第02話 違和
黒澤緒凛との生活が始まって、二週間が経った。
真織は未だに、この屋敷の広さに慣れていない。朝起きて部屋を出るたびに、「今日も無事に迷わなかった」と思う程度には。
廊下は相変わらず静かで、足音がやけに響く。窓から差し込む光は柔らかいのに、空気は張りつめている。
ここは、誰かが生活するための家というより、秩序を保つための建物だった。
「……落ち着かない」
小さく呟くと、通りすがりの使用人に聞かれた気がして、慌てて口を閉じる。
自分はてっきり使用人と同じように、この無機質な屋敷を管理する一部になるのだと思っていた。
借金の担保なのだから当然、と働くつもりは満々だったのだ。
それなのに現状は真織の予想を遥かに上回る扱いだ。
まず、掛け持ちしていたアルバイトの全てが辞めさせられていた。急な話すぎて各方面に迷惑が、と焦りを見せた真織だったが、抜けた穴を補填済みとのことで、何が行われたのか詳細は教えてもらえなかった。が、真織の評価が下がる等の危惧するようなことはないらしい。
学校もいつの間にか休学届を提出されていた。
直弥から学校側へ提出済みということだが、どう考えても、直弥だけで手続きが通るとは思えない。学校の事にしろバイトの事にしろ。多分、緒凛が一枚噛んでいる。権力でも使わなければこれほど用意周到にはできないだろう。何しろ、この一連に計画性がありすぎる。
退学届じゃないことだけが唯一の救いか。
これで真織は完璧にこの家に閉じ込められた。
外出も緒凛の許可なくすることを禁じられているし、かといって不自由といえばそうでもない。
用意された部屋は、無駄な調度品などはないが、高校生の自分には大きすぎるくらいで、家具家電も一式揃っている。自宅にテレビがなかったので、突然現れた大きい薄型テレビなんて、起きるたびに存在しているだけでビビっている。
リモコンでテレビをつけると、真織は自分のスマホよりずっと反応が早いことに感心し、でもすぐに「ただのテレビのリモコンなのに」と赤面して笑ってしまう。
着替えも食事も用意されて、傍に離さない使用人が一人控えるのみ。真織は箸を置いて、ふと横に置かれたグラスに目をやった。透明で縁に金のラインが入っているだけのシンプルなもの――なのに、どこか高級そうに見える。家では長持ちするからとプラスチックのコップを長年愛用しているから、当初こそ恐る恐る使っていた。
口に含むと、水の冷たさも味も特別ではないはずなのに、なぜか舌先にひやりとした緊張感が残る。思わず手を止め、グラスの底を覗き込む。
隣のテーブルには小さなティッシュ箱が置かれていた。いつも家では、箱入りティッシュを一枚ずつ取り出すのが当たり前だったが、この箱は押すと片手で簡単に取り出せる仕組みになっている。真織は指先で軽く押してみて、思わず「すごい……」と小声で漏らす。
小さなことで、日常と非日常の差を感じる。自分はここに馴染めるのだろうか、と一瞬考えるが、同時にちょっとだけワクワクする自分にも気づく。
なにより腑に落ちないのは、自分が“客人扱い”されていることで、何かあれば使用人に申し付けるように言われている。使用人に話しかけても、話さないよう指示されているのか短い返事のみだ。
人との会話に飢えた真織がいくら話題を持ち掛けようとも、名前すら教えてくれない。
人を使う事に慣れていない真織にとって、それがどれだけの苦痛になっているかあの人にはわからないだろう。
勝手な事をして不興を買うわけにもいかず、悶々としながらも少しずつ行動範囲を広めてみては、気落ちするのを繰り返している。
基本的に屋敷内は自由にしていいと言われているし、誰かが監視のためにずっとついてくる、なんて堅苦しいこともない。
真織の存在は使用人に周知されていて、すれ違っても会釈されるだけで会話はない。
緒凛は不在にすることが多い。
仕事をして忙しく飛び回っているようだが、緒凛がどんな人物なのかを知るのは二週間で充分過ぎた。
黒澤緒凛――二十八歳。
黒澤財閥の中枢的存在であり、次世代を担うとされている正真正銘の実力者だ。
財閥傘下の企業において、経営権の全権を握っているのは緒凛の父親ではあるが、当主としては祖父に当たる人物が未だに強い力を保持しているという。
黒澤家には五人兄弟がいて、緒凛はその長男だ。
ここまでは一般的に知られている情報で、調べればいくらでも出てくる。
黒澤財閥の下には大きく分けて四つの組織が存在している。
兄弟はそのどこかのグループに所属し当然のように上層部入りするだろうと言われているが、兄弟の数人が真織の知っている人物だということに驚いて。
そんな真織にとって、今夜の食事は一大イベントだ。
――黒澤兄弟が、勢ぞろいするという。
しかも“家でご飯を食べる”と聞いたときは、てっきり大きな食卓に豪華な料理が並ぶのだと思っていたのだが。
実際には、違った。
ダイニングテーブルとは別に長机が並び、そこに並んでいるのは高級そうではあるが、どこか現実的な料理。が、すべてケータリングで、その横には寿司を握る職人がにこやかに注文を待ち構えている。
現実的なラインナップの料理と、非現実的な出張寿司屋の存在に思わず本音が漏れる。
「これが……普通?」
「もっと豪華なの期待していましたか?」
そう無表情に静かに尋ねてきたのは、次男の十五だった。
真織が通う神市高等学校で教師をしている男だ。“氷王子”と呼ばれるほど冷静沈着で、言動も冷たい。おおよそ高校教師とは思えぬ風貌と態度ではあるが、絶世の美女と言われるほどの容姿を持っているため、人気が高い。
なぜ黒澤財閥の次男坊が教師をしているかはわからない。
真織は十五の存在を知っていても、授業を受けたことはない。それゆえ、向こうは真織を自分の学校の生徒だとここで会うまで知らなかった。
「逆の意味です」
真織が肩を竦めると、隣で黙々と料理を取り分けていた四男の茅が漏らした。
「今日みたいなのは結構珍しいよ。特別」
視線は皿に向いたままだが、会話はちゃんと聞いているらしい。
「たかち……」
「驚いたよ。急に休学したと思ったら、二宮が凛兄の所にいるとか思わないじゃん」
真織が彼をたかち、と呼んだのは彼のあだ名だ。
彼は真織のクラスメイトであり、学校では高本茅として通っている。
顔立ちは一般的な男性より整っているが、他の兄弟が美形過ぎるが故に関係者とは思わなかった。
黒澤財閥は大きい組織が故に、色々しがらみがあって普通に生活するのが大変らしい。決して珍しい苗字ではないが、軽く調べれば関係者かどうかくらいはわかる。そういう面倒臭さを省くために、茅は母親の姓を名乗っているらしく、高校卒業と同時に戻す予定らしいが、知ってよかったのだろうか。
「楽でいいでしょ。家で料理とか、面倒だし」
そう言ったのは末っ子五男の蝶だった。
言葉は淡々として、どこかつっけんどんとしている。この一室には不釣り合いな赤いパーカーを着て、柔らかそうな癖のある赤みがかった髪をふわふわさせ、真織を値踏みするような視線を向けて。
「料理しないじゃん」
茅のツッコミに、蝶は料理を頬張りながら「そうだけど」と当たり前のように返す。
彼らにとって料理は使用人の仕事である。
けれど真織の生い立ちを知ってか知らずか、たまに一般的な感覚で話を進めるので、自分がずれているのかと真織は不安を覚える。
この兄弟は全員、自分の邸宅を所持している。
それは一軒家だったり、高級マンションだったりと、中学生の蝶でさえ一人暮らしをしているという。
生まれが特殊な家庭ゆえか、家族で過ごすことはほとんどないそうだ。
生まれた頃から乳母的存在がそれぞれついていて、小学生までは本家で育てられる。父親も母親も存在しているが、仕事から家庭を顧みる余裕がないというのが正しいのか。お金は湯水のように与えられるが、親からの愛情は与えられない。ただ周囲は仕事として五人を育て、中学生からはそれぞれの家を与えられ、使用人と一緒に暮らしているらしい。
黒澤財閥でも特にこの五人は本家筋ということで大切にされているそうだが、これが“そういうこと”なのか腑に落ちない。
長年、父親と狭いアパートで二人暮らしをしていた真織にとって、親の存在がここまで乖離した相手と対峙するのは違和感しか残らない。
だから、と言えばいいのだろうか。
この食事会が一体どういう経緯で開かれたのか、真織は聞かされていない。
ただ、緒凛から受けた情報は一つだけ「兄弟で食事をするから同席するように」とだけだ。
茅がこっそりと教えてくれたのは、緒凛の心遣いだそうだ。
長男として寂しい幼少期を送ってきた緒凛にとって、兄弟がそうあってはならないという気持ちから、両親は無理でもせめて兄弟間だけでも、と月に一度は皆で食事を取り合うそうだ。
緒凛がどれほど仕事に忙しくても、この時間だけは絶対的に確保してくれているので、兄弟仲が良いのは唯一の救いかもしれない。
現時点で緒凛は仕事で遅れていて、部屋の中に姿はない。
「……あれ?」
真織は、ふと気づく。
先程までいたもう一人が、部屋からいなくなっている事にキョロキョロと周囲を見渡して。
「夢兎さんは?」
「夢兎兄ぃは」
と、茅が軽く肩をすくめる。
「ちょっと用事だってさ」
「そうなんですか」
納得しようとしたが、どこか引っかかる。理由は分からない。ただ、胸の奥が少しだけざわついた。
この場にいない三男の夢兎は、大学生でありながら、兄弟の中でも少し異質に見えた。身長が大きく、けれど大柄というわけではない。眠たげな表情とふわふわとした雰囲気は、つかみどころがない。黒澤兄弟は全員、芯がしっかりしている。ただ、夢兎だけが、名前の通り夢のような雲のような、曖昧で独特な雰囲気を持っていて。
その時、遅れて緒凛が現れた。
真織もこの家で二週間を過ごしているが、緒凛と会うのは三日ぶりだ。
「揃ってるな」
「遅い」
茅が短く言う。
「時間通りだ」
「体感では遅い」
そんなやり取りを見て、真織は小さく息を吐いた。
――この人たち、本当に兄弟なんだ。
席につくと、会話は自然とばらけていく。
仕事の話、どうでもいい雑談、軽口。
ただ誰も問わないのが不思議で不自然にも感じる。
なぜこの家族の団欒に真織がいるのか、兄弟の誰も聞かないのだ。真織にも緒凛にも。
気まぐれなのか、それともこういうことが稀にあるのかはわからないが、当然のように受け入れられている空間に居心地の悪さを感じる。
真織は輪の端に座りながら、兄弟達の様子を窺っていた。
「……真織」
緒凛に呼ばれて、少し背筋が伸びる。
「はい」
「食べないのか」
「いえ、食べます」
そう言って皿に手を伸ばすと、隣から十五が覗き込んできた。
「緊張していますか?」
「……バレます?」
「分かりやく」
即答だった。
「そのうち慣れます。慣れなかったら、慣れたふりすればいい」
「それ、余計疲れません?」
「します」
さらっと言い切られる。
その様子を、緒凛は黙って見ていた。真織が輪に溶けきれていないことも、それでも逃げようとしていないことも。
「無理に合わせる必要はない」
ふいに、そんな言葉が落ちてくる。
「ここでは、好きにしていろ」
「……それ、命令ですか?」
「忠告だ」
どちらにしても、上から目線だ。
真織は心の中でツッコミを入れながら、料理を口に運ぶ。味は、思ったより普通で、思ったより美味しかった。慣れないなんてことはない。嘘、ちょっとだけ高級な食材にビックリしている。




