4.
後ろから変な咳払いが聞こえる。
「あ、氷上君。もしかして聞いてた?」
「別に。それは、どうでも」
いつの間にか、氷上君も教室に戻って来ていたらしい。
「何? 女子に自分から近づくとか珍しいね。うちらに用事?」
エルちゃんは軽い調子で尋ねる。
「これ、よければ」
氷上君は徐にのど飴のスティックを差し出す。
のど飴は私の目の前だ。
「たまたま持っていたから」
「え?」
私は裏返った声を出してしまった。
「さっき、喉が痛いって」
「氷上君、優しい。何? どしたの?」
エルちゃんは驚きの声を上げる。
「いや、喉の痛み、カラオケのせいじゃなくて、風邪かもしれないし。必要なら薬も持っている」
氷上君は抑揚なく話す。
「え? 薬? ホントに突然、何?」
傍観していた結ちゃんも、そう言って首を傾げた。
「あの氷上君、心配しないでください。風邪じゃないから。でもありがとう」
氷上君はじっと私を見つめる。
「蓬莱さん。君の……。いや、いい。何でもない」
「ちょっと、やだ。氷上君が変に優しいことするから、田邊たちが睨んでるじゃない」
エルちゃんは小声でそう言い、教室の隅の女子集団に目を向ける。
氷上君もそちらに目線を移した。
なんだかその女子集団の方から悲鳴が聞こえる。
何の悲鳴か……。
私はその隙に氷上君を見つめた。
それにしたって、こんなに長い時間、氷上君を見ていたことがない。
本当に綺麗な顔をしている。
表情はないけれど、サラサラの髪も切れ長の瞳も、全てがすごく綺麗……。
「何?」
私の視線に気づいた氷上君が、不快そうに目を細める。
「ううん」
私は軽く左右に首を振った。
やっぱり無理。
聞きたい事はたくさんあるけれど、ねえねのふりをして質問することなんてできない。
長い一日だった。
自宅に着いて、私はねえねから琴羽に戻って伸びをする。
「一日中緊張し通しだったよ。ねえねのほうは、大丈夫だった?」
「にこにこ笑ってただけだし、こっちは楽勝だったよ」
ねえねは機嫌よく、体を左右に揺らしている。
私は今日の出来事を、ねえねにこと細かく話した。
「それにしても、ホントにタオル君が氷上君だったとはね。未だにちょっと信じられないな」
「いろいろ大変だったけど、ねえね、今日はどうもありがとう。やっぱり入れ替わってよかった。ねえねのおかげで、二人が間違いなく同じ人だって実感できたよ」
「どういうこと?」
「雰囲気が違っても、優しさは同じだったから」
「優しい、ねえ? 声をかければ話はするけど、普段は自分から積極的に女子に関わろうとしないんだけどね」
「氷上君は、ねえねのことが好きなのかな?」
「違うと思う」
ねえねは速攻でそう言った後、しばらく唸りながら考え込んでいた。
「琴、明日もう一日だけ入れ替わろう」
ねえねは真剣な顔でそう言った。
「さすがに、それはもう無理だよ。明日こそ絶対、氷上君にばれちゃうよ」
「それでいいじゃない」
「よくないよ……」
「ばれる前に聞きたいこと、いろいろ聞きなよ。もう、思い切って友達になってくださいって言っちゃえば?」
「ええ? それって私じゃなく、ねえねの状態で?」
「そう。それでうんって言ったら、琴羽でしたって、ばらしたらいいでしょ」
「完全に騙しだよね」
「彼は怒らないし、断らないと思うよ」
「そんなこと、どうして分かるの?」
「だって、あのタオル君が氷上君だったわけだから」
ねえねは笑って言った。
翌日、結局また入れ替わりを決行した私は、氷上君に話しかけようとした。
でも、彼は常に他の生徒に取り囲まれていて、声をかける隙がない。
入れ替わりがばれないという点ではいいけれど、なんの発展もなく、時間だけがただ過ぎてゆく。
そうして悩んでいるうちに、放課後になってしまった。
教室には、もうほとんど人が残っていない。
ようやく氷上君が一人になった。
私は意を決して彼に近づく。
ちなみに今日の私はマスクをしていない。
彼に余計な心配をかけないためだ。
「氷上君、あの聞きたいことがあるんですけど」
私は彼に声をかける。
「これから部活がある」
「終わるまで待ってます」
「待っていられても困る。今、手早く話せないのか?」
氷上君は面倒そうに答えた。
「じゃあ、あの、氷上君が好きなお花はなんですか?」
「は?」
彼の瞳が大きく見開かれる。
時間が止まったかのように、その状態が十秒ほど続いた。
「ああああ!!」
急に彼は絶叫する。
「な、なななんで? いいい、いつから?」
大声を上げて後ろに下がった氷上君は、思い切り机にぶつかった。
「大丈夫ですか?」
彼は答えず、固まっている。
ねえねじゃないことが、完全にばれてしまったのだと分かった。
「あの、実は昨日の朝から……です。ねえねのふりして、騙してごめんなさい」
「ねねねえね?」
「双子の姉の音羽です」
「あああ、そそそれは、そそうか」
私が知る、彼のいつもの話し方だ。
教室に残っていた若干の生徒が騒ぎだす。
けれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「ねえねと同じように、勝手に氷上君って呼んでいましたけど、これからもそう呼んでいいですか?」
「ももも勿論。どどうとでも。きき君の、すすす好きに」
氷上君は赤くなって俯く。
「氷上君、怒っていますよね?」
「ままままさか。おお怒っているとしたら、もっと早くきき気づけなかった自分にだ。き昨日も少し妙だとは思っていた。けけけれど、入れ替わっているなど、さささすがに考えてはいなかった」
彼は私を見ずに、そう言った。