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第10話 因果

物心がついた頃から、緒凛は理解していた。


自分の家は、どこかおかしい。


屋敷は広く、庭は整えられ、使用人の足音は規則正しい。食卓には常に過不足なく料理が並ぶ。


だが――そこには、ぬくもりがなかった。


親は子供に無関心だった。

正確には、子供“個人”に興味がない。


名前を呼ばれることはあっても、顔を見て話された記憶は曖昧だ。褒められるのは成果だけ。叱責されるのも成果だけ。


泣いたところで、抱き上げられることはない。

笑ったところで、頭を撫でられることもない。


それでも兄弟は増え続けた。

理由のない増加。感情のない繁殖。

幼い緒凛は、それを「異常」と呼ぶ言葉をまだ知らなかった。ただ、息が詰まるような違和感だけを抱えていた。


成長するにつれ、黒澤の名が持つ意味を知る。


期待。

責務。

圧力。


“黒澤家の一員として相応しくあれ”


その言葉は、祝福ではなく鎖だった。


同年代の子供たちは、彼を羨み、妬み、距離を置いた。


――金持ちの坊ちゃん。

――生まれも育ちもいいなんて羨ましい。


何も知らないくせに。緒凛の内側は、未完成のまま歪んでいった。


心という器に、まだ名前のつかない亀裂が走る。


空っぽの中身に詰め込まれていくのは、大人が必要とする知識と技能だけ。


壊れる寸前だった。


――監視はそれほど強くない。


未成年だから、未熟だから、学生だから。色んな理由でそこまで日常は束縛されていなかった。ただ、誰かの目が必ずあった。


呼吸がうまくできなくて、弾けるように走り出した。


逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。――どこに。


街はずれの小さな公園で、公衆トイレに駆け込もうとしたけれど間に合わず、ベンチの近くで嘔吐する。吐いても吐いても楽にならない。息がつまる。胃の中から吐くものがなくなっても、胃液が地面を濡らしていく。


「ママ―! たいへん! おにいちゃんがー!」


小さな声が大きく誰かを呼んだ。

慌てた足音がバタバタと聞こえ、何かを話しかけるが耳が素通りする。


――それが出会いだった。


あの後、すべての処理を母親である真理がしてくれた。

何を要求するでもなく、次に出てきた言葉に緒凛は戸惑う。


「うちすぐそこだけど、もう少し休んでいく?」


命令でもなく、評価でもない。ただの提案。


それが緒凛には理解できなかった。


緒凛を誰と理解しないまま、幼子が自分の手を引っ張る。


「いこ!」


自身を催促されたのは初めてだ。


金や物でもなければ、地位や名誉や権力でもない。


払いのけられる程度のその力をふり解くこともなく、緒凛は静かについていく。


「なんだぁ? どうした?」


待っていたくたびれた男で、先ほどまで緒凛の手を引いていた少女が男に駆け出していく。


「なーたん!」

「おー! まおー! 相変わらず可愛いなぁっ!」


そう言って飛び込んできた少女を軽々と抱き上げ、頭上でくるくると回す。きゃっきゃっとはしゃぐ少女の声が緒凛の脳裏にこびりついた。


各々が自己紹介をする。

少女は真織。自分の名前を呼べなくて「まぁ」と呼んでいる。

母親は真理。穏やかで優しく慈愛に満ちた人。

父親らしき人は直弥。態度や素行は悪いが、二人を大切にしている事が見てわかる。


豪奢でも、整然でもない。だがそこには、温度があった。


真織は笑う。

真理は微笑みながら叱る。

直弥は苦笑する。


当たり前のやりとり。どこにでもある風景。


黒澤の屋敷には存在しない、些細な応酬。


緒凛にとって、それは衝撃だった。


なぜ、この家族は互いを見ているのか。

なぜ、名前を呼ぶとき、目が合うのか。


理由は分からなかった。


ただ、その時間だけは――胸の奥の亀裂が、静かになる気がした。


教育。

訓練。

叩き込まれる経営学と政治と交渉術。


その合間に、監視を巻いて足を運ぶ。


「りんちゃん!」


そう言って迎えてくれる幼い笑顔は、温もりも同時に与えてくれる。緒凛の姿を見つけると、駆け寄ってギュっと抱きついてくる。

最初はその温もりに動揺した。今はもう、抱き締め返すことができる。


「おかえりなさい」


何も聞かずにそう言って出迎えてくれる母親がいる。


「おー、おつかれぇ」


そういって、わしゃわしゃと頭を撫でてくれる父親がいる。


この家は、緒凛にとって“避難所”だった。


初めて“家族”を教えてくれた。“温もり”を教えてくれた。


笑う。怒る。困る。拗ねる。


色んな“感情”を教えてくれたのはこの三人だった。



――だが、それは唐突に終わる。


ある日。何の前触れもなく、三人は消えた。


通い詰めた家の中は散乱していた。思い出と、血痕が。


連絡も、説明も、何もない。


まるで最初から存在しなかったかのように。


胸の奥で、何かが崩れ落ちる。


――また奪われるのか。


その時、緒凛は理解した。


期待するから、痛む。


求めるから、壊れる。


それならば。


感情を、殺せばいい。


それ以降の彼は、沈着で、合理的で、冷静だった。


無駄を削ぎ落とし、感情を排し、利益だけを見つめる。


黒澤財閥は発展した。


だが彼の内側は、静まり返ったままだった。



 ◇◆◇



車は滑るように都心を走っていた。


後部座席。外界と切り離された空間。


モニターに映る決算資料を眺めながら、緒凛は淡々と指示を出す。


「第三四半期の海外投資、比率を二%下げろ。内部監査は予定より前倒しで」


返事は即座だ。感情の入る余地はない。それが黒澤の世界だ。


――理由なき動きはない。


動くなら利益。排除するなら損得。そこに例外はない。


「久しぶりだな、凛」


不意に低い声が落ちた。


いつの間にか停車し、緒凛が座る後部座席のドアが開いたかと思えば、車内に第三者が当然のようにスルリと入ってくる。運転手も秘書も顔をあげず、ドアが閉まると自然と車は走り出す。


以前会った時のようにくたびれた様子もなければ、きっちりと仕立てられたスーツでふんぞり返るような態度で座っている直弥が隣にいて。


鋭い目をニヤつかせるも、溜まっている疲労は隠せていない。主に顔色と、目の下の大きなクマが物語っている。緒凛は驚きもせずに視線を手元のタブレットに落とす。


この世界に偶然はない。


運転手も秘書も誰かまでは知らされていないが、ここで人を乗せろと指示されていたのだろう。

警備も警戒も解いてこの場にいるということは、意図的に通した者がいる。


「何の用ですか」

「真織は元気か」


直弥の言葉に、タブレットを滑らせていたペン先が一瞬止まる。緒凛は視線だけをチラリとむけて、すぐに視線を戻す。


あの時、自分に何も告げずに消えた男。


今更、何を。


「問題ありません。あなたの“担保”は、適切に保護しています」


借金の担保。


それは表向きの理由。


だがそれが真実でないことは、互いに理解している。


直弥は古くから続く組織に身を置く男だ。

真織には借金持ちのダメ親父で通しているが、組の中では別の顔を持つ。直弥が姿を現すだけで若い衆の背筋が伸びる。名を名乗れば、誰もが即座に動く。


一度は第一線を退いたと聞いている。だが内部抗争の激化に伴い、再び戻る事になった。


真織の“保護”の真相は、組内の争いに彼女を巻き込まぬためのものだと。


それでも疑問は残る。


未だ姿を見せぬ真理の行方。


荒らされた家の原因と、飛び散っていた血痕は誰のものだったかさえ教えてもらえていない。あの頃は探す術はあっても使い方がわからなかった。大人になった今、あの過去にしがみつくのが愚かに思えて探そうととも思わなかった。


それなのに、直弥は唐突に目の前に現れた。たった一人で。真織を託すためだけに。


なぜ、保護する先が自分なのか。あの子は、緒凛の事など何も覚えていなかったのに。


黒澤の内部を揺さぶるほどの事件。命の危険すら孕む動き。


真織一人にかけるには、コストが釣り合わない。


黒澤の世界では、理由なき行動は存在しない。


動くなら利益。排除するなら損得。


緒凛は静かに言う。


「あなたが真織を私に預けた理由は、保護だけではない」


直弥は目を細める。


「……続けろ」

「これは、試しではない。もっと大きな意図がある。貴方――もしくは、誰かが黒澤を動かした。内部に亀裂を入れた。それは偶然ではない」


沈黙。


車内の空気が張り詰める。運転手と秘書は気配を消す。それでいい。黒澤の核心に近づき過ぎると、今度は自分達の首を絞めることになる。


やがて直弥は、わずかに笑った。


「そこまで読んだか」


そして低く、告げる。

真織には決して見せぬ、残酷な男の顔をのぞかせながら。


「それを知ると、もう本当に戻れないぞ」

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