Day2
*
雛川 白雪。
老舗ホテルの創業者一族の家系に生まれ、系列ホテルのオーナーの職に就いている両親のもとで、大切に育てられた一人娘だった。
今、白雪の両親は系列ホテルの新規オープン準備で海外赴任、現在高校3年生の白雪は、高校卒業までは日本にいることを選択した。
週5日、日中は家政婦が通ってくるが、それ以外は一人、この邸宅で暮らしている。
風呂から出て、白雪は自室に戻ってベッドに腰掛けた。スマートフォンを手に取り、時間を見る。23時47分。
ふと、蛇口からしっかりとした量の水が流れる音が聞こえ、白雪は浴室やキッチンを確認しにいく。しかし、どれもきちんと栓が閉まっている。
しかし、水の音は続いていた。
一体どこから聞こえる音なのか、わからない。一人で広い家にいる心細さもあって、白雪は階段を駆け上がって、自室のドアに鍵をする。
誰かが侵入しているなら、警報システムが作動するはずなのに、どうして作動しないのだろうか。体が勝手に震えて、スマートフォンの画面に触れてもうまく反応しない。
耳を澄まして、水音の方向がどこから聞こえるのかを探る。
だんだんと、外から聞こえているように思えてきた。が、外を見るには、出窓のカーテンを開けなくてはならない。
数分、カーテンに手をかけるか否か迷い、スマートフォンをお守りのようにしっかりと握り締めた。
深呼吸を一度して、カーテンを指でそっと捲り、外の景色を窺う。
庭の片隅にある水道の立体栓。植木や鉢植えの手入れのために繋いであるホースは外され、受け皿の傍に転がされていた。
蛇口の隣で、二の腕あたりを水で洗い流している人影が見えた。
白雪は人影を見た瞬間、小さく悲鳴を上げるが、すぐに片手で口を押さえて声を堪える。
ここから見ていると気づかれるのが恐ろしかった。
背丈は白雪よりも10㎝ほど高いだろうか。ところどころ黒ずんだデニムを履く足は、長くすらりとしている。なぜか上半身は裸で、体の線は細いが筋肉質。
白雪と同じくらいの年代の少年に見えた。
視線に気づいたのか、カーテンが動いたのに気づいたのか、庭先にいる少年が出窓を見上げた。
白雪の心拍数は跳ね上がる。恐怖で声も出ない。
しっかりと視線が合った。
刺すような、警戒を隠さない鋭い眼差し。
この眼を、文学的に書き表すならば、よく表現で使用される「人を殺すような眼」というものなのかもしれない、と白雪は思う。
だがそれ以前に、こう思った。
綺麗な人だ、と。
いまさらだが、感知式のガーデンライトが一切反応していない。明かりは心もとない三日月と、近くにある街灯だけだ。
薄っすらとした庭先の闇の中、少年は淡い色のボブヘアを邪魔そうにかき上げ、唇を真一文字に引き結んでいる。メイクでもしているのかと思うほど、唇の色がはっきりしている。
少年は、白雪から興味をなくしたらしく、顔を背ける。
肘から手首にかけてを洗い始めた。
蛇口から少年の腕を経て、受け皿に流れる水は時折黒っぽい色が混ざる。
暗さのせいでそう見えるだけなのだろう、と思った。少年の身なりを見ていると、泥のようなものの汚れとは思えなかった。
少年は再度顔を上げ、白雪に向かって何かを喋った。
口の動きだけでは何と言われたのかわからず、白雪はゆっくりとした手つきで静かに窓を開ける。
「さっきから何見てんの」
「え」
てっきり、脅しや強い言葉を投げかけられているのだと思っていた白雪は、思いがけず、とても平凡な声掛けをされて戸惑う。
「そこでプルプルしながらなーんもしないの、平和ボケすぎない?」
「わ、私の家で、何してるの」
白雪は声を張り上げる。自分でも情けなくなるほど、声と体が震えていた。
スマートフォンを握り締めながら、少年とはこれだけ距離があるのに、殺される、と思った。
一方、少年は半笑いで手につい汚れを洗い流し続けている。
蛇口を締める、キュッという甲高い音が響く。
少年は一階の部屋を指差し、出窓で硬直している白雪に微笑んだ。
白雪にとって少年が見せた笑みは、華やかで美しく、そこだけに光が舞っているようだった。
「侵入してからだいぶ経ってるんだけど、その防犯システムのシールって飾り?」
現実に引き戻すような言葉だった。
少年は確実に侵入者で、作動しているはずの防犯システムは用をなしていない。
「通報する」
白雪は、少年にスマートフォンの画面を見えるようにしながら言う。
「悪かったって。防犯システム、ちょっといじったから明日、業者呼んだ方がいいよ」
「え?」
この話しぶりからするに、防犯システムを作動しないようにしてから侵入したような言い方だ。犯罪者として正々堂々としすぎる言いぶりに、白雪の背筋には嫌な汗が流れた。
「ごめん、タオル貸して」
「そ、そういうこと、よく言えるよね⁉︎」
少年が悪びれもなくタオルを貸せと言ってきた態度に、呆気にとられた。
春とはいえ、夜は冷える。水に濡れた腕から体温は奪われていくだろう。
なぜか侵入者は平然と振る舞っていて、そのペースに白雪は流されてしまっていた。
いつの間にか、白雪の体の震えが治まってきていた。
白雪は釈然としない部分もありつつも、窓から離れて浴室へ向かった。
洗濯済みで綺麗に畳まれたフェイスタオルを一枚手にし、階段を上る。
自室に戻る途中で、父親の部屋に寄る。主のいない部屋は静まり返っている。
父親のクローゼットを開け、ハンガーにかかっているシャツを一枚手に取った。
こうしている間に逃げられているかもしれない。
それならそれで、危機が去ったとも言えるので、それでもいい。
白雪が自室の窓辺に戻ると、相変わらず少年は窓を見上げて、手持ち無沙汰に立ち尽くしていた。
「貸すんだから、返してよ!」
「無理。タオルの一枚くらい、どうでもいいっしょ?」
少年は鼻で笑うが、白雪はにこりともせず言葉を返す。
「じゃあ貸せない。これ、お父さんのお気に入りのシャツだから、なくなったら大変」
白雪は窓から腕を伸ばし、少年に見えるようにタオルと青色のシャツを見せる。
父親のお気に入りと言ったのは方便だが、これくらい言っても許されると思った。
「……明日、今くらいの時間、ここに来る」
舌打ちしてから、少年は不服そうに言う。それを聞いて、白雪はタオルとシャツを少年目がけて投げる。着地点は少年からズレたが、そう遠くない。
タオルを拾い上げ、体や腕を拭きながら、少年が話しかけてくる。
「あんたは恩人だよ」
次に拾い上げたのは、白雪の父のシャツ。少年が着るには、そのシャツは少し大きかった。
「困った時は助けてやるから」
少年の言葉に、嬉しさより少し困った気持ちになったのは、ここだけの話だ。
この少年が解決できる問題は、きっと危ない橋を渡るようなことなのだろう。こんなに当てにならない言葉もない。
そして少年は、シャツのボタンを留めると、さよならの挨拶もなしに、さっさと植え込みの中に潜り込んでいく。
そのまま跡形もなく消えて行ってしまった。
白雪は窓際を背にずるずると膝を抱えて座り込む。
恐怖心よりも、相手の美しさに見惚れてしまった自分に驚いてしまった。
そして自分が、恐怖心よりも好奇心を優先した行動をしたことに、もっと驚いていた。
まるで夢のような出来事だった。悪夢と夢の狭間の、とてもとらえどころのない夢。
翌朝、庭に昨日の痕跡がないか探していると、使用頻度の高くない園芸用品を収納しているコンテナの蓋が僅かに浮いているのを見つけた。
試しに開けてみると、パッと見は異変がないように思えた。念のために物を取り出しながら探っていくと、血まみれのTシャツがぐしゃぐしゃに丸められて詰め込んであった。
淡いグレーの無地Tシャツだったのだろうが、グレーの生地の色は血の色の隙間隙間で覗けるだけだ。
血の色はまだ赤く、つい最近ついた血なのは明らかだった。
少年が洗っていたのは、体についた血だったのかもしれない。
受け皿に流れいった水の中に混じっていたのは、手についた血の色なのかもしれない。
不思議と、手は震えなかった。
家政婦が来る前に色付きのごみ袋を用意して、血まみれのTシャツを詰め込む。
そして、燃えるごみ専用の有料袋に、そのごみ袋をさらに押し込んだ。奥へ奥へ。
学校に行く途中、このごみ袋をごみ収集所に捨てて行く。普段からごみ捨ては白雪がやっていたので、何の不自然もない流れだ。
あの少年が起こした、何かの犯罪の共犯者になったのかもしれない。
しかし、いずれあのコンテナを処分する日が来た時に、こんなものが出てきたら、それこそ大騒ぎになってしまう。
そして、報道された暁には代々続いているホテルチェーンの名に傷がついてしまう。
跡継ぎになるつもりは一切なくても、自分の行動が何を引き起こすかを考えながら生きなさい、と両親に言われて育ってきたのだ。
だから、ここで処分する方が最適解のはず、と白雪は自分に言い聞かせる。
こんな話をできる相手は、今いない。
どうか話を聞いてほしい、どうしたらいいか教えてほしい、と願えども、それはできない。
何も言わずに話を聞いてくれそうな人とは、もう連絡がつかない。
白雪はスマートフォンのカメラロールを探って、一枚の写真を出した。
白雪が見ている画面には、白雪が高校一年生の時の文化祭の写真が表示されている。
お化け屋敷の会場になった教室。段ボールで作ったブラウン管テレビの隣に屈んで、笑顔を見せる制服姿の白雪。そして白い装束を着込み、長い髪をぼさぼさにしてテレビから這い出てくるポーズをとる女。
「話したいです……渕之辺さん」
よりによって白雪は、このお化け姿の渕之辺 みちるの写真しか持っていなかった。
*
桜はあっという間に散って、だんだん暖かくなって、穏やかな春の夕方。
オープンテラスのカフェにいると、昼間の陽射しの名残を攫っていくような、爽やかな風が吹く。それがとても心地良い。
こんな清々しい空気の日に、何故ここに居るんだろう。
この場所が嫌なんじゃない。だってスタッフちゃんは明るく優しく接してくれるし、みんなかわいい。
このブルーな気持ちは何が原因って、何もかも全部梟のせい。
昨日の夜中に、ものすごく機嫌の悪い状態の梟から電話がかかってきたのが、運の尽きだった。
ベッドの隣のサイドテーブルに置いていたスマートフォンが鳴った瞬間、アユカちゃんは背中に爪を立ててきた。俺が他の女のコと連絡を取っているのを知っているから、着信音が鳴ると急に殺気立つ。
「電話出ちゃだめ」
吐息混じりの甘え声で、信じられないくらい強い力で体を絡み付けて、俺の動きを封じようとする。そこまで求められてしまうと、こちらとしても目の前のセックスの方が大事なわけで。
そのまま朝方にアユカちゃんを送り出した後、かけ直した。
着信があってから数時間は経過していた。
「ごめぇんね、遅くなった! すぐ折り返そうと思ってたんだけど、なかなかタイミングなくて、本当にごめんってば」
1コールで電話が繋がった瞬間、とにかく早口で謝った。
電話口の梟は煙草をふかしているのか、喋り出すまで数秒かかった。この沈黙が重苦しくて嫌だ。
『セーフハウスを見つけてこい』
「はい?」
それが、夜中に電話をかけてくるほどの用なのだろうか、と思った。
『賃貸でいい。家賃に糸目はつけない。即入居できる、お前が考え得る、最高のセキュリティーの物件』
ここまで限定してくるんだから、何が起きたか察せた。
『その物件の契約が終わったら、スペアキーを当日中に用意しろ』
「それくらい自分でやればいいじゃん」
『蠍と出くわした精神的ストレスで寝込んでる』
「白々しい嘘を堂々と言うねぇ」
思わず吹き出した。
どうせ咥え煙草で、手持ちの銃器の手入れをして、いつ襲ってこられても対応できるようにシミュレーションしてたのだろうに。
『お前には、白を黒にできるようなコネクションがあるだろうが』
そりゃ、俺は情報屋ですからね。頼られたら悪い気はしませんよ。
「そうは言っても、物件探しに時間がかかるよ。その間は別のホテルで暮らせば」
『分が悪い』
蠍が、梟が好んで泊まるようなハイクラスのホテルで暴れる様を想像すると、最悪の絵面なのは間違いなかった。
「ちなみに、今後ミッチーと暮らすつもりなのか否かで、物件探しの際の間取りが変わるんだけどさ?」
『間取りなんかなんでもいい』
シティホテルの大きめの窓から見た明け方の空は、薄く白んでいて、遠くのものほど見れば見るほど靄がかかっている。
「見てるこっちとしては、蠍とミッチーとお前の三角関係とか面白くてしょうがないんだよね」
『くだらない』
電話の向こうの男は、煙草のフィルターを噛みながら、無意味なやり取りだとうんざりしているのだろう。くだらないと思っているのは俺も同じ。
こうしてくだらない話ばかりしているけど、かけ直すのが遅くなった詫びは、ちゃんとしよう。
「クガの家に、フチノベ母娘が武器屋だった頃の在庫が保管されてるらしいよ」
『クガ。何度も出てくる名前だな』
この反応だと、クガが何者なのか、ちゃんと覚えているのか怪しい。とはいえ、こいつがミッチーに在庫の話をすれば、クガの名前に辿り着きそうだから、放っておいても良さそうか。
『じゃ、午前中に全部終わらせて、終わったら連絡してこい』
「午前中っておい」
こっちが言い終わる前に、電話は勝手に切られていた。
そこからフルスロットルで駆けずり回って、物件探しから契約まで俺の名前で終わらせて。錠前がカードキーの物件だったから、無理を言ってスペアキーも用意して。
そこまで終わったのが15時過ぎ。梟に電話したら、開口一番「遅い」だった。遠慮を知らない男で本当に腹が立つ。
腕時計に目をやると、もうそろそろ17時になるタイミングだった。
コーヒーカップに残っていた最後の一口を飲み干して、そろそろ席を立つ。
スーツのジャケットを小脇に抱えて、伝票と一緒に、小さな紙袋をレジにいる女のコへ渡した。
「これを、フチノベさんに渡してもらっていい?」
何度か通っていて、この前一緒にご飯を食べに行ったりしたレジ担当のコは、にこやかに受け取ってくれる。
「この前、僕の友達が世話になったみたいで、お礼の品なんだ」
フチノベさんに渡しておきますね、と答えたその女のコに、「ありがとう、またご飯行こうね」と社交辞令も言っておく。
会計を終わらせて、俺の今日最後の面倒臭い仕事は終わり。この後はもともと約束していた女のコとディナーの約束があるんだ。
今、レジを担当した女のコは真面目なコだから、すぐにバックヤードに向かうだろう。
シフトの入れ替わり前の時間帯で、スマートフォンでも弄りながら時間を潰しているじゃないかな。
そこにレジのコが紙袋片手に現れて、
「みちるちゃーん」
「あ、おはよう」
「みちるちゃんが来る前にお客様が渡して行ったヤツなんだけど……その人の友達が、みちるちゃんにお世話になったお礼、って」
それを聞いて、絶対、面食らった顔をしてるはず。
「え」
「時々来る、日本語ペラペラのチャラい外国人。知らない?」
「時々? チャラい? わかんないかも」
「あれ? みちるちゃんがシフトの時には来たことないのかな?
めちゃくちゃ顔が濃くて、とにかくすごいチャラいおじさん。私の趣味じゃない」
「あぁ、なんかわかる。クソ馴れ馴れしいウザ客ってどこにでもいるよね」
カッコよくてスマートな俺の話をされて、そんなイケメンなら会ってみたかった! って悔しがってたりして。
その後、俺がまだ近くにいるはずだと思うはずだから、こんな質問をするんじゃないかな。
「そのお客様が帰ったのって、何分くらい前?」
「10分くらいかな」
ミッチーはそれを聞いて、追いかけようにも追いつく距離じゃないと諦めるんだ。
そして狭いバックヤードで、人がいないタイミングを見計らって、渡された紙袋の中にある、ブランドの箱に入ったプレゼントを開ける。
その箱の中のカードケースに入っているのは、一枚のカードキー。
ご丁寧に住所のメモも入れた。ついでに俺の電話番号も書いておいた。連絡が来たらラッキー、くらいの気持ちで。
どうせミッチーは、見ず知らずの、しかもリエハラシアから来た人間を信用はしないだろうから。
俺に連絡してくるのは、梟が身動き取れなくなった時か、死んだ時。
そのメモを見て、ミッチーは察するんだ。
「”蠍”が来た」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、こんな風に呟いているかもしれない。
*
インターフォンを何度か鳴らされたが無視した。だいたい10分後、痺れを切らしたフチノベ ミチルが、スペアキーを使って解錠する。
それでも玄関のドアを開けようとはしない。気配を探りながら、慎重にドアノブに手をかける。
信用されているなら、拳銃を出さずに入ってくる。信用されていなければ、拳銃を構えながら入ってくる。
狐に用意させたソファから身を起こし、玄関の方を見遣る。
現れた女が手にしていたのは小さな紙袋で、恐る恐るリビングに入ってきた。
「回りくどいやり方をしますね」
自分の姿を確認すると、明らかにホッとした様子を見せる。
「何が」
「昨日電話で喋った人、バイト先に来たみたいで」
「へぇ、あいつと会ったか」
直接会わないようにしている、と以前言っていたはずだが、スペアキーの受け渡しのために会ったのかと思った。だが、フチノベ ミチルは首を横に振る。
「私が出勤する前に帰ったようで、差し入れの紙袋に住所のメモとカードが」
そう言いながら、見せつけるように持っていた紙袋を突き出してきた。
どうやらスペアキーは第三者の手を経て、フチノベ ミチルの手に渡ったらしい。随分とリスキーな方法を取ったものだ。
「それでよく俺の住所だとわかったな」
「状況が状況なんで」
フチノベ ミチルはリビング全体を見回して、ぼそっと呟く。
「めちゃくちゃいいお部屋」
「お前の部屋がひどすぎるだけだ。これでも妥協した」
「妥協、とな」
「妥協」
より望ましい条件として挙げた部分はかなり目を瞑り、最低限の条件だけを叶えた形で、この物件にした。
咥えた煙草に火をつけ、目を合わせないようにフチノベ ミチルの手や足に視線を遣る。
「お前が昔暮らしてた家の方が、いい部屋だったろうに」
銀座に程近いマンションはなかなかの広さだったと聞いている。
フチノベ ミチルの母親の名義で十五年前に購入しており、その物件を売却するまで住んでいた、と。
「三人暮らしと一人暮らしじゃ、体感できる広さが違う」
三人暮らしという言葉がすんなり出てくる。そう遠くない過去には、母親ともう一人がいた、とわかる。
それは二、三年前から消息不明になっている父親だろう。
この女の父親の消息は、いまだに狐も探し出せていない。
「ちゃんと探せばもっと安くて、すぐ入居できるところ、たぶんありましたよ」
座る場所を探しているらしく、自分が仰向けに横たわっているソファに視線をもらったが、この場所を譲る気はない。
フチノベ ミチルはソファに座るのを諦めて、その場の床に座り込む。
「こんな面倒な手段を取らなきゃいけないような状況ですか」
疑問形ではなく、確認するニュアンスの語尾。それには明確に答えなかった。
「狐は色んなところをフラフラするから、一貫した行動をしているように見えない。蠍が狐を尾行していたところで、ここまで辿り着くのは無理がある」
「同じ仲間同士だったなら、そういう手の内はわかってるんじゃ?」
「仲間じゃない」
蠍の仲間と言われるのは、屈辱すら覚える。
「あいつの欠点は短気なところだ。執念深く追い回すなんて真似は、死んでもしない」
「なら、早々にカタがつきますね」
フチノベ ミチルは視線を横に向け、何もない壁を睨みつけて、鼻で笑った。
壁の向こうに、蠍の顔を思い浮かべている。
この女の言う通り、すぐに決着する。
「なら、こんないい部屋借りる必要ないんじゃ」
「もし俺が蠍に殺されたら、ここにはお前が住めばいい」
「え?」
フチノベ ミチルはきょとんとした顔で、気の抜ける声を出す。
「あんなボロい家よりマシだ」
流れで契約した部屋だ。金は口座から黙って引かれていく。自分が死んだ後、誰も解約しなければ、この女が住んでも住まなくても何も変わらない。
真っ黒な瞳が、ゆっくり瞬きを繰り返す。浅く息を吸い込み、吐く。それから、
「蠍に殺されるって本気で思ってる?」
言葉にする。
「実際のところ、運次第だ。人体っていうのは、簡単に死ぬ構造をしている」
「やめてよ、そんな風に言うの」
「平和な脳みそでおめでたい」
この女と自分の価値観が微妙に噛み合わないのは、環境のせいなのか、性格のせいなのか、よくわからない。
「俺もあいつも、命が惜しいと思ってない」
蠍はいざ知らず、少なくとも自分は狙撃手の矜持として、いざとなれば自らの手で死ね、と言われてきた。
「それに、お前はあいつを殺せない。あの時だって、手も足も出なかったんだからな」
あの夜。
自分たちがクーデターと言われる作戦に関わったあの夜、この女は、蠍を殺せなかった。
一年経って、あの時以上に何かができると思っているなら、楽観的すぎる。
自分が吐き捨てた言葉に、フチノベ ミチルは唇を噛み締め、ぐっと押し黙る。膝の上で握った拳に、力が入っていた。
反抗的な、怒りを露わにした眼が、自分を睨んでいる。
やろうと思えば徹底的に感情を排せるはずなのに、ところどころ、こういう不器用さが発露する。
しばらく黙らせて、こちらは燃え尽きた煙草をコーヒーの空き缶に捨てる。
頭を冷やせるほどの時間を作るつもりで、ゆっくりと新しい煙草に火をつけた。
「ところで」
ここで話を切り出す。
「何が物騒なものは持っていない、だ」
咥えた煙草に火をつけながら喋るので、声がくぐもる。
「クガってヤツのところに在庫を移動させたな」
クガの名前が出ると、一瞬、黒い眼が見開かれる。そして何事もなかったように、元に戻る。
「あなたの情報屋さんは、本当に有能だね」
痛々しい作り笑いをして、女は言葉を続ける。
「在庫移動じゃなくて、譲り渡した。私の所有物じゃない」
「詭弁だ」
すらすらと言い訳が出てくる。よく言えば頭の回転が早い、悪く言えば、悪知恵だけ働く。
「もう一度引き取れるなら、そうしてくれ」
「蠍のために?」
間髪入れずに尋ねられる。そこまでわかっているなら、話が早い。
「引き取ったら、ここの空き部屋に移動させろ」
「得意な銃種は? リクエストがあれば」
フチノベ ミチルが、すっと真顔になった。リクエストを聞けるほどの種類はあるのだろう。
「何でも構わない。あるもの全て。装備を一から揃える手間と時間が惜しい」
「わかりました」
自分の回答を聞いて、フチノベ ミチルは小さく一回頷く。
「手放さなかったのは賢明だった」
目の前を過ぎっていく煙草の煙を眺めながら、独り言ちる。
フチノベ ミチルが在庫類を処分せず、しかもすぐに取り戻しやすいようにしていたのは、思いがけない幸運だった。
「手放したものが取り返せなくて、いつも何度も後悔した」
狐にこれ以上頼み事をすると、そろそろつけ上がられるタイミングで、武器の在庫が手に入る目処が立った。それに少し安堵して、ぼんやりと呟いていた。
「何を手放した?」
僅かに首を傾げて、こちらを伺う黒い眼が、真っ直ぐ見つめてくる。
「もう観ないだろうな、と思って処分したAVとか」
「うん?」
「探してももう二度と手に入らないこともあって、その悔しさは例えようがない。
仕方ないとはいえ、故郷に残してきた大切なコレクションを回収も叶わない今、損失の大きさに絶望している」
「クーデター実行犯が、国外逃亡して漏らす後悔が、それ? それでいいの?」
自分が任務でやってきた事実に対して、国のためだとか、そんな大仰な後悔はそもそもない。
自分が決断して処分したコレクションについては、取り返しのつかない後悔をしている。
「故郷に置いてきたコレクションの、そのほとんどが入手困難になってる上に、手元にない作品の方が個人的にも価値が高い。今すごい後悔している」
「わけわかんないけど、そこまで後悔できるもんなんだ」
膝に置いた手は硬く握りしめたまま、フチノベ ミチルは困り顔をして言う。
「俺が日本に来た理由の半分は、高クオリティのAVをたくさんコレクションするためで」
「あー……理由の半分がそれか」
以前、日本に来た理由を尋ねられた気がするが、その時なんて答えたか忘れてしまった。
「シチュエーションにこだわりがあるし、ジャンルも幅広いし、演技の部分が見てられないほど雑なのも含めて、ある種の芸術になっていて素晴らしいと思う」
「うん、その話長くなる?」
「申し訳程度のシナリオに対し、計算されたカメラワーク、シチュエーションへのこだわり、どんなニッチな層にでも供給されるジャンルの幅の広さ。こんな質の高い環境なのに、それに驕ることなく日々、新しいAVは生まれ続けている、これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶ」
「いや、知らんて」
「だが勘違いするな。
俺は生身の人間が死ぬほど嫌いなんだ。他人に触られるなんておぞましくて無理」
話のついでで、フチノベ ミチルの家の前で腕を掴まれた瞬間を思い出すと、今でもぞわぞわとした感覚が走る。
「作り物の他人の裸の絡みは見るんだ? わけわかんない」
その通りで、フィクションだからいい。
「だから、残念かもしれないが、お前に一切興味がない」
狐が茶化してくるような事態は起きないし、そういうネタで絡まれるのが本当に面倒臭いのだと理解してもらいたい。
「逆に、興味持たれてると思ってた? 意外と自意識過剰だね?」
思っていたよりばっさりと、ああ言えばこう言う女だ。