これは怖い話ではありません。不思議な話です。「消えない染み」
これは「創作」じゃない。
私、ナツロウが体験したどうしようもないくらい──間違いなく実話だ。
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夜、部屋の空気がしんと冷える。誰もいないはずなのに、枕元に湿った重みが沈む。布団の端を握る指先まで、ひんやりとした何かが染み込んでくる。目を閉じた瞬間、もう逃げ道はない。
息を呑んだ瞬間に、それはやって来る。
あの灰色の怪物。人型の爬虫類、いや両生類のようなどこかバランスの悪いフォルム。ところどころ腫瘍のように泡立った、ゴムのような肌。大きく裂けた口。現実よりも現実味のある「何か」。
匂いはなく、音もない。執拗に私を追い続け、ただ無遠慮に、私の骨も心も、丸ごと咀嚼してゆく。
喉の奥が詰まる。夢だと分かっている。なのに、喰われる感覚だけが現実を上書きしていく。
朝になる。爪の間に、シーツの繊維が残っている。
誰にも話せない。悔しい。ただそれだけだ。何度も、何度も、あんな得体の知れない怪物に、自分を明け渡してしまうことが。
季節が移り、私の中で「逃げる」は「悔しさ」に、「悔しさ」は「怒り」に変わった。
鬱屈と気だるさをまといながら、私は総合格闘技を始めた。
血と汗の臭い。サンドバッグの重さ。顔には消えない傷痕が刻まれ、青あざが皮膚の下でじんじん痛む。
夢の中の私は少しずつ動けるようになった。
最初は無力だった。
でも、殴られ、蹴られ、肉を削がれ、脚を千切られても、「前より長く持ちこたえている」「今日は一発だけ当てられた」と、小さな戦果を拾っていった。
痛みに慣れたのか、恐怖が薄れていったのか、分からない。ただ、夜ごと夢のなかで私は、じりじりと怪物に抗い続けた。
そして、二十歳を過ぎたある夜。
私はついに、その怪物を追い詰めた。
恐怖も、痛みも、もうほとんど感じない。
夢のなかで、私はにやりと笑った。
ただ淡々と、灰色の体躯を、骨を、徹底的に壊した。
心は空っぽになり、体は勝手に何度も何度も、拳を振るった。
気づくと、怪物はいなくなっていた。
朝、目覚める。あれほど鮮明だった喰われる感触も、今では夢の名残すら曖昧だ。
朝、目覚めても、時々ふと脚の奥に疼く痛みが残る。鏡に映る顎の傷痕をなぞりながら、私は思う。
──あれは本当に夢だったのだろうか。今度は怪物が、私を再び喰う為に力を蓄えているのではないか。
それでも、私は怪物のいない世界を歩いている。今はまだ。
ただ、夜になると、まだ部屋の空気が冷たく沈みこむ。枕元に湿った重みが落ちるたび、あの夢の底へ引き戻されそうになる。
グローブに残る血の染みは、洗っても消えない。