痛すぎると逆に笑いが出る
麗奈は、川に落ちて溺れかけていたことでパニックになっていたが、後ろから抱き上げられて、とりあえず水面より上に顔を出せた事により一瞬落ち着きを取り戻した。しかし、直後に後ろから聞こえた男の声と、自分が抱きしめられている事実に気が付き、再度パニックになりかける。
治「あー、ちょっと落ち着いてくれ。あと数十秒すると大きい岩が川の中にいくつもある危険地帯に入るから、その前に説明しきりたい。」
治の腕を振りほどこうとした麗奈だったが、自分がまだ助かったわけではない事にその時初めて気が付いた。麗奈は、男にこんな風に抱きしめられた経験など過去になかった。精々が肩に触られた程度だろう。それで取り乱してしまったのだが、後ろの男は、どうも自分を助けるための提案をしてくれるらしいと気が付き、大人しくすることにした。
麗奈「とりあえず落ち着いたから!この後アタシはどうしたらいいの!?」
治「冷静になってくれて助かる。もうすぐ岩場になってしまうから、その時には俺の両手が使える状態にしておきたい。上手く流れに乗らないと岩に激突して大怪我することになる。だから天音さんには、俺の後ろ側に回って抱き着いててほしい。ライフジャケット着てるから、天音さん一人よりは安全だと思うよ。」
言うが早いか治は麗奈を放し、前側に移動する。パニックになっている状態であれば、腕の上から抱き着かれて、両方溺れてしまう危険性もあるが、とりあえず今は大丈夫だろうと考えたのだ。もっとも、そうしないと今にも岩にぶつかりそうなタイミングだったのも大きいのだが。
麗奈としても、自分が動揺してしまっていて、自分の判断に自信が全く持てない状態になっていたため、大人しく後ろから治のライフジャケットに掴まり、脚はガッチリと治の下腹部に回すように組んだ。治としては、女の子が脚を絡めてくるとは思ってなかったが、とりあえず安定性が上がったので特に何も言わなかった。実の所、治はまともに女の子とコミュニケーションをとった経験は殆どなく、母方の実家に来てから多少今までより話すようになった程度で、麗奈よりも異性への免疫はなく、麗奈との密着にそこそこ焦っていたのだが、この濁流の中にいる事の方が重要性が高いためにギリギリ冷静でいられただけである。
治「天音さんは、そのまま掴まっててくれれば大丈夫。あとは、全部俺がやるから。」
麗奈「わかった!」
そこからは、遊園地の絶叫マシンよりも怖い展開が続いた。岩の間を縫うように通り抜け、川の形状のせいか流木が溜まりやすい部分を回避し、渦のように本流から離れ停滞してしまう部分に近寄らないようにしながら、なんとか砂利の河原が広がる場所までたどり着くことができた。と言っても、増水しているために、普段であれば長閑で水遊びを楽しめるようなこの場所も、今は激流からなんとか脱出できるだけの場所程度の状態なのだが。それでも、ここまでの間に関しては、両岸が岩壁だったり、傾斜きつめの護岸工事がされていて、装備も無しにそこから上がるよりはよっぽどマシだ。
治は、麗奈にくっつかれたまま陸へと上がる。さながらワニかサンショウウオのような体勢になっているが、まだ冷たい水に冷やされ、濁流の中を泳いだ治にはこれが限界だった。麗奈がまだ放してくれなかったため、治は這いずりながら堤防を登り、舗装されたアスファルトの上で力尽きた。
治「天音さん、もう放して大丈夫だ。というか放して。」
麗奈「……え?……あ、アタシ今地面にいるんだ……。」
今の今まで気が付いていなかったようで、やっと力を緩める。
治「さっき川に飛び込む前、美佳にこの場所に救急車とか呼ぶように言っておいたからそのうち助けが来ると思うんだよね。」
麗奈「……そっか。助かったんだアタシ……。絶対に死んだと思ったわ……。」
治「実際死んでもおかしくなかったと思う。怖がらせたくなかったから敢えて言わなかったけど、途中死んでもおかしくない場所がいくつもあったし。今気が付いたけど、ライフジャケットの横もなんか引っかかって破けてるし……。」
麗奈「やっぱりそうなんだ?なんか途中で何度かすごいビクビクしてる感じだったから、危ないんだろうなとは思ってた。……あれ?美佳の事知ってるの?てか、アタシの名前も知ってるっぽいし……。」
やっと命がけの興奮が収まって来たみたいで、麗奈は自分に起きた事を冷静に考えられるようになってきた。そうなってくると、この自分を助けてくれた男が何なのかが気になる。
治「どうも従弟らしいよ。同い年だし、この前まで親戚は、誰も俺の事知らなかったらしいけど。」
麗奈「何それ?」
治「まあ色々あって……。それよりも、改めて美佳に携帯電話で連絡しておくわ。……って、あー……。」
治が取り出した携帯電話は、とりあえず通話機能さえあればいいと考えた治が、型落ちも型落ちの機種を母親からおさがりでもらって使い続けてきた物だった。防水機能などついていない。つまり……。
麗奈「壊れたの?てかそれすっごい古そうじゃん!マンガでしかみたことないんだけど!?」
治「防水機能ない古いやつだから……。まあしょうがない、業者の人も頼むから機種換えてくれって再三ハガキ送って来てたから、いい機会かもしれない。」
麗奈「スマホ持ってない人なんて今いるんだ……。ごめんね、壊しちゃって。」
治「いいよ別に。それより、どっか痛い所ない?俺は、全身そこそこ厚手の服で覆われてたけど、天音さんは、結構肌でてたし。」
治は、自分の破れたライフジャケットを思い出し、麗奈がケガをしていないかが心配になった。治の今日の格好は、上下が作業着で、上半身にはその上からライフジャケットを着ている状態だ。釣り人の中には、胴長とかウェーダーと呼ばれる、長靴とオーバーオールが合体したようなものを着る人もいるが、荷物が嵩張るのと、水に落ちると溺れやすくなると聞いていたため、治は着ていない。着なくちゃ行けない場所にも近寄らないようにしていた。
麗奈「多分大丈夫だと思う。落ちた時にぶつけた気がしたけど、血は出てないっぽいし……って痛!?」
出血していない事を確認して安心しかけた麗奈だが、脚を動かそうとしたときに、足首の辺りから激痛が走る。慌てて治が確認すると、骨は折れていないようだが、捻ってしまっているようだ。
治「捻挫かなぁ……。まあ、美佳が救急車呼んでくれてるはずだし、病院で診てもらった方が良い。状況が状況だから、今の時点で大丈夫な部分も、何か問題が起きてないか診察しておくべきだろうし。」
麗奈「アニメとかマンガだったら手とか足に銃弾受けても割と軽傷みたいにしてるけど、実際には結構な重症だよね……。」
治「そういうの好きなのか?俺の家は、テレビとかパソコン無かったし、マンガも買えなかったからよく知らないんだよな。」
麗奈「えぇ……?テレビなかったの……?」
さっきまで興奮していて痛みを感じにくくなっていた麗奈は、冷静さを取り戻してきたことにより、ジンジンと増してきた痛みを忘れるために、とにかく治と会話を続けることにした。段々痛みが強すぎて、泣きたいのかわからないのか脳が混乱してきているが、そんな状態でも冷静になってしまうほど、治のこれまでの人生は壮絶だったのであろうと感じてしまう。治としてはそんな自覚は大してないのだが。
治「あと10分くらい待って、美佳たちや救急車が来なかったら、道路まで天音さん運ぶから。っていっても携帯電話壊れちゃったから時間わからんけど。」
麗奈「じゃあアタシのを……あれ!?アタシのスマホ……あっ」
麗奈は、自分が川に落ちた時、スマホを手で持っていたことに気が付いた。
麗奈「どうしよう、せっかく育てたゲームデータたちが……。引継ぎコード保存してたっけ……?そもそもスマホ自体が……。はぁ……。」
治「俺はスマートフォン持ってないから知らないけど、大変なんだな。」
スマートフォンを持っていない治には、麗奈の落ち込み具合があまり理解できなかったが、それでも麗奈にとってとても大事なものだったということはわかった。
治「残念だったな。」
麗奈「うん……。まあでも、最近ゲームの性能に追いつけなくなってきてたから、そろそろ新しいのにするタイミングだったのかも……。」
今ここにいる2人ともが通信機器を壊してしまっている。これが完全な山の中なら危機的状況だが、実はここは、川の堤防の上に作られたサイクリングコースで、更に川とは反対側に進むと、ちゃんとした車道がある。増水した川のせいで怖そうな場所に見えるが、実は割と切り開かれた場所だ。付け加えると、治が昔から利用していた場所であり、ここを上流側に進むと舗装のされていないハイキングコースに合流する。そのため、治が美佳に送ったメールには、この場所へ来るための経路として、このサイクリングコースを教えておいた。
???「麗奈ー!」
遠くから声が聞こえたと思うと、声の主はすごいスピードで走って来て、麗奈に飛びついた。美佳である。後ろの方には、薙刀などで体力づくりしている武士系女子の美佳に追いつけなかった男子たちも見える。その後ろにはきっと麗奈の友人たちもいるのだろうが、美佳がぶっちぎってきたのだろう。
美佳「大丈夫か?痛い所はないか!?」
麗奈「大丈夫だって……。それさっきアンタの従弟にも聞かれたんだけど……。」
美佳「ありがとう治!なんとお礼を言っていいか……。」
治「いいよ別に……。美佳には、引っ越しの相談とか乗ってもらったし、これでトントンで。」
美佳「いや、あの時私は父さんにそれを伝えただけで、今回も私は麗奈を助けることもできなくて……。友達なのに……。」
麗奈「……えーと、よそ見しながら歩いてごめんなさい……。」
麗奈と美佳が互いに自分が悪いとかなんとか言い争っているうちに、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。今治たちがいる場所は、堤防の上の目立つ場所なため、治が立ち上がって手を振ると、どうやらあちらも見つけてくれたらしく、近くの車道に乗り付けるのが見えた。
治「救急車も来たし、俺は元の場所戻るよ。」
美佳「え!?救急車乗って行かないのか?」
治「自転車と荷物置きっぱなしだから、それを回収してこなきゃいけないんだよね。」
治にとって、今日持ってきた釣り道具や自転車は、数少ない自分にとって大事な物であったため、放置してきた事がとても不安だった。一秒でも早く戻りたい、それが今の治の気持である。
美佳「……そうか。じゃあ気をつけて帰れよ。後で家でな。」
治「ああ。」
麗奈「えっと……、オサム君……でいいんだよね?今日は本当にありがと。」
治「いいよいいよ。じゃあまた今度。お大事に。」
女の子2人を残して治はその場を離れる。きっと彼女たちは、この後すごく怒られて、説明をいっぱいしなければならないだろう。それに巻き込まれたくなかった治は、そそくさと上流側に向けて歩き出した。
美佳「それにしても、普段男とは、まったくと言っていいほど話したがらない麗奈が治とはずいぶん放してたんだな。正直意外だったぞ。」
麗奈「あー……、話しやすかったって言うのと、治君の今までが結構ヤバそうで気になったっていうのと、あとは……。」
美佳「あとは?」
麗奈「足が痛いの紛らわせるため……!」