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神絵師

作者: 革酎

 暗い室内で、作業用デスクのその一カ所だけが煌々とした光を放っていた。

 それ以外は濃い闇色に包まれている為、その明るさは尚一層に際立っている。

 光の正体はノートパソコンにHDMI接続したディスプレイのバックライトだった。

 今、イラストレーター秋原光星の仕事用ノートパソコンから画面分割で表示されているディスプレイ上に、美麗なイラストが二枚、並んでいる。

 この二枚は遠目に見れば非常によく似ており、同一人物が同じ構図、同じモチーフで描いたのかとも思える程だ。

 それらの内容はいずれも、ひとりの女性が町中で携帯端末を操作している、というもの。

 一方は光星の同業、即ちイラストレーターの阿山悠里が作成した。

 そしてもう一方はFJKY1996という人物が作成した、とされている。

 この二枚を見比べながら、光星は腕を組んだまま静かに唸った。


(見れば見る程、ほとんどトレパクだな……)


 阿山悠里作のイラストとFJKY1996作のそれは、極めてよく似ていた。

 細かな部分では幾つもの差異が見受けられるが、基本となる構図や絵柄、更には輪郭線やキャラクターのポーズに至るまでが、ほとんど一致している。

 阿山悠里作のイラストでは、絵の中の女性は手にしたスマートフォンを胸元に掲げ、その画面をもう片方の手の人差し指でタップ操作している。

 一方FJKY1996作の方では同じ顔を持つ女性が、これまたほぼ同じ姿勢で携帯電話を握り、アンテナを伸ばしている。

 いずれの女性も髪型が酷似しており、衣装についてもデザインや色合いの面で多少の差がある程度だ。背景の建物や構造物に至っては、お互いに模写したのではと思える程に違いが見られない。

 これらの結果から、光星が所謂トレパクを連想したのも無理は無かった。それ程に、この二枚のイラストはよく似ていた。

 一般にトレパクとはトレースとパクりを組み合わせて略した造語で、他者の著作物を無断でトレース(なぞり描き)し、それをパクる(盗作する)行為を意味するのだが、これはクリエイターとしては最もやってはならない卑劣な行いとして非難される。

 トレパクした作品をネット上に流す様な行為はもってのほかであり、クリエイターの矜持があれば、誰もやろうとはしない筈――少なくとも光星はその様に考え、これまでも決して関わらない様に努めていた。

 ところが今、光星は成り行きとはいえ、このトレパク問題に首を突っ込んでしまっている。何とも皮肉な話だった。


(一体誰が、どうやって、阿山さんのイラストを……?)


 光星は暗い室内で、何度も首を傾げた。

 阿山悠里作のこのイラストは、実はまだ世には出回っていない。というのも、彼女の作品は現在進行中のゲームソフト企画で使用される予定であり、まだ社内でも承認前の段階に留まっていたからだ。

 にも関わらず、彼女が描いたものと瓜ふたつのイラストが、謎の人物FJKY1996によってネット上に流された。

 これは一体、どういうことなのか。

 何者かが阿山悠里のイラストデータを外部に流出させたとしか思えないのだが、光星が伝え聞く限り、その様な形跡は無いとの由。


(どっちにしても、まずはヤマコさんに僕の見解を伝えるのが先かな)


 しかし、光星の手は同じくイラストレーターであるヤマコハルナとのオンライン通話ボタンを押下しようとするところで、止まってしまった。躊躇する気持ちが、どうにも拭えない。

 まだ現時点ではトレパクといい切れるだけの判断材料が揃っていなかったからだ。

 この時、光星の脳裏に阿山悠里の物憂げな表情が蘇った。

 過日、とある出来事があって以来、光星は阿山悠里に嫌われてしまった。少なくとも光星自身は、その様に考えていた。だからここで阿山悠里を貶める様な報告を届けるのは、光星の感情的なしこりが裏に潜んでいるのではないかと疑われる可能性があった。


(まだ報告は早いかな……これなら間違い無い、っていうぐらいの確証を得てからの方が良いかもな)


 ヤマコハルナは光星の仕事仲間であり、自身の先輩にも当たる。

 そして今回のトレパク問題――FJKY1996なる人物が作成したとされるイラストについて比較検証を依頼してきたのが、そのヤマコハルナだった。

 彼女にとって、阿山悠里は大事な弟子に当たる。今でこそ神絵師と称され、多くのファンを抱える様になった阿山悠里だが、ヤマコハルナにとっては今でも可愛い妹分なのだそうだ。

 そのヤマコハルナが昨日、この二枚のイラストについて光星に比較検証を依頼してきた。

 ヤマコハルナは、光星がかつて携帯電話メーカーのソフトウェア部門でシステムエンジニアとして働いていた過去を知っている。

 イラストレーターに転業する前は、光星はユーザーインタフェース、即ち操作画面仕様を長年担当していたのだが、取り分けデザイン仕様と実際の画像データをドット単位で比較検証する技術に長けていた。

 画像データ内の細かなミスや改善点を見抜く技術は今でも健在であり、イラスト制作の際に於いても、制作依頼内容との比較や仕上がったイラスト内に潜む違和感の払拭等で大いに役立っている。

 その光星の技術を買っての、ヤマコハルナからの依頼だった。

 そして現在、この二枚のイラストの比較検証を進めてきた光星だが、やっぱりやめときゃ良かったかな、などと後悔し始めている。

 ヤマコハルナからのたっての頼みだというからつい引き受けてしまったが、その対象がよりにもよって、光星を嫌っている阿山悠里の作品だったのは正直、辛い。

 しかし、今更後悔してみたところで、もう後の祭りだった。

 どういう経緯であれ、FJKY1996作のイラストを見てしまった以上は、光星は既に関係者だ。何らかの形で決着をつけない限り、後々面倒な事態に発展する可能性もあるだろう。

 余計なことに関わってしまったな――光星はこの日、何度目かの深い深い溜息を漏らした。


◆ ◇ ◆


 遡ること、三カ月前。

 ひと仕事終えた光星のノートパソコン上で、リモート通話ソフトの着信サインが明滅した。

 何事かと応答してみると、画面内のカメラ映像エリアに現れたのは、ほぼすっぴんに近しいヤマコハルナの面長な顔立ちだった。


「星君、聞いた? 今度の企画の話」

「いえ……何かあるんですか?」


 光星が眉間に皺を寄せると、ヤマコハルナは何故かドヤ顔で見下ろす様な仕草を見せた。

 尚、星というのは光星のイラストレーターとしてのハンドルネームで、正確には星アキラという。

 当然ながらヤマコハルナもハンドルネームだが、光星は彼女の本名は知らないし、知る必要も無かった。お互いに相手を認知出来る名前が分かっていれば、それで良いのである。

 ともあれ、光星は次の言葉を待った。


「じゃあ教えてあげる。来月ね、マツカネさんから新しいゲーム企画の話が出てくるんだけど、そのメインイラストレーターに、星君が選ばれたみたいなの」

「え、それ、マジですか?」


 一瞬、小躍りしたい気分に駆られた光星だが、過去に何度か同じ様な話でぬか喜びをした経験がある為、素直には笑えない。ここはひと呼吸入れて、じっくり相手の話を聞くのが吉だろう。


「んで、どんな内容なんです?」

「育成系のシミュレーションゲームみたいよ。まぁそれ自体は別に大した話じゃないんだけど、問題はサブイラストレーター。実はね、私と悠里ちゃんが務めることになるみたいなの」


 今度こそ光星は本気で小躍りしかかった。

 仕事仲間としての付き合いが長いヤマコハルナと、同じゲームソフトで仕事が出来るのは勿論嬉しい。だがそれ以上に光星を高ぶらせたのは、阿山悠里の名がここで飛び出してきたからだ。

 阿山悠里は神絵師と称され、全国に多くのファンが居る凄腕のイラストレーターだ。

 業界雑誌に写真付きのインタビューが掲載される程の人気ぶりで、実際彼女はルックスも良く、芸能プロダクションにスカウトされるレベルの整った顔立ちの女性だ。

 光星も阿山悠里に対して性的な魅力を感じるひとりではあるが、しかしそれ以上にイラストレーターとしての技術と作風が、光星の心を掴んで離さない。

 彼女の様な絵は、どうすれば描けるのか――光星得意の比較検証テクを駆使しても、あの技術は到底盗める様な代物ではなかった。

 その阿山悠里をサブに迎えるというのだから、光星にとっては奇跡の様な話だろう。


「いやぁ、マジですか、阿山さんがサブに……」

「あ、でも星君。悠里ちゃん彼氏居るんだから、変な気起こしちゃ駄目よ」


 これには流石に、光星も苦笑を浮かべるしか無かった。

 確かに阿山悠里の様な美貌の才女を彼女にすることが出来れば、そりゃあもう最高だろう。しかし自分には到底釣り合う相手ではない。

 生まれてからこの方、一度たりとも異性と付き合ったことの無い光星から見れば、阿山悠里などは完全に別次元の存在だ。付き合う付き合わない以前の話だ。


「大丈夫ですよ。阿山さんはそりゃあ確かに憧れの存在だし、目標でもありますけど、付き合うとかってそんな……僕はせいぜい、デートの代わりに筋トレばっかりやってるのが関の山です」


 我ながら情けない程に乾いた笑いを漏らしながら、自慢の上腕二頭筋を軽く叩いた。

 女っ気がまるで感じられない寂れたプライベートだから、仕事と絵の練習以外では、筋トレぐらいしかやることが無い。その成果もあって今では近所のジムでマッスル絵師さんなどと呼ばれている。

 イラストレーターなのに無駄に腕力ばかりが強いなどと、自虐ネタにも事欠かなかった。


「星君、何でそんなにモテないんだろうねぇ……確かにイケメンって程じゃないけど、別に不細工な訳でもないじゃん。それに、イラストレーターとしても十分家庭を養えるだけの収入があるだろうにねぇ。婚活サイトとか使ってみたら?」

「いえ、結構です」


 などと下らない馬鹿話で、その日の通話を締めくくった。


◆ ◇ ◆


 それから更に、一カ月が過ぎた頃。

 光星は、自身が契約を交わしているゲームソフト制作会社マツカネトータルクリエイティブス(MTC)とのオンライン会議に参加した。

 主な議題は、新たに企画がスタートした育成系シミュレーションゲームの概要説明と、本作に参加するイラストレーター三名の顔合わせであった。

 ヤマコハルナが光星に伝えた話は、嘘ではなかったのだ。


「……とまぁ、こういう内容な訳でして、メインのイラストレーターさんには星アキラさんにお願いしたいと思っています。改めまして皆さん、どうぞ宜しくお願いします。」


 MTCのイラスト発注、及び検収担当の尾崎健三郎がそう締めくくったところで、ソフトの概要説明は終了した。


「こ、こちらこそ、宜しくお願いします!」


 今回初めてメインイラストレーターとしての座を得られたということもあり、光星は少しばかりテンションが上がっていた。

 オンライン会議用のリモート通話ソフト上には光星のやたら張り切った表情の他に、尾崎のややのっぺりした馬面が大映しとなっているが、その脇には更に、ふたりの女性の整った顔立ちが映し出されている。

 ひとりは、ヤマコハルナだ。光星とリモート通話を繋ぐ際は余り化粧をしない彼女だが、今日は契約先が通話相手ということもあり、しっかり顔を造っている。

 そしてもうひとりが、阿山悠里だった。

 光星よりは幾つか年少だが、その雰囲気は同年代か、或いはそれ以上かと思える程に大人の色気が漂う女性だった。実際にカメラ映像越しに見ると、こんなに綺麗なひとだったのかと、光星は内心で息を呑んだ。


(そりゃあ、こんなに美人で神絵師ってなりゃあ、彼氏のひとりやふたりは居るだろうな)


 ヤマコハルナに釘を刺されずとも、最初から期待薄だ。

 光星からすれば、阿山悠里は完全に高嶺の花だった。


(でもこれでまだ職歴三年とかなんだもなぁ。僕の半分もいってないじゃないか)


 しかし阿山悠里の作成するイラストには光星では到底描けない華やかな色使いがあり、また繊細で儚げな表情が多くのファンを魅了している。そしてその一方で、女性だからこそ知る女体の妙味というものが同時に具わっており、とてもではないが光星の太刀打ち出来る相手ではない。

 デビューして僅か三年で、神絵師と呼ばれるトップクラスの座を勝ち得た阿山悠里。

 その驚くべき飛躍ぶりは同じ世界の住人とは、とても思えなかった。

 そして、それ程の人物を今回のソフトではサブのイラストレーターとして迎えるのだという。


(いやでも、本当に良いのか? あの阿山さんだぞ? 僕なんかのサブで大丈夫か? 後で何かいわれたりしないか?)


 そんな光星の胸中などまるで知ってか知らずか、尾崎は進行役として淡々と喋り続けている。

 だがそれが、逆に良かった。

 尾崎が喋っている時間が長いお陰で、辛うじて平静を保つことが出来ていたのである。挨拶の段になったら、阿山悠里に対してどの様な言葉を投げかけるのかを考える余裕も得られた。


(あー、でも、ちょっとやばいな……ちゃんと喋れるかな)


 何食わぬ顔で尾崎の説明を聞くふりをしながら、光星は内心で少し焦っていた。

 阿山悠里の想像以上に綺麗な顔立ちがリモート通話ソフト上に現れた瞬間から、光星の喉はもうからからに渇き切っていたのである。

 そして会議の場はイラスト制作のスケジュールや諸々の手続きの説明へ入ろうという段になったのだが、進行役の尾崎が所用の為、少しばかり席を外す時間帯が生じた。


「すみません、ちょっと時間がかかりそうなので、その間、適当に雑談でもしておいて下さい」


 それだけいい残して、尾崎はカメラのスイッチを切ってしまった。

 残ったのは光星、ヤマコハルナ、そして阿山悠里の三人である。

 光星は、焦った。

 メインのイラストレーターとしてふたりをリードしていかなければならないという、妙な義務感が急に湧き起こってきたのであるが、一体何を話せば良いのだろう。


「星君、メインは今回が初めて?」


 画面越しに、ヤマコハルナが穏やかに微笑みかけてきた。勿論一緒に仕事をしてきた間柄である以上、メインを張るのが今回が初めてだということは、彼女も知っている筈だ。それでも話の切っ掛けとして最初に声を出してくれたのは非常に大きく、光星はほっと胸を撫で下ろした。


「えぇ、そうなんですよ。分からないことだらけですので、おふたりには色々ご迷惑をおかけすることになるかも知れませんが、どうぞ宜しくお願いします」


 そう返す間も、光星の目線は阿山悠里の微妙にアンニュイな表情をちらちらと捉えていた。何とも落ち着かないと自分でも分かってはいるものの、憧れの存在とこうして直接会話出来る機会が得られたというのは、身に余る光栄だ。

 その阿山悠里に対して、どうやって声をかけたものかと瞬間的に思案した光星だったが、ここでもヤマコハルナが切っ掛け作りの為にと思ったのだろうか、自ら阿山悠里に話題を振った。絶妙なフォローだ。


「そういえば悠里ちゃん、こないだどこかの電子書籍でインタビュー受けてなかった?」

「あ、はい。何か、変な感じでした。あたし、まだそこまで実績あるって訳でもないのに……」


 ここで初めて、表情らしい表情を浮かべた阿山悠里。彼女は苦笑を浮かべながら、人差し指で細い顎先をそっと撫でた。このちょっとした仕草だけでも、光星は思わず息を呑んでしまった。

 しかし、ここで何か言葉を繋がなければならない様な気がした。折角ヤマコハルナが上手い具合に話を振ってくれたのだ。しっかり乗っておかなければ、後で印象の薄いひとだったと思われてしまうだろう。


「僕もあのインタビュー記事は読ませて頂きました。何ていうか、僕も頑張ろうって思ったりしちゃったりして……」

「あ、はぁ、どうも……」


 阿山悠里は目に見えて困惑の色を見せた。


(やべっ……ちょっと前のめり過ぎたかな)


 それとも、いきなり喰いついたのが拙かったか。

 どことなく、阿山悠里の態度が引き気味に思えたのは気のせいだろうか。いや、気のせいだと思いたい。

 尚、ヤマコハルナが挙げた阿山悠里のインタビュー記事では、彼女の生い立ちやイラストレーターになるまでの経緯などについてが、割りと突っ込んだところまで触れられていた。

 特に光星の気を引いたのが、師匠であるヤマコハルナとの出会いと、その後の研鑽と努力についてだった。

 記事の中で彼女は、尊敬出来るひとがいつも傍に居てくれて、そのひとから多くを学んでいることを強調しており、常に向上心を持って修練に励んでいることを熱く語っていた。

 イラストへの情熱や日々の修練にかける時間は自分以上だと、光星は次元の違いを感じた。

 そしてそれ以外の部分では、自閉症で苦しむ双子の姉が居ることや、その姉とは幼い頃から趣味が同じで姉妹仲も良く、今でも一緒に住んでいることが記されており、姉思いの優しい女性だという印象が、光星の心の中に強く焼き付いた。

 実際、光星はこのインタビュー記事を何度も何度も読み返し、半ば諳んじることが出来る程にその内容を徹底的に読み込んでいた。


「僕ももっと、見習わないといけないなって思いました。僕はもともと携帯電話メーカーのシステムエンジニアだったんですけど、やっぱり自分のやりたいことで生きていきたいって思って、一念発起してイラストレーターになりました。センスの有無だけはどうしようもないけど、技術は修練さえ積めば何とかなる。そう思って今まで頑張ってきたんですが、でもまだまだ、僕のレベルじゃ何もかもが足りないなぁって」


 システムエンジニア時代に培った比較検証技術で、イラストレーターとしての今の技量を得たといっても過言では無い光星。

 その甲斐あって、多くの同業者の技術を参考にさせて貰っている。自身が今のイラスト技術を身に着けられたのも、己の作品と他者の作品を徹底的に比較し、優れている部分と劣っている部分を納得いくまで洗い出すことが出来たからだと胸を張った。


「へぇ……そうなんですね」


 ところが阿山悠里はそっぽを向く、とまではいかないものの、何となく光星とは目線を合わせない様にしている風に思えた。

 幾ら尊敬しているからといって、少しはしゃぎ過ぎたか――光星は、次にどう言葉を繋げたものかと頭を悩ませてしまったが、兎に角何でも良いから話を続けようとだけ考えた。


「まぁでも、今回は僕がメインになっちゃったんで、何か申し訳無いですね。本来なら僕なんてまだまだ全然ですし、こうやって世の中に絵を出すなんてことも憚られるんじゃないかってレベルですし……」

「何いってんの星君。そんな卑下しなくったって……」


 流石に見かねたのか、ヤマコハルナがカメラの向こうで小さく苦笑を浮かべた。

 ちょっと自分でも謙遜し過ぎたかなと、光星は乾いた笑いを漏らして頭を掻いた。

 ところが、ここで思わぬ事態が生じた。

 阿山悠里が突然、不機嫌な声を搾り出してきたのである。


「……それ、何ですか? 自分を卑下して、こっちを立てようってつもりですか? 世の中にはどんなに好きでも、どんなに望んでも出てこられないひとが居るっていうのに」


 その瞬間、光星はその場で凍り付いてしまった。

 一体、何が悪かったのだろう。どこで、彼女の地雷を踏み抜いてしまったのだろう。

 光星は大いに慌てたが、阿山悠里はそれっきり何もいわなくなってしまった。

 と、そこへ尾崎が帰ってきた。彼は三人の間に流れる微妙な空気にはまるで気付かぬ様子で、その後の議題を淡々と進め始めた。


◆ ◇ ◆


 その後、更に一カ月が経過する間にゲームの企画自体は滞りなく進行し、光星、ヤマコハルナ、阿山悠里は、それぞれが担当するパートの原案を具体的なイラストイメージとして形にし始めていった。

 そうして何度目かのオンラインによる進捗確認会議を重ねた頃、不意にヤマコハルナが、個人的な相談があると持ち掛けてきた。


(はて、一体何だろう?)


 光星にはまるで、思い当たる節が無い。

 ヤマコハルナは完成された技術の持ち主であり、今更光星に何かを頼んだり、相談しなければならない様なレベルの人物ではない。

 では、仕事以外のことだろうか。

 確かに光星はヤマコハルナのプライベートについてはほとんど何も知らないが、これまでの進捗確認会議上での様子を見る限りでは、特に苛々したり、不安げな顔色を浮かべたりもしていなかった。至って普通、至って良好な精神状態である様に見受けられる。

 ということは、何か悩み事があって相談したい、という訳でもなさそうだ。

 少なくとも光星は、その様に考えた。

 ところが、リモート通話ソフトのカメラに映し出されたのは、妙に困り切った表情だった。こんな彼女は、今まで一度も見たことが無い。


「どうか、したんですか?」


 何となく嫌な予感を覚えながら、ひとまず訊くだけ訊いてみた。一体どんな悩みを打ち明けられるのだろうかと、内心では気が気ではない。

 そんな光星に対し、ヤマコハルナはしばし黙り込んだまま視線を左右に散らしていたのだが、やがて意を決した様子で面をこちらに向けてきた。


「御免ね、星君。本当は君にこんなことをお願いして良いものかどうか、凄く悩んだんだけど……」


 もうその口ぶりから、凄まじく面倒な事態に巻き込まれそうな予感が胸中に湧き起こってきたのだが、しかしこれまで色々とお世話になってきた相手でもある。光星はじっと耳を傾けることにした。


「そのね……実は、悠里ちゃんのことなんだけど」

「え……阿山さんに何か、あったんですか?」


 思わず反射的に訊き返してしまったが、本当に関わって良いのかどうか、今の時点では何とも判断の付けようが無い。

 というのも、最初の顔合わせ以来、阿山悠里は光星に対しては常に余所余所しく、ぶっきらぼうな態度を崩していなかったのである。出来れば仕事以外では関わりたくないと思われているのだろう。

 そんな阿山悠里に、しかし光星は尊敬と憧れの念を今でも持ち続けている。彼女の中の何か許せない部分、或いは触れてはならない部分に我知らず触れてしまったのは光星なのだ。阿山悠里に非がある訳では無い。

 だから仕事の同僚、イラストレーターとしての協業相手という面では光星もなるべく平静を装い、仕事以外のことは何も話さない様に努めていた。

 しかし今、ヤマコハルナから阿山悠里に関することで、まさかの相談だ。


(落ち着いて、ちゃんと聞いていられるかな……ちょっと自信無いな)


 ともあれ、まずは話を聞いてみないことには何も始まらない。光星は更に強まる不安を必死で抑えつけ、ヤマコハルナの次なる言葉を待った。


「うん……言葉で説明するより、まずは見て貰った方が早いかな」


 ヤマコハルナは漸く思い切った様子で、カメラの向こうでマウスを操作していた。するとチャットライン上にふたつのファイルが転送されてきた。

 いずれも、画像データの様だ。光星は眉間に皺を寄せながら、HDMIに繋いだ別のディスプレイに、このふたつの画像データを表示させた。

 そして、思わず声を失った。

 よく似た絵が二枚、ディスプレイ内に並び立った。

 片方は、阿山悠里が作成したイラストだ。昨日の進捗確認会議で実際に彼女が表示させていたデータだから、それは間違いない。

 問題はもう一枚の方だ。阿山悠里が作成したイラストと、極めてよく似ている。この時ほんの一瞬ながら、光星の脳裏にトレパクというフレーズが浮かんだ。


「ヤマコさん、これ、一体……」

「星君が見て驚くってことは、やっぱり似てるってことよね」


 阿山悠里が今回の企画の為に作成したイラストと、ほとんど瓜ふたつともいうべきもう一枚。その作者は、FJKY1996というハンドルネームを駆使する人物らしい。


「これ、どこで?」

「昨日、ネットで……尾崎さんもびっくりしてた」


 どうやらMTCでも、FJKY1996なる人物が作成したイラストについては把握している様だ。既に会社としても調査を始めているとのことだが、恐らくは現在阿山悠里が作成を進めているイラストの方を差し替える運びとなるだろう、との由。

 しかし、ただイラストを差し替えるだけでは話は収まらない。

 阿山悠里が描いた作品はまだ世には出回っていないのである。にも関わらず、何故トレパクともいえる程に酷似したイラストが、ネット上に流れているのか。

 その事実を突き止めない限りは、今後の企画進行にも大きな影響を与えかねない。

 下手をすれば、阿山悠里自身にも深刻なダメージとしてのしかかってくるだろう。

 光星は声を失った。


「会社の方でも動いてるから、調査結果を待てば良いといえばそうなんだけど……でも、何っていうか、じっとしてられないのよね。私は悠里ちゃんの師匠とはいっても、いつもいつも傍で見ていてあげられる訳じゃないから、彼女の抱えている問題を細かくチェックし切れるって話でもないのよ」


 この時、光星は妙な違和感を覚えた。その正体が何なのかは自分でもよく分からなかったが、兎も角今はヤマコハルナの訴えをどうにか処理しなければならない。


「まぁ、その、今起こっている問題については大体、分かりました。それでヤマコさんは僕に、何をして欲しいんでしょうか?」

「ずばりいうとね、この二枚の分析……比較検証をして欲しいのよ」


 ヤマコハルナはイラスト制作の技量面では、光星はまだまだ成長の余地はあるのだろうが、イラストを比較しての分析、検証という技術に関しては一目置いているといった。

 確かにその点については、光星も自信はある。というよりも、自分レベルの検証は誰にも真似出来ないという程に自負していた。

 システムエンジニア時代にユーザインタフェース仕様を担当したのも、イラストへの想いが断ち切れなかったからだ。それ故に、己の分析眼を徹底的に磨いてきた。

 しかしまさか、こんな形でヤマコハルナからその技術を頼りにされるとは、思っても見なかった。


「出来ればFJKY1996の技量とか技術的な傾向も知りたいかな。一体何を考えてこんなトレパクを流したのか、そういった部分も見えてくるかも知れないし」

「ヤマコさんが僕にこういう依頼をしていること、阿山さんは御存知なんですか?」


 ヤマコハルナはカメラの向こうで、かぶりを振った。既に阿山悠里に対して今回の件については訊いてみたものの、何も語らずに沈黙を守っているらしい。

 だから今回、ヤマコハルナは己の一存で光星に相談を持ち掛けたのだという。

 光星は一瞬考え込んだ。

 阿山悠里とは初顔合わせ以来、気まずい関係が続いたままだが、今回の様な事態が巻き起こっているのであれば、何とかしてあげたいとも思う。しかし光星自身の意思で下手にしゃしゃり出てしまっては、必ず反発を喰らうだろう。


(でもヤマコさんの依頼ってことなら……)


 師匠の判断ということであれば、阿山悠里も諦めがつくのではないか。

 光星はしばし瞼を閉じていた――が、次に目を見開いた時には、もう腹を括っていた。


「……分かりました。僕に出来ることであれば、ご協力します」


 そんな訳で、光星は問題の二枚のイラストの比較検証に着手する運びとなった。


(後になって後悔するかも知れないけど、ま、その時はその時だな)


 その時は軽く考えていたが、矢張り実際、後悔することになった。


◆ ◇ ◆


 そして、現在。

 光星は阿山悠里とFJKY1996が作成したそれぞれのイラストを、自室で何時間も眺め、比較し、その差分について事細かにチェックし続けていた。


(一体どんな人物が、阿山さんのイラストをトレパクしたんだろう?)


 そもそも、どうやって企画段階の作品を入手したというのだろうか。ヤマコハルナ曰く、MTCに対してハッキングされた形跡は無いという話だったから、流出したとなれば阿山悠里の制作環境周辺ということになる。

 しかし、例え何らかの方法で阿山悠里のイラストを入手したとしても、ここまで完璧に彼女の筆致を再現出来るものだろうか。

 どれ程の技量を持つイラストレーターであろうとも、神絵師と称される阿山悠里の技術をそっくりそのまま、ここまで完璧に模倣することが出来るとは思えない。もしそれ程の技術があるならば、今頃とっくにイラストレーターとしてデビューし、大成しているのではないだろうか。

 そんなことを漠然と考えながらも、光星は改めて、主線の描き方に注目した。まずは取っ掛かりとして、色使いではなく線から攻めてみようと考えたのである。

 光星が絵を描く際も大体、輪郭などの主線から入る。まずはレイヤーを分けて下絵から線を引き始め、ある程度形になったところで主線を引くレイヤーに切り替えるのが常だ。

 レイヤーとは、簡単にいってしまえば透明なフィルムの様なものである。最近のイラスト制作ソフトでは必ずといって良い程に、基本として提供されている機能だ。

 下絵、主線、そして各パーツの色毎にレイヤーを分けることで各工程の修正が容易になることから、今となっては必須の機能であるといって良い。

 この主線を引くレイヤーを使用した工程で、何か癖の様なものを見出すことが出来ないだろうか――そんなことを思いつつ、主線のひとつひとつを丹念に調べ始めたが、程無くして、意外なことに気付いた。


(まさかとは思うけど、レイヤーを分けてない?)


 最初は目の錯覚かと思ったが、しかし様々な箇所で主線と色が微妙に交差している。

 一般的には、主線と色塗りのレイヤーは分けて使用されるものだ。その為、線か色のどちらかが一方的に被さることはあっても、ドット単位で交差することは非常に珍しい。

 ところが、FJKY1996のイラストは各所で主線と色が複雑に混ざり合っていた。同じレイヤーで双方を同時に描いたとしか思えない。


(今どき、主線と色を同一レイヤーで描く奴なんて居るのか?)


 そんなことを考えながら、しかし光星はある可能性に辿り着いた。


(まさか……このイラスト、スキャンして取り込んだものなのか?)


 細かな修正によって巧妙に誤魔化されているが、各所の主線と色の交わりはアナログで制作したもの、即ち紙にペンと画材を用いて描いたものを、高精度のスキャナで取り込んだものだと考えれば、主線と色の交差の原因にも説明がつく。


(仮に一枚絵だったとして……こんなに精緻なイラストを手描き出来るなんて、一体何者なんだろう?)


 光星は喉の奥で何度も唸った。

 これ程のイラストをアナログで描けるということは、相当な技術の持ち主だ。阿山悠里の技量をも上回っていると考えて良いかも知れない。

 だが、本当にそんな超絶的な技量を持つイラストレーターがデビューもせずに、巷に埋もれているなんてことがあり得るのだろうか。


(いや……今はそんなことはどうでも良いな。よし、次だ、次)


 主線と色の交わりという差異に自分なりの結論を導き出したところで、光星は次なる差分抽出へと着手した。何より最大の違いは、イラスト内の女性が手にしている携帯端末だった。

 阿山悠里の作品にはスマートフォンが描かれ、そしてFJKY1996の作品にはふたつ折りの携帯電話、いわゆるガラケーと呼ばれるものが登場している。

 光星が注目したのは、FJKY1996が精巧に描き出した携帯電話の方であった。

 というのも、改めて詳細部分にまで目を通したところ、思わぬ事実が判明したのである。


(おっと、マジか……こいつは、また懐かしい機種だな)


 イラストレーターとして活かせる前職の経験は、比較検証だけだと思っていた光星。

 しかし今回は違った。製品仕様や過去の製品知識が武器となった。

 そしてこの瞬間、光星はそれまでの前提が実は間違いなのではないかと考えるに至った。


(FJKY1996の絵が手描きのアナログだとすると、制作期間は……)


 頭の中でざっと見積もってみた。その結果、光星が抱いた前提に対する疑問はより明確に、ひとつの確信となって心の中に根差してきた。

 この時点で、光星は恐らくこれで間違い無いだろうといい切れる結論を導き出した。

 しかしこの結論をそのまま馬鹿正直に、ヤマコハルナに伝えて良いものかどうか。場合によっては、阿山悠里のキャリアを光星自身が叩き潰すことになるのではないだろうか。


(でも……やっぱり、いわなきゃ駄目か)


 光星は、腹を括った。

 依頼を受けた以上、結果を報告しない訳にはいかない。

 気は重かったが、光星はリモート通話ソフト上に配置されている、ヤマコハルナとの通話開始ボタンをクリックした。


◆ ◇ ◆


 カメラ越しのヤマコハルナは、絶句した後、漸く声を搾り出した。


「え……どういうこと? トレパクしたのは悠里ちゃんの方だって、それ、本当なの?」


 間違っていた前提とは即ち、トレパクしたのはFJKY1996ではなく阿山悠里の方だ、という点だ。

 ヤマコハルナの受けた衝撃は、彼女の表情から推し量ることが出来た。


「はい。少なくとも僕の見解としては、そういう結論になります」


 光星は努めて無感情に、そういい切った。本音をいえば、こんな報告はしたくなかった。繰り返すが、阿山悠里は光星にとって憧れの存在であり、目指すべき目標でもあったのだ。

 その彼女がトレパクに手を染めた事実など、光星自身認めたくはない。だが、己が出した結論に嘘をつく訳にもいかない。現実は現実として、受け止める必要があった。

 そして当然ながら、ヤマコハルナは俄かには信じられないといった反応を見せた。

 自身が手塩にかけて育て、今や神絵師と呼ばれる程にまで成長した自慢の弟子が、よもやトレパク疑惑をかけられるなど、あってはならないことだろう。

 そんなヤマコハルナの心情は、光星にもよく分かった。自分が同じ立場なら、きっと罵声を浴びせて即座に縁を切るぐらいのことはしたかも知れない。

 そう考えると、動揺と疑念の表情を浮かべながらも、辛うじて己を抑えているヤマコハルナの冷静さは称賛に値する。

 矢張り自分なんかとは人間としての出来が違うなと、光星は密かに感心した。

 とはいえ、ここで相手に迎合している場合ではない。きっちりと根拠を告げて、後はどう判断するか。

 それはヤマコハルナ自身が決めれば良い。


「まぁ良いわ……どうして星君がそういう結論になったのかを、教えて貰える?」

「はい、勿論」


 心が、重い。

 ヤマコハルナ当人からの依頼で調べ上げたことを報告するだけなのに、何故か物凄く悪いことをしている様な気分だ。ヤマコハルナの突き刺す様な視線が、光星こそ悪人だと告げている様に思えてならない。

 それでも、光星は気力を振り絞った。もうこうなったら、行き着くところまで行くだけだ。


「まずFJKY1996の絵ですが、これはソフト上で作ったものではありません。アナログ、つまり紙の上に描いたものをスキャンして取り込んだものと思われます」

「それ、本当?」


 ヤマコハルナの驚きも、尤もだ。

 光星自身、最初はまるで信じられなかった。しかし主線と色の交わり方を調べれば調べる程、ソフトで描いたものではないという思いが強まる一方だった。


「アナログでこの絵を描こうと思ったら、最低一カ月はかかると思います。阿山さんがあの絵を描き始めたのは確か、一週間ぐらい前だってことでしたよね?」

「うん、本人の言葉を信じれば、だけど」


 であれば、少なくともFJKY1996の方が先に描き始めている。

 この時点で阿山悠里より三週間は早い。つまりFJKY1996は阿山悠里のアイデアを借りたのではなく、自身の発想で描き始めたことになる。


「でも実際に描かれたのは、もっと前だと思います。それこそ一カ月やそんな程度の時期じゃなく、もっと前に……かなり大胆な推測になりますけど、この絵が描かれたのは十年ぐらい前なんじゃないでしょうか」


 ヤマコハルナはもう言葉が出ないといった様子で、呆然と両目を見開いていた。

 勿論光星とて、あてずっぽうで推測した訳では無い。根拠はあった。

 イラストの中に登場している女性キャラクターの髪型や服装では、年代を特定するのは難しい。だがひとつだけ、制作時期の特定を可能とするものが描かれている。

 それが、携帯電話だった。

 携帯電話メーカー勤務の経験がある光星だからこそ、確実に分かることがあった。


「この絵の中に登場している携帯電話は、多分十年ちょっと前のモデルです。ほら、アンテナを伸ばしてるでしょ? ふたつ折りの携帯電話で伸縮式のアンテナが付随していたものが最後に発売されたのは、今から十年程前になるんです。それ以降はアンテナの無い携帯電話が主流になりまして」


 勿論、FJKY1996が十年前の端末を今でも手元に置いていて、それをスケッチしながらこの絵を描いた可能性も大いにあり得る。

 しかし光星は、敢えてその可能性を排除した。

 少なくともFJKY1996がこのイラストを描き始めたのは、阿山悠里がデザインを開始した時期よりも前なのだ。

 もうその時点で、阿山悠里の方が後から似た様な絵を描き始めたことは間違いない。今更何をどう取り繕ったところで、阿山悠里が後発であるという結論は覆らないのである。


「成程ね……星君がそこまでいい切る程に、その根拠に自信があるなら、一旦はその線で話を聞くことにするわね」


 ヤマコハルナも半ば諦めた様子で小さくかぶりを振り、深い溜息を漏らした。

 未だに信じられないといった表情が僅かに垣間見えるのは、流石にどうしようもないところであろうが。

 問題は、光星が導き出したこの結論をどう扱うかであろう。


「でも、どうやって悠里ちゃんにこのことを伝えようかしら。尾崎さんにもいった方が良いのかどうか迷っちゃうなぁ」


 ヤマコハルナは未だ衝撃から立ち直れていない様子ではあったが、変に取り乱すこともなく、眉間に皺を寄せて何度も首を捻っている。

 光星も腕を組んだまま、黙り込んでしまった。

 依頼を受けて比較検証し、自分なりの結論を出すところまでは良かったが、この後の展開を何も考えていなかったのだ。

 が、すぐにひとつだけ決めた。

 阿山悠里には、光星自身から話を持っていくべきだ、と。


「え……それはまた、どうしてなの?」

「ヤマコさんが話を持っていったら、阿山さんの味方になってくれるひとが居なくなるじゃないですか。だから僕が話をします。ヤマコさんは阿山さんを庇う立ち位置で居てあげて下さい」


 ヤマコハルナと阿山悠里の師弟の絆を、こんなことで断ち切りたくはない。それに光星なら阿山悠里とは単なる協業相手であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 既に最初の顔合わせ時点から距離を置かれているのだから、更に嫌われポイントが増えたところで、どうということも無いだろう。


「でも、星君はそれで良いの?」


 光星が阿山悠里を尊敬していることを、ヤマコハルナはいっている様だ。

 尊敬する相手から徹底的に嫌われることになるとしても、それで良いのか。本当に、そんな結末を受け入れられるのか。

 しかし光星は、気にしないで下さいと乾いた笑いを漏らした。


「嫌われるのは慣れてますから」


 これまでの人生で何人かの女性に交際を申し込んできたが、ことごとく断られてきた光星。その都度、嫌われているからだと自分を納得させてきた。

 今回も、同じことだ。何を気に病む必要があるだろう。


「大丈夫です、僕に任せて下さい……あ、そうそう、尾崎さんには今回のこと、口裏合わせる様にいっておいて貰えますか? 比較検証を依頼したのはヤマコさんじゃなくて尾崎さんだってことにして貰えれば、余計な角が立つことも無いでしょうし」

「星君……何から何まで、ありがとうね」


 申し訳無さそうに頭を下げるヤマコハルナ。面倒なことを立て続けに任せてしまうことに、罪悪感を覚えているのかも知れない。

 しかし、光星の中にはまだひとつ、はっきりしない点が残されている。こればかりは阿山悠里本人から聞き出す必要があり、そういう意味でも自分で直接、彼女に話をぶつけるのが最善であろう。


「じゃあまた明日、定例の進捗確認会議で」


 光星はそこで、リモート通話を終了した。


◆ ◇ ◆


 翌日、進捗確認会議を終えたところで光星は阿山悠里に、個別チャットで話があると持ち掛けた。

 最初は断られるかと思ったが、意外にも、彼女は承諾してくれた。

 そして新たに開き直したリモート通話ソフトのカメラ映像の中に、恐ろしく疲れた様子の阿山悠里の白い顔立ちが浮かび上がった。

 彼女のこの表情を見ただけで光星は強い罪悪感に苛まれた。が、ここで気後れしている訳にはいかない。


「応答して下さってありがとうございます。実は阿山さんに折り入ってお話が……」

「トレパクの件ですよね」


 光星はうっと喉の奥で声を詰まらせた。

 阿山悠里は確かに疲れた顔色を見せてはいるが、しかし瞳の奥には強い意志の光を感じる。覚悟を決めて開き直っているのか、それとも自分は無実だといい切れる決定的な材料を隠し持っているのか。

 いや、そもそも光星は阿山悠里と喧嘩をしたい訳じゃない。自身が調べ、そして結論付けた内容をただ伝えるだけなのだ。

 ところが意外にも、阿山悠里は細かい説明は不要だと先制パンチを繰り出してきた。


「星さんが分析して下さったことは、もうハルナさんから聞いてます」


 そうだったのか――光星は頭を掻いた。

 恐らくヤマコハルナは光星が指示したシナリオ通りには動いてくれているのだろうが、光星が導き出した結論を伝えるぐらいのことは、もう既にやってくれていたのかも知れない。

 きっと、論拠についても伝わっているのだろう。それは、阿山悠里の放つ鋭い眼光が全てを物語っている。


(やっぱ怒ってるか。そりゃそうだわな)


 本来ならトレパク絵師呼ばわりする様な男とは、口もききたくないだろう。それでも阿山悠里が応じざるを得ないのは、MTCからの依頼で光星が動いたという口裏合わせが効いているからなのかも知れない。


(ま、その方が気が楽だな。ここで話すことで更に嫌わられるかもってびくびくするより、もう既に嫌われポイントマックス状態になってるんなら、その方がやり易い)


 相手が開き直るのなら、こっちも開き直れば良い。おあいこだ。


「もう星さん的には結論出てるんですよね? なのに、まだ何か訊きたいことがあるんですか?」

「はい。差し支えなければで結構なんですが……FJKY1996の正体についてです」


 瞬間、阿山悠里の美貌に怯えた色が垣間見えた。

 その反応を受けて、光星は間違い無いと腹の奥で何度も頷いた。同時に胸の奥で、チクリと刺す様な痛みが走った。


「FJKY1996は阿山さんの、双子のお姉さんなんじゃないですか?」


 阿山悠里の頬から、血の気が失われていくのが分かる。濡れた様に輝く黒い瞳は更に大きく見開かれ、紅く柔らかな唇がきゅっと噛み締められていた。


「分かりました。もう結構です。ありがとうございました」


 もう十分だった。これ以上、何を訊く必要も無い。光星は通話終了のボタンを押下しようとしたが、それよりも早く意外な反応が返ってきた。


「待って下さい……どうして、そう思ったんですか?」


 相変わらず、阿山悠里の表情には緊張が張り付いている。しかし声には険が感じられなかった。寧ろ、何かを懇願する様な響きすら漂っていた。

 光星は戸惑いを隠せない。まさか呼び止められるとは、思っても見なかったからだ。


「いや、その……聞きたいんですか?」

「はい……是非、お願いしたいです」


 参ったなぁ――余り気は進まなかったが、阿山悠里からこの様にせがまれてしまっては、光星も断る術が無かった。

 ならばと光星は居住まいを正し、背筋を伸ばしてカメラの向こうの美貌と正面から向き合うことにした。


「こないだヤマコさんが、こんなことをいっていたんです」


 私は悠里ちゃんの師匠とはいっても、いつもいつも傍で見ていてあげられる訳じゃないから、彼女の抱えている問題を細かくチェックし切れるって話でもないのよ――この時、光星は違和感を抱いた。

 何故なら阿山悠里は過日、インタビューでこう答えていたからだ。

 尊敬出来るひとがいつも傍に居てくれて、そのひとから多くを学んでいる、と。

 ここにひとつの矛盾があった。常に傍に居てくれて、たくさんのことを学ばせてくれているのは、師匠であるヤマコハルナではなかったのか。

 では、いつでも阿山悠里と一緒に居る人物で、彼女に全てを授けてくれる人物は誰なのだろう。

 そこで光星はもうひとつの記憶を手繰り寄せた。阿山悠里は双子の姉と、幼い頃から趣味が同じだったという事実。

 その同じ趣味というのは、イラストのことを指していたのではないか。

 双子の姉は自閉症ということだが、イラスト技術だけは昔から抜群に上手く、天才的だったのではないのだろうか。


「ギフテッドという言葉をご存知ですか? あるひとつの分野に天賦の才を発揮するものの、自閉症や学習障害といった発達障害を抱えているひとが多いと聞いたことがあります」


 そして阿山悠里が今でもその姉と同居していることを考え合わせると、光星の中で全てが腑に落ちた。

 勿論、これは飽くまでも光星の勝手な推測だ。何かの事実に即して指摘している訳ではない。

 しかし阿山悠里の面に張り付いた、驚きの中に嬉しそうな色を湛えた表情を見ていると、どうやら光星の考えはあながち間違いではなかったとも思えてきた。


「失礼ですが、お姉さんは阿山さんがイラストレーターをなさっていることをご存じなのですか?」

「いえ、知りません……っていうか、何度か伝えてはいるんですけど、多分覚えてないです」


 成程、そういうことか。

 恐らく阿山悠里の姉は悪気も無く、ただ何となく自身が作成した大昔のイラストを気まぐれにネット上へと流しただけなのだろう。

 でなければ、仲の良い妹を窮地に立たせてしまう真似はしないだろう。

 逆に阿山悠里も、自分の姉がやったことだとはいい出せなかったのだろう。何故なら、阿山悠里自身がトレパクした側なのだから。

 ここで光星は、そういえば、と思い起こしたことがあった。


「初めて顔合わせした時、阿山さん随分お怒りになられてましたけど、あれは、お姉さんのことをおっしゃっていたんですね」


 世の中にはどんなに好きでも、どんなに望んでも出てこられないひとが居る。

 姉は天才的な技術を持ちながら、自閉症であるが故にイラストレーターとしての道を歩むことが出来ない。翻って阿山悠里は、大好きな姉の技術を自分のものにしながら、しかし一方で所詮は姉の猿真似だと自身を卑下していたのかも知れない。

 そこへもってきて、光星が自己防衛的に過度の謙遜を口走った。光星は何だかんだいいながら、イラストレーターになるという己の夢を果たせているというのに。


(そりゃあ、怒って当然だな)


 知らなかったとはいえ、矢張り光星は阿山悠里の最大の地雷を踏み抜いてしまっていたのだ。嫌われない方が寧ろ、おかしい。

 その一方で光星は、阿山悠里が長年抱えてきたであろう鬱屈を、ほとんど瞬間的に理解した。

 神絵師と騒がれてはいるものの、その技術の根幹は姉がオリジナルなのだ。阿山悠里が自ら築き上げたものではない。


「こんなこといったら怒られるでしょうけど、阿山さん、きっと凄く、辛かったでしょう。僕も長年、比較検証を使いまくって他人様の技術を盗む様な真似ばっかりしてて、それで一時、滅茶苦茶叩かれましたからね。今でこそいっぱしのイラストレーターとして食っていけてますけど、あの時はマジでしんどかったなぁ」


 今でこそ笑い話だが、当時は本当に死んでしまいたかった。

 光星は遠くを見る目で、ふっと自嘲の笑みを漏らした。

 するとその時、突然画面がブラックアウトした。阿山悠里がカメラ映像を切ってしまったのだ。


「ご、御免なさい……今日はもう、失礼します」


 何かを堪える様に、声が僅かに震えていた。


(全部、終わっちゃったな)


 通話終了を示すアイコンが明滅しているのを見て、光星は大きな溜息を漏らした。

 女性から徹底的に嫌われたのは、これでもう何度目だろう。

 覚悟していたとはいえ、矢張り精神的には中々にキツかった。


◆ ◇ ◆


 翌週の進捗確認会議では、阿山悠里は違うイラスト案を出してきた。

 その内容を説明する彼女の表情はどこか明るく、光星の目から見ても、何か憑き物が落ちた様な清々しさが漂っていた。

 そんな阿山悠里に対して尾崎は相変わらず事務的な応対に終始していたが、ヤマコハルナは嬉しそうに口元を緩めていた。

 逆に光星は鉄面皮であろうと心がけた。今回の仕事が終わったら、MTCからの依頼はしばらく敬遠しようとも考えていた。

 そして会議終了後、ノートパソコンの電源を落とそうとした光星だったが、不意にリモート通話ソフトの着信アイコンが明滅した。コールしてきたのはまさかの、阿山悠里だった。


(おいおい、もう勘弁してくれよ。まだ何かいわれなきゃなんないのか?)


 重苦しい気分で、しかし光星は受話ボタンを押した。ここで無視したら、後でヤマコハルナから何をいわれるか分かったものではない。

 一応出るだけ出て、ひと通り罵声を浴びたらさっさと飯でも食いに行こう。

 そんな覚悟を決めた光星だったが、カメラ映像に現れたのはすこぶる上機嫌な笑みだった。


「あの、ごめんなさい! そのぅ、ひとつ伝え忘れてたことがあって……」

「手短かにお願い出来ますか? 早く行かないと、飯屋混んじまうんで」


 声を弾ませる阿山悠里に対し、光星は徹底して不愛想を貫いた。何故ここまで阿山悠里が笑みを絶やさないのかが、却って不気味だった。


「実は、姉の名前なんですけど、藤野香耶っていうんです」


 そして生まれは1996年。だからFJKY1996というハンドルネームなのだという。

 ああ、そういうことなのかと頷いた光星だが、わざわざそんなことを教えてくれなくても、とも思う。案外、阿山悠里は律儀な性格なのだろうか。


「お忙しいのに、わざわざありがとうございました。じゃあ、また来週の進捗確認会議で……」

「えっと……それから、私は藤野茉耶です。その、えっと、本名が、なんですけど」


 光星は顔を引き攣らせた。いきなり個人情報を豪快に押し付けてくるなど、何を考えているのか。

 そして更に、予想外の展開は続いた。


「あの、もし良かったら今晩、またリモートお願い出来ませんか? もっと、その色々……」

「いや待って下さいって。今日は週末ですよ。んなことしたら、僕彼氏さんに殺されます」


 否、逆だ。

 腕力には相当な自信がある光星だから、返り討ちにしてしまって余計に大変なことになる。

 他人の女に手を出した挙句、暴力沙汰で警察のお世話になる様なことにでもなったりしたら、それこそイラストレーター人生が終わってしまうだろう。

 ここは逃げの一手だ。


「仕事のことでしたら、また来週の進捗の時で良いでしょう」

「あの、えっと、星さん何か誤解されてます! あたし、彼氏なんて……」

「んじゃあ、お疲れさまでした」


 光星は問答無用で終話ボタンを押し、早々にシャットダウンした。

 最後に阿山悠里――藤野茉耶は妙なことを口走っていた様な気もしたが、聞かなかったことにした。

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