第01話 担保
※本作は2008年12月に書籍化されたケータイ小説の令和版リメイクです。
※登場人物の性格・立場、および物語の本筋を大幅に再構成しています。原作をご存じの方はご注意ください。
「聞いて驚くなよ、真織」
父親である直弥がそう切り出す時は、決まって人生にろくでもない分岐点が待ち受けている。
古いアパートの玄関は、薄暗く表を走る車のライトが時々斜めに差し込んでいた。一人立つのもやっとな玄関、少し軋む床、見慣れた壁の染み。
ここは、真織がずっと“帰ってくる場所”だった。
真織の父は、社会的にどうしようもない人間だ。
酒癖や家庭内の問題はないが、趣味が借金作りの大馬鹿者。母はその借金を苦に逃げだしたと聞いているが、真織の幼い記憶はほとんどない。朧げに覚えている真織の母は、穏やかで優しくて賢母のような人だった気がするが、――多分、補正がかかっているかもしれない。
小学校の頃から、父の代わりに働きながら生活を支えた。
八百屋の店先で呼び込みをして、野菜を譲ってもらったり。近所に住む足の悪いお爺ちゃんの代わりに、庭の草むしりをしたり、と、小さな仕事をこなしては、細々とお小遣いをもらって。
幼い頃からそうやって過ごしてきたから、周囲は真織を温かく見守ってくれている。
ご近所づきあいが希薄になっている昨今とは違い、貧乏生活をする真織にとってそれだけが救いだ。
そんな細々とした小遣いを稼いでも、父にそのお金を手渡せば、あっという間に消える。
スズメの涙ほどのお給料を父に渡した際、すぐにご馳走だと食べきれないほどの食材を買ってきた時には心底飽きれた。
食にそれほど困っていたわけでもないのに、真織に美味しいものを食べさせたいと勝手な理由をほざいて、あっという間にお金を物に変えてしまう父親は、マジシャンでもなんでもなく、ただの金遣いの荒い人だ。
父が美味しいものを買い、真織に食べさせたいと笑うたび、真織の心は複雑だった。「お金の有り難み」を知らされながらも、自分の生活を守るため、自然とお金の使い方を学んでいった。
せめて高校までは卒業して、安定した職業に就く。
自分のために目標を掲げ、今までコツコツとがんばってきた。就職先の窓口を広げるため、バイトの合間に勉強をし、遊び歩く父を放置して自分が生きるために、それでこそ必死だった。
おかげで頭の良さは、学年で必ず指三本の内に入るほどにまでなった。努力を惜しまない真織を、ただ頭がいいというだけで羨ましがる人も居たけれど、こっちは同級生達が遊ぶ姿を横目に耐えて生きているのだ。
自分のことで手一杯になっていたが、父の世話も忘れているわけじゃない。
食事、洗濯、掃除などの家事全般も全てそつなくこなしている。父が手伝うとろくなもんじゃないから、真織が取り上げている。毎日父が作ってくる借金の説教もその世話の一環だ。
そんな中、バイト終わりでくたくたになって帰ってきた真織を迎えたのは、いつもと変わらない軽い口調の父親で。
「……もう嫌な予感しかしないんだけど」
靴を脱ぎながらそう言うと、直弥はやけに軽い声で返してくる。
「借金がな、ちょっと膨らんだ」
これくらい、と指を数本立てる直弥に真織は絶望した。その指の一本単位が可愛いものではないと知っているからだ。
「“ちょっと”の単位がおかしいよっ!」
脱いで持っていた靴をそのまま父親にぶん投げると、直弥は慣れたようにひょいと避ける。靴は虚しくぺしゃりと部屋の中に落ちたが、怒りが収まらない真織が片足立ちのまま睨みつけると、直弥は視線を逸らし、誤魔化すように頭をかいた。
この仕草を見るのは、何度目だろう。
「でも大丈夫。ちゃんと話はついてる」
「その“ちゃんと”が一番信用できない」
「ほら、黒澤さんとこ。金持ちだし」
今までの借金元とは違う名前に真織は眉間に皺を寄せた。
「……誰? それ?」
真織の問いに直弥が少し戸惑いながらも口を開く。
「うーん、なんていうか。パパ、色んなところにいっぱい借金あるじゃん? それをぜーんぶ、一本化して債務権利買ってくれた人がいてね」
優しい表現に聞こえるが、要は請求権が一本にまとまったというだけだ。確かにいろんなところより催促されるよりはマシかもしれないが、請求されるには変わりないし、第一なぜその人がこんなどうしようもない借金持ちのオッサンにそんな事をしてくれた理由がわからず、真織の胸に不安が芽生える。
「何? とうとう臓器でも売るの?」
「いやー、そんな物騒な話じゃないって! ……に、似たようなもんかもしれないけど、俺のは売らないよ! 俺のは!」
強調する言い方に、真織も察する。
「……私を売る気?」
「売らない売らない。言い方!」
否定は早いが、核心は避けている。曖昧で狡猾な言い方だ。
「担保だよ、担保。ちゃんと人権もある」
「人権がある担保って何」
言いながら、直弥の横を通り過ぎて部屋の中に転がった自分の靴を拾うと、改めて父親に向きあって。直弥は申し訳なさそうに手元をモジモジさせながら、小さな声で呟いた。
「……今から」
「今から!?」
明日だって学校はあるのに、急な予定に真織は声を荒げる。
家事だって終わっていないし、宿題もまだ中途半端だ。明日は早朝から新聞配達もする予定だったのに。
「……お迎えがね、その……」
蚊が飛ぶほど小さな声で続ける直弥に、真織はハタと気が付いた。
そう言えばアパートの入り口付近に黒塗りのセダンタイプの車が横付けされていて、ちょっと邪魔だなと思いながらも帰宅したのだ。ようやく合点がいって真織が大きく息を吐く。
「……このまま行けばいいの?」
覚悟を決めた真織の言葉に、直弥は申し訳なさから視線を合わせぬよう小さく頷いて。
外に出ると、帰宅したばかりのはずが、空気が先ほどより冷たい。
直弥が先に黒塗りの車の助手席側をノックすると、スーツ姿の人が降りてきて、二人を一瞥する。
何を言うわけでもなく、後部座席のドアをわざわざ開けてくれたのを見ると、この人ではないらしい。直弥が先に車に乗り込み、ドアのまえで躊躇している真織に視線を移し、その視線に導かれるように車の中に吸い込まれ、準備を整えた車が走り出す。
車のエンジン音が低く響く。その音は同時に真織の緊張と不安を加速させる音にも聞こえて胸を締め付ける。
逃げることもできた。
でも、そうしなかった。
ある意味これは洗脳なのかもしれない。
真織は自分がヤングケアラーと呼ばれる立場なのは知っている。
でも、こんなクズでどうしようもなくて、娘を担保にするような父親だが、それでも真織だけは何よりも大切にしてくれたのだ。
わかっているのに、誰もわかってくれない。
大切だから頑張れる、ただそれだけだ。
街並みは、少しずつ変わっていった。
雑多な商店街が消え、建物の間隔が広がり、信号の数が減っていく。
気づけば、窓の外には高い塀が続いていた。
「……場違いだな」
思わず漏れた言葉に、直弥は笑った。
「そうか? 似合うと思うけど」
「何を根拠に」
「根性」
何の慰めにもならない。
車が止まった先にあったのは、想像していた“金持ちの家”とは少し違う屋敷だった。
派手さはない。ただ、無駄が削ぎ落とされた、圧のある静けさ。
父が言っていたお金持ちは、真織の想像の何百倍もお金持ちのようで、すでにキャパオーバーだ。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。音が吸い込まれたように、周囲が遠くなる。
別世界に来たのかと思うくらいには喧騒が静寂へと変わる。全く音がないわけではないのに、洗練された空気がそこにはある。異質な静けさの中に、真織の心もまた少しずつ硬直していく。
車を降り、助手席に座っていた男に無言のままに案内され、共に歩みを進める。出迎えた使用人の動きは無駄がなく、表情は読み取れない。
誰とも目が合わない異様さに自分に待ち受ける未来にゾワリと何かがよぎる。自分は、あの使用人のように無機質でこの家の“一部”になるのだろうか。
長い廊下は柔らかい絨毯が敷かれているのに、足音がやけに響く。壁に掛けられた絵は、どれも価値が分からないのに、安くはないと分かるものばかりだった。
応接室というより、会議室のようだった。高価そうな家具が並んでいるのに、生活の匂いがしない。ここは、人を迎える場所であって、人が暮らす場所ではない。
先程まで助手席に座っていた人がソファに座り、重厚な一枚板で出来たローテーブルを挟んだ向かいのソファに直弥と真織が並んで座るよう促される。
何の前置きもなく、スーツの男が借金の説明を始める。数字、期限、条件。直弥がソレをふんふんと聞き入り、真織はその会話を右から左へと流しながら、自分の家よりも倍ほど高さのある天井を見上げた。
――ああ、これ、完全に売られる流れだ。
そう思ったところで、先ほど真織達が来たとは別の扉が背後で開く。
「それで?」
低く、淡々とした声。
振り向いた先に立っていたのは一人の男性だった。
黒地のスーツに灰色のライン、オールバックの黒髪。姿勢は崩さず、表情は感情をほとんど示さない。
かっこいいより綺麗の似合う整った顔立ちと、すらっとした長身。切れ長の目が美しい。
目の前で借金説明をしていた男性も仕事が出来るという雰囲気があって、スマートだなと思っていた。高校生の真織からすると、スーツをピシッと決める男性は誰だってかっこいい。なんといっても、大人の男性と言えば比べる相手が最底辺の父だからである。
清楚で品があり、威圧的というより、圧巻的に強者のオーラが見える気がする。
視線が真織に落ちる。
まるで人ではなく、条件を確認するような目だった。
「君が?」
「はい。例の、です」
「例のって何だ」
「借金の担保です」
「言い方!」
直弥が反射的に叫ぶ。男性は気にも留めず、腕を組んだ。
「……思ったより、普通だな」
「失礼すぎません?」
「事実だ」
「フォローになってません」
一瞬だけ、男性の眉が動いた。予想外の反応だったのだろう。
「自覚は?」
「ないです」
「……そうか」
何を納得したのか分からないまま、男性は淡々と告げる。
「黒澤緒凛だ。条件は聞いている。君は、今日から俺のものだ」
所有の宣言。はっきりとした口調。
胸がざわつくはずなのに、不思議と心は静かだった。
真織は一拍置いて、首を傾げる。
「一応確認しますけど」
「何だ」
「“俺のもの”って、どこまでですか」
問いかけは、真剣だった。
「生活全般」
「ざっくりすぎません?」
「細かいことは俺が決める」
「決めるんだ……」
当事者のはずなのに感情を置いてけぼりにさせられている、虚無と緊張が真織を包み込む一方で、隣にいる直弥がてへっと笑う。
「まぁまぁ、なんとかなるって」
「ならないから今この状況なんでしょ!」
人前だからと遠慮はしない。こうやって正面から苛立ちをぶつけられるのもしばらくはお預けだ。今日くらいは素直に感情を爆発させてほしい。
緒凛はその様子を、少し離れた位置から眺めていた。
苛立ちではなく、観察するような目で。
「……騒がしいな」
「元からです」
「自覚があるならいい」
そう言って、真織を見下ろす。
「言っておくが、俺は甘くない」
「最初から期待してません」
「……度胸はあるな」
それは評価だった。
最初の値踏みとは、明らかに違う。
ただ、思っていたより面倒で、思っていたより目を離せない。
そんな予感だけが、静かに、確かに芽を出していた。




