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レイニーデイズ

作者: 竹蜻蛉

大学サークル提出用のお題「雨」小説です。

 奈落街――通称『スラム』。盗人や義賊、浮浪者たちが集まる街。人間として穢れた者のみが生き残れる場所。容赦が損を生み、狡猾さが勝利を招き、無知が死を呼ぶ。

 ニコル・ハーストウッドもまた、この街に住む穢れた者だった。

 いまだ少年の姿をしていながら、盗みを働いた回数は数知れず、稀に凶器をも手にして人を襲う。そのことに対しての躊躇は一切無く、非情なまでにスラムに適してしまった少年。右目に布を紐で繋いだだけの簡素な眼帯をしている姿は、スラムでは噂になる程度には有名だった。

 スラムの奥、排水溝には黒い雨と赤い血液が流れていた。

 二コルは突き刺したナイフを男の足から抜き、枯れた悲鳴をもろともせずに男から財布を奪った。スラムでは、悪とはつまり無知のことである。この場合、悪いのはニコルではなく、こんな日にスラムへと足を運んだ男の方。

「おっさん。今日は雨だ。雨は血の匂いと人の足跡を消すし、何より生き物の気配が紛れる。そんな日に出歩くなんて、ちょっと常識がなってねぇんじゃないか?」

 言いながらナイフについた血を雨で洗うように天にかざした。勢いよく振ると、アスファルトに吐き出したような血痕が飛び散った。男は怯えて満足に声も出せない様子で、盗られた財布を取り替えそうなんて微塵も思っていないのだろう、尻を擦りながらじりじりと後退し、笑ってしまうような奇妙な声を上げて走り去っていった。

「はっ、金を落としに来たのかよ」

 ナイフを腰のベルトに突っ込むと、大きく背伸びをした。

 今日も生き延びた。

 ニコルは満足げに財布の中身を確認し、幾らか多めの札束を見て顔をにやけさせた。今日の晩飯は美味いものが食えそうだ、と能天気に考えていた。

 ざあ、ざあと雨が降り注ぐ。灰色の分厚い雲に覆われた空は、ニコルにとっては絶好の狩り時を知らせるもの。強い光を遮る、日陰者にとっては唯一満足に呼吸が出来る瞬間。だが、ニコルはその雨が嫌いだった。

 気分が鬱になる、早く帰ろう。ニコルは財布をポケットに突っ込むと急ぎ足になり、建物の隙間を縫うように駆けた。

 雨水が排水溝に流れる音。換気扇から吐き出されるくぐもった空気。繁華街から流れてきた生ゴミの腐った匂い。どこを見ても煤けた灰色一色のアスファルトの街。加えてそこに汚染されてしまったような人間たち。ニコルはその全てと、それに加わる自分が嫌いだった。

 ここにまともな人間はいない。商売人は顔を青くするような値段でしかものを売らない詐欺師であるし、ほとんどの浮浪者がどこで身に着けたのかも分からぬ屈強な身体を駆使してものを奪う強盗。女もいるにはいるが、大抵は男に身体を売る淫売婦だった。外の世界から来るのは、よほどの馬鹿か警察だけ。それが、五年間以上の時をスラムで過ごしたニコルが見た世界だった。

 だから、その少女を見つけたとき、ニコルが足を止めたのは偶然でもなんでもない、ある種運命とも呼べるような必然だった。

「ふんふふ~ん」

 気の抜けた声で鼻歌を歌う少女は、雨の中、スラムの連中がそうするように傘など差さずに、一心に何かをしていた。まるでそこにだけ色のついた世界があるような、目を疑うほどの綺麗な金髪が雨に濡れていた。少年と呼ばれるニコルよりももっと幼い顔立ちの少女。ニコルは一瞬、その光景が幻想か何かかと見間違った。そもそもこんな少女、今まで見かけたことが無かった。長い間スラムにいたせいで、ついに頭がおかしくなってしまったのかと思い、軽く後頭部を殴ってみた。しかし、目の前の少女の姿は消えてなくならなかった。

「おい、お前……」

 ニコルは少女に近づき、少女はニコルに気がついた。

「はい? なんでしょうか」

「あ、いや……」

 何を言おうとしていたのか、自分でも分からずどもった。いや、実際には彼女の瞳がこちらに向けられた瞬間、息が詰まってしまっていた。今まで見たことの無い、穢れの無い色をしていたからだ。

「何を、しているんだ?」

 結局出たのは、とても無難な言葉だった。

「花の種を植えているんですよ。種類は良く分かりませんけど、お花屋さんが言うには綺麗な花が咲くそうなんです」

 覗いてみると、確かに少女の前には小さな花壇が作られていた。花なんて育てられるような土はこの辺りには無いと思ったが、ニコルの見る限りではそれらしい土が盛られていた。少女の手を見ると、そこには紫色の花がプリントされた袋が握られている。どうやら、本当に花の種を植えているようだった。

「馬鹿かお前は。ここは奈落街、スラムだぞ。花なんて育てるような場所じゃない」

「でも、私ももうここの住民ですし。やっぱり家の周りくらいは綺麗にしたいので」

「住民? なんだお前、捨て子か?」

「多分、そうなるんでしょうね」

 そう少女はにこやかに笑って言った。

 スラムに来るのは浮浪者、子供であれば捨て子の可能性がほとんどだ。理由は分からないが、この少女はどうやら捨てられたらしい。スラムで捨て子が生き残れる確率は果てしなく低い。大体がスラムの連中に奪い殺されるか、そもそも自分で食べ物を手に入れることが出来ず餓死するかのどちらかだ。それを知ってか知らずか、少女の顔には笑みが浮かんでいる。笑える出来事では一切無い。

「スラムの住民になったのなら覚えておけ。命が惜しければ雨の日には出歩くな。下手りゃ連中に殺されるぞ」

「そうなんですか?」

「ああ。雨の日はクソだ。雨が降れば途端に人殺しが増えるし、俺たちは見えない誰かを警戒しなくちゃならない。雨の日なんて無くなればいいとすら思うくらいだ」

「それは、悲しいですね」

「なに?」

 少女が種を花壇に植える。ある程度花の育て方は分かっているのか、均等な間隔を開けて植え、やさしく土を上から被せた。

「雨の日は楽しいことだらけじゃないですか。いつもと違う街の見え方にどきどきするし、長靴だって履けるし、傘も差せる。それに雨が上がれば虹だって出来ます。どうですか、楽しいことだらけでしょう?」

 ニコルはそれには頷けない。街の見え方は確かに変わる。だが、それは凶暴な活気に満ちる街へと変貌するからだ。そして、スラムには長靴はおろか、傘を差す人間すらいない。虹なんてものは目に留めたことすらない。

「それは、お前の生きてきた世界での話だろ。ここはスラムだ。お前の常識は通用しない」

「そうなんですか?」

「そうだ。大体、お前だって傘を差していないだろうが。楽しくないじゃねえか」

「でも、長靴は履いてますよ?」

 言われて視線を落とすと、確かに少女は桃色の長靴を履いていた。だから何だと言わんばかりに大きくため息を吐き、ニコルは言う。

「とにかくだ。食い物は俺が取ってきてやるから、お前は雨の日には出歩くな。いや、なんか弱っちそうだから、普通の日も出歩くな」

「えぇ! じゃあ誰がお花の面倒を見るんですか」

「そんなもの植えなきゃ良いだろ。どうせ咲かねえよ」

「咲きますよ! お花屋さんはそう言ってました!」

「それは普通の場所での話だろ。何度も言うけど、ここはスラムだ。普通じゃない」

「咲きます! 晴れの日がちょっと続いて、たまに雨の日が来るんです。そうやって種に栄養が与えられていったら、いつか咲くんです」

 聞き分けの無い奴だ、とニコルは力説する少女を呆れ顔で見つめた。そんな様子を見たからか、少女は持っていた種の袋を服の中にしまいこむと、新しく花の種を取り出した。

「なら、あなたも植えましょう! 私のとは色の違う花の種です。自分で育ててみればきちんと分かります。ほらほら!」

 ニコルは少女に花の種を半ば強制的に握らされる。あまりに自分の柄に似合わないものに一瞬顔をしかめたが、嫌々言いつつも少女に腕を取られて花壇の前に膝をついた。

「下らない。三日もすれば土が腐って咲かなくなる」

「だからお手入れをするんです。ほら、ここに植えてください」

 指定された場所にニコルは適当に種をばら撒いた。

「そして、やさしく土を被せるんです。あっ、押し込んじゃダメですよ」

「はいはい」

 言われた通りに土を被せ、最後にぽんぽんと撫でるように叩いた。こんなことをしたのは初めてで、なんだかニコルは気恥ずかしい気分になった。

「って違えよ。何で俺が種を植えなきゃならねえんだ」

「これであなたも雨の日が好きになるはずです。雨は命の源ですから」

「命の源、ねえ」

 ニコルにしてみれば、そのまったく逆。命が奪われる瞬間を作り出すもの。そのことに感謝することが無いわけではない。ただ、そこには少女のような純粋なものは一切含まれていない。自分が植えて盛り上がった土を見た。雨を吸った土はどろどろで、どうにも喜んでいるようには見えなかった。

「お前、家はどこだ」

「すぐそこです」

 少女が指差した先に、トタンで出来た廃アパートがあった。あそこには既に何人かが住居を持っている。空き部屋を簡単に渡すような連中だったとはニコルの記憶に無かったため、怪訝に思った。

「よく入れてくれたな」

「はい。ええっと、家賃を少し払ったら入れてくれました」

「家賃?」

「このくらいお金を渡したんです」

 少女はおもむろに服の中に手を突っ込むと、札を何枚か取り出した。決して大金とは言えない量だが、この少女にそのような持ち合わせがあったことにニコルは驚き、同時に危険を感じてすぐに仕舞わせた。

「そんな金、持ち歩くんじゃねえ。誰かに目をつけられたらどうするんだ」

「お家から追い出されるとき、色々なものを持ってきたんです」

 服の中の質量を無視したかのような量のものが、ばらばらとアスファルトの上に転がった。親の財布を丸ごとくすねて来たのか、やけに装丁の良い財布や、一応自衛の精神があるのか、銀色のナイフが姿を覗かせた。

「おい、お前これは……」

 その中にあった一つを、腫れ物でも見るかのような視線を向けてニコルが指差した。

「これですか? これはお父さんの形見で……」

「仕舞え、今すぐ仕舞え!」

 突然の怒声に身体をびくりと震わせ、少女は身を大きく引いた。ニコルはそれでも容赦せず、それを掴むと無理矢理少女の服の中に突っ込んだ。

「それ、誰かに見せるなよ。スラムでそれは禁忌だ。見られたら即殺される」

「え、えっと、ごめんなさい……」

「例えそれを使わなきゃいけない状況になっても、絶対使うな。スラムの連中全員を敵に回すことになる」

「そ、そうなんですか。でも、持つだけなら良いですよね? お父さんの形見なので」

「……」

 腕を胸の前で交差させ、中にあるものを必死に守ろうとしている。本来ならば、禁忌は今すぐにでも没収して捨てなければならない。だが、どうしてか、ニコルにはそれを強要することが出来なかった。

「絶対に使うなよ……」

「は、はい」

 少女は安心したように、ほっと胸をなでおろした。

「いいか? お前は新人だから、俺がある程度面倒をみてやる。だから、三つのことを約束しろ」

 本当はそんな義理も人情もない。ニコルの言動は、すべて考えるより前に出ていた。捨てられた子犬のような少女に情でも抱いたか、はたまた鬱々としていた雨の日に出会った、ある種の吊り橋効果なのかは分からない。ただ、ニコルは自分の行動に後悔する気はしなかった。

「一つは、今言った通り禁忌を決してほかの人に見せないことと、使わないこと」

「はい。それはわかりました」

「次に、このスラムで金による正当な取引はしようと思うな。持っている金は使わずに取っておけ。金を持っている人間だと思われたら色々と不便になる」

「ご飯はどうしたら?」

「だから俺が持ってくるって言ってんだろ。そして、最後の約束だ。雨の日には決して出歩くな。お前は雨の日が好きなようだが、ここの雨の日は危険だ」

「でも、お花のお世話が……」

「最悪、だ。最悪どうしても外に出たくなっても、俺が来るまでは家にいろ。一人では決して出歩くな」

「わ、わかりました」

 ふぅ、とニコルは一息ついて少女を見下ろす。本当に守れるのか妙に不安だった。どこか抜けていそうな少女の印象は、口頭の約束では心もとなかった。とは言え、それ以上はどうしようもない。ニコルはとりあえず少女のことを信用するとして、そこであることに気づいて訊ねた。

「お前、名前は?」

「アレシアです。そういうあなたは?」

「ニコル・ハーストウッド。ニコルと呼べ」

「はい、ニコルくん」

 満面の笑みで名前を呼ばれ、ニコルはわずかに赤面した。そもそも、名前なんてものを呼ばれたのは久しいかもしれない。自分の名前なのに、妙に懐かしい響きがした。

「……「くん」ってなんだよ。せめて「さん」だろ」

「えっ、ニコルくん、私より年下だと思ってました」

「そんなわけあるか。アレシアは何歳なんだよ」

「十五歳です」

「……」

 ニコルはまじまじとアレシアを見て、言葉の真意を掴めずに冷や汗を流した。

「ニコルくんは何歳なんですか?」

「し、しらねえよ」

「ええっ、教えてくださいよ」

「うるせえ。じゃあ約束は守れよ。飯は後で持ってきてやるから」

「ちょっと! ニコルくん!」

 急ぎ足で走り去るニコルは、今年で十四になる少年だった。


  ○


 翌日は眩しいくらいの晴天だった。暖かな陽気がスラムにもやってくる。だが、決してスラムの空気は緩慢せず、いつも通りぴりぴりした緊張感に身を置くことになる。こうなると、スラムの連中は下手に動くことが出来ない。見回りの警官に盗みでも見つかれば、その時点でスラムでの生活は終わりを迎える。ニコルも同じく、晴れの日には大きな行動を起こさないでいた。

 ハイリスクを犯すものは愚かである。そうニコルは常々思っている。多少飢えに苦しむとしても、晴れの日に盗みを犯すのは、餓死するより高い確率の危険が潜んでいる。

 先日、アレシアが持っていた『禁忌』も然り。ハイリターンが望めるといってもハイリスクが永久に付きまとう。そんなものを使うのは余程の馬鹿か物好きだけだった。最近のスラムでは姿すら見なかったというのに、ニコルにとっては気分の悪い話だった。

 ニコルは適当な店からくすねてきた予備の食料を持ってアレシアのアパートを訪ねた。約束通り、アレシアは廃アパートの中で待っていた。昼も過ぎたというのに間抜けな格好で眠りこけている。髪の毛をぼさぼさにし、服は所々きわどい位置まで捲くりあがっている。ニコルはその姿に、言いようのない衝撃を胸に覚えた。相変わらず、不思議な魅力のあるやつだと思った。

「おい、起きろ。飯の時間だ」

「……ほげ?」

 アレシアが涎を垂らし、完全に緩みきった顔を向けた。その様子に何故かイラッと来たニコルは、アレシアの頬を掴んで左右に伸ばした。

「いいかアレシア、よく聞け。スラムでは寝坊なんていう怠慢は許されない」

「……ほげほげ」

 まだ眠気があるのか、とろんとした瞳をしながらゆっくりと頷いた。本当にわかってるのかよ、とニコルは小さく毒づいた。

「涎を拭け。それでも女かよ」

「女の子だって涎垂らしますー」

 頬を膨らませてアレシアが言うが、ニコルは無視した。

「ほら、飯だ」

 ニコルは持ってきた革鞄から、パンを放り投げてアレシアに渡した。腹が空いていたのか、アレシアはそれをかっぱらってすぐに食らいついた。

 ニコルはアレシアを見る。昨晩から洋服はやはり着替えていない。当たり前だが、着替えなど持ってきていない。数ヶ月もすれば、布切れを纏っているのと何も変わらない格好になるだろう。ニコルはある程度の時期が経つと下着と上着を新調しに盗みを働くので良いが、アレシアはどうするつもりだろうと思った。流石に女物の下着を盗んでくるのは、ニコルにも抵抗がある。しかし、アレシアにどうにか出来る問題なのかも悩ましい。流れるような金髪も、時間が経てばごわごわの針のような髪の毛になってしまうだろう。ニコルには、それがなんとなく惜しまれた。

「ごちそうさまでした」

 律儀にアレシアがおじぎをし、ニコルにそう言った。ニコルはそれも無視した。妙に気恥ずかしかったからだ。

「今日は晴れだから出歩いても良いが、出来れば家の中にいろ」

「えっと……花壇のほうを見てきても良いですか」

「もう咲くのか?」

「まさかっ。芽が出るのにも、最低一週間くらいはかかりますよ」

 アレシアがそう言って口元に手を置いてくすくすと笑った。ニコルは花の知識なんて片手で数えられるほども持っていない。無知は責任である。そのことを知っているニコルは、自分のした失言に顔を赤くした。

「い、行くぞ。危ないから付いていってやる」

「はい、ありがとうございます」

 アレシアは、それでも嬉しそうに微笑んでいた。

 花壇はアパートの正面、入り組んだ裏路地へ入る道の角にある。ニコルが両手を広げれば収まってしまいそうな小さい花壇。枠はどこからか持ってきたステンレスの箱で、土もスラムではないどこかから持ってきたものだった。今はその全体に種が蒔かれている。アレシアのものなのか、花壇の横にはスコップが置かれていた。意外にも人目につかない場所にあるので、安易に荒らされたりはしないだろうとニコルは思っていた。

 花壇に到着すると、まだ芽が出ているわけもないと知っていながらニコルは全体を見渡した。勿論、緑は一切顔を覗かせておらず、自分が植えた種もどこにあるか分からないくらいだった。

「日中は日陰にならないんですよ、ここ」

 確かに、アレシアの言うとおり、建物の隙間を絶妙に突いた位置に花壇はあるらしく、さんさんと降り注ぐ日光に土が輝いていた。アスファルトだらけのスラムでは、まるで雨の日に見つけたアレシアのごとく、ぼやりと浮いているような印象をニコルに与えた。

「世話って、何をするんだ?」

「こうして見ているだけです」

「あ? なんだって?」

「基本的には水をあげて、土をたまにいじるだけですよ」

「そうなのか」

 アレシアは花壇の前で自分も同じく日光を浴びるように座り込んだ。その光景に、ニコルは思わず息を呑んだ。この少女は、本当に目の前にいるのだろうか、と。まだ芽の出ていない花壇を見つめるその姿は、成長を見守る母親そのもので、ニコルは胸を締め付けられるような思いがした。親の存在なんてとうに忘れたというのに、嫌でもその存在を意識させられた。

「雨が降らなければ、緑は生まれません」

「何だよ」

「雨の日がなくなってしまったら、困ります」

「昨日の俺が言ったことを気にしてるのかよ」

「そうです」

 率直な言葉に、ニコルもむっとなる。

「そりゃ確かに雨が降らなきゃ植物は育たないだろうがな、だからと言ってスラムで雨を好くようなやつはいねえ。これだけは確かなことだ」

「お母さんは、雨の日でなければ遊んでくれませんでした」

 どこからか降ってきたもののように、アレシアの口から突然そんな言葉が飛び出した。

「いつもお仕事が忙しくて、お父さんはずっと前に死んでしまいましたし、私はいつも家では一人だったんです。でも、雨の日はたまにお仕事がお休みになって、私と遊んでくれた。だから、私は雨の日が楽しみだったんです」

「……それはアレシア、お前の事情だろ」

「お母さん、少し前に死んじゃいました」

 淡々と流れる言葉には、感情が灯っていない。その現実を受け止めることを拒否するかのような、突き放した口調だった。

「お前、捨て子じゃなかったのか」

 つまりは、両親を失って行き場が無くなった子供ということになる。それを知って、ニコルは戦慄した。そんな境遇だというのに、アレシアはあの雨の日、鼻歌を歌いながら花の種を蒔いていた。その時、どういう心境だったのかニコルには想像もつかない。いや、想像出来たとしても、鼻歌を歌えるような心境ではなかったとだけは馬鹿にでも分かった。

「雨の日は、楽しみだったんですよ」

 虚しさを孕んだ言葉が、行き場を失って落ちた気がした。

 そんなことを言われても困る、というのがニコルの感じたものだった。憐憫に思うにはニコルも同じく家庭環境が最悪で、加えてニコルはアレシアのように雨への思い入れもなかった。そもそも、スラムにはまともに生きてきた人間などいない。アレシアのような人生を送ってきた人はごまんといるだろう。だから、ニコルは素直に同情は出来なかった。

「お前がどう思おうが勝手だが、俺が雨を好きになることなんてない」

「でも、私が雨を嫌いになることは、もっとありえません」

 決して視線を合わせようとはしなかったが、アレシアの瞳には気丈さが宿っていた。

 突っかかってくるアレシアに、何かを言い返そうとした、その時だった。

「……っ」

 路地の奥、建物に隠れ、闇に紛れた場所から人の声がしたのをニコルは確かに聞き取った。それも、ずいぶんと聞き覚えのある声。

「アレシア、こっちに来い」

「えっ?」

 有無を問わず、ニコルはアレシアの腕を掴んで物陰へ連れ込んだ。怒られると思ったのか、アレシアはぐっと目を瞑って連れられた。

「……ロバートだ」

 片目に眼帯をつけるニコルは、代わりに聴覚が発達している。それを抜きにしても、やけに甲高い声はスラムの中を良く通る。ロバートの特徴である下品な笑い声が、辺りにこだましていた。

「げひひひ。見ろ、あの警官、妻子持ちだったみてぇだな。可哀想に、スラムになんか見回りに来るから」

 手下を連れているのか、やけに上機嫌な話し声が聞こえた。

 ロバートを知らないアレシアは何の事か分からず、小声でニコルに訊ねた。

「どなたなんですか?」

 ニコルはやけに真剣そうな面持ちで答える。

「ロバート・エチュード。スラム最大の愚者にして、最強の男だ。警察を恐れないどころか、狩りの相手にしてしまうのはロバートだけだ」

 ニコルは微かに震えていた。アレシアに感づかれないように必死に抑えようとしたが、スラムに長らく住んでいる人間の本能が働いてしまっていた。

「……怖い方なんですね」

「出来れば顔を合わせたくない。特にお前は新入りだからな。何をされるか分かったもんじゃない……しっ、静かに」

 ロバートの足音が近くまで来たのを察し、ニコルはアレシアの口を塞いだ。ロバートはやけに鼻が良い。そのせいで、ニコルもスラムへ来た当初はロバートに悪い意味で世話になっていた。顔を合わせたくは無かったが、アレシアもいるせいで、もしかしたら逃げられないかもしれないと覚悟を決めた。

 その予感は的中したのか、ロバートの足音がちょうどアパートが見える位置の曲がり角で止まった。ニコルはごくり、と生唾を飲み込んだ。

「おいおい、金の匂いがするなぁ……」

「本当ですか? どこから?」

「あのボロアパートだよ。ちょっと前にあそこからはきっちり徴収させて貰ったはずだが……げひひひ、新入りでも入ったか」

「よ、良くお分かりになりますね」

「へっ。金に貪欲になれば誰でも出来る。まあ、大した金額でも無さそうだし、さっき仕事したばかりだから見逃してやるか」

 ニコルの位置からでも、ロバートの姿は見えていた。貴金属を首や腕に巻き、とても困窮者の集う街の住民とは思えない様をしている。彼の手下につけば、そのおこぼれが落ちてくる時がある。だから、ロバートは常に多くの手下を従えていた。ロバートを恐れるのには、そういう理由もあった。実力もあるが、なによりも数が違っていた。

「なんかうめえもんでも食いに行くか」

「はい、お供します!」

「げひひひ」

 じゃらじゃらと貴金属が音を立てながら、ロバートの姿は遠くに消えていった。

 ……なんて鼻の良い奴だ。洒落になってない。

 ニコルは知らない間に息を止めていた。咳き込みながら深呼吸をし、やっとのことで緊張感から開放された。

「大丈夫ですか、ニコルくん?」

 アレシアが心配そうに顔を覗き込んだ。思いのほか顔面が近くに寄っていたので、ニコルは驚いて飛びのいた。

「だ、大丈夫だ」

 ニコルの心臓がどくん、と高鳴った。咳のせいだろう思い、何度かわざとらしく喉を鳴らし、大きく息を吸って吐いた。

「私のこと、ばれてしまっているみたいですね」

「あ、ああ。でも無視してくれたらしい。とりあえずは安心だ」

 物陰から出て、ニコルは周りを警戒した。ロバートの手下が何かの手違いで残っていても困る。ニコルが見つかる事には意味が無いが、アレシアを発見されるのは危険が伴う。ロバートが新人をいびることに楽しみを覚えている人間だという事を、ニコルはよく知っている。

「ニコルくんが雨を嫌うのは、ああいう人がいるからなんですね」

 後ろで、アレシアが小さく呟くように言った。

「私が雨の日を楽しみにしていた時、ニコルくんはああいう人たちに怯えていたんですね」

「……だから、何度もそうだって言っているだろう。スラムはそういう場所なんだよ」

「ほんの少しだけ、分かった気がします」

 ロバートの尋常じゃない空気をアレシアも察したのか、「分かった」の中には少なくともロバートへの恐怖心があると、ニコルは感じた。

「でも、やっぱり残念です」

 アレシアが、申し訳無さそうにニコルの服の裾を掴んだ。

「雨の日はもっと、どきどきしたりわくわくしたりするものだと思います。だからニコルくん、花を育てるの、頑張りましょう。きっと好きになれると思いますから」

 痛々しい。本当に痛々しかった。ニコルは、この分からず屋! と叫んでやりたかった。ただそれは、夜を好きな人間が太陽に向かってわがままを言うようなもので、何の意味もないし、結局相手は分かってくれないものだった。

 ニコルにとってアレシアの優しさは、傷口に染みる薬のようだった。ニコルだって分かっている。その傷口が消毒出来るものだと分かっている。ただ、ニコルにとってはその部位に傷を作る事がほとんど当たり前のことで、いつしか唾で適当な処置すらもしなくなったような傷になってしまった。

 そこに垂らされた消毒液は久しぶりなもので、ニコルにとってはうめき声を上げてしまうほど痛みを伴うものだった。だから、アレシアの言葉に対して「ああ」と短く返すだけなのに、ニコルがそう答えたのはアレシアが待ちきれなくなって裾を引っ張った後のことだった。


 ○


 古い夢を見た。

 五年前、ニコルは右目を失った。その時の映像だった。『禁忌』によって無常にも奪われた右目。スラムにいたニコルには治療する術も無く、最終的には膿んできた皮膚ごと切り取って治した。そんな日の夢だった。

 ニコルが雑魚寝から目覚めると、ねっとりとした汗が身体中を覆っていた。息が荒く、寝起きだというのに意識が痛いくらいに覚醒していた。がんがんと警笛を鳴らすような頭痛を抑え、のっそりと起き上がる。

 時間は既に昼を回り、夕方にさしかかろうとしていた。アレシアにご飯を持っていっていない。朝と昼を食べさせていないのだから、かなり空腹に苦しんでいるだろう。ニコルは急いで身支度を始めた。

 雨が降っている。つい先日降ったばかりだというのに、雨は叩きつけるようにニコルを打ち、悪夢のせいでやけに苛立っているニコルをさらに急かせた。

 いつものアパートに到着すると、ノックもせずにニコルはアレシアの部屋を訪ねた。ドアノブの壊れた扉を蹴破り、八つ当たりするように荒々しく部屋に入った。

「……アレシア?」

 そこにはいつも寝坊して涎を垂らしている姿のアレシアか、暇そうに花の種を眺めているアレシアの姿があったはずだった。だが、そこには閑散とした廃屋の姿があるだけで、浮き立つような金髪がどこにも見当たらなかった。

 ぶくり、と泡立つような焦燥感がニコルの内に湧き上がった。

「あいつ、勝手に出歩きやがったな……!」

 持ってきた食べ物を放り投げ、ニコルは部屋を飛び出した。

 雨の日。それは人の気配が消える日。晴れならばまだ足取りも掴み易い人探しも、雨の日となると難航する。視界も悪ければ、聴覚すら雨音で遮断される世界。ニコルにはアレシアの行きそうな場所など検討もつかなかった。一番期待していた花壇にはいなかった。だとすれば、からはもう続かない。

「ちきしょう……!」

 空を覆う灰色の雲より、もっと厚い暗雲がニコルの胸中を覆った。雨風がニコルの姿を嘲笑うように吹き付ける。袖でびしょ濡れになった顔を拭いながら、ニコルはひたすらに駆けた。目的地もなければ、少しの予感すらない。まさしく、スラムという広大な砂漠の中から金色の粒を見つけるようだった。

 スラムと街の境、ちょうど人通りが少なくなってきた小さな路地に、アレシアは倒れていた。雨水と泥にまみれ、服から除く灰色の肌には赤く滲んだ傷が出来ている。

 盗賊に、襲われたあとだった。

「アレシア!」

 ニコルはすぐに駆け寄って、アレシアを抱き起こした。幸い怪我をした程度で済んでいるらしく、アレシアは弱弱しい瞳をニコルに向けた。

「お前、どうして出歩いた! 雨の日には出歩くなって約束しただろうが!」

「……」

 アレシアは服の中に手を入れ、彼女の半身程度はあろうかという大きさの袋を取り出した。

「肥料……あげないといけないから」

 その瞬間、ニコルは自分の中の何かがぷつんと切れる音を聞いた。

「どうして、約束を破った」

 そのただならぬ様子にアレシアも気づいたのか、ニコルの腕の中でびくっと身体を震わせた。

「その、早くお花に育って欲しくて」

「意味がわからねえよ。それで死んじゃったらどうするんだ。俺が悪いのかよ、俺がお前の家に遅刻したのがいけねえのかよ」

 もはやニコルの言葉はアレシアには向いておらず、自身を殴りつけるような激しい自己嫌悪だった。

「ち、違う。私が悪いの。ごめんなさい」

「分かってるならどうして約束を破った!」

「……っ!」

 頭の上から降ってくる怒声にアレシアは身を強張らせた。ニコルが本気で怒っている。それを感じて、言葉を返せなくなった。

「約束を守れないんだったら、俺がお前のところに来るのも最後だ。何度だって言ってやる。雨の日に出歩くんじゃねえ、分かったか!」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい……」

 縋るように謝るアレシアを見て少し冷静になったニコルは、身体にこもった熱を吐き出すように息を吐いた。

「何を盗られた?」

「お金。肥料は盗られなかった」

「幾ら盗られた」

「ぜ、全部……」

 だろうな、とニコルは予想が的中したことに頭を抱えた。十五やそこらの少女に、肥料の値段なんて分からない。幾らするか分からないのに、程度を考えて金を持ち歩かないだろう。アレシアの所持金は大金ではなかったが、決して少量ではなかった。ニコルに直接の痛手はなかったが、最悪アレシアから離れたときのことを考えると、ニコルの頭痛は増した。

「誰にやられたか、顔は覚えてるか」

「あ、えっと、顔は覚えてないけど、ロバートさんの名前が出てきたから彼の手下なんじゃないかなって」

「ロバートの手下だと?」

 一瞬疑問に思ったが、考えてみれば合致の行く話だ。先日、ロバートはあのアパートに金の匂いがすると手下に告げている。その話を信用した手下が、アパートを訪ね、そして見覚えのない少女をつけたのだろう。ふたを開けてみれば、中々の金を持っていたから襲った、というところだろう。ニコルは自分がそこまで考えが至らなかったことに舌打ちをした。

「まあいい。とりあえず帰るぞ。飯が腐るし、お前の怪我の手当てもしなきゃいけない。立て」

「あ、はい」

 ニコルはアレシアの手をとって立ち上がらせた。捻挫をしているらしく、アレシアはふらふらと足元がおぼつかない歩き方をしていたので、ニコルは仕方なく肩を貸す。そこでアレシアがにこっと笑ってお礼を言ったとき、ニコルはまた、胸のうちに微熱のような疼きを感じた。

「優しいんですね、ニコルくんは」

「馬鹿言え。俺が優しいわけねえだろ」

「でも私のこと心配してくれてます。別に強制されてるわけでもないのに」

「それは……」

 何故だろうか。ニコル自身にも分からなかった。確かに、このままアレシアを放っておいてもニコルに損は無い。どころか、アレシアのために食料を調達しているニコルにとって、アレシアはある種重荷になっていると言ってもいいくらいだった。だが、ニコルはアレシアを無視出来なかった。いや、したくなかった。このきらきらした少女にニコルは吸い込まれるような魅力を感じていた。それが何なのかは分からなかった。

「そういえば、これも買ったんでした」

 アレシアはまた服の中から何かを取り出した。ひも状のものに円盤のような鉄がついている。

「眼帯です。布でも良いと思いますけど、雨の日は濡れてしまいそうでしたから。布の上から使ってください」

 そう言ってニコルの手の中に眼帯を落とした。鉄製の眼帯で、結構な重みがあった。感謝の言葉を言うべきかどうか迷って、結局羞恥心に負けて言えなかった。人からものを奪うことはあっても、ものをプレゼントされることは初めてだったからだ。

「その、眼帯ってのは普通皮製じゃないのか?」

 だから、ニコルはそんな心にも無いことを言った。文句を言う気は無かったので、口にしたあとに後悔した。

「そうなんですか? お店の人に一番格好いい眼帯を下さいって言ったらこれを出されたんですけど」

「それ、ファッション用の眼帯と間違われたんじゃねえか」

「……ご、ごめんなさい」

 ニコルはしばらく眼帯を眺めたあと、銀板を布の上に当てて、後頭部で紐を結んだ。多少重くなったせいか違和感が強かったが、いつも雨の冷たさが布に染みていたのが無くなり、妙に馴染んだ気がした。

「やっぱり優しいですね」

「何がだよ。流石に俺だって、人がくれるって言ったものを投げ捨てるような下衆じゃねえよ」

「分かってますよ」

 アレシアが隣で小さく微笑んだ。何故笑ったのか分からず、ニコルはもやもやとした気持ちになった。

「……」

 しかし、同時に嫌な予感もした。闇の先に繋がっているような黒い糸が見えた。引っ張るべきかどうかを悩んだが、アレシアが身をぐっと寄せてきたので考えるどころではなくなってしまった。


 ○


 ニコルは、どうにかしてアレシアにじっとしていて欲しかった。昨日、ニコルは自分があれだけ怒鳴り散らした理由が分からなかった。確かに約束を破ったアレシアが悪い。ただ、他人のことを心配するような精神はスラムの住民である自分は持ち合わせていないと思っていた。なのに、ニコルは突き動かされるようにアレシアを探し、そして激しく叱ったのだ。それが、腑に落ちなくてたまらなかった。

 雨の日に出歩くな。もう一度交わした約束だが、ニコルはなんとなく、アレシアがまた裏切るような気がしていた。昨日感じた妙な黒い予感は、これなんじゃないかと思っている。だから、ニコルはどうにかしてアレシアが出歩かないようにする策を練っていた。

 すべての原因は、花にある。彼女は花を育てたいがために約束を破った。ニコルは花を育てるのを何故か付き合っていて、恐らくはそれが原因でアレシアに付き合うようになってしまったのだ。あの日、彼女が「あなたも植えましょう」などと誘ってこなければと、ニコルの考えはどんどんと底に落ちていくばかりだった。

 花壇が無くなれば、アレシアが外に出る理由は無くなる。ニコルの行き着いた結論は、悪魔がささやいたようなものだった。

「そうだな、そうするか……」

 あまり気が乗る案ではなかった。何せ、花壇を壊してしまえば、アレシアが悲しむのは目に見えている。ただ、少しの後悔でアレシアの安全が守られるならば、それもいいのではないかというニコルの中の天秤に気持ちは従った。

 そうと決まれば話は早かった。ニコルの足は自然と花壇のほうへと向かっていった。

 時は既に夕刻を回り、アレシアはアパートの中で過ごしている。昼間に行ってはアレシアと出くわす可能性が高い、むしろほぼ確実に顔を合わせることになる。狩りが出来ないアレシアは普段、花壇の前でじっと芽が出るのを待っているだけの生活をしている。流石に夜は出歩かない。

 ランプはつけない。夜のスラムは、雨の日ほどではないにしろ危険が伴う。人の気配は昼よりも感じやすいが、住民がみな殺気立っている。ネオンの光が人を興奮させるのか、夜の空気が人を変えるのかは分からない。どちらにせよ、夜のスラムもあまり長居はしたくない空間だった。

 花壇につくと、拙い作業で作られた花壇の外枠をまず蹴り壊した。一瞬、棘が刺さるような痛みを胸に覚えたが、無視してニコルは花壇を破壊した。土にはナイフをつきたて、出来るだけばらばらになるように掘り返した。自分が埋めたのかアレシアが埋めたのか分からない微かに緑色に色づいた種が掘り返されていく。

 額に汗が浮き出てきた頃、ニコルは不意にある種の虚しさを感じた。ざく、ざくと鳴る土の悲鳴が、ニコルの行動を咎めようとしているように聞こえて仕方がなかった。だから、それをかき消すためにより一層、一心に土を掘り返した。

 そして、ようやく作業が終了したとき、ニコルに満足感はなかった。


 翌日、ニコルは花壇の傍で寝ていたため、普段よりも早くに起床してアレシアを避けた。流石に昨日の今日で、アリシアと顔を合わせるのは気分が乗らなかった。適当な食べ物を繕ってアパートの前にでもこっそり置いておき、あとは二日か三日、姿をくらますつもりだった。

 アレシアがいつもより早くアパートを出てきた。いつものように花壇へ向かうのだろう、ニコルは物陰から眺めながら、アレシアを目で追った。

「――え」

 そんな悲鳴が聞こえた気がした。アレシアの小さな身体は、花壇の前で凍りついたように固まった。どんな表情をしているのかは見るまでもない。ニコルは微かな罪悪感を抱えつつ、その場を去ろうとした。

「う……ぇ……」

 掠れるような嗚咽。その小粒のように零れた声は、ニコルの足を確かに止めた。

「――うあぁぁぁぁぁ!」

 悲痛な泣き声が、辺りに響き渡った。まるで幼い子供のように泣きじゃくるアレシア。ニコルは背中に感じる泣き声に、何よりも重い一撃を食らった。

 瞬間、ニコルは胸に激痛を感じ、思わず膝をついた。今までのとは比にならない、心臓を直接締め上げられるかのような痛み。それも、原因不明の痛みが心臓から手足に広がって指先まで痺れを走らせた。激しい動悸とめまいに襲われる。アレシアの泣き声が、排水溝に流れる雨水のごとくニコルの中に押し寄せた。

 俺は、何を考えていた?

 目の眩むような自己嫌悪が豪雨のごとくニコルを襲った。

 愚かだった。ニコルの嫌う愚かさが、身体全体に染みついていた。何が『多少の後悔』だろうか。何が『微かな罪悪感』だろうか。アレシアにとって今、最も大切なものは花壇だったのだ。それを奪われた時のアレシアの気持ちなど、ニコルには想像できなかった。

 ニコルは泣きたくなった。誰に対して、何に対して泣きたいのかも分からないまま、とにかく泣きたかった。ただ、それが自分に許されない事だと知って、必死に奥歯を噛んだ。本当は今すぐにでも謝りに行くべきだった。例えアレシアに許されなくとも、ニコルは頭の中心でアレシアに何度も謝る姿を描いていた。ただ、それは決して行動に移される事は無かった。

 足が動かないのだ。逃げる事も、駆け寄ることも許されていなかった。

「ニコルくんっ……ニコルくん」

 泣きながら、アレシアはニコルの名を呼んでいた。

 ――何故? 何故俺の名前を呼ぶ? その花壇を荒らしたのは俺なのに!

 そう自分を咎める意識はあるのに、アレシアが名を呼ぶたびに、ニコルは穴を埋められるようなほんの少しの嬉しさを覚えた。まるで許されているような気分にもなった。だが、それも、

「ごめんね、ごめんね……」

 アレシアが謝罪しているのだと気づいた瞬間、猛烈な嘔吐感に変わった。

「うぁ……」

 アレシアはニコルが花壇を壊したことを知らない。そして、アレシアは『ニコルのために泣いている』。意味が分からなかった。目の前で起きている状況に、一切の理解が出来なかった。

 俺が悪いのに、俺が悪いのに、俺が悪いのに!

「どうして、お前が謝ってるんだよ……!」

 ようやく出せた声はアレシアの泣き声より遥かに小さく、誰にも届く事は無かった。

 アレシアの涙が枯れた頃、ようやく彼女の泣き声も収まった。まるで魂が抜けたかのようにアレシアは地べたに尻をつき、肩を壊れた人形のようにだらりとぶら下げた。輝くような金髪が光を失い、造りもののようになっていた。そしてニコルは、彼女をそうしてしまった原因が自分にあるのを悟り、持っていたナイフを首に突きつけた。

 ……意味が無い。

 どうせ死ぬ勇気も無ければ、死なずに償うような価値も無い。ニコルは今まで感じたことの無いネガティブな気に毒されていた。大した事無いじゃないか、謝れば済む問題じゃないか、と自分を鼓舞することすら出来ない。

「ははっ……」

 乾いた笑い声が漏れた。そして、頬には涙が伝っていた。ニコルはついに泣いてしまった。せめてものプライドか、泣き声は上げなかった。心の中の暗雲が、雨を降らせていた。

 そうして幾らか泣いて気を落ち着かせた後、緩やかになった頭の中でニコルは一つのことを思い知っていた。

「そうか」

 腑に落ちることは沢山あった。きっと胸の痛みの正体もそれだった。

「アレシア、俺はお前のことが気に入っているみたいだ」

 本当に笑ってしまうような話だった。いや、考えても見れば、ニコルは初めてアレシアと出会ったときから多少なりとも彼女に惹かれていた。それが、少し分かりにくい形で表に出てきただけだった。

 アレシアはニコルの知っている全てのものと違った一面を持っていた。彼女は雨が好きで、ニコルは雨が嫌い。彼女はスラムを恐れず、ニコルはスラムを恐れ、だから強くなる。ニコルは雨の影に隠れ、アレシアは雨の中でより一層強く輝いた。

 そんな柄じゃないと自分でも分かっていた。ただ、そうなってしまったものは仕方が無い。強いて後悔があるとするならば、ニコルはアレシアを傷つけてその事実に気が付いた。それはニコルの嫌う愚かさを孕んだものだった。

 だが、何にせよもう遅い。彼女を傷つけたニコルは、アレシアのことを想う資格を失っていた。今なら、今ならまだ間に合う。アレシアの傍に寄り添い、彼女が許してくれるまで謝れば良い。そう考える事が出来るのならば、とっくにニコルは救われていた。

 ニコルはナイフをベルトに仕舞い、アレシアを一瞥した。

 せめて、せめて彼女を守ってやろう。毎日朝昼晩と食事を持っていってやって、夜は一晩中彼女のアパートの周りを見回ろう。ただ、顔は一切合わせない。ニコル自身が耐えられないからだ。自分の気持ちを知ってしまったニコルにとって、アレシアは恐るべき存在となった。もう、彼女と会うことはない。スラムの人間はスラムの人間らしく生きていこう。

 ニコルはもはや、アレシアと自分を平等の天秤に乗せることを恐れた。方や彼女の安全のためとはいえ、醜い方法を取って自分を省みもせずに悲しませてしまった自分。方やそんなニコルのことを知らず、彼のために涙を流したアレシア。

 誰が許してくれようが、ニコル自身が許せなかった。

 その日は、やけに晴れた日だった。こういう日こそ雨が降って、全てを流してくれたら良いのにと、ニコルはそう思った。


 ○


 決めた通り、ニコルは毎日アレシアの食事を持っていった。恐らく、アレシアも誰が自分の食事を持ってきているかは検討がついている。だが、両者ともそれを口には決して出さなければ、相手を求めたりもしなかった。

 アレシアは再び花壇を建て直し、花の種を植えていた。今までそうしていた通り、アレシアは一日中花壇の前にいて、じっと何かを待つように眺めていた。

 変わったことと言えば、アレシアが雨の日に出歩かなくなったことだった。ニコルが雨の日も見回りをしているとき、アレシアの姿を見たことは無い。アレシアはきっちりと約束を守っているようだった。

 ニコルがアレシアに近づかなくなってから、およそ一週間の時が流れた。

 その日はやけに雨が強く、気が滅入ってしまいそうな天候だった。だが、こういう時こそスラムの人間は活発になる。それは、『彼』も同様だった。

 アパートの近くで身を震わせながら辺りを警戒していたニコルに、信じられない映像が飛び込んできた。

「ロバート……!」

 豪勢に見える黒い傘を差して、手下を二人ほど連れたロバートがアパートの前に現れた。寝ていた上体を起こし、すぐに物陰で息を殺した。ロバートはカン、カンと甲高い足音を立てながらアパートの階段を昇る。ニコルはそれを見て、冷や汗を浮かべた。ロバートの向かう先にはアレシアの部屋がある。まさか、まさかと神にも祈るようにロバートの足取りがそちらへ行かないように祈っていたが、その願いは裏切られた。

「げひひひ。どーもー、こんにちはー」

 ロバートがふざけたような口調でそう言い、アレシアの部屋をノックした。

「はい?」

 アレシアがそれに反応して、扉から顔を覗かせた。

「あ、俺ロバートっていうんだけど、君、新入りだよね」

「え、あ、えっと……」

 アレシアはロバートを知っている。かなり困惑したように視線を彷徨わせた。

「ああーいいよ。分かってるから。答えなくても分かっていることを問うのが好きなんだよ俺。うん。でさ、表にある花壇、あれ君のもの?」

「そうですけど……」

「いやー、困るんだよねー。ここ一辺は俺の敷地でさ、勝手にああいうもの作られると迷惑なんだけど」

「え、でも……」

「でももお菓子もねえだろうよ。君だって嫌だろう、自分の家の中に人のものが勝手に入ってたら。壊したくなっちゃうだろ?」

「ご、ごめんなさい。じゃあ、苗だけでもこの部屋の中に移すので」

「そーいう問題じゃないだろ。ちなみにこのアパートも俺のもの。だからアパートの中に移そうが移すまいが変わらない」

「そんな……」

「げひひひ。あ、ところで君可愛いね。俺の彼女にならない? マジで」

「い、嫌です!」

「あーら手厳しい。ひひっ」

 ロバートは言葉運びが巧みだった。相手を油断させるための手段。胡散臭さの演出。ニコルはロバートの声を聞いて、いつ飛び出そうかタイミングを計っていた。恐らくこのままロバートが帰るなんてことはありえない。最悪でもアレシアのスズメの涙ほど残った金品を奪いつくしていく。それは、同時にアレシアへの危害を意味する。ニコルは腰を落とし、ぐっと堪えた。

「とりあえず、あれは壊しちゃおうか」

 手下と目を合わせ、ロバートは下品な笑みを浮かべた。その言葉を聴いた瞬間、アレシアはロバートたちの間を縫って外に飛び出していた。階段を一段飛ばしで駆け下り、花壇の前に立った。ロバートはそれを目を丸くしてみていたが、その真意を理解すると、ニィと顔を歪めた。

「そんなに大事なのか、それ?」

 ロバートはアレシアの前まで歩いていくと、上から押しつぶすように見下ろした。

「大事です」

「へぇ、お花が大好きなんだ」

「大好きです」

「じゃあニコルは?」

 明らかにアレシアの表情が変わった。同じく、ニコルも突然自分の名前が出てきたことで、ほんの少しだけ身を乗り出した。

「君、ニコルと一緒に行動しているらしいじゃん。あいつがどういう人間か知ってんの?」

 ニコルの胸の奥がざわついた。何を言うつもりなのか分からないが、あまり自分のことは知られたくなかった。特に、今となっては。

「ニコル・ハーストウッド。スラムでは有名な少年盗賊。それなりに強くて、それなりに非情。俺の手下も何人かあいつにやられてんだ。あいつは人殺しだぜ?」

「嘘です」

 見下ろすロバートを押し返すかのように、気丈な瞳をアレシアはロバートに向けた。

「ニコルくんは優しい人です。私を助けてくれました」

「ははっ。それこそ嘘だ。君はニコルに騙されている」

「例え、例えあなたの言うようにニコルくんが人を殺していたとしても、それはあなたがたのせいです」

「へぇ、言ってくれるじゃねえの」

 額に青筋を立てたロバートは、アレシアの胸倉を掴んで引き上げた。ぐっ、とアレシアのうめき声が上がったとき、ニコルは飛び出そうとした。

 が、動かなかった。足が動かなかった。ニコルは自分でも理解出来なかった。杭に打たれたかのような足を見て驚愕した。震えていた。ロバートを前にして、ニコルの足は震えて動かなくなっていた。弱さの泥に足を取られたニコルは、必死にそれから抜け出そうともがいていた。

「教えてやるよお譲ちゃん。スラムではな、世の中と違って老若男女が平等なんだよ。平等に人に襲われるし、平等に人を襲っていい。な? 素晴らしい場所だろ」

 ロバートはアレシアの顔に唾を吐くと、汚物を捨てるかのような仕草でアレシアを横に放り投げた。水しぶきを上げながら、アレシアはアスファルトの上に伏した。

「アレシア……!」

 まだ動かない。ふざけるなと叫びだしたくなった。足を切り落としても良いから、今だけはあそこへ行かせて欲しかった。

 ロバートは革靴で苛立ったように花壇を蹴る。すると、アレシアがそこにすぐに滑り込んできて、ロバートの蹴りを肩で受け止めた。ガッ、という聞くに堪えない鈍い音を立て、再びアレシアは地に伏した。

「やめてくださいっ!」

「へえ、身体も張っちゃうんだ」

 感心したような声を上げたかと思うと、ロバートは容赦なくアレシアの横っ腹を蹴りつけた。アレシアの肉体の知らない、強烈な衝撃が襲い掛かった。息を継ぐ暇も与えず、ロバートはアレシアの服の襟を掴んで目の前まで持ってきた。

「感動しちゃうな俺。何、そんなに大事なの?」

「……ニコルくんが」

「あぁ?」

「ニコルくんが帰ってくるときには、沢山の花を咲かせているんです。そして、雨の日に、お花たちが喜んでいる姿を見せてあげるんです」

「……」

 ロバートは詰まらなそうにアレシアを見た。もう興味のなくなったおもちゃを放り出す子供のような目。

 ――やばい。

 ニコルは身体中に電撃が走るような直感を覚えた。しかし、それでもなお身体はまだ動かない。

「ロバートさん、これを見てください」

 手下の一人が、アスファルトから何かを拾い上げてロバートに見せた。それは、アレシアが大切に持っていたはずの、『父親の形見』、そして『禁忌』だった。

「あらあらあら!!」

 それを手下から奪い取るように掴み取ると、日など出ていないのに、太陽の光にかざすように『禁忌』を掲げた。

「――拳銃じゃねえか」

 鋼の塊。何よりも殺傷力の高い銃器。スラムではその力から『禁忌』とされた、圧倒的な力の権化だった。

「か、返してください!」

「何? これも大事なの?」

「お父さんの形見なんです!」

 言わなければいいのに、わざわざロバートの享楽に面白さを与えるようなことを吐いた。

「使えばいいじゃねえの。俺を撃てば助かったかもしれないのに」

「に、ニコルくんと約束したんです。絶対に使わないって」

「へぇ……」

 ニコルはその言葉にまた胸を痛めた。どうでもいいような時に約束を破るくせに、肝心なときにだけ頑固で、ニコルは無性に腹立たしく、そして苦しくなるくらい嬉しかった。

「ついでに教えてやるよお嬢ちゃん。スラムではな、独裁的な統率者を出さないため、人殺しが最低限まで減るように拳銃は持ち込みが禁止されてるんだよ。だって、これを使ったら人がただの的になっちゃうだろ?」

 シングルアクションの大型リボルバーだった。ロバートは回転式弾装を回し、銃弾を確認した。

「しかも弾入り。良くないなぁ」

 再装填し、撃鉄を起こした。そして、アレシアの額にそれを突きつける。アレシアは流石に恐ろしくなったのか、強く目を瞑った。

「でもまあ、俺には関係の無い話なんだけどね」

「ろ、ロバートさん。流石にそれは……」

 ロバートは聞く耳を持たず、視線だけで手下を黙らした。

「なぁお嬢ちゃん。あんなヘタレニコルじゃなくて、俺の下で暮らさない? そうすれば助けてやってもいいんだぜ?」

 ロバートの言葉がニコルに突き刺さる。あまりに図星だった。ヘタレどころの騒ぎではない。想い人が拳銃を突きつけられているというのに、ニコルにはわずかな勇気すら湧いてこなかった。這いつくばってでも行こうとしても、理性か本能か、果たしてどちらなのか分からない自制がかかる。泥は粘り気が強く、ニコルをねちっこく捕らえていた。

「嫌です……」

 それでもアリシアは尚、ロバートに対して強気の態度を取っていた。半ば涙目になりながら、突きつけられた拳銃に震えながらも、言葉だけは必死にロバートを押していた。

「ずいぶんと強情だな。そんなにニコルが良いのか?」

「……ニコルくんは優しいんです。それを誰も知らないだけで、ニコルくん自身も知らないだけで、本当は盗みだってやりたくないはずなんです」

「それは違う。ここはスラムだ。盗みを働けない奴は生き残れない。人を襲う事に躊躇する奴はここでは生きていけない。ニコルを勝手に美化するんじゃない」

「ニコルくんは優しいんです!!」

 泣きながら、ニコル自身に訴えるようにアレシアは叫んだ。

「黙れクズが! 気持ちがわりぃんだよ、スラムに優しさを持った奴なんているわけがねえだろうが! スラムは略奪の地、お前みたいな柔い人間がいていいところじゃねえ! 死ね!」

 打たれた。撃たれたのではなく、打たれた。

 歯を食いしばり、アレシアの言葉を何度も頭の中で反芻した。痛いぐらいの信頼。余計とも思えるくらいの優しさ。押し寄せたニコルの感情の高波は、泥を軽々と掻っ攫っていった。

 ロバートが引き金を引こうとしたその直後、ニコルの身体は飛んでいた。ベルトからナイフを抜き、距離を一瞬にして詰めてロバートの腹部に潜り込み、ナイフを上方に薙いだ。銀色の一閃はロバートを捉えることなく、雨粒を切っただけとなった。

「ようやくおでましかっ」

 ロバートはその一瞬を見切り、ニコルの斬撃をかわしていた。大きく後方に飛ぶと、手放したアレシアの前に立って構えるニコルと対峙した。

「バレバレなんだよニコル。ずっと隠れていやがって」

 確実な不意打ちだったはずなのにロバートが攻撃をかわせたのはそういう理由からだった。

 ニコルはアレシアを抱き起こし、咳き込む彼女の背中をさすってやった。

「ごめん。すぐに来てやれなくて」

「大丈夫。大丈夫だよ。だから自分を嫌いにならないで」

 何もかも分かっているかのように言葉をかけるアレシアに、ニコルは目頭が熱くなった。衝動的にアレシアを抱きしめた。雨で凍えているはずの身体は、ニコルにとっては太陽のような暖かさを感じた。どこまでも、どこまでもニコルの手の届かない存在だった。なのに今は自分の腕の中にある。アレシアの存在を感じるたびに、ニコルは自分が酷く場違いな人間だと痛感する。だが、アレシアがニコルを抱きしめ返してくれたとき、ニコルの不安は全て吹き飛んだ。

 ニコルは立ち上がった。一つ呼吸をするたびに、ニコルは身体の中に熱を感じた。

「ロバート。お前の言うとおりだよ。スラムに優しさなんて持ってる奴がいるわけがねえ。それは俺も同じだ。俺は優しい奴なんかじゃない。自分が食いつなぐために人のものを奪っておいて、優しさなんて言葉をかけられるような資格もないしな」

「そうだろう? その子にも言ってやってくれよ。脳みそまでぽかぽかしちゃってるらしくてね、堪ったもんじゃない」

「そうだな。アレシアは何にも分かってない。俺のことなんかちょっとも理解してない。優しくなんかねえのに優しいって言うし、雨の日は嫌いだっていうのに好きになるって言うし、やべえよホント」

「何だ、物分りが良いじゃないかニコルは。だったら……」

「でもな」

 雨のカーテンの向こう側。愚かなロバートと愚かなニコルは鏡のように対峙している。ただ違っているのは、ニコルの後ろには不安そうな顔で彼らを見守っているアレシアがいることだった。

「それが嬉しくて堪らねえんだ。俺のことなんか何にも分かってないアレシアが、俺のために何かをしてくれることが、嬉しくて堪らねえんだよ。分かるかこの気持ちが? 俺みたいな雨を影にして生きているような奴が、雨で輝いているような奴に出会っちまった時の衝撃がお前には分かるかよ? アレシアのことを好きになっちまった俺の気持ちがお前に分かるかよ!!」

 雨の中でもそれははっきりと聞こえた言葉だった。ニコルは盛大に笑った。今まで生きてきた中で、一番大きく笑い声を上げた。後ろにいるアレシアはそれを聞いて真っ赤になった。そして、その中でただ一人、ロバートだけが詰まらなそうにニコルを見ていた。

「もういいさニコル。お前には絶望した。せっかくあの日生かしておいてやったってのに、お前はそんなぬるい奴に育っちまったのか。幻滅だ」

 ロバートは立ち尽くすニコルに銃口を向ける。もはやその目には躊躇いが感じられず、手下たちもその雰囲気に明らかな殺意を感じていた。もちろん、ニコル自身はそれを向けられているのだから、ロバートの殺気を痛いくらいに身に受けていた。

「五年前のあの日は、晴れだったな」

 ニコルは眼帯を手で覆った。『禁忌』、つまり拳銃によって撃たれ失明した目。その撃ち手は皮肉にもロバートだった。スラムに来たばかりの頃、その時から新人いじめに定評のあったロバートがニコルを襲った。ニコルは襲われた時拳銃を持っていた。スラムへと移住してくる際の最大の防衛武器として店で奪った拳銃だった。それを駆使してロバートを撃退しようとしたが、それを逆手に取られた。ロバートの巧みな体術によって翻弄された挙句、拳銃を奪われ、そして発砲されたのだ。

 直撃はしなかった。ただ、右目を大きく抉るように走った弾丸の軌道は、ニコルの右目を奪っていった。ニコルが禁忌を恐れるように、そしてロバートを恐れるようになったのはそれが原因だった。

 だが今は震えていない。いや震えるどころか、ニコルはロバートよりも上位にたったような気すらしていた。

「だからどうしたというんだ。雨ならば勝算があるとでも?」

「ある!」

 瞬間、ニコルはアスファルトを大きく蹴った。ロバートが銃口を向けて焦点を絞る。それを見て、ニコルは低姿勢で走りながら道に落ちていた小石を拾い上げて投げつけた。雨で視界がおぼつかないロバートはそれに反応が一瞬遅れ、空いた手で小石を薙ぎ払った。

「小癪なっ」

 ロバートが視点をニコルに戻したときには脈動するニコルの腕が眼前に迫っていた。しかし、それすらもロバートは恐ろしい反射神経によってしっかりとガードを取った。ニコルは止まらない。下半身を大きく振り上げ、逆袈裟蹴りを放つ。地面に手を置いて体勢を取り、もう一本の足で今度はアスファルト、いや水溜りを蹴り上げた。

 上手く顔面に直撃したのか、ロバートは大きく身を反らした。最大の好機。ニコルはナイフを振り上げ、ロバートの首筋に……。

「――やめてっ!」

 それを制する声。アレシアが悲痛の叫びを上げていた。ニコルは首筋あと数センチのところで腕を抑え、ロバートを殺し損ねた。

 次の瞬間、ロバートの裏拳がニコルの鳩尾に入る。

「かっ……はぁ!」

 よろめく身体にロバートが容赦なく蹴りの追撃を浴びせた。ニコルは大きく吹っ飛んで、雨水に巻かれるようにしてアスファルトを転がった。途中で口の中を切ったのか、舌の上に臭い鉄の味が広がった。休む間もなく、ニコルの脇の下に銃弾が突き刺さる。間一髪でニコルは生き残っていた。

 ニコルは仰向けに倒れながら、アレシアの声を聞いた。雨で掻き消されていたり、どこか悪いところ打ったのか猛烈な耳鳴りがしていてよく聞き取れなかった。だが、ニコルはそれを聞いて小さく微笑んでいた。

「分かったよ」

 ――お前の前くらいでは、お前の知っている俺でいてやるよ。

 アレシアは自分が食べてきたものが、どこから来ているのか知らない。ニコルが今までどんな人生を送ってきたのかも知らない。だが、アレシアの見ていたニコルだけは知っている。

 ニコルはナイフを放り投げた。殺さない相手に対して、凶器は必要なかった。のっそりと立ち上がると、ロバートは既に次の一撃のために拳銃の撃鉄を上げていた。ニコルは殺さないつもりでも、ロバートには容赦は無い。いや、そこで悪なのは紛れも無くニコルだった。スラムでは容赦する人間が損をする。そういう場所だという事は、ニコルがよく知っていることだった。

「ロバート……お前は本当に愚かだ」

「何だと?」

「なぁ、今の俺の気持ちがお前に分かるか? 分からないだろうな、理解したくもないだろうな。アレシアを蹴りつけたお前には、一生理解出来ないだろうな」

「馬鹿にしているのかお前っ……!」

「お前に俺は殺せねえよ、絶対な!」

 ニコルは跳ねて立ち上がり、ロバートに突撃した。何の工夫も無い直進。死ぬ確率はニコルにも分からない。ただ、百パーセントじゃない。ニコルは雨が降れば霞んで消えてしまいそうな確率に賭けた。

 五年前、ロバートはニコルを殺さなかったわけではなかった。『殺しきれなかった』。ロバートが撃った必殺の銃弾はニコルの眉間を大きく外れて頬を掠める程度の位置に飛んだ。結果的にそれは右目を奪ったが、先ほどの脇下の銃弾でニコルは確信していた。いや、最初から分かっていたことだったはずなのに、今まで考えてもみなかった。

 スラムの人間が、拳銃の扱いに慣れているわけがない。

 加えて、今は雨。

「死ね、ニコル!」

 引き金が引かれた。死ぬか、生きるか。

 ニコルは瞬きすらしない。

 そして。

 ――ガンッ。

 銃声。続いて、鉄の弾ける音がした。銃弾はニコルの眼帯を掠めた。鉄製で出来た眼帯はぐにゃりと形を変え、後頭部で繋いでいた紐がちぎれ、眼帯がニコルの代わりに宙を舞った。しかしニコルに与えられた衝撃も激しく、前進していた身体は大きく横にずれた。

「……っ! ロバートォォォォ!!」

 最後の気力で踏ん張り、体勢を立て直したニコルは銃撃の反動でひるんでいるロバートに直進した。徒手空拳で戦えば、ニコルに勝ち目は無かった。だが、拳銃で殺そうとしているロバートは隙だらけだった。

 ニコルはありったけの力を拳に込め、抉るようなアッパーカットを全力でぶち込み、ロバートの顎に見舞った。

「ぐふぅっ……!」

 完璧に入った。確かな一撃の感触を確かめながら、ニコルは思いっきり拳を振りぬいた。ロバートは意地の気合か、意識がぶれながらも体勢を立て直そうとしたが、脳に与えられたダメージは激しく、ゆっくりと身体を雨の中に横たえた。

「ニコルっ……ニコルぅ……」

 呪詛のように呟かれた名前も、ニコルの耳には届かない。がくがくと肉体を震わすロバートはそれでも立とうとしていたが、そのうち壊れたガラクタ人形のように動かなくなった。

「おい」

 呆気に取られて黙っていたロバートの手下に声をかけた。二人は怯えた様子でニコルを見た。

「スラムの連中に伝えろ。ロバートは『禁忌』を犯した。もうこいつはスラムの人間じゃない。ただのクズだ」

「い、いやしかし……」

「分かったか!!」

「は、はいっ」

 十四の子供出せるような威圧感ではない、とてつもない気迫に手下たちは気圧された。気絶したロバートを肩に担いで、逃げるようにスラムの奥へと帰っていった。

 止まない雨に打たれる。ニコルはロバートの姿が見えなくなると、雨の中地べたに座って待っていたアレシアの元へと歩み寄った。アレシアがニコルを見上げると、またニコルは胸の奥に痛みを覚えた。ただ、正体の分かったその痛みは、嫌なものではなかった。

「謝らなきゃいけないことがある」

 視線は逸らさなかった。アレシアもまた、ニコルのそれを受け止めた。

「なに?」

「花壇、壊れてたろ。あれ、俺がやったんだ。ごめん。本当に悪かったと思ってる」

 アレシアは表情を変えず、ただ小さくうなずいた。

「うん。知ってた」

「知ってた? どうして?」

「だって、花壇が壊れた次の日から、ニコルくん来なくなっちゃったんですから。だから、ニコルくんじゃないのかなって思いました」

「怒らないのか?」

「怒らないよ。ううん、怒ったかもしれない。でもそれはニコルくんにじゃない。お花を育てようって無理矢理誘って、ニコルくんの負担になってた自分に怒ってたんだと思う」

「いやそんなことは……」

「あるよ。あったんだよ。でもね、私は諦められなかった。お花が咲けば、雨のこととか、自分のこととか、もっと分かってくれるって思ってた。だから、ロバートさんが花壇を壊すって言ったとき、私、必死になった」

 泥だらけの身体。傷だらけの頬。その全てがアレシアの必死さを物語っていた。

「ごめんねニコルくん。私があの時、ロバートさんの言うとおり花壇を壊していれば、こんなことにはならなかったかもしれない」

「謝るなよ……お前が謝るなよアレシア」

 ニコルは膝を付き、アレシアの正面に近づいた。

「俺が悪いんだ。お前の傍にずっとついてやればよかったんだ。出かけるときも花を育ててる時も、雨の日も晴れの日も。お前は毎日花を育てながらにこにこしていればよかったんだ。スラムでしなきゃならないことは全部俺が背負って、お前はただ待ってくれているだけでよかったんだよ。俺はそれだけで満たされていたはずだったんだ」

 ニコルはアレシアの肩を掴み、癒着しそうなくらい強く見つめた。

「だから、これからは俺が守ってやる」

「え、えっ?」

「お前が許してくれるなら、俺が命をかけてもお前を守ってやる。毎日飯は持ってくるし、出かけるときは一緒に行く。どうだ、安心だろ」

 そのプロポーズ染みた言葉に、アレシアは色づく果実のように顔を赤くした。ニコルの視線に耐えられなくなり、アレシアは恥ずかしそうにそっぽを向いた。

「そ、そうだ花壇。花壇です」

 わざと話題を逸らすように、アレシアはニコルの手を振りほどいて花壇へと駆け寄った。ニコルにも逃げられたことは分かったのか、かなり傷ついた表情を必死に隠そうとして失敗していた。

「ほら、ニコルくん」

 アレシアが手招きをする。ニコルはとぼとぼとそちらに向かうと、アレシアによって復活し、守られた綺麗な花壇があった。そして、そこにはニコルの見覚えの無いものがちょこんと首を上げていた。

「昨日、芽が出たんですよ」

 それは、花の種からようやく顔を出した新芽だった。美しい黄緑色がニコルの視線を釘付けにした。スラムには無かった、とても鮮やかな色だった。

「まだ花は咲いていないのか」

「そりゃそうです。まだ結構かかりますし、誰かさんが花壇を荒らしてしまったので」

「……悪い」

「ふふっ、良いんです。これから手伝っていただければそれで」

 ニコルは驚いたようにアレシアに振り向いた。アレシアは自分の言ったことに気がついていないようで、ニコニコしながら新緑を可愛がるように見ていた。

「ねぇニコルくん」

「な、何だよ」

 雨は止まない。傘も差さない二人はずぶ濡れで、さらには泥だらけだった。なのにアレシアはやけに綺麗な笑顔を浮かべ、その小さな手を差し出してニコルにこう言うのだった。

「もしよければ、一緒に花を育てませんか?」

 ニコルはやられていた。ざあざあ降りの雨。視界は曇るし雨音は五月蝿い。なのに、アレシアがいるその空間だけ、まるで太陽が当たっているかのように輝いて見えた。本当にこんなものに触れていいのかと、共にいていいのかと不安になった。

 ニコルは雨を影にして生きてきた。いつだって雨は略奪の道具だった。それ以外に雨の価値は無く、またそれ以外の雨を知らなかった。だがあの日、アレシアと初めてあった日にニコルは雨によって輝くものを見つけた。それは雨の中、綺麗な金髪を泥水につけながら花の種を植える女の子だった。

 ニコルは気恥ずかしさから顔を赤くして、そっぽを向いた。申し訳なさそうな仕草でそっとアレシアの手を握った。

「仕方ねえな。付き合ってやるよ」

「はいっ、ありがとうございます」

 スラムは今日も雨だった。

 ただし、ニコルにとってその日は、いつもと違う雨の日だった。

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