20・始まりの話
しん、と静まり返るってのが相応しい瞬間。月夜の帷亭が開く時が正にそうだ。
俺とマルジ、そしてその反対側にセヘロと小間使い達が並んで立つと、薄暗い店内はしんと静まり音が消えて無くなる。
「……それでは開店します、皆さん今日も宜しくお願いします」
マルジの低い声と共に新しく入った小間使いのピオーネが元気よく頷き、ぐいっと扉に掛けた手を引くと大きく分厚い板が音も無く開く。勿論、向こう側から客が雪崩込んで来る訳じゃないが、いつも何となく緊張する。そして、入り口から外に出たピオーネがロウソクで吊るされた灯籠に火を灯して戻ると、静まり返った店内に通りの喧騒がうっすらと流れ込んでくる。
「……ふああぁ、若旦那も毎回毎回真面目に良くやるなぁ……どーせ口開けの客なんて暗くならないと来ないぞ?」
「確かにそうだけど、キチンとしないと決まらん気がするのさ」
いつもの儀式が終わるとセヘロに欠伸混じりでそう言われるけど、俺は決まってそうしてる。形の有る物を売る商いと違って、娼館ってのは目に見えない格式やら雰囲気ってのを売り物にしてる。砕けた気風や緩んだ調子ってのも必要だけど、そういうのは花売り自身がたまーに見せればいい。俺やマルジはくそ真面目位で丁度いいんじゃないか?
「ところで旦那様! セヘロ姉さんとは上手くいってますぅ?」
「ぶっ!?」
「……さぁ、何のことか判らんなぁ」
何処で誰から聞いたのか、戻ってきたピオーネが期待に満ちた顔でそう訊いてくる。セヘロの慌てっぷりにそうだそうだといわんばかりに周りの小間使いも集まってきて、
「えーっ? だってさー、最近のセヘロ姉さんすっごく女らしいでしょー!」
「そうそう! この前もホールの姿見の前でこーやってさー!」
「うんうん、あれは正に恋する乙女って感じだったよね〜!」
きゃいきゃい言いながらポピーが半身になってポーズを決めると、階上から眺めていたエリンも騒ぎに乗じて囃し立てるもんだから、
「調子にのりやがってぇ……こんのぉクソガキ共がぁああぁーーっ!!」
怒ったセヘロがムキになって追いかけ回した末にポピーを捕まえると、
「……お姉さまぁ、お願いですからそんなにランボーにしないでください……」
ポピーはわざとそう言いながら半笑いで、全く怖がる気配もない。やれやれ……。
「……セヘロ、娼館で働いてりゃ他人の恋路なんて娯楽の一つだよ。そう怒るなって」
「……へいへい、判ったよ……」
そう言ってセヘロがポピーを離すと、少しぐったりしながら床の上に寝そべってしまう。あ、そう言えばポピーも男だ、彼女に生命力を吸われちまうって忘れてた。
「ポピー、大丈夫か?」
俺が抱えて起こしてやると、ポピーは目をゆっくり開けながら耳元に口を寄せてきて、
「……旦那様、セヘロ姉さんのおっぱい……前より……大きくなってました……!!」
そう報告してから、満足そうに目を閉じた。お前なぁ……心配して損したぞ。
昨日と同じような今日が過ぎ、当たり前のように時間は経っていく。そうして背の低かった小間使い達も少しづつ成長し、一人また一人と正式な花売りになり店の売り物が増えていく。
「……ジム、貴方もちょっとだけ貫禄がついたかしら」
いつもの上客、無名の御婦人がエリンに手を引かれつつ、口元を扇子で覆いながらそう告げて二階に上がっていく。貫禄、かぁ……最近身体動かしてないから、少し肥えたか?
「……旦那様、それは言葉通りに受け取って宜しいと思います」
世間話のついででマルジに聞いてみると、彼は心配は要りませんよと嬉しい事を言ってくれる。
「ですが、率直な意見を述べさせて頂きますと未だ、半人前かと思います」
……でも、にやりとしながら直ぐそう付け加えるのが憎たらしい。
「しかし、半人前というのは逆に良い事で御座います。まだ伸び代が残されているのですから」
褒めて落とすなのか、貶してから褒めるなのか。マルジはそう言ってカップを傾けて一口飲み、私もご多分に漏れませんよと言うもんだから相変わらずで憎めない。
親父から相続した娼館は、一見すると女にしか見えない【 男の娘 】専属の店。そりゃ最初は落胆もしたが、花売りも楼主も皆んな名店に恥じない働きぶりに気を入れ直したもんだ。
「よっしゃ! 行くぞ若旦那!!」
「……セヘロ、若旦那は止めてくれよ……」
言い易いからか、相変わらず彼女は俺の事を店ではそう呼ぶ。ジムって呼ぶのは二人きりの時だけで、久方振りに娼館組合の寄り合いで出掛ける今もそうだけど、手を繋ごうと絡めてくるのは……外に出てからにして欲しいぞ。
「じゃ、行ってくる」
「居留守頼むぜ、コンラッド!!」
いつもは裏で見張り番をしてるコンラッドが、今日は表に回ってセヘロの代わりを務める。呪われている彼の事は結構知られているらしく、彼の顔を見ただけで荒事絡みの連中は居なくなる。ま、今日はそんな事も無いだろうけど。
「……いてこい、セヘロ。若旦那、きをつけて」
相変わらずの口数だけど、俺が手を振ると代わり映えしない表情が僅かに緩んだ気がする。彼の呪いがもう少し軽くなれば、そう思うが今は何もしてやれない。
店の面々に見送られて外に出ると、セヘロが周りの視線を気にしながら手に指先を絡めてくる。
「……じゃ、行こうか」
「お、おう!」
そのくせ、言葉遣いは用心棒のまま。そんな彼女の不器用な愛情表情に苦笑いしながら、手をしっかりと握り締めてやった。