなかった。
間取りにはない隠し部屋とかありそうだ。
あの日以来、真織の生活はまた軽い軟禁状態になっていた。とはいっても、この家のどこへ行くのも許されているからそれほど苦ではない。広すぎるゆえに毎日が発見で楽しい。
今日も今日とて、少し気分転換のつもりで歩いてみる。
家の中の探索はそこそこ楽しんだので、今日は庭園だ。公園と言っても差分ないほど広い。森が正しいか。
とにかく木々が生い茂る先まで整えられているから、歩行に問題はない。
気づけば見知らぬ建物の前に立っていた。
「……ここ、どこ」
古びた外観。本邸の豪奢さとは対照的に、茶室としては大きい。離れ、という言葉がぴったりかもしれない。
敷地内にこんな場所があったのか、と秘密基地を見つけた気分になる。
「入るなって書いてないし……」
敷地内であれば自由に行っていいと言われているし、と自分に言い訳をして、真織は扉を押した。
――きぃ、と鈍い音。足を踏み入れると少し軋む。
中は意外と整頓されていた。本棚が並び、その前に大きな机。乱雑に本が積み重なっていて、文豪の書斎みたいな。
生活感は薄いが、人の気配はある。
「……誰か、いますか?」
返事はない。その代わり。
「いるけど、出る気はない」
低く、気だるい声がした。
「!?」
驚いて振り向くと、大きく古びたソファにだらしなく座る男がいた。
暗めの茶髪をした無精ひげの男性。青みがかったフチなしサングラスをしている。着崩したシャツは腕まくりをしていて、手には紙コップのコーヒー。
全体的に、やる気がない。ソファに全身を預け切っているのに。纏うオーラが緒凛の比ではない。
なのになぜか、懐かしさと親近感がある。あった事もないはずなのに。なぜ。
「……えっと、すみません。間違えました」
「いや、合ってる」
「?」
「ここ、君が来る場所だ」
さらっと言われて、真織は固まる。
「は?」
「その反応、初々しくていいね。まだ何も知らない顔だ」
男は面倒くさそうに立ち上がり、真織を上から下まで眺めた。
真織は無意識に一歩下がる。
でも、同時に、視線が自然と成美の方へ向いてしまう自分に気づく。胸の奥が微かにざわつく――怖いのか、惹かれているのか、まだ整理できない。成美は淡々と立っているだけなのに、空気がねっとりと彼の周囲に絡みつくようだった。無精ひげの影で微かに笑う口元、腕を組むでもなくソファに座るだけの姿勢。けれどその背筋の伸び方や、肩の角度、まるで意識して計算したかのように、真織の心の奥をかき乱す。
「……あの、どちら様ですか」
「木嶋成美」
「……?」
聞いたことがない名前だった。
目が合った瞬間、成美はほんの一瞬だけ微笑んだ。わざとらしくないその笑顔に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。怖い。けど、なぜか離れたくない――そんな感覚。意識していないのに、目が離せない。
「成功の“成”に“美しい”で成美。女みたいだろ?」
「どう、でしょう……?」
「ナルミって読み間違えられる事多いから、もうそう呼んでもらってるとこもある」
「は、はぁ……?」
「ナルでもいいし、本来呼びのシゲでもいいよ」
呼べばいいのだろうか。気さくすぎる物腰に、真織は戸惑いが強くなる。年齢も立場もわからないのに、なぜか心を掴まれる。緒凛とは違う。敷地内にいるから危険人物ではないが、味方でもないだろう。
「黒澤家の人間?」
「関係者ではある」
「家族?」
「それは一番めんどくさい質問だな」
成美は頭をかきながら、ため息をつく。肩の力が抜けたその仕草が、真織の胸に小さな波を立てる。近づき過ぎず、離れすぎず――存在の重みを感じる。初対面で、これほどまでに感じる懐かしさを何と呼ぶかわからない。
「真織」
「……はい」
教えていない名前を呼ばれる。
どこか、確信めいた声色に、背筋が少し伸びる。
「緒凛に拾われた?」
「拾われたって、その言い方やめてください」
「じゃあ、飼われた?」
「もっとやめてください」
成美は小さく笑った。ひげの奥で、分かりにくく。
ゾワリ、とした違和感の正体に気が付いた。
使用人は緒凛に様と敬称をつけて呼ぶ。彼は呼び捨てた。
それほど近しい人で、同じ邸宅に住んでいるのであれば、名前くらい聞いていても可笑しくない気がするのに。彼の名前を緒凛から聞いたことのない時点で、何かを察するべきだと直感が告げる。
「いいね、そのツッコミ。嫌いじゃない」
「……褒められてませんよね」
「褒めてる。割と本気で」
成美は机に腰を預け、ふと窓の外を見た。書斎の本を守るためか、窓は小さめで外の日差しを遠慮がちに差し込む。
「俺はずっとここにいるわけじゃない。巡回中」
「巡回?」
そう言って、成美は持っていたコップを適当に置くと、両手で影絵のイヌを作る。
「ワンワンっ。おイヌサマってやつ」
「……? 何言って?」
意味の分からない言葉を積み重ねていく不審者に、真織が眉間に皺を寄せる。
「俺は黒澤財閥のイヌ。どこにでも、誰にでも、いつでも接触できる」
「それは……こわい、ですね」
「人懐っこいでしょ? ワンッ」
「それは……どうでしょう?」
大人が何を言っているのか。人懐っこさは確かにあるが、そうでない部分が多すぎる。
真織の事をかぎつけた、といいたいのだろうか。己をイヌと言っているくらいだから飼い主がいるのは自分の方なのでは? と訝しむ。
「君、自分に価値がないと思ってるだろ」
唐突な話に心臓が、一瞬跳ねた。
それだけで、真織の息が詰まる。怖い。怖いはずなのに、心の奥が妙に熱い。無意識に心を奪われている――それを成美は意図的に引き出しているのだと、無言の圧力で感じた。
「……なんで、そんなこと」
「顔に書いてある」
「書いてません」
「書いてる」
即答だった。
ここに来てから考えないようにしていたのに。
あれほど大切だと思っていたし、大切にしてくれていたと思った父親に、借金の担保としてあっさり手放された。
勉強も仕事も取り上げられ、鳥かごの中に押し込められて。大切にしていると言われても、急になぜ、としか思わない。誰も説明しない、してくれない。問う事さえ許されない雰囲気に、真織の心はすり減っていく。
ありがたい、と思うべきなのかもしれない。
それは、ますます自分の存在意義や価値観が薄れていく気がして怖い。
初対面でそれを見透かしてくる、成美の態度に、羞恥と悔しさがこみあげてくる。
「でもさ」
成美の声が少しだけ低くなる。空気がぎゅっと重くなったように感じる。
「それ、君の問題じゃない」
「……?」
「環境と、隠蔽と、大人の都合」
成美の声が少しだけ低くなる。空気がぎゅっと重くなったように感じる。多分、この人は核心を告げている、そんな気がして。
「選ばれなかったんじゃない。“選ばせなかった”だけだ」
言葉を反芻する。耳に残る重み。目の前の人物が、無意識のうちに真織の感情の糸を引いているのが分かる。
「……何の話ですか」
「今は知らなくていい」
成美は肩をすくめた。関心を引こうとしていたくせに、急に無関心さを装う。
ああ、海みたいな人だ。と、ようやく理解する。広く深く得体が知れず、波が押し寄せては引き返す。押すタイミングと引くタイミングが絶妙で、興味を一気に惹きつける。
「知ると、楽になる代わりに、面倒が増える」
「……じゃあ、教えないでください」
「それは無理」
「どうしてですか」
成美は少しだけ黙ってから、ニヤリと答えた。
「俺が自由になりたいから」
あまりにも正直な理由だった。
「……え?」
「君が立てば、俺は檻から出られる」
その言い方は冗談めいていたが、目は笑っていない。波がうねり、押し寄せたかと思えば。
「私に……頼らず、自分から出て行けばいいのでは?」
「ワンワンっ、ボクは自由になりたいワンっ」
とぼけながらもどこか気迫めいた言い回しに、真織はそれ以上否定が出来ないでいる。
「安心しな。君を不幸にするつもりはない」
「信用しろ、と?」
「いや」
成美は口角を上げる。
「疑いながら、利用しろ」
成美は深く息を吐いた。外では雲が太陽を隠す。同時に成美の輪郭が影に揺れた。
「覚えとけ」
「?」
「魔女は、願いを叶える代わりに、代償を取る」
そして、小さく付け足す。
「俺の場合は――自由だ」
扉が開く音とともに、成美の姿は影に溶けた。残された静寂の中で、真織だけが胸の奥に名前のない予感を抱いたまま立ち尽くす。微かに残る匂い、わずかな温度、そして消えた後も響く気配。それが心に不思議な重みを落とす。
胸の奥に、名前のない予感を抱えたまま。




