第04話 波紋
緒凛との生活にも、少しだけ「日常」が生まれ始めていた。
真織は、朝決まった時間に起き、決まった廊下を通り、決まった部屋で食事をする。
迷う頻度は減ったが、気を抜くと未だに別棟へ出てしまう。
新鮮と驚きの連続で、部屋が覚えきれない。似たような部屋が並んでいるわけでもないのに、少し怖い。
「……今日も生き延びることができるかな」
小さく呟くと、背後から声がした。
「何だ、その切実に聞こえる願いは」
緒凛だった。
「迷子にならずに部屋に戻れた昨日は、すごくいい日だった」
「それは誇っていいのか?」
「個人的には」
緒凛は呆れたように息を吐きつつ、スーツの袖口を整える。
「今日は会社に行く」
「はい」
いつも行ってるんじゃないの? とは口にしない。業務連絡みたいなものだろう。
会話は増えてきたが、相変わらず何を考えているかわからないし、途端に命令口調になるからあまり好きじゃない。
多分、命令に慣れ過ぎていてそれが日常会話になっているパターンだ。直してほしいとまではいわないけれど、高圧的な言い方はちょっと、と苦言をしてみたら。以外にも素直に謝ってくれて、気を付けるようになった。ほんの少しだけど。それでも努力してくれるのはありがたい。
それに、確かに朝会うのは珍しいことだし、年が離れているせいか共通の話題はない。日常の報告が会話の主軸となっても可笑しくはないのだ。
「……来るか」
その一言が、妙にあっさりしていた。
「え?」
「暇だろ」
「そういう問題では……」
「断る理由は」
「……特に、ないけど」
そう答えた瞬間、緒凛は満足そうに頷いた。
「決まりだ」
――相変わらず強引だ。
真織は内心でツッコミを入れながらも、胸の奥が少しだけざわつくのを感じていた。
この家の“外”に出るのは、ここに来てから初めてだった。
◇◆◇
黒澤財閥本社ビルは、想像以上に無機質だった。
ガラス張りの外観。人の気配はあるのに、私語はほとんどない。
「……静か」
「仕事をする場所だからな」
「家より緊張する」
「それは正しい」
受付を通り抜けると、周囲の視線が一斉に集まる。
緒凛だけでなく、隣を歩く真織にも。
――あ、これ、見られてる。
理由は分からないが、値踏みされている感覚だけははっきりあった。
「気にするな」
小声で言われる。
「気にしない方が無理だよ……」
「慣れろ」
「無茶言わないで。よく考えたら部外者じゃん。入ってよかったの?」
「情報漏洩にならない部分まではな。会社に来訪者がいないわけではない」
そんなやり取りをしていると、目的のフロアに着いた。
「ここで少し待て」
「うん」
緒凛が会議室に入っていくのを見送り、真織はロビーのソファに腰を下ろす。
少し離れた場所で、秘書の一人である男がノートパソコンを広げて仕事を始める。
監視役だ。
逃げ出すわけではないのに、外に出る際に約束させられた。
この男性から視界の届かない場所には行くなと。まぁ、借金の担保に足がついているわけだから、逃げ出されても困るのは当然だろう。
秘書の男は真織を迎えに来た人だ。借金の説明なんかもしていたので、緒凛に重宝されているのだろう。
それでも男は一定の距離を保って真織に接しているし、真織も深く関わるつもりはない。あの屋敷で、緒凛以外の人との距離は取り方を覚えた。
つかず、離れず。この人たちは仕事を全うするプロだ。
アルバイトを掛け持ちしていた中でも、仕事に身が入っていない人もいたし、楽しそうに仕事をこなしている人も見てきている。流石に財閥の中枢にいる人物を支える側として、出来が違いすぎて尊敬すら申し訳ない気も。
――静かすぎる。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
秘書の男がキーボードをたたく音がカタカタ聞こえる。
これ、外出てきた意味あるのかな?
ボンヤリ過ごしながら、時々窓の外を眺めて立ち上がったりを繰り返している時だった。
「……真織?」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは、夢兎だった。
「あ、夢兎さん」
「どうしてここに?」
「緒凛さんに、連れてきてもらいました」
そう答えると、夢兎は一瞬だけ視線を伏せる。
「……そう」
その表情は、どこか硬かった。
「夢兎さんこそどうしてここへ?」
確か彼は大学生だったはずだ。
それに答える事なく、夢兎は真織の傍に来て尋ねた。
「少し、話せる?」
どしようかと考えあぐねいていると、付き添っていた秘書の男性が静かに歩み寄り眉間に皺を寄せる。
「夢兎様、困ります」
「ちょっとだけ」
「同席を」
「断る。凛兄が来るまでだし、何かあったら責任持つ。すぐここに戻すから」
夢兎がそこまで言うならば、と、渋々といった表情を浮かべて真織を見る。全部が許されたわけではない、少し硬く険しい表情の男性に申し訳なく思う。
それでも許可が得られたという事で、真織は夢兎に誘導されるまま、少し奥まった通路へ向かう。男性からの視線が切れたところで、夢兎が少しだけ声を潜めるように尋ねた。
「ここ、初めて?」
「はい。緊張します」
「……だろうね」
夢兎は曖昧に笑う。
「ところで」
声のトーンが、少し変わった。
「今日は、“呼ばれて”来た?」
「え?」
「誰かから、連絡は?」
「いえ、何も」
その答えに、夢兎の目が細くなる。
「……そうか」
その瞬間、真織は背中に冷たいものを感じた。
――視線。
確かに、誰かが見ている。
多分これは、夢兎も気が付いているはずなのに、静かに真織を見るだけで何も言わない。
ザワリと何かが心を撫でた。わからない。恐怖とも違う何かがある。
「今日は、早めに帰った方がいい」
「え?」
「理由は聞かないで」
そう言われたから、小さくコクリと頷いたところで夢兎は真織越しに後方を見た。
「監視が強いね。迎えに来たみたい」
真織が振り返ると、緒凛の秘書だ。
「それじゃあね」と夢兎が真織から去っていくのを見送ったところで、振り返るより早く腕を掴まれた。
「調子に乗るなよ」
「い……っ!?」
今まで余計な事を言わず、沈黙を貫いてきた秘書の男が真織の腕を強くつかんで酷く睨む。
唐突に豹変した男に恐怖を覚え、身震いする。
鬼気迫る男の顔は酷く歪んで憎々しい感情を真正面からぶつけてきた。
「勘違いするな。小娘如きが近寄っていい方々ではないのだ」
「は、離してっ……」
真織の腕に男の腕力が、指がくいこんでくる。
「何を言われた? 何を聞いた? 言えっ!」
「痛いっ……離しっ!」
「何をしている」
低く、鋭い声が空気を切った。
振り向くと、そこにいたのは――緒凛だった。
「これは、その」
「俺のモノだ。放せ」
「し、失礼しました……!」
手が離れた反動で、真織はよろけた。
その肩を、緒凛が自然に支える。
「大丈夫か」
「……はい」
胸が、やけにうるさい。
「何をした」
「何も」
白々しく平気で嘯く秘書の男に、緒凛は真織を離さないまま告げた。
「暇を出す」
「緒凛様っ!」
「黙れ。俺の連れに危害を加えようとした時点で貴様はいらん」
「違いますっ! 私は緒凛様の為を思って!!」
言い訳を詰める男に対し、緒凛は周囲に連れてきていた警備員に、男を拘束するよう指示する。
必死にもがきながら抵抗するも、緒凛は一瞥くれるわけもなくそのまま真織の肩を抱いてその場を後にする。
「夢兎を見かけた」
「はい」
「何か言われたか?」
「どうして、ここに、とは」
「少し外に触れさせようと思った途端、このザマだ。すまない」
「緒凛が謝る事じゃ……」
「信用はしていたんだがな」
ああ、秘書の事か、と。夢兎の事ではなくてホッとする。
「信頼ではない、と」
「仕事上の関係にそれは不要だ」
きっとあの人は、信頼が欲しかったのだろうなと、少し同情する。
「腕は?」
「少し、痛いです」
あんなふうに強くつかまれて詰め寄られた事に、今更思い出して震える。
緒凛が珍しく表情を崩した。
「すまない」
「だから緒凛のせいじゃないってば」
「車を回す。今日は帰れ。医者も手配しておく」
「大げさじゃ……」
「大切にされろと言ったろう」
別の秘書が、緒凛の元に歩み寄り、彼の視線を感じて直接的な命令もないまま手配を始める。
これだけ有能な秘書が多いと、蹴落とし合いもあるのだろうか。先ほど警備員に連れていかれた男性は、焦っていたような気もする。
「俺はまだ仕事が残っている。気を付けて」
緒凛はそう告げると、名残惜しそうに真織の頭を撫でて、その後を別の秘書に任せて去っていった。
――そのやり取りを、少し離れた場所から見つめる人がいる。
口の中に棒付きキャンディを転がしながら、後ろ姿を眺めている。
機嫌よく鼻歌を歌いながら、無精髭の生えた顎をひと撫でして。
「……へぇ」
面白そうに真織を見つめて、静かに踵を返す。
――役者は、揃いつつある。
当人たちだけが、それをまだ知らなかった。




