温泉のプロ
麗奈たちは、楽しい楽しい釣りをしていた。
小さい時の治にとって、ペットショップを覗く以外の唯一趣味と言える行為である。
楽しくない訳がない。
と治は思って準備してきたが、どうやら麗奈も楽しんでくれているようなので一安心だ。
治「それじゃあ、釣りはこの辺りで辞めにしよう。」
麗奈「結構釣れたんじゃない?初めてにしては上出来でしょ?」
麗奈がドヤ顔を決める。
最終的に、治が8匹、麗奈が3匹で合計11匹も釣れた。
普通この川で釣りをして、1日に2匹釣れたら大抵の釣り客は満足する場所であることを考えると、数時間でこの釣果というのは、実は麗奈の言う通り中々の物である。
しばらく川が荒れていて釣り客が少なかったのと、荒れている川から避難できるような魚の溜まり場を見つけた治のおかげでもあるのだが、治としてはそれを言うつもりもなく、麗奈が楽しんでくれているのでそれでよかった。
麗奈「ところでさ、釣った魚ってどうすんの?炭火で焼くとか?」
治「俺一人ならそうしちゃうんだけど、今日は麗奈もいるし、折角だからプロにお願いしようと思ってる。」
麗奈「プロ?プロなんているの?」
治「いるよ。俺が結構小さい時からお世話になってるとこ。昨日のうちに話通しておいたから早速行こう。」
時刻は、釣りを始めたの自体が早かったためまだまだ昼前。
丁度移動時間と調理時間で昼食時になるだろうと治が考えた時間だ。
キャンプ場から少し歩くと、そこそこ歴史を感じる温泉旅館が見えてくる。
知る人ぞ知る……と言うほどでもないが、市内のお偉いさんたちが宴会や会議するときによく利用する場所だ。
名物は、川魚や山菜を使った料理と、万病に効くと言われる温泉。そして、爺さん連中の間で美人と評判の女将である。
治「小さいころから釣った魚持ち込んで買い取ってもらってたんだよね。たまに宴会料理の余りを貰ったりとか、温泉に入れてもらったりとか、お世話になりっぱなしだ。」
麗奈「へぇ。……え?買い取ってもらってたの?何歳ごろの話?」
治「小学校入るか入らないかくらいの頃から、今年度始まる直前までかな。ここの名物が川魚だからさ。結構持ち込んで売ってる釣り人がいるんだよね。養殖物も使ってるらしいけど、やっぱり天然物の方が人気があるとかで。」
麗奈「そ……そっか。」
そういえば治はそんな感じだったなと、改めて思い出す麗奈。
可哀想だと思えばいいのか、たくましいと感心すればいいのか反応に困るが、治としては別に辛い過去というわけでもないので、特に何とも思っていない。
麗奈「温泉旅館のランチだったらそこそこの値段するんじゃない?」
治「普通に作ってもらえばそうだろうけど、今日は釣った魚のうち、俺たちで食べる分以外を引き渡すっていう契約で支払いになってるから、大丈夫なハズ。」
麗奈「そんな事できるんだ?」
治「ここ以外でそんな事できるかわからないけど、顔なじみだからなぁ。爺ちゃんにアルバイト禁止されてからは、あんまり納品しにきてないなぁ。」
多く釣れた時には、気を利かせて持っていくこともあったが、金も受け取らないのにあまり持っていくのも気を遣わせることになると思い、週に1回行くか行かないかというペースになっている。
それでも、行けば温泉に入れてくれたり、食材をくれたりと、治に良くしてくれるので、治は自分の実家よりもここが好きだった。
立派な門を潜り玄関に入ると、和服姿の女性が出迎えてくれた。
旅館『流水宴』の女将、竹口由希子である。
若いころは相当モテただろうと思われる美人で、今でもオッサン世代より上にファンが多い女性だ。
女将「いらっしゃい治。今日は釣れたかい?」
治「こんにちは。そこそこかなぁ?今日はお世話になるね。」
女将「はいはい。ところでその後ろの奇麗な女の子は…。」
治「昨日話した友達の天音麗奈さん。」
麗奈「よ、よろしくお願いします!」
女将「こちらこそよろしくね。それにしても、治がねぇ…。」
何故だか遠い目をする女将。
久しぶりに実家に帰省した子供を見る母親のような表情だ。
治「ヤマメ7匹に残りニジマスかな。昨日話した通り、何匹か俺たちで食べて、残りは引き取りで。あ!一番小さいヤマメは、天音さんが初めて釣った奴だから天音さんの皿にね。」
女将「はいよ。できるまで1時間くらいかかるから、その間に温泉入ってきたらどうだい?」
治「そうするかな。麗奈もそれでいい?」
麗奈「う、うん。」
女将「じゃあこれが日帰り入浴用の浴衣ね。サイズは、治のがLで天音さんのがM。あとタオルとバスタオル。石鹸とかシャンプーなんかは浴場にあるから。」
そう言って女将は、治のクーラーボックスを受け取ってから足早に調理場へと向かう。
残った治と麗奈は、2人で大浴場へと向かう。
麗奈「なんかすごいね。慣れてる感じした。」
治「もう10年くらい通ってるからね。まあ普段は裏口からなんだけど、今日友達連れて行くって言ったら、それなら正面玄関から入りなさいって言われてさ。」
麗奈は、あまり社交的なタイプではないため、このように大人と気心の知れたと表現されるような会話をすることはそうそうない。
そのため、今の治と女将の会話を感心して聞いていたが、普段仏頂面の治より、学校でもトップクラスに人気のある美人の麗奈の方が、普通は相手も良い対応をしてきれるだろうことは置いておく。
この温泉旅館は、日帰り入浴も行っているのだが、前日治から話を聞いた女将が勝手に貸し切りにしてしまったため、今大浴場を利用しているのは治と麗奈だけである。
当然男湯と女湯で分かれてはいるのだが。
元々大浴場がそこまで大きいわけではないため、日帰り入浴の客は近くの温泉ホテルの方に行ってしまうようで、日帰り入浴の客はそこまで多くはない。
それでも、貸し切りとなると本来追加料金が発生するのだが、治が初めて人を連れてくるという事で女将のテンションが上がってしまったが故の貸し切りサービスである。
その女将も、まさか治が言っていた友達というのが女の子で、しかも超がつく美少女だとは思ってなかったので、内心嫁を連れて挨拶に来た孫を見たジジババのごとく頭の中がハッピータイムだったりする。
男湯と女湯に分かれて、それぞれ服を脱ぐ2人。
麗奈は、前日の夜に治がわざわざメッセで着替えも持ってくるように言っていたのはこれのためかと今更ながら思う。
見られても困らない少し攻めたものを着けてきたのはあくまで念のためである。
何かあった時のために念のため最近買ったものを、念のため着けてきただけだ。
別段何かを期待したわけではない。
麗奈が脱衣所から浴場に入ると、比較的オーソドックスで、いやがおうにも温泉旅館に来たと実感させられるような、そんなお風呂場が広がっていた。
決して大きいわけではないが、雰囲気の良い石造りとなっており、大きいガラス窓から見える外には、檜で作られた露天風呂もあるようだ。
特別温泉が好きというわけでも無い麗奈でも、ワクワクする程度には気に入ったようだ。
手早く頭と体を洗い、まずはと内湯に入ってみる麗奈。
少し暑めだが、入れないことも無い温度である。
壁に貼り付けてあるプレートには、万病に効くと書かれている。
流石に科学的根拠はないだろうが、今日の疲れが抜けて行くような気持ちよさは今まさに実感しているところだ。
今日の午前中は、麗奈にとってとても楽しい時間であったが、基本インドア派の麗奈には、そこそこハードな行程でもあった。
それを治が考慮したのかどうかは定かではないが、少なくともこのタイミングで温泉に入れた事で、麗奈は今日のお出かけの点数を120点にすることに決めた。
麗奈が絶賛脳がとろけるような感覚でいると、入り口の引き戸が開く音がした。
見てみると、先ほど玄関で会った女将が歩いてくるのが見えた。
女将「湯加減は大丈夫?」
麗奈「えっと、はい。」
女将「そう、よかった。ちょっとお湯の水質点検しに来たのよ。決まったタイミングでやらなくちゃいけないから中々大変なのよね。」
そう言って何か透明な容器でお湯をとり、検査とやらをしていく女将。
無事終わったのか、とったお湯を排水溝に捨てると、おもむろに麗奈に話しかけてくる。
女将「ところで、天音さんが治と友達って本当?」
麗奈「えっと……はい。少なくとも、私はそう思ってます。多分治もそう思ってくれてると……。」
女将「そう……。」
それを聞いて考え込む女将。
麗奈は、何か変な事を言ったかと少し不安になってきた辺りで、再度口を開く。
女将「彼女なの?」
麗奈「……え!?いやあの!違います!」
女将「そう、残念ね……。」
心底残念そうな顔をする女将。
麗奈としても、ドキドキするようなことは結構されたし、今日のお出かけはデートと言っても過言ではないのではないかと勝手に考えていたため、彼女を名乗ってやろうかとも一瞬思わないでもなかったが、流石に人前で宣言できるほどの根性は無かった。
麗奈は、基本軽いコミュ障で、初心である。
女将「治の事を小さい時から知ってるからね、どうも親になったような気分でついつい聞いちゃったわ。ごめんなさいね。」
麗奈「いえ……。あの、治ってどんな子供だったんですか?魚を売りに来てたって聞いたんですけど。」
自分がよく知らない頃の治の事が気になっていた麗奈。
唐突に聞かれた女将は、一瞬驚いた表情をするもすぐに嬉しそうに語りだす。
女将「この旅館の中にはで鯉を飼っているんだけれどね、その餌を町の方のペットショップで買ってるのよ。10年位前だったかしら?あの日も鯉の餌を買いに行ったら、ペットショップでじっと動物たちを見てる子供がいてね。それだけならそこまで気になるものでもないけれど、着てる服はボロボロで、肉付きもわるそうな子だったわ。」
一瞬悲しそうな表情になって口が止まるが、気分を入れ替えたようにまた話し出す女将。
女将「その子を見てたら、顔なじみのペットショップの店長が話しかけてきてね。なんでも、この子供でもお金が稼げる方法が無いかって。普通に考えたら雇うってことは年齢的に無理だって言ったんだけれど、何か已むに已まれぬ理由があるようだったし、それなら川で食べられる魚を釣ってくれたらウチで買い取るわって伝えたのよ。」
麗奈「魚を売りに来る子供って他にもいたんですか?」
女将「いないいない。でも、書類で契約を交わすような雇い方はやっぱり無理だから。魚を釣って持ち込む人たちは結構いたし、その人たちには現金で支払ってたから、その方法なら記録も残らないって思って提案したの。」
なんとなく想像はしていたものの、治が思ったよりもハードな子供時代を送ってそうな事に気が付いた麗奈。
それでも、初めての異性の友達の事は気になってしまう物で、話の続きをじっと待つ。
女将「最初のうちは、近くの釣り好きの爺さん連中に紹介して、危なくないようにしっかり仕込んでもらってたんだけど、いつの間にか問題なく一人で釣ってくるようになってね。その辺りで常連客の間でも話題になって来て、宴会で最初から一人多く予約とっておいたのに、一人来れなくなったから余った分治に食べさせてやれって言いだす爺さん連中まで出てきたの。子供の声が苦手で子供嫌いの年寄りって結構多いんだけれど、治は昔からそこまで喋らなかったし、爺さん連中の自慢話とかもしっかり聞いてくれるから、お気に入りだったんでしょうね。」
麗奈「なんか、治ってすごい人生送ってますね。」
女将「そうね……。あまり幸せな境遇だったとは言えないと思うけれど、すごく逞しく生きてたわね。治は自分の家庭の事をあまり言わないけれど、それでも噂話程度なら結構入ってくるし、何とかしてあげたい気持ちもあったわ。でも、児童相談所に相談しても、本人がそれを望んでないとかで何もしてもらえなかった。だから、お風呂に入れて上げたり、こっそりごはんを食べさせたりが関の山で……。」
すこし悲しそうな顔で話してた女将だが、今度は思い出したかのよう笑い出す。
女将「でも治が釣ってくる魚には驚かされたわ。あの子、1日に何匹も持ってくるんだけれど、普通2~3匹も釣れれば自慢できるような場所なのよ。きっとこだわりが無いのが原因ね。釣り方を教えたくてしょうがない爺さん連中からそれぞれ色んな釣り方や釣りポイントを教えてもらって、中古の釣り具も幾つか貰って、不格好ながらも色んなやり方試してたらしいし。爺さん連中は、大抵自分だけの縄張りだと思ってる釣りやすいポイントがあるんだけれど、治はそういうのも無く歩き回って釣ってるみたいね。毎回釣果で負ける爺さんたちが随分悔しそうだったわね!」
子供のいない女将にとって治の話は、本当に自分の子供や孫がいたらこんな気持ちになるんだろうなと思えるものだった。
この旅館の常連客や、周辺の釣り人たちの中にもそんなふうに思っていたものは多く、それが治にとってとても良い効果を生み出していた。
因みにだが、常連客の中に治と美佳の本当の祖父もいて、何故そのタイミングで治の事に気が付いてやれなかったのかと祖母が怒り、重大な夫婦喧嘩が発生して未だに冷戦状態だったりする。
女将「そんなこんなで、何となく親のような気持になっていたの。そんな治がいきなり友達を連れて来たいっていうものだから驚いちゃったわ。あの子、今まで友達なんて一人もいないって言ってたのに。しかもいざ連れてきたと思ったら、すごく奇麗な女の子だし。」
麗奈「は……はぁ……。」
突然自分の話になって焦る麗奈。
自分より上の世代と会話する機会があまりない麗奈にとって、こうして褒められながら話されるとどう対応していいかわからないものである。
女将「私にそんな事を言う権利はないかもしれないけれど、どうか治をよろしくお願いします。常識知らずで、ちょっとへんてこな所もあるけれど、案外良い奴だから。」
麗奈「えっと……、はい、それは知ってます……。」
女将「そう!?じゃあもし本当に彼女になってくれたらお祝いするから教えてね!それじゃあ私は仕事に戻るから!あーそれと、外の露天風呂も評判良いから試してね!」
いきなり重大な事を立て続けに言い放ち、そのまま出て行く女将を見送る麗奈。
次第に、何を言われたのかを頭が理解してくると顔が熱くなってくる。
もしかしたらのぼせたのかもしれない。
そう頭の中で折り合いをつけ、涼むのも兼ねて露天風呂へと向かった。
露天風呂の湯は、内風呂よりも温度が低いようだったが、何故か麗奈は熱くてしょうがなかった。
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麗奈が脱衣所から戻ってくると、治も既に戻ってきていて、窓から鯉が泳ぐ池を眺めていた。
治「温泉どうだった?俺はここ結構好きなんだけど。」
麗奈「……良かった……デス……。」
顔の赤い麗奈を見て、湯あたりでもしたんだろうかと少し心配する治だったが、ちゃんとしっかり歩いてるのを見て問題なさそうだと判断し、2人で食堂に向かう。
丁度お昼時になった時間帯だが、食堂に他の客の姿はない。
普段ならもう少し客がいたはずだが、今日は他の場所でイベントでもあっただろうかと不思議に思う治。
実際には、予約が無かったためにここも女将が勝手に貸し切りにしているだけである。
治たちに気が付いた女将が席に案内してくれると、既にいくつかのメニューは配膳されているようだった。
ここから、暖かいものが持ってこられるのだろう。
麗奈「なんか、本格的だね……。てっきりランチ定食的なのが来ると思ってたけど、普通に旅館に泊まった時に出てくるようなご馳走じゃん。」
治「あー、俺も予想外だったけど、多分俺が友達連れて行くって言ったから女将さんが悪ノリしちゃったんじゃないかな。」
その通りである。
通常このクラスのメニューの場合、治たちが持ち込んだ魚の3倍くらいの値段がする気がするが、相手が勝手にそうしてくれたなら好意に甘えるのも吝かではない治。
伊達に何年もお世話になっていない。
女将「お待たせ。ニジマスは塩焼きにして、ヤマメは骨まで食べられるようにじっくりから揚げにしといたから。麗奈ちゃんの方には、例のヤマメも入ってるからね。あとそっちの鍋の中は、近くで育てられてるブランド牛のこめこうじ牛の鉄板焼きになってるから、下の火が消えてから食べてね。やっぱり高校生は、お肉が食べたいかなって思ったの!それじゃごゆっくり!おほほほほ。」
そう言って足早に去る女将。治ですら見たこと無いほどテンションが高い。
それだけ嬉しかったのだろうが、なんでそこまで喜んでいるのかいまいちわかってない治からすると不可解である。
治「それじゃあ食べようか。いただきます。」
麗奈「いただきまーす。」
麗奈はまず、何はともあれ初めて釣った魚を食べる事にした。
その前に、スマホで撮影するのも忘れない。
旅館でランチにこんな豪華なものを食べたと絶対自慢してやると決め、全体を撮影した後、最初に釣ったと思われる小さな魚のから揚げをアップで撮影する。
そこまでして、やっと憂いがなくなったのか、恐る恐る口に入れる麗奈。
川魚を食べた事は、思いつく限り無かった麗奈だったが、生臭さや泥臭さもなく、女将が言っていたように骨まで食べられるようで、とても美味しかった。
麗奈「すごく美味しい!川の魚ってこんな味なんだ?」
治「ここの水はすごい奇麗だから、比較的臭みが少ないのと、更に臭みが消えるように下処理してくれてるからね。」
麗奈「治は、自分でも魚を料理してるんだっけ?」
治「うん、まあ、してるけど、これと比較されるとちょっと厳しいかな。」
麗奈「えー?じゃあ今度作ってよ。気になるし。」
治「いつかね。」
取り留めも無い話をしながら食事を楽しむ2人。
こっそりその光景を見てニヤニヤしている女将を始めとした旅館の従業員たち。
2人のお出かけは、こうしてとりあえず問題なく終わって行った。
麗奈の頭の中には、既に川に対する過剰な恐怖など無くなっていたが、本人は今回のデートの趣旨を完全に忘れている。
それだけ楽しんだといえるのだが。