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Day6-1(There’s no fool like an old fool)


 

 21時手前に着信があった。それを無視して女のコとデートしていた。

 その後に来たメッセージを確認して、それから2時間は経っている。

 さすがに折り返しの電話をしないと怒られそうなので、女のコがシャワーを浴びている間に、掛け直した。


 着信に出た音がしても、挨拶の一つもない。とりあえず、こちらから話しかけた。

「遅くなってごめぇんね」

『毎度毎度、謝る気がないな』

 不機嫌なのがありありと窺える声音だった。どんな顔をしているか、見なくてもわかる。

「この通話、ミッチーも聞いてる?」

『いや。コンビニエンスストアへ買い出しに行かせた』

 煙草を咥えながら喋っているのだろう。声がくぐもっている。(サヴァンセ)の、もともと低めの重い声が余計に聞き取りづらくなる。


「とりあえず現状報告ね。湘南の海で遊んでる」

『は?』

 梟が素っ頓狂な声を漏らすのもわかる。この情報が入った時は、俺も同じ反応をした。

「海でデートなんて健全すぎて、お兄さん泣けちゃう」

『お前が不健全なだけだ。あと、お兄さんじゃない、おじさん』

「お前だってお家デートじゃん」

『殺すぞ』

 こっちは歳相応のデートをしているだけなのに、この言われよう。


 梟だって、悪しざまに言えば若い女のコを家に連れ込んでいるし、とても健全じゃない。

 この件について、もうちょっと絡んでやろうかと思ったけれど、シャワーを浴びている女のコの気配を確認して、話を早めに切り上げざるを得ない。


「今のところ、装備の補充してる感じはない。装備と弾薬の量なら、こっちの勝ち」

『見てもないのによく言う』

「ミッチーから在庫もらったんだし、それなりに余裕なんだろうなって踏んだだけ。

 クソガキは近接戦しか考えてないから、ミッチーに貼り付いておけば問題ないでしょ」

 それなのに、梟はミッチーをこんな夜中に一人で買い出しへ行かせるという体たらくをやらかしている。

 まぁ、(スコルーピェン)とシラユキ一行が移動した情報や痕跡がないから、結果的に大丈夫なんだけど。


「わかってると思うけど、ミッチーは役に立たないと思って動きなよ」

 ミッチーは、銃器の扱いや戦闘に関して多少の覚えはあっても、訓練を受けてきた兵士とは比べ物にならない。

「どうせ、シラユキの安全優先とか言ったでしょ。そういうとこがクソガキにつけ込まれるんだよ、って言ってあげた?」

 電話の向こうはずっと黙っている。何か言い返そうと考えながら煙草をふかしているのか、それとも反論できずに黙っているのか。沈黙はどちらとも取れる。


「お前はどうすんの? ミッチーの代わりに蠍を殺してやる?」

 梟に向かって、故郷でさっさと殺しておけば良かったのに、と言いたくなるのを抑える。これは俺自身の勝手な願望だ。

 俺は、あのクソガキを自分の手を汚してまで殺すのが嫌だった。だから、他の人間が始末してくれるのをずっと待っていた。


「それとも気長に、ミッチーが覚悟決めるの待つ?」

 そう言っておきながら、俺は自分の発言に笑ってしまった。

「あぁごめん、笑っちゃった。無理だよね、戦争を知らない平和な国のガキが、俺らと渡り合おうとするなんて。馬鹿言ったわ」

『同胞は、せめて同胞の手で葬るべきだ』

 堪え切れない笑いを引きずっていると、真面目な声音で梟が呟いた。

「それが年長者の務めね」

 生き残った人間は、死んだ人間の尻拭いする役目になる。飲み会で最後まで正気だった人間が、酔いどれたちの世話に四苦八苦するのと同じ。


『だから長生きしたくなかった』

「ほんとそれな」

 自分よりいくつか年下の男が吐き出した言葉に、頷くより他ない。

 あの大統領府突入作戦時、『六匹の猟犬(シェスゴニウス)』に所属した隊員は10代がほとんど。

 俺と梟を「年寄りども」と陰口を叩いていた連中は、蠍以外全員死んでいった。「年寄りども」は、今もこうして生きている。なんて皮肉な事態だろうか。


「クソガキが動き出したらすぐ連絡するよ」

 そう言って電話を切る。同じタイミングで、シャワーから出てきた女のコが、俺に向かって微笑んでくる。


 さっきまで電話していたと思われると興覚めになってしまうから、スマートフォンを気づかれないように掌からベッドに滑り落とし、女のコを抱き締めに行く。



        *



 狐の電話が切れた瞬間、タイミングを見計らったように、玄関のドアが開く音がする。咄嗟に拳銃(P226)のグリップを握る。


 気配を消せても、買い物袋のシャカシャカという音は消せない。フチノベ ミチルはシャカシャカと音を立ててリビングに現れた。


 自分が拳銃を握っているのを確認して、フチノベ ミチルは袋を持ったまま、ホールドアップする。

「部屋に入る時の合図を考えてなかったですね」

 こちらが銃を下ろしたのを見て、フチノベ ミチルは買い物袋を差し出してくる。


「お釣りとレシート」

「割とケチだよね」

 買い物袋を受け取るのと同時に言うと、ボトムスのポケットからレシートと釣り銭を取り出しながらボヤかれる。


「バイト先に、三日間休むって連絡しました」

「休めるもんだな」

 アルバイトをはしごしたり、どちらかの休みにもう一方の勤務先に出勤したり、毎日働いていると聞いていたので意外だった。

「栄養失調で倒れた、って言ったら意外とすんなり」

「その言い訳が通用する食生活ってどんなだ」

 フチノベ ミチルは極度に痩せ細っているわけではないが、色白と青白いの中間みたいな、不健康な顔色をしている。

 電話越しに体調が悪いと言われたら、何の不思議もなく信用できる気は、する。



 

  *

 


 テーブル一つもないリビングに、コンビニエンスストアで買ってきた弁当を並べ、フチノベ ミチルは床に座り、自分はソファに座って食べる。


「母が料理苦手な人で、父がいなくなってからはコンビニの弁当ばっかりだったのを思い出した」

 フチノベ ミチルは懐かしそうにそう言い、弁当のメインの具であるハンバーグを箸で器用に切っていた。


「お前の父親はどこに?」

 2年ほど前から行方不明になっているのは、狐から聞いている。フチノベ ミチルも、自身の父親については過去形で語る。


 鮭の身をほぐしたものが具に入っているおにぎりを口にする。あっさりしたもの、とリクエストして、買ってこられたのがおにぎりだった。


「生物学上の父親は誰なのかわからない。というか、育ててくれたのは、本当の両親じゃない」

 狐からは聞いていない話が出てきて、咀嚼しながら、どう相槌を打とうか、考える。


「母は、本当は叔母にあたる人だった」

「どういう経緯で」

「母の妹が、クソすぎる人間で。産んだ子供の世話を投げ出して育児放棄(ネグレクト)。挙句に、子供を病院送りにするレベルの身体的虐待をやらかした」

 フチノベ ミチルは弁当を床に置き、体を反転させて背中を見せてくる。

「見る?」

「何を」

「背中に傷痕が残ってる」

 フチノベ ミチルが自らのシャツの裾を摘まんで捲りあげようとするのを、手で制止する。

「自分からは痕の端っこしか見えないから、そんなに気にしてないんだけど、着替える時とかみんなギョッとするんですよね」

 フチノベ ミチルは、姿勢を元に戻し、また弁当を食べ始めながら言う。自身からは傷の端しか見えない、と言うのは、それだけ広範囲の痕なのかもしれない。


「実の母親が刑務所行きになって、当然、私の身元を引き受ける人間が必要になった。そこで実母の姉が、私を引き取った」

 この経緯を狐が知らなかったとは思えない。情報を出し惜しみしたか。


「だから、母とは血の繋がりが4分の1あるけど、父と血縁関係がない」

「その父親がいなくなった理由は?」

「一言で説明するのは難しいな。父にも事情があった、としか」

 表情と口振りに、冷めた感情が強く出ている。身内に対する表情ではなく、他人について話す時のようだ。


「ひどく他人行儀だな」

 あまり見たことのない表情が、何故か引っかかってしまう。フチノベ ミチルはこちらを見て、口元をニヤリと笑う形にしてみせた。

「私たちは家族の形をしていただけだから」

 父親の話をする時は、どこまでも他人行儀だ。近づかないように、必死に距離を取ろうとしているのかと思うほどに。


「本当は行方不明なんて言葉遊びで、とっくに死んでいる」

 カマをかけるつもりはなかったのだが、つい探るような言い方になった。

 顔を動かさず、冷たい視線だけがこちらに向けられた。

「もちろん、その可能性は十分高い。トラブルには巻き込まれていたから」

「どんな?」

 狐から聞かされていない話が、フチノベ ミチルの口から次々出てくる。

 狐を通さず直接、この女の口からバックグラウンドを聞き出してみるのも悪くないと思った。


「母が昔交際していた男が、数年前から仕事の妨害をしてくるようになった。で、2年くらい前、父はそいつに話をつけに行った」

 弁当を咀嚼しながら、平然と話す様子を見せるが、平静を装っているだけかもしれない。

「それきり、帰ってこない」


 あの日、リエハラシアで死んだ、母親。

 仕事の妨害をしてきた、母親の元恋人。

 遡ること2年ほど前、父親は、その男に話をつけに行って以来、消息不明。

 不穏な要素しかない生育環境だった。


「その厄介そうな、母親の元恋人は今、何を?」

「武器商人をやってますよ」

 同業の男なら、仕事の妨害をしてくるのも無理はない。やっと合点がいく。

 フチノベ ミチルは自嘲した笑みを浮かべた。

「イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキーって、知ってる?」

 それは、世界的に有名な武器商人の名前だった。


 各国の軍部や諜報機関が顧客であり、この男の裁量一つで各国の武力のパワーバランスが変わるほどの影響力を持っている。


「かなり昔、故郷へ商売しに来たのを知っている」

 それも、内戦でリエハラシアが苦境に立たされたころ、15年前以上の話だ。当時、件の武器商人と顔を合わせてはいないが。


 こちらの顔を見て、不思議そうな顔でフチノベ ミチルは尋ねてくる。

「シャロちゃんから、そういう情報は聞いてなかった?」

「興味あったのは、()()()リエハラシアに対して何をやるかだった。親まで気にしていない」

 そう答えると、フチノベ ミチルは溜め息にも似た笑い声を、ひっそりと漏らす。


「さすがにイヴァンに復讐しようとは思わなかったか」

「考えましたよ。でも、イヴァンに近づくのは、母を危険に晒すと一緒」

 父親がいなくなった後、仇を取ろうとは思っていたらしい。だが、母親の身を案じて留まった。やはり、この女にとっては、父親より母親の方が優先度が高い。


「その母が死んだ今、イヴァンが何を考えているのかはわからない。私もそれどころじゃない」

 床に視線を落としている横顔は、気の強そうな顔だと思った。気丈に振る舞っているというより、もっと意志の強いものがある。


 微かな笑い声が漏れたと思うと、上目遣いでフチノベ ミチルは言う。

「私の話、すごい聞いてきますね」

「母親がらみのあれこれは熱心に調べるのに、父親のことは今の今まで話題にしないほど、放っておいているのが気になった」

「それは、相手がはっきりしているか、していないかの違いかも」

 ここで言う相手とは、復讐する相手。

「それはそうかも、しれないな」

 これ以上聞いても、うまく話を引き出せそうにない。ここでこの話は諦めて、おにぎりを頬張る。

 買い物袋をがさがさと音を立てて漁ったと思うと、フチノベ ミチルは総菜のパックを取り出した。

「はい、サバの味噌煮も買ってきた」

「名前をイジるためだけに買ってきただろ」

「いやだなぁー、そんなこと考えてないですよー」

 完全に棒読みだった。鯖の味噌煮は好きな料理の一つなので、ありがたく受け取るが。



      *



 夕食を摂って、蠍が動き出すのを待っている。


 その連絡はまだこない。時折、会話するがそのネタも尽きてくる。会話が途切れれば、無言で目の前の白い壁に視線を遣る。

 燃え尽きかけた煙草を空き缶に捨て、また新しい煙草に火をつける。


「サバちゃんは、リエハラシアに帰りたい?」

 フチノベ ミチルが、唐突に尋ねる。眠そうな素振りもなく、ただ時間を持て余している様子だ。


「帰りたいとは思わない。ただ、気がかりが多い」

 冷静に考えて、今の自分が故郷に帰るのは難しい。クーデター実行犯として逮捕され、そのまま処刑される絵しか思い浮かばない。帰りたいと思う気持ちはない。


「ただ、自分で言うのもなんだが、『六匹の猟犬』は精鋭部隊だった。それが空中分解してしまったとなると、対クルネキシア戦略がどうなっているのか、元帥(マーシャル)に代わる人間を任命したのか、軍の指揮を取れているのか、育成期間中の新人たちは無事か、懸念事項が山のようにある」

「シャロちゃんは、その辺の情報はくれないんですか?」

 その問いには首を横に振る。

「わざわざ関わりたがらない。あいつは戦争を止めようとしないリエハラシアとクルネキシアが嫌いなんだ。あいつはいつも、後任を育てたらさっさとリタイアして国から出て行く、と言っていた」

 今の状態は、狐にとっては意図せず得た自由。だいぶ楽しそうにしている。

「後任が育たなかった?」

「後任よりも狐の方が優れていた」

 そうでしょうねと相槌を打ちながら、フチノベ ミチルは苦笑いにも似た笑みを浮かべている。


「サバちゃんはずっと前線に出ていたかった?」

「そうなんだろうな。ベッドの上で安らかに死ねるとは思ってなかった」

 そう答えて、煙草の灰を空き缶に振るい落とした。


 かっこつけて言うが、単に後任が育つ前に死なせてしまっただけだ。自分は幸運(ラッキー)だけで生き延びている。

 

 また会話が途切れた。と思ったが、スマートフォンのバイブレーションの音がする。

 フチノベ ミチルのものではなく、自分のスマートフォンだ。表示された電話番号を見て、スピーカーに切り替えて応答に出る。


『もしもーし』

 へらへらした声が響いて、思わず眉間に皺が寄る。

「シャロちゃんこんばんはー」

 かたやフチノベ ミチルは、電話の向こうのへらへらした挨拶に対し、陽気に返している。

『わぉ、ミッチーだ! 元気にしてた? ミッチーのバイト先に何度も行ってるけど、僕が行く時はいつもいないからさ、今度会えたらいいなぁ。連絡先、この前メモに書いたから、いつでも連絡してね!』

 この数秒間に、単語を詰め込むだけ詰め込んだ早口で、狐は捲し立てる。

 フチノベ ミチルは引きつった笑いを浮かべてこちらを一瞥する。

「用件を先に言おうか。シャロちゃんの友達が、すごい顔で苛ついてる」

『おぉ怖い。えっと、クソガキくんはシラユキちゃんのお家が経営してるホテルのスイートルーム、予約取ったみたいよ』

 その瞬間、場の空気が張り詰めた。

『フロアぶち抜きのスイートルームだね。俺も泊まってみたーい』

 狐だけはのんきだ。こういう斜に構える態度を取るのはいつも通りだ。いつも通りだが、それが余計に腹立たしい。

「ヒナちゃんが無理言って、予約取ったんだろうね」

 重い溜め息をついて、フチノベ ミチルはぼそりと呟く。

『宿泊代金もシラユキが払うんじゃなーい?』

 その呟きを聞き逃さず、狐はのんびりとした口調で話を続ける。

『そこのスイートルーム、インテリアがすごい凝ってて、大暴れしたら修繕費用が高額になるのが目に見えてるから、壊さない方がいいよ』

 それはこちらではなく、蠍に言うべきだ。


 狐がアドバイスのようで、なんの役にも立たない話をしている間、フチノベ ミチルは口元に手を遣り、何か考えている様子を見せている。

 そして口を開いた。

「ちなみに、ホテルの構造図って、手に入る?」

『もちろんですとも。こいつのスマホにすぐ送るねー』

 連絡を入れる前に建物の構造図も用意してあるあたり、『六匹の猟犬』で諜報担当をしていた時の手際の良さは変わっていない。

「シャロちゃん、さすが」

 これには思わず、フチノベ ミチルも手を叩いて感謝している。

『もっと褒めて褒めて』

「他に情報は」

 狐がくだらないことを言い出して話が脱線するのを防ぐために、口を挟んだ。

『ごつい装備は持ち歩いてないし、装備をどこかに隠してる気配もない。浜辺でシラユキとキャッキャしてるだけだよ。あいつは近接戦しか考えてない』

「指定してきた場所に、蠍は必ず現れる」

『っていうか、梟を連れていけば絶対来るよ。梟が大好きだから』

「へぇ、そう」

 誤解しか生まない言い回しをするな、と口を出しそうになるが、フチノベ ミチルが先に言葉を返していた。


『あ、そうだ! ねぇミッチー』

 狐が何かを思い出したようで、急に声を上げる。

『かかりつけのメンタルクリニック、そろそろ再診行っておいで。薬なくなってきたころでしょ。こういうストレスがかかる生活は、PTSDを悪化させるから』

「……ご忠告ありがとう。そこまで調べてるのが、純粋に気持ち悪ーい」

 すっと顔色を変えたフチノベ ミチルは鼻で笑って言い、スマートフォンの画面に表示されている終話キーをタップする。そしてそのまま床に両手をつき、頭を下げる。


 他人に知られたくないだろう話を、この場でわざわざ出した狐は性格が悪い。これも狐の悪い癖だ。


 俯いたまま数秒固まっていたフチノベ ミチルは、ゆっくり顔を上げる。

「本当に、有能な情報屋さんだね。あと、シャロちゃんからもらったホテルの構造図、私にも送ってもらえます?」

 無表情で、淡々と言う。

 有能な情報屋、と呼ぶ時、声のトーンに隠し切れない棘があった。


 床に置いたスマートフォンを手に取り、狐からきたメッセージを確認し、添付されているファイルをフチノベ ミチルのスマートフォンに送る。

 そのついでに、自分も添付ファイルを開き、ホテルの構造図が何枚も出てくるのをスライドしながら眺める。


 画面から視線を上げ、自らのスマートフォンの画面を見入っているフチノベ ミチルに言った。

「蠍が現れたら、ヒナカワを人質にしろ」

 即座に、フチノベ ミチルの視線がこちらを見てくる。その眼は、睨んできたとも思える眼差しの強さだった。


「はい」

 返事だけは素直に返ってくるが、顔はまったく同意しているように見えなかった。

「ヒナカワは、お前と蠍のウィークポイントだ。その頼りない返事が一番信用できない」

 言いながら、吸いさしの煙草を挟んだ指先を、フチノベ ミチルに向ける。フチノベ ミチルの眼は煙草の穂先を見つめている。

 黒く、感情のない眼。


 無表情のフチノベ ミチルが何か言おうとして唇が動いたと思った瞬間、胸倉を掴まれた。

 本当に一瞬だった。


「そろそろ、ちゃんと話してもらえないですか? じゃないと私もあなたを信用できない」

 完全に油断していた。


 右手は、まだ火がついている煙草を持っている。空いている左手で胸倉を掴む手を剥がそうとした。

「蠍がサバちゃんにこだわる理由は、ちゃんとあるんでしょ?」

 中腰で胸倉を掴んで、獲物を目の前にした肉食獣さながらの眼でこちらを見下ろしてくる女。


「命懸けでも潰したいって思うほどの理由」

 煙草の火をどうにか始末しないと、揉み合った拍子に顔に火傷でもさせたら困る。

 灰皿代わりの空き缶が思ったよりも遠く、舌打ちが出た。


「嫌われている、だけじゃ説明つかない」

「説明させたいなら、それなりの敬意を払え」

 仕方なく利き手でない左手で拳銃を持ち、フチノベ ミチルの顎の下に銃口を当てた。

 この女にとって、この程度の行為は脅しにもならないのは、わかっていたが。


「この不愉快な手を離せ」

 引き金にかけた指に、少しだけ力を入れる。

「お前の死体を持っていったら、蠍はさぞ喜ぶだろう。それはそれで癪だけどな」

 そこまで言って、やっとフチノベ ミチルの手が離れた。首にかかる圧がなくなる瞬間に拳銃を下ろし、右手に持ったままだった煙草を咥える。


「こんな中途半端な威嚇、俺たちには意味がない。覚えておけ」

 この女は、戦争も知らない武器商人の娘。

 堪えようのない腹立たしさに、空いた右手で今度はフチノベ ミチルの胸倉を掴む。

「俺とあのガキとの話は、お前に関わりはない」

「……()()()()()()に、()()()()が巻き込まれているのは、忘れないで?」

 フチノベ ミチルは眉間に皺を寄せ、わざとらしく自分の言い方を真似して言う。この女は、一歩も引く気がない。


「今まで何度かチャンスがあったのに、あいつはあなたを殺してない」

 胸倉を掴むのは、ただの威嚇行為。

 胸倉を掴んだタイミングで殴りかかろうとすれば殴れたものを、この女は何の成果もない会話に費やした。


「サバちゃんを生かしておいて、このまま延々とちょっかい出し続けたいって思ってるみたいな」

 この話を聞いてやっているのは、自分が払える最大限の敬意だ。答えてやる義理はない。


 胸倉を掴んでいる手に、フチノベ ミチルは優しく左手を添えてきた。ひんやりとした、自分ではない手の感触に、寒気が走る。

「はなして」

 意図せず重ねられた手の温度に感じた嫌悪に気を取られ、その一言の意味が「手を離せ」なのか、「話せ」なのかわからず、フリーズしてしまう。

「手を、離して」

 解釈に戸惑っているのが伝わったのか、もう一度言われる。渋々、胸倉から手を離した。


 フチノベ ミチルは引っ張られて縒れた襟や首元を直し、もう一度床に座った。睨みつけるような鋭い眼差しが、こちらをしっかりと捉えている。


 新しい煙草に火をつけ、十分に時間を使ってから、目の前に座る女と目を合わせる。

「説明してやる。ただし絶対、誰にも話さないと約束しろ」

 我ながら、おかしなことを言い出したと思った。


 信用など端からないに等しいのに、信用してもらうために話そうとしている。否、この(わだかま)りを他人に分け与えたいだけなのだろう。

 黒い瞳は、ゆっくり瞬きをする。まるで了解と相槌を打っているように。


「あいつが『六匹の猟犬』に入る直前……8年くらい前になるか」

 まだ10歳ほどの少年だった、蠍。

 軍の下部組織で幼いころから育てられ、その期間さまざまなテストや訓練を最優秀の成績で合格してきた、期待の少年だった。

「これからする話は、生涯誰にも話すな。この話は今日限りだ」

 もう一度、念を押す。

 これは、付き合いの長い狐にすら言わなかった話だ。


 




          ***


「ねぇ、お願い」

 泣き腫らした眼をした青い瞳の小さな少年が、纏わりついてくる。

「助けてよ」

 腕を掴もうと手を伸ばしてきた少年の手に、背を向けた。


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