Highly-classified
夕暮れ間近の空は、橙色の光と薄暗い青が混ざり始めていた。
住宅街の路地に行き交う人の数は、建物の数に比べると少なく、年代も高い。
少し離れたところにある踏切の遮断機から聞こえる警報音、合わせて響く電車の音をBGMに、鍵穴に細いピンを挿し入れ、解錠する。このタイプの錠前をピッキングするのは簡単だ。
ドアを開ける前に、蝶番のある場所を確認していた。紙が挟まれていたり、侵入がわかる仕掛けがないかの確認だ。そういうものがないのを見てから、ドアノブに手をかける。
家主のいない間に許可なく踏み込むのは、やはり気が引けたが、今は致し方ない。
フチノベ ミチルが住んでいると言っていた、古めかしい集合住宅。二階の角部屋。そのドアをゆっくり開けた。
目の前に広がるのは、藍色のカーテンが隙間なく閉められ、空気の流れが止まった空間。部屋の電気をつけ、全体像を見る。
部屋の片隅に、きっちり畳まれた布団。その脇に、小さな黒いローテーブルが置いてある。
ローテーブルの上には、しまい忘れたらしい卓上ミラーが一つだけ。
ローテーブルの下、さほど大きくないサイズのプラスチックのカゴに化粧品が整列していた。それぞれが何に使う化粧品なのか、自分にはよくわからない。
見た感じでは安そうなパッケージデザインの化粧品が、限られたスペースに合わせ、パズルのように配置されている。
畳張りのワンルームの奥にある、曇りガラスに似せたプラスチックが嵌められたドアの向こうには、小さなユニットバス。
ユニットバスの床に置かれたシャンプーやコンディショナーの類。コンビニエンスストアでも買えるような、一般的なメーカーのもの。
この部屋のどこにも、フチノベ ミチルや家族の写真はない。
だが、自分だって写真など飾る人間ではないし、そこについては、不自然と言えない。
部屋の壁際には、ハンガーラックがある。そこに、はっきりと自分の記憶に残っている服が、かかっている。
使用感のあるダウンジャケットがかかっていて、それが大統領府から逃げ出したあの夜、国境付近の瓦礫の町で見繕ってやったものだったのを思い出す。
もう着ないだろうに、当時より綺麗な状態でここにあるのは、わざわざクリーニングでもしたのだろうか。
次に押し入れを開けると、白いビニール袋がどっさりと並んでいた。
持ってみると、さほど重くはなく、中に紙袋が入っているのがわかる。申し訳なさを少し感じながら中身を見ると、紙袋の中に錠剤が何シートも入っていた。薬についての説明書きが四つ折りにされた紙も入っている。
自分は、日本語を喋るのに苦労はしないが、漢字の読み取りは不十分なので、その説明書きを一枚、拝借していく。
フチノベ ミチルがいつも肌身離さず持ち歩いているチョコレートは、この部屋には一つもない。手付かずの薬の山と、ハンガーラックに掛けられた服、化粧品。
フチノベ ミチルがここに住んでいるのは確かだというのに、住んでいる人間の個性が見えてこない。
たとえば、シャワーカーテンは曇った白。布団カバーは薄緑。窓のカーテンは藍色。ローテーブルは黒。それらは全て無地のもの。
好きなものや色を揃えたり飾ったり、そういう個性がない部屋。
フチノベ ミチルは自分と同じように、インテリアに無頓着なのだろう。
そう思いたい反面、自分がインテリアにこだわらなくなった理由は、寄宿舎での暮らしが長かったせいなのと、口酸っぱく教官から言われていた言葉のせいなのも思い出す。
宿舎なんか、どうせ寝て起きるだけの場所だ。モノなんかゴミになる。
サハラがそんなことを、フチノベ ミチルにも言って育てていたなら、この部屋の味気なさも納得できてしまう。
部屋の電気を消し、侵入する時に使ったピンで施錠した。陽が沈み、薄暗かった青い空はもはや濃紺になりつつあった。
*
一目見て、殺伐とした空気が漂っているのがわかる。
フチノベ ミチルの家から、入院先の医療施設に向かった。
もう面会時間は過ぎているが、話をしに来たのだ。
一階の受付は無人だった。その代わり、ERは複数人の男の叫び声や怒号が響いていた。怪我の処置が痛いだのなんだのと騒いでいる。
受付を通り過ぎると見える、待合室のような場所の細長いベンチに、見知らぬ男が座っていた。
男の顔は奥の壁を向いている。
そこには、ギザギザの前髪で嘲るような笑みを口元に浮かべるフチノベ ミチルがいる。
殺気立った険悪な空気は、すぐにわかった。
気配を消して佇んでいても良かったが、ここはあえて気配を消さず、自分がいるのを気づいてもらう。
期待通り、ベンチに座る男は振り向いて、こちらを見た。
瞼や目尻に皺が刻まれた、灰色の眼。銀色の短髪、彫りの深い顔立ちの初老の男。
身なりは清潔で、仕立ての良いスーツを着込んでいる。服の上からでも、それなりに鍛えた体をしているのはわかる。
その男はこちらに向かって、穏やかに微笑みかけてきた。
私はそろそろ帰るよ、とこちらを向いたまま、日本語で男は言う。
フチノベ ミチルは何のリアクションもしない。男が立ち上がると、ベンチが軋む。立ち上がった男は颯爽とした足取りで、自分の隣をすれ違った。
「До свидания(さようなら)」
こちらを一瞥し、かけてきた言葉はロシア語。
男とすれ違った時、柑橘とハーブ系が使われた香水に混じって、仄かに煙草の匂いがした。
醸し出すのは、類を見ない存在感。この男が誰か、名乗られなくてもわかる。
自分の姿を視界に入れているだろうに、フチノベ ミチルの、苛立ちと嫌悪の混ざった黒い瞳は、男の背中を見つめている。
男が腰掛けていた場所に座るのは気が引けて、ベンチの中央に座る。ベンチが軋む音は悲鳴のようだ。
点滴スタンドを支えに、フチノベ ミチルが近寄ってくる。フチノベ ミチルも男が腰掛けていた場所を避け、自分の目の前を通り過ぎてから、隣に座る。ベンチがまた悲鳴を上げた。
真正面にあるのは、無人の受付。
メインの電灯を落とした一階でも、相手の姿形や表情まで見えるのは、受付の電灯のおかげだ。
「あれが、イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー」
お互い、真正面にある無人の受付を向いたまま話す。
「そうです」
フルネームでわざわざ言うんだね、と苦笑混じりに言われる。
受付にいるはずのスタッフは、処置で大騒ぎしている怪我人の応対に追われているのだろう。一向に戻る気配がない。
「武器商人はみんな、目が笑っていないんだな」
「武器商人みんなが、こんなじゃないですよ」
先ほどの張り詰めた空気を吹き飛ばすように、軽快に笑ってみせているが、フチノベ ミチルの眼はイヴァンへの苛立ちをまだ宿している。
わざとなのか、こちらを一切見ずに、フチノベ ミチルは尋ねてきた。
「どうしました?」
「話がある。そしてお前には、隠さずにちゃんと説明をしてもらいたい」
こちらもフチノベ ミチルを見なかった。
「お前の父親、育ての親。2年くらい前から消息を絶った男。そいつの過去を聞いたことは」
そこまで言ってから、視線だけをフチノベ ミチルに向ける。
フチノベ ミチルの視線と顔は、真正面を見たまま動かない。横顔だけ見ても、殴打痕が目に留まる。痕の何個かは、靴の底で思い切りやられたものなのがわかる。
「いきなりですね。父のこと……そうですね、生まれは東ヨーロッパの国だと。どこの国かは言ってなかったです。英語とロシア語が得意だけど、日本人の両親のもとで育ったから、日本語も喋る」
澱みなく話される言葉は、以前聞いた時と変わらない。
「昔、リエハラシア軍で、育成期間中の候補生たちの教官をやっていたとは、聞いていないか」
フチノベ ミチルは唇を半開きにして、眼を見開いている。
「はい?」
何を言われているのか理解できていない、そんな顔だった。フチノベ ミチルの左手に握られているスマートフォンを指差し、
「写真が残っていたら、見せてくれ」
そう言うと、フチノベ ミチルはスマートフォンのロックを解除して、画面を操作した。
「3年くらい前の、ですけど」
フチノベ ミチルはスマートフォンをこちらに向けて、画面を見せてくる。そこには一枚の画像が表示されている。
制服姿のフチノベ ミチル。
隣にいるのは、あの日、応接間で頭や四肢を撃ち抜かれていた中年の女。
その隣に立っているのが、色黒な肌で白髪混じりの短く切った、黒髪の男。
何かの式典の写真だろうか。フチノベ ミチルの両隣の男女はフォーマルに近い装いをしている。
画面に収まっている三人は、目元や鼻筋がどこか似ている気がした。自分はアジア人の見分けがつかないから、細かい差を見分けられないのだと思う。
ただ、はっきりわかっている事実はある。
「この男」
黒い眼、細く切れ込んだ目尻、太めの眉。笑っているのか、いないのか、口元は僅かに緩んでいる。
その口元は、人を死神と呼んだり、喫煙者のくせにこちらが吸っていると注意してきた時に見せた、意地の悪い笑みの時の唇に似ている。
「サハラ。故郷ではサハラと名乗っていた」
思わず笑いが漏れてしまった。
画面を見て、薄暗い空間で笑っている自分の姿は、さぞかし不気味だろう。
いつものように笑うと不気味だと言われるかと思っていたのに、フチノベ ミチルはスマートフォンをこちらに向けたまま、神妙な顔をして固まっている。
「狐にまんまと騙された」
あの男が知らないはずない。調査対象に関して、徹底的に調べる性分の癖に、ここまで情報を隠していたのは、悪意しかない。次会う時には必ず殴る。
「……母と私の前では、阪原 秀哉って名乗ってました、けど」
こちらが脳内で狐に対して罵詈雑言を吐いている間に、フチノベ ミチルがぼそりと言った。声に覇気がない。
「サカハラ。似たような名前を使ったんだな」
サハラに、一文字増やした名前。フチノベ ミチルのスマートフォンにあった画像の男を思い浮かべながら口に出してみると、違和感がある。サハラはサハラだ。
「故郷の話は一度もしなかったのか」
「はい」
フチノベ ミチルはしっかりと頷く。スマートフォンを手の中に戻して、画面に視線を落としていた。時刻は20時3分。
「サハラはなぜ日本に来たと話していた」
「自分の父親に会いに来た、そうです」
故郷から逃げ出したサハラが、いまさらになって己のルーツを辿りにでもきたと言うのか。
「そこで母と出会った。ついでに私も引き取った。それは全部、成り行きです」
唇だけ無理矢理笑う形にしたフチノベ ミチルは伏し目がちに喋る。
「成り行きの割には、サハラは熱心に教育したんだな」
成り行きと片付けるには、あまりにも。
「お前は身のこなしが素人じゃない。蠍とホテルで立ち回っていたのを見た時、確信した」
サハラがこの女にある程度の軍事教育を施した理由がわからない。何せ、この国で必要なものではない。
「それは、褒め言葉として受け取っておきますね」
フチノベ ミチルが浮かべたのは愛想笑いだ。
「でもあの時の蠍は、100%の力じゃなかったですよ。ヒナちゃんがいたから手加減してた」
そうかも知れない。フチノベ ミチルもヒナカワの前で詰めを誤った。サハラが育てたにしては、脇が甘い。
「俺に尾行された時は、どうまけばいいか手に取るようにわかっていただろう」
フチノベ ミチルの家を特定するために尾行した夜を思い出す。
どこから現れたのかと思ったが、そもそも尾行の手法を見抜かれていたのだろう。だから対処された。
自分がサハラから教わったことは、サハラによって裏をかかれたと言っていい。
「私が教わったのは、基礎的なことだけ。だから、とてもじゃないけど、あなたたちには敵わない」
この女は、眉毛を下げて笑って謙遜しているが、どこまで本当なのかわからない。
サハラは、この女には故郷で過ごした過去を話さなかった。この女の母親には、言ったのだろうか。
もし、母親が知っていたのだとしたら、サハラが姿を消した後にリエハラシアへ出向いたのは何の思惑があったのだろう。
それすらも成り行きだと言い張るのは、無理がある。
「お前と母親は、どうしてあの日リエハラシアに来た」
「商談があったから」
そう言いながらフチノベ ミチルは、高級そうな紙袋の中身を覗き、掌より一回り大きいサイズの箱を手にする。おそらく、イヴァンが持ってきたものなのだろう。
「軍の幹部からか? 大統領か?」
「大統領と軍は、最初はイヴァンに話を持ち掛けたんです」
包装紙を丁寧に剥くと、黒い箱が姿を表す。
「イヴァンはその時、別の案件にかかりきりだったから、知り合いの武器商人に話を持って行った。武器商人にも、横の繋がりっていうのがあるんで」
箱を開けると、一個一個仕切られた一口サイズのチョコレートが詰まっていた。フチノベ ミチルはそのうちの一個を摘むと、頬張った。
「正直、うちは武器商人の中では収益が最底辺だったから、実入りの大きい話は乗っかりたかった」
「意外と小物じみた話だな」
私たちは小物なんですよ、とおかしそうに笑っているが、ぴりぴりと張り詰めた空気を漂わせている。
「イヴァン絡みなのは苦々しかったけど。しょうがなく、商談に乗った」
チョコレートの箱を持った手が、自分にも差し出される。手に取る素振りを見せないと、催促するように再度突き出される。
「母としても、イヴァンと接点は持ちたくないけど……持ちたいと思っていたし」
「サハラの行方を知るために」
話しながら、色の薄いチョコレートでストライプの模様がデコレーションされたチョコレートを摘んだ。箱を突き出していた掌が、やっとフチノベ ミチルの膝の上に戻る。
「もちろん、あの男は口を割らなかった。秀哉さんの情報はもらえず、リエハラシアとの取引だけが私たちに残った」
シューヤという名前が出てきて、初めてこの女が普段サハラを何と呼んでいたのかわかった。
「それ、食べた方がいいよ。手の熱でも溶けるから」
フチノベ ミチルは、自分の指に摘んだままのチョコレートを指差した。
自分にはわからないが、包装や箱の見た目からして値段が高そうなチョコレートなのだが、甘いものに対して思い入れがないから、味はよくわからない。
会話が途切れると、フチノベ ミチルはチョコレートの箱からまた一つ選び、食べた。
ERで騒いでいた男の声は静かになって、受付の職員が戻ってくる。ベンチに無言で座っている自分とフチノベ ミチルを見て、一瞬ギョッとした顔をされたが、すぐに目を逸らされた。
サハラの名前が出てきて、ふとそこにあったものを思い出して、コインケースを手に取る。
「お前にやる」
小銭の中に混ざっていたメダイ。いつかの時に、サハラから渡されたものだ。
人差し指と親指で挟んで、フチノベ ミチルの前に差し出した。
「え?」
恐る恐る受け取る指先が触れた。
「昔、サハラが気まぐれに寄越してきたものだ。俺は要らない」
「これ、守護聖人エウスタキウスですね」
「よく知ってるな」
正教会ではエウスタフィ、カトリックではエウスタキウスと呼ばれる、猟師の守護聖人が彫られたメダイ。
「私、信者でもないけど、カトリックの学校へ通ってたから」
エウスタフィのメダイを持っていて、エウスタフィをエウスタキウスと呼ぶのは、この女の知識はカトリックの教えがベースなのだろう。
「信仰心もない癖にカトリックの学校に行ける神経が、理解できない」
日本は宗教に対して曖昧な立場の人間が多い。
仏教徒だらけかと思えば、神社もそこらじゅうにある。正直いまだに、この神様だらけの世界観にはついていけない。
「家から近くて便利なところに私立の高校があって、そこがたまたまカトリック系だった」
だからこんな理由でカトリックの学校に行ったりする人間も居る。
「動機がつくづく不純で恐ろしい。あと、俺は正教徒だから、カトリックとは違う」
「ちょっと教義が違うんでしたっけ? あんまり知らないですけど」
「これだから日本人はわかってない。どうして宗教に対してそこまで無関心なんだ」
カトリックと正教の違いも理解していないし、仏教の中にも様々な教派があると聞いているが、きっとそれも厳密には理解していないだろう。
「信仰の話すると、急に過激派になる人?」
「うるせぇな」
口が悪い言い方しかしないのが、この女なりの虚勢なのだろうが、気分は良くない。
「サバちゃんが神を信じるタイプだとは思わなかった」
意外だと言わんばかりの顔で言われる。
「人間と違って裏切らないからな」
目の前で平然と嘘をついたり、陰でコソコソ動いたり、耳触りのいい言葉ばかり囁いたり、そういうものとは唯一、無縁の存在だ。
「神に導かれて、今の今まで何とか生きている」
それを奇跡と呼ぶつもりはないが、ここまで生きてこられたのには、何かの意味がある。
「私は、自分の意志でここまできたと思ってますよ」
フチノベ ミチルはにっこり笑いながら、チョコレートの箱をまた突き出してきた。
「あの時、サバちゃんの手を意地でも振り払っていたら、ここに私は居ない」
フチノベ ミチルは自身で選んでここまできたと思っている。第三者や超自然的なもの、そういうものの意志は絡んでいないと思っている。
「あなたとまた会わなかったら、秀哉さんがリエハラシア出身だったと知る手段もなかった」
何の装飾もないチョコレートを選んで取ると、フチノベ ミチルはベンチの座面に箱を置く。フチノベ ミチルと自分の間の微妙な隙間にチョコレートの箱がある。
「時間はかかったけど、少しずつ、真相に近づいているんだと思う」
フチノベ ミチルはどこかホッとした顔で、虚空を見ている。
「事情を深く知っているだろうイヴァンも、日本に来たしな」
自分がそう言うと、背中を丸め、小さな笑い声を漏らしてフチノベ ミチルは右手で頭を抱える。この笑いは自嘲に近い。
「怪我が治ってから会いたかったなぁ」
フチノベ ミチルは溜め息混じりで苦い顔をする。
「イヴァンが執着していたのは、お前の母親だろう?」
母親や母親の仕事に、危険を感じるほどの執着と邪魔をしていたのは聞いていたが、フチノベ ミチルがここまでイヴァンを苦手とするのが、よくわからなかった。
「私が初めて人を殺したのは、イヴァンが私に差し向けた殺し屋」
そこまで聞いて、やっと理解した。
サハラがこの女に軍人のような所作を教えた理由は、驚くほど簡単だった。
「イヴァンは、母とヨリを戻すのに邪魔だった私を、殺したいほど憎んでる」
蠍がいなくなったと思えば、今度は別の厄介事が舞い込んでくるのだ。
***
21時過ぎ、カタカタとキーボードを打つ音と、缶飲料の蓋を開ける乾いた音が、人気の減ったオフィスに響く。
「仕事熱心だねぇ、加野っち」
無造作に整髪料でまとめた色素の薄い茶色い髪。同じく色素が薄い、茶色の虹彩の垂れ目に、無精髭。皺が目立つグレーのスーツ。歳は40代に差し掛かるくらい。
それが、公安部外事課に勤務する加野杏樹の上司だった。席は杏樹の真後ろだ。
「その呼び方やめて下さい、真咲さん」
自分の背後から声を掛けられた杏樹は、振り向きもしない。
「いい情報もらったん? 何か一人でコソコソやってるみたいだけど」
杏樹から、真咲と呼ばれた男は、自分の椅子を回転させて、杏樹の背中を真正面から見ている。
「今、その情報を精査しているところです」
30分ほど前から、過去の捜査情報が管理されているデータベースにアクセスしているのだが、検索結果が0件と表示される。焦っている杏樹は、後ろを振り向かない。気持ち、キーボードを叩く音が激しくなる。
「加野っちー、そんなにイライラしてるとお肌に悪いよぉ?」
「そういう言い方、ハラスメントで訴えますよ⁈ どうしてそんなにデリカシーないんですか⁈ なんでいつも私にダルい絡み方をしてくるんですか‼︎」
真咲の言葉に、振り向きざまに杏樹は早口で畳み掛けた。
「おぉ加野たん、マジでイライラMAXな。仕事手伝ってやろうか」
のんびりした口調とへらへら笑う真咲に相反して、杏樹の顔は苛立ちを露わにして声を荒げている。
「手伝わなくて良いです‼︎ 加野っちとか加野たんとか、呼び方がフラフラしてるし、本当に何なんですか‼︎」
呼び方など、実際は大した問題ではない。杏樹は席に座り直して、また指を動かし始める。
「加野っちが情報に振り回されてるから心配してやってんだぞー」
「知ったような口を叩かないでください‼︎」
上司に対して、あまりにキツい言い方をしているのはわかっているのだが、ここまで言っても響く相手ではないのを、この1ヶ月半ほどの期間で、杏樹は痛いほど思い知っている。
杏樹はEnterキーを押す指の力が全力になるが、振り向かないように必死で自分を抑えていた。
「データベースで出ないなら、捜査されてない、もしくは最高機密扱いかのどっちかだけどー? 別に手柄取らないから、言ってごらんなさいよ」
真咲はウインクを投げて、にこやかに微笑む。そのアイドル然とした佇まいに、杏樹は生気という生気が吸い取られていくのを感じた。
「捜査されていない、はずはないんです。絶対に」
杏樹は半分呻き声になりながら言う。真咲の方には、意地でも振り向かない。
「なぁなぁ」
真咲は、杏樹の真後ろまで椅子のキャスターを動かして近づく。
「何ですか」
喋る前にため息をついてから、杏樹は返事をする。
「加野たん、いくつだっけ」
「27、ですけど」
何の前触れもなく、歳を聞いてくるあたり、デリカシーがない人だと、改めて杏樹は呆れる。
「趣味は? ちゃんとリフレッシュして仕事しないとストレス溜まるよぉ? うちの仕事なんてストレスフルなんだから。俺なんか若い頃は、朝まで飲んで出勤して、部長にブチ切れられるのが、週5回くらいあったなぁ〜」
「今と大して変わらないじゃないですか」
「いや、部長に怒られる回数は減ったんだよ」
こんなだらしない上司の下に置かれて、杏樹は今春の人事に全く納得がいかない。
「俺についた部下って、何か知らないけど、みんなすぐ殉職しちゃうからさ、久しぶりの部下だし、加野っちでには長く居てほしいのよね」
真咲は、杏樹の後頭部にきっちりまとめられた髪の束を眺めながら、呟くように言う。
「それ、噂では聞いてましたけど、本人がサラリと言わないでくださいよ」
思わず振り向いて、困惑の表情を浮かべた杏樹に、真咲はクックッと低い笑い声を漏らす。
笑うと目がなくなり、人が良さそうな雰囲気を出す。それが、相手に警戒心のハードルを下げさせる。
現に、今の杏樹もそうだ。
「部下の協力者を調べるのも仕事のうちなんでな、まぁ、外事のベテランである真咲さんの長年の経験から言って」
真咲は杏樹の椅子の背もたれに手をかけ、クルッと回して、杏樹の体が自分の正面に向くようにする。
「加野たんの協力者、あの赤毛の、リエハラシアから来た男。すげぇ長い名前の」
赤毛の男。その言葉に、杏樹はグッと息を呑む。その男とは、昨日も会ってきたばかりだ。
「マジでヤバいオブヤバいので、本当は俺が関わった方がいいとは思ってる」
真咲は杏樹の様子の変化を見逃しはしなかったが、そこにはあえて触れずに、伝えたいことだけ口にする。
「仕事として割り切らないと、泥沼に頭のてっぺんまで埋まるんだよね」
「わかってます」
それは自分が一番わかっている、と言い返したくもなるが、杏樹は押し殺す。
真咲は椅子に座ったまま、キャスターを使って自席に戻ると、デスクの収納から未開封のビールらしき飲み物が描かれた缶を取り出す。
杏樹は気を取り直して、デスクに向き直った。真咲の動きは何ら気にせず、最高機密扱いの捜査情報にアクセスする方法がないか、画面と睨めっこしている。
杏樹が残業しているのを、真咲は見守っているだけだ。先に帰っても上から文句は言われないが、杏樹が新しい環境で四苦八苦しているのを放っておくほど、冷たくはない。
真咲が面倒見のいい上司なのは、杏樹もわかっている。
真咲は人の懐に入るのが上手く、気づけば懐柔されてしまう。捜査対象や情報提供者、協力者がこういう佇まいの人間なら慎重に警戒して向き合う。
しかし、上司なので警戒が緩んでしまうのだ。
「つくづく仕事熱心だねぇ」
真咲は再び、杏樹の真後ろまで戻ると、背後から手をニュッと伸ばした。
「まぁまぁ飲めや」
真咲の手にはビールの缶が握られていて、杏樹は真咲の方を振り返って睨みつける。
「職務中に何飲んでるんですか‼︎ しかも常温って‼︎」
「ノンアルコールビール」
「紛らわしいですよ!」
とりあえず缶を受け取るものの、杏樹はプルタブを引き上げたりはせずに自分のデスクの上に置くだけだ。
「今さぁ、俺の中で利きノンアルコールビールっていう企画が一大ブームを巻き起こしてて」
「そんなの知ったこっちゃないです!」
真咲のマイペースさに、杏樹はほとほと疲れ切っている。
不意に真咲は杏樹のパソコンの画面を覗き込み、入力途中のスペルを見た。
そして一瞬、目を見開く。杏樹はその様子を見て、何を調べようとしたかバレたと思った。
「あぁ、イヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキー。これは最高機密情報の案件だわ」
真咲はいつも通りの飄々とした口調で、口元に笑みを浮かべている。
「んでもって、加野っちはアクセス権限ないから見られないよ」
杏樹は真咲に、軽く肩を叩かれる。
「誰なら」
誰ならその機密情報にアクセスできるのか、と杏樹が聞こうとして言い切る前に、真咲は自らを指差す。
「真咲さんが?」
杏樹は真咲の方を向いて、聞き返す。
「つか、見なくてもココに入ってるけどね」
今度は頭を指差して、缶に口をつけたまま真咲は言う。杏樹は目を丸くして固まってしまった。
真咲は自席に戻ると、IDカードをパソコンのインカメラの前にかざし、手慣れた様子でパスワードを入力する。
「俺の端末からじゃないと開けないから、こっち来て」
真咲に手招きされ、杏樹は真咲の席に駆け寄る。
「加野たんが掴んだ情報ってどんなの?」
「日本に、来たという話です」
そう答えながら、杏樹は真咲のパソコンの画面を食い入るように見つめた。
そこにはイヴァン=アキーモヴィチ・スダーノフスキーの捜査情報のデータが、画面上にみっちりと詰め込まれていた。
「ほーん、なるほど。じゃ、加野たんは、みっちゃんを張ろうか」
「みっちゃん? みっちゃんってどなたで?」
知らない名前が出てきて杏樹は面食らうが、真咲は気にも留めない。
「これから見せる資料に名前があるから、覚えておいて」
真咲はノンアルコールビールの缶をデスクの端に置き、画面をスクロールした。
杏樹はそんな真咲の横顔に視線を遣る。真咲がいつになく真剣な眼差しをしながら、どこか生き生きと楽しそうにしているのが不思議だと思っていた。
真咲が外事課の精鋭だと、周囲の皆が認めている。だが、杏樹の前でその片鱗を見せてくれた試しがなかった。
杏樹が見ている今の真咲は、もしかすると精鋭と呼ばれていた時の姿なのかもしれない。




