連れちゃった
その日、麗奈はキャンプ場へ来ていた。
そう、少し前にキャンプに来て、川に落ちて流されたキャンプ場だ。
麗奈「……来ちゃったなぁ。」
事の発端は前日まで遡る。
………………………………………………………………………………
治「川が怖い?」
放課後に2人でスマホを買いに行って以来、麗奈の家まで治が送るのが日課になっていた。
ここ数日は、足の痛みも殆どなく、医者からももう普通に歩けると言われているのだが、2人とも特にやめる理由もなかったからだ。
その途中、川にかかる橋に差し掛かったあたりで、麗奈の足が止まる。
治が何事かと振り返ると、麗奈が顔を真っ青にして、自分の体を抱きしめるようにして震えていた。
慌ててどうしたのかと麗奈に尋ねた所、帰ってきた答えがそれだった。
麗奈「……治に助けてもらった時はさ、すごく怖かったけど、助かった嬉しさとか興奮が大きかったんだけど、ここ何日か川を見るだけであの時の怖さがよみがえって来てさ。昨日までは何とか大丈夫だったのに、今になって、怖くて怖くて、川の方に行けなくて……。」
麗奈としては、周りにそれを伝えて不安にさせたくも無かったのと、そのうち治るだろうと楽観視したかった。
元々人に甘えるのがそこまで得意ではないため、不必要に抱え込むことがある性格なのだが、今回はうわべだけでも取り繕う余裕すらない程悪化してしまった。
治は治で、自分自身にそういう体験をした覚えがないために、咄嗟のアドバイスが出てこない。
しかし、麗奈の家に帰るためには、どうしても橋を越えなければいけないため、トラウマの事はとりあえず置いておいて、何とか橋を渡る方法を提案することにした。
治「俺が手を引っ張るから、目を瞑ったまま歩いてみるのはどう?」
麗奈「……え!?」
麗奈の返事を聞く前に、とりあえず手を繋いでしまう治。
男子と手を繋ぐという行為は、麗奈にとってとても恥ずかしい行為であり、既に川が怖いとかそういう事は頭から抜け落ちてしまっていた。
治「じゃあ、ゆっくり歩くから落ち着いて橋を渡っちゃおう。」
麗奈「……は……はい……。」
ゆっくり、とてもゆっくり歩く治。その手に自分の全てを委ねてしまう感覚に、麗奈頭の中は処理能力を大幅に割いてしまっている。
今頭の中にあるのは、治の手の感覚と、これは他人からどう見られているのだろうかという羞恥の感情。
手汗は大丈夫だろうか。そういえば今日は体育があったが、汗臭いと思われていないだろうか。
なんていう非常にくだらない考えばかりが頭を駆け抜けて行く。
先ほどまで、絶対に渡れないと思っていた橋だったが、気がつけば渡り終えていた。
因みに、片手で麗奈を誘導し、片手で自分の自転車を押していた治も、案外操作が難しくてそこそこ緊張していた。
治「もう渡り終わったよ。」
麗奈「……あっ。」
繋いでいた手を名残惜しそうに放す麗奈。頭の中は、多少冷静になってきたのもあり、先ほどの行為をどう頭の中で処理すればいいのかについて悩みに悩んでいた。
そんな麗奈を余所に、治は考えていた。これは恐らくPTSDとかトラウマと呼ばれるものだろうと。
治が小さいころ、釣った魚を買い取ってもらおうと旅館へ行ったときに、職員の女性が客から怒鳴りつけられている所を目撃したのを思い出す。
何で怒らていたのかは知らないが、怒鳴ってスッキリした客がいなくなってもその職員は暫くそこに立ち尽くしていた。
次の日もまた魚を買い取ってもらいに行った際に、昨日の職員が女将に辞職したいと伝えている所を目撃してしまう。
治は、ギリギリ生活していける程度のお金を稼ぐのが精々なため、働くのを辞めるという選択肢が無かった。
しかし、働き口が他にもあるのであれば、怒られてたし、辛そうだし、辞められるならやめちゃった方がいいのかもなぁ他人事ながら思っていると、女将がこう言った。
女将「辞めたいなら辞めなさい。この仕事を続けていれば、今回みたいなことはきっといくらでも起きるもの。でも、貴女が今までとても努力してきたのを私は知っているし、こんなことで辞めてしまうのはとても悔しいわ。貴女なら将来、絶対にこんな問題いくらでも解決できるようになれると思ってるし、そうなってほしいと願ってるの。」
冷静に考えると、具体的な解決法なんてまったく教えてくれていない。にも拘らず、言われている当の女性は、まるで生まれ変わったかのように表情を変え、辞意を撤回して仕事へ戻っていく。
これが人心を惑わす話術かぁと、子供ながらに感心している治に気が付いた女将が慌てたようにこちらに来る。
どうやら見られていたことに今初めて気が付いたようだ。
治「どうして辞めさせなかったの?」
治としては、問題を起こして辞めたがってる人なんて辞めさせた方が雇ってる側にも良いのではないかと考えただけだった。
それでも女将は、治を相手にするときにしては珍しく真剣な表情で考えて、しっかりと答えてくれた。
女将「まず、いきなり誰かに辞められちゃうと仕事が回らなくなることもあるの。これが一番の問題。でもね、それはそれとして、今ここであの子が辞めちゃうと、あの子自身の中で、この旅館での事が傷として残ってしまうのよ。PTSDとかトラウマって言うんだったかしら?体の傷と違って、そういう心の傷はとても治りにくくて、放っておけばおくほど悪化する時もあるの。だから、できるだけ早く、同じ仕事で成功体験をして、自信を回復させないとダメなの。辛い事から逃がしてあげるのは、きっと本人にとっても周りの人にとっても楽だけれど、私はそれじゃいけないと思う。その人の事を思うなら、敢えて同じ状況に置いてあげることも必要だって、私自身が前の女将から教えられたわ。何より、私自身がそうしてもらって、今ここにいるんだもの。」
って言っても、きっとそれが絶対ってわけでもないんだろうし、最終的には自分で決めるのよ?なんて結んで、先ほどまでのシリアスな雰囲気を紛らわすようにおちゃらけてウインクを投げてきていた。
それまで、治はそんなふうに誰かの事を考えた事が無かったため、女将の事がとても大人に見えた。
父親は失踪し、母親は多少心を病み、友達なんてものもいない治には、すぐにその教えを活かす場など無かったのだが、それでも心に残るくらいには衝撃だったのを覚えている。
治は思った。今がその教えを活かすタイミングなんだと。
では、川に落ちて死にかけた恐怖を克服するにはどうしたらいいのか。
目を閉じたまま橋を渡るのは、まあ成功体験の一つではあるのだろうけれど、これだけで解決するとも思えない。
少なくとも麗奈は、今も顔を赤くして立ち尽くしている。
もっと印象に残る成功体験が必要だ。一発で川という物の印象を書き換えられるような、そんな体験が。
となると、同じように川に流されて、それでも特に心に傷を負っていない自分が、川とどう付き合っているかを参考にすればいいのではないだろうか。
そう考えた治は、早速麗奈に提案する。
治「明日もし予定なければ一緒に出掛けない?」
麗奈「…………え!?いや、あの、いいけ……ど?」
突然デートのお誘いをされたと思った麗奈の脳が更にオーバーロードしかける。
服装は、動きやすくて濡れても良いものを。日焼け止めも塗ってきた方が良い。
そう治に言われ、(あれ?これってもしかしてコイツデートとかそんな認識してないな?)と麗奈が気が付いたのは、そこから5分後の事だった。
………………………………………………………………………………
麗奈「それでさ、今日はここで何するの?」
バスを降りた麗奈が、今更な質問をする。
もっと早く聞いておけばよかったが、相手がデートだと思ってなさそうとは言え、休日に男女で出かける事に多少浮かれていたため、それどころでは無かった。
それでも、流石についこの間命を落とし掛けた辺りまでくれば、そんな事を考える余裕も無くなってくるわけで。
治「川が怖いだけじゃないって思えるように、川で遊んでみようと思ってさ。」
麗奈「……そっか。」
やはりデートという認識は無かったようだが、それでも自分の事を思って行動してくれていると感じた麗奈。
顔が少し赤くなっているのを悟られないよう、少し顔を逸らす。
そうしていると、不意に手を繋がれ、麗奈は驚いて治の方を向いてしまう。
麗奈「手……繋ぐの?」
治「多分まだ川が怖いと思うから、川まで行けるように俺が引っ張ってくよ。川まで行ければ、それが自信になると思うし。」
麗奈としては、やはり恥ずかしいし、周りの目が気になる。それでも、治が自分の事を思ってやってくれている事ならば断わりたくなかった。
何より、恥ずかしいだけで別に手を繋ぐのが嫌ではないと思ってしまっているので。
キャンプ場の近くを流れる川まで、昨日の橋のようにゆっくりと歩く治と麗奈。
麗奈は、視覚を遮ることで、他の感覚が鋭敏になるのか、全身で自然を感じているような感覚がする。
小鳥のさえずり、シーズンに入ったのか鳴き始めたセミ、植物から香る青臭い匂い。
前回、歩きスマホをしながら歩いてた時とは全く違うように感じる森の中。
麗奈にとって、今まで自然を楽しむなんて行為に何の興味も無かったが、そんな麗奈からしても、今この瞬間、この場所はとても気持ちがよかった。
もっとも、一番感じてしまっているのは、男子の手の暖かさと心強さなのだが。
しばらく歩いていると、段々と先ほどまでとは違う匂いがしてくる。
治に聞いてみると、これは川の匂いらしい。言われてみれば、水が流れる音が聞こえる気がする。
自分が流された時の荒々しい音とは違い、とても優しい音に聞こえるのは気のせいだろうか。
治「足元砂利になってるから気をつけてね。」
治に言われ、恐る恐る進んでみると、確かに砂利を踏みしめる感触がある。
とうとう川原までたどり着いたようだ。
知らず知らずのうちに、治の手を強く握りしめる麗奈。
治は、何か考えがあって自分をここまで連れてきたようだが、それで解決するかもわからない。
それでも、治と一緒にいけるなら、それはそれで楽しいかもしれないと思いついてきたが、いざ川までたどり着いてしまうと恐ろしさが襲ってくる。
治「もう目開けていいよ。」
治の言葉に、麗奈は不安を覚える。前日、川に近づくだけで動けなくなった自分が、今ここで川を見ても大丈夫なのだろうか。
しかも、ここは自分が落ちて死にかけた川だ。
あのチョコレートを溶かしたような濁った水に、響く轟音。思い出すだけで鳥肌が立つ。
それでも。
それでも、麗奈は目を開ける事にした。
ずっとこのままじゃ日常生活も送りにくいし、何より今こうして掌から伝わってくる友人の暖かさを無駄にしたくなかった。
麗奈「……う……わぁ……!」
目を開けて最初に見えたのは、宝石のように輝く水面だった。
水はすごく透明で、川底まで見通すことができる。
水面には、周囲に茂る草木が映り込み、自然の中であると一目でわかる力がある。
流れも緩やかで、荒々しさなど感じない。
この前来た時とは全く違う、とても長閑な空間があった。
麗奈「めっちゃ奇麗じゃん!」
治「だろう?」
治が珍しくドヤ顔をしているのをみて、自然と笑ってしまう麗奈。
そして気が付く。昨日のような震えが出ていないことに。
治「じゃあちょっと川に入ってみようか。」
そう言って、背負ってきた大きなリュックサックを漁りだす治。
少なくとも、今この川をみて取り乱すことは無い事が確認できた麗奈だったが、それでも川に入るとなるとどうなのかがわからず、不安を覚える。
麗奈「川に入るのって危なくないの?」
治「全く危なくない訳じゃないから、これをつけてくれ。」
そう言って治が渡してきたのは、一見するとベルトか何かのようなものだった。
よく見れば、何かのボンベみたいなものがついている。
麗奈「何これ?」
治「水に落ちたら自動で膨らむライフジャケット。」
麗奈「へぇ、そんなのあるんだ?」
このライフジャケット、実は治の宝物である。
釣具屋の福引で当てたものだが、釣り具の有名メーカーのブランド物であり、買おうとすると何千円か、下手をすると1万円はする。
しかも、水に落ちる度にボンベは使い捨てとなるため、手に入れてからずっと未使用のまま大事にとっておいたものである。
新しくライフジャケットを買うよりも、元々あるものを使った方が経済的だし、何より治にとって初めての友達である麗奈には、良いものを使わせたかった。
治「あとは、サンダルに履き替えて、少しズボンの裾を上げて。ちょっと水に触れるだけだからそれで大丈夫。」
麗奈「ズボン……。」
パンツじゃないのかと突っ込もうかと麗奈は思ったが、どうでもいい事なのでスルーすることにした。
治と接するとスルースキルが上がるのだ。
治「手つないでおくから、怖がらなくても大丈夫。少しだけ水に入ってみてくれ。」
麗奈「うん……うわ冷た!?」
もう初夏とも言えないくらいの季節になってきた今日この頃、気温は上がっているが、川の水温はまだまだ冷たい。
それでも、麗奈の中にあったあの川の恐怖を薄れさせるには、十分な暖かさだった。
治「どう?まだ怖い?」
麗奈「今日は全然問題ないかな。奇麗だし、流れもそんなにすごくないし。……でも、またこの前みたいな濁流になってたら、やっぱり怖いと思う。」
治「それが普通じゃない?濁流が怖くないとしたら、その方が異常だしさ。今は、川を見ただけで動けなくなるような状態から脱することさえできれば良いと思うよ。」
麗奈「そうかな……?……そうだね!」
川が怖いのは異常で、そのままだと周りに迷惑をかけると思っていた麗奈だったが、治によって、普段の状態の川であれば問題なく見る事ができ、濁流になった時に怖く感じるのが普通だと言われることで、逆にその怖さも何とかなるのではないかと思えてきた。
自分のダメな所を認めてくれて、受け入れてくれる人がいるというのは、意外と嬉しいと麗奈は思う。
治「それじゃあ、今日のメインイベントやるぞ!」
麗奈「え?アタシの川恐怖症克服がメインじゃないの?」
治「せっかくここまで来てそれはもったいないだろ。釣り、するぞ!」
そう言って麗奈を引っ張って自ら上がる治。
またリュックサックを漁ると、木でできた棒のようなものを取り出した。
これは何なのかと麗奈が見ていると、治はその棒の片側についていた蓋のようなものを取り外し、逆さまにした。
すると、中からシュルシュルと棒が出てきて伸びて行く。
あっという間に数メートルはある釣り竿になった。
治「はい麗奈、竿を持って。そしてこの先端の糸みたいになってる所に釣り糸をひっかける。これは元々この竿用に用意しておいたやつだから長さも調整してあるし、もう針も重りもついてて、あとは餌をつけるだけの状態。」
麗奈「……餌ってさ、もしかして虫?」
治「いや、昨日スーパーで売れ残ってた貝を塩とチューブニンニクにつけて水分抜いた奴。臭いつくから触らないことを勧める。」
治は、過去に虫の養殖をしていたこともあるが、実は虫があまり好きではない。
虫エサなんて絶対嫌だと思う程度には苦手としている。
虫エサを使わずに済ませるためにたどり着いた答えが、この塩ニンニク貝だ。
魚でも試してみたが、貝の方が細かくしたときの強度が高かったために貝を使っている。
治の経験上、この川で川魚を釣る際には、餌を小さめにした方が釣りやすかった。
治「餌もつけた。竿と逆の手で糸を持ったら、上流側に竿を向けてから糸を放す。そしたら振子みたいに自然と前に針の部分が進んでいくから、ある程度前に行ったところで竿の先端を少し落とすことで、針の部分を着水させる。」
麗奈「よっと。こんな感じ?」
治「そんな感じ。流れに乗って針が下流に流れて行くから、ある程度まで行ったら竿を上げる。すると水から出た針が自分の方に戻ってくるから、それを手で受けてめて最初と同じように上流に落とす。これを繰り返します。」
麗奈「結構地味なんだね。」
治「これでも釣りとしては変化がある方だよ。針を投げ込んでずっとそのままって釣り方もあるし。」
麗奈「へー。」
ルアーフィッシング等、スポーツフィッシングと呼ばれる釣り方であれば、もっと激しく動くことになるが、今回の釣り方はあくまで待ちの技術である。
麗奈「これさ、魚が来たらどうすんの?」
治「魚が餌に食いついたら、ググググって感触があるから、それが来たらちょっと竿を上げる。これで針を魚の口に突き刺す。後は、魚が外れないように竿を慎重に立てて行けば、自分の所まで魚がやってくるよ。」
麗奈「ふーん。」
治「因みにさ、今すっごい小さいのだけど食いついてる。」
麗奈「え!?マジ!?」
麗奈が竿を上げて見ると、本当にとても小さな魚が針に付いていた。
ビチンビチン動いているが、感触は殆ど無い。
麗奈「全然わからなかった……。」
治「こいつすごく小さかったからね。普通このサイズの針と餌には食いつかないサイズだけど、よっぽど食い気が強かったのかな。」
麗奈「……まあ小さいけど、でもさ!これ初めて釣れたって事でいいんだよね!?」
治「もちろん!小さいけどこれヤマメだな。写真でも撮る?」
麗奈「撮って撮って!」
治が自分のスマホで、魚を掲げる満面の笑みの麗奈を撮る。
その写真をスマホに送ってもらった麗奈が、友人グループに見せて、「これ誰が撮影したの?」と質問攻めにされるのは、ここから更に数時間後である。