『この世界に僕が生きた理由』 前編
波の音が、夜の空気を淡く揺らしていた。
家にも、学校にも、自分の居場所はない。だから俺は、こうして海沿いのベンチに座って時間をやり過ごす。月明かりに照らされた水面は、やけに綺麗で、やけに遠い。手を伸ばしても届かない、そんな感じだ。
気配に気づいて、横を見る。
いつの間にか、隣に一人の女が座っていた。大学生くらいだろうか。
茶色がかった長い髪が潮風に揺れ、薄手のカーディガン越しに肩の線がかすかに見える。香水じゃない、柔らかな石鹸の匂いが鼻をくすぐった。
「寒くない?」
「……別に」
短く答えると、彼女はふっと笑った。笑い声は波に溶けて、すぐに消える。
少しの沈黙のあと、彼女は唐突に言った。
「ねぇ、あんたのこと、買わせてくれない?」
冗談だと思った。けれど、彼女の瞳は真剣で、茶色の奥に夜の灯りが映っている。
「買うって……何を?」
「全部。あんたの時間も、あんたの居場所も。私のものにしてほしい」
あまりにもおかしな申し出だったのに、不思議と拒否する気にはならなかった。むしろ、初めて「行く場所」を差し出されたような気がした。
俺は頷いた。何の迷いもなく。
──そうして、俺は千咲 結のものになった。
結の部屋は、街の外れにある古びたマンションの二階だった。六畳とキッチンだけの狭い空間に、観葉植物と読みかけの本が散らばっている。
「今日から、好きにしていいよ。学校とか、そういうのは聞かないから」
そう言って彼女は、冷蔵庫からペットボトルのお茶を差し出した。俺は一口飲み、喉を潤す。塩っぽい海風のあとだから、やけに甘く感じた。
奇妙で、静かで、少しだけ温かい日々が始まった。
このときの俺は、まだ知らなかった。
この生活が、俺に「この世界に生きた理由」を与えることになるなんて。