釣りって楽しいよね
その日、出縄治は、川に釣りをしに来ていた。
前日の雨で、チョコレート色になった川は、釣れる釣れないの前に見るものに恐怖を与える濁流となっていたため、釣れる確率は低いだろう。そもそも危険なので近寄らないほうがいいかもしれない。それでも、自転車で30分もかけて来てしまったし、安全を確保しながらやってみようか、それとも大人しく帰ろうか。そんな煮え切らない考えを巡らせて既に数分。あわよくば川の流れが落ち着かないかとも期待したが、これは数日かかりそうに見える。
今までの治にとって、自由に使える時間というのは、とても貴重なものだった。父親は、外に女を作ったらしく、段々と家に帰らなくなり、治が小学3年生の時に借金を残して失踪。専業主婦になっていた母親は、借金の支払いと、子供を育てるために風俗で働くようになるも、生活はいつもカツカツ。そのため治は、自分でもお金を稼ぐことにした。
今にして思えば、自己破産なり、生活保護なり、他の手段はいくらでもあった筈だが、当時の治にそんな知識は無く、母親は少し心を病んでいたため、考える余裕が無かった。
最初に始めたのは、餌用の虫の養殖だった。動物園が好きだった治は、近所のペットショップに良く入り浸っていた。動物園が好きと言っても、動物を買う事が好きなわけではなかった治だが、動物園に行くお金は無かったため、代わりにペットショップの動物を眺めていた。店主のオヤジも、そんな治に何かしらの重い事情がある事は察しており、話しかけてみると、何故か動物の事ではなく、お金を稼ぐ方法を教えてほしいと言われてしまう。小学生を雇うことは法律上できないため、他の方法を考えた結果、出てきた答えが餌用の虫を育て、それを売るという物だった。
治は、店主から廃棄予定だったプラスチックの衣装ケースと、餌用として販売している昆虫を分けてもらい、早速飼育を始める。昆虫と言ってはいるが、実はゴキ〇リである。飛べなくて、動きも鈍いタイプなので、一般にイメージされるモノとは違うのだけれども、ゴ〇ブリである。
最初は、繁殖しやすいコオロギにしようかと思ったが、アレは鳴く。近所から苦情が来ても困るし、何より今母親を刺激したくはなかった。結果、繁殖スピードは遅くとも、鳴かないものにした。彼らは、どんなものでも食べて、季節に関係なく繁殖する。今まで生き物の世話をしたことが無い治でも飼育可能な存在だった。
増えた昆虫たちは、インターネットのオークションサイトやフリマサイトで販売した。しばらく続けていると、定期的に買っていく客も増え、安定して月数万円の利益が出るようになった。もっとも、小中学生だと利用できないため、アカウント情報は母親のを勝手に使ってしまったが。母親はあまり機械に強くなかったため、最後までこれには気が付かなかったようだ。
昆虫の養殖は、常時張り付いている必要が無いため、副業が可能であった。そのため治は、渓流に行って釣りをするようになる。ヤマメやイワナが釣れると、旅館で買い取ってくれたからだ。因みに、ペットショップでその旅館の女将と知り合い、治の事情を聴いた女将が、それならと持ち掛けた仕事だったのだが、黙々と作業をするのが得意で、支払いもデータの残らないニコニコ現金払いなこの仕事は、治にとってはとても合っていた。
家から自転車で30分かかる距離の渓流まで走り、リサイクルショップで買った500円の竿と100円ショップで買った釣り糸と針。そして、冷凍で売られている茹でアサリを細かく切り、塩とニンニクで味付けした物を餌にして釣る。
釣れない時は全く釣れないが、釣れるときは1日数千円もの利益が出たため、雨が降って危ない時以外は、毎日釣りをした。土日は、朝から夕方5時まで。平日は、学校が終わってから夕方5時まで。釣りと餌昆虫関連の作業時以外は、頑張って勉強をした。周りから、高校くらいは卒業しないと将来職に就きにくいと言われたからだ。
別に、良い大学に行って、良い職業に就きたいなんて思っていたわけではないが、治は、市内で一番難しい公立高校に入りたかった。何故なら、自分の家から一番近くにあったから。どこかに引っ越すようなお金は無いし、毎日バスに乗るのもできれば遠慮したい。となると、徒歩か最低でも自転車で行ける場所が望ましい。まあ、毎日片道30分の自転車旅をしている治にとっては、市内の高校ならどこでも通学可能ではあったが、通学時間が短ければ短いほど、仕事に使える仕事が増えるからというだけの理由だったのだが。
念願叶い、志望校に合格できた治は、とうとう正規のアルバイトができる年齢になった。アルバイト先に選んだのは、学校から自転車で10分のガソリンスタンドだった。この頃になると、今まで真っ当な生活とは程遠い場所にいた治も、多少は自分が周りからどう見られているかわかってきていた。小学生時代は、いつもボロボロで小汚い服装でやってくる奴。中学生時代は、一緒に遊ぶことも全くなく、塾に行っているわけでも無く、なんだかよくわからない奴。要するに、周りから見て自分は近寄りがたい存在だったのだ。
そんな自分が、同級生たちがよく来る場所でアルバイトしていると、奇異の目で見られるのは明らかであった。だったら、基本的に車を運転する大人が客であるガソリンスタンドで働こうと思ったわけだが、案外車にのって同級生たちはやってきた。もっとも、誰も治に興味が無かったのか、制服姿にさえなっていれば誰にも気が付かれないようだったが。
今まで通り、周りから心配されるペースでシフトに入っていた治だが、高校1年生の終わり頃に、その後の環境を一変させる出来事が起きる。母親が自殺した。前々から心を病んでいたのはわかっていたが、自殺までするとは思っていなかった治だが、実際に自殺されてみると、まあ自殺しても仕方ない環境だったかもなと妙な納得をしてしまった。
母親が死んだことで、治は等々天涯孤独の身となった。差し当っての問題は、父親が残した借金をどうするか。これは、母親の遺産相続を放棄することで解決できた。借金も相続の対象だったためである。どうせ母親に金銭的な蓄えなど殆どないのはわかっていたのもあったが。ただそうなると、今度は今住んでいる家も相続できないことになるわけで、治は引っ越すことに決めた。
不動産に関する知識なんて全くなかった治は、小学校からの同級生の早瀬美佳の親が不動産屋だったことを思い出し、相談してみる事にした。まともに会話するのは恐らくこれが初めてだなと思いながら。治の話を聞いた美佳が父親に話を通すと、父親の顔色が変わった。治はもちろん美佳も知らなかった事だが、治の母親は、美佳の父親の妹だったらしい。つまり、治と美佳は従姉弟の関係にあった。
治の母親は、学生時代に治の父親と出会い、両親の反対を押し切って駆け落ちしていたらしい。それ以降縁が完全に切れていたため、治の事を親戚たちは誰も知らなかった。まさか同市内にいるとは思わなかったとは、治の祖父の談だ。
治の話を聞いた祖父たちは当初、治の母親が既に死んでることや、治のこれまでの生活の話を聞いて、かなり仰天していたようだが、最終的には治を、祖父宅の離れに住ませることにした。因みに美佳たちの一家は、同敷地内に別棟で大きな家を建てて住んでいる。
治が離れに住む条件として、祖父は、学業の優先とアルバイトの禁止を言い渡した。治自身は、今まで通りの生活を続けるつもりだったのだが、祖父からすると、あまりに不健全だと感じたらしい。生活費と小遣いを貰える事になった治だが、今までそんなもの貰えない生活が10年以上続いていたため、実の所途方に暮れていた。
空き時間があるなら勉強をすればいい、中学生までならそう思っていた治だが、仕事をしなくなった治にとって、学校にいる時間以外は全て空き時間となり、今まで通りの考えでは勉強ばかりになる。実際、春まではそんな生活をしていたが、夢の中でも勉強しているようになってしまったため、流石にこれはまずいと考えるようになる。そのため、今まで会話すらろくにしてこなかった従姉の美佳に、何をしたらいいかを相談することにした。
美佳としては、男の子が普段何をしているかなんてよくわからなかったため、とりあえず治自身に趣味が無いのかと聞いてみる事にした。美佳は、学校でもトップクラスの美人で人気があるが、実はまだ男性との交際経験どころか、手を握ったことすらない。そんな彼女が、それでも何とか力になろうとした結果が趣味であった。治は、美佳についてそこまで興味があったわけではないが、美佳は、実の所治の事をよく知っていた。別に好きなわけではなく、すごい生活をしてる男の子がいるなと思っていた。そして周りにそれとなく聞いてみると、かなり劣悪な家庭環境にあるようで、多少の同情心が芽生えた程度だったのだが。最初、治から引っ越しの話を持ち掛けられ、父親に伝えたのも、そんな気持ちからのものだったのかもしれない。もっとも、美佳は元々世話焼きだったのもあるのだけれども。
美佳から趣味について聞かれた治は、自分が今までに楽しいと思ってやった事は何だろうかと考える。
思い返すと、親からおもちゃやお菓子を貰った覚えなど無い。もしかしたら赤ん坊の頃には何かあったのかもしれないが、少なくとも物心ついたときには、何も残っていなかった。売られてしまったか、捨てられてしまったのだろう。引っ越すときに、自分の物として持ち出したものも、服や下着数点以外は、100円ショップで買った判子と預金通帳、あとは釣り道具くらいで、段ボール2箱で終わってしまった。因みに餌用の昆虫たちは、繁殖させる必要がなくなったため、全て仲良く売られていった。治にゴキブ〇への愛着は全くなかった。
そこまで考えて、治はふと気が付く。自分にとって趣味と言えるものは、現状釣りしかないのではないかと。というわけで、美佳に釣りがしたいと伝える。美佳は美佳で、治が今まで釣りをしていた場所に興味を持ち、ネットで調べると、近くにキャンプ場があることが分かった。都会と言うほどではないが、都市部に住む美佳は、アウトドアに憧れがあった。
美佳は、キャンプがしてみたいと思い、折角なのでと治を誘ってみるが、「金が無いから無理だ。」と断られてしまう。美佳の家は、祖父の代からそこそこお金持ちなため、その従弟である治に金銭的な問題で断られるという発想自体無かったが、今まで極貧生活をしてきて、今はアルバイトも禁止された治には酷な提案だっただろうかと反省した。もっとも、治が断ったのは、従姉弟とは言え男女でキャンプはどうなんだろうかと治なりに考えた結果をごまかして言っただけだったりする。一人暮らしするつもりだった治は、なんだかんだで高校生としてはお金を持っている方であった。遊びで使ったらすぐ消えさる程度だが。
治に断られた美佳は、次の日に学校で親友の麗奈を始めとした友人グループにキャンプの提案をする。2つ返事でOKするギャルたち。ギャルの格好をしてるけどノリは全然ギャルじゃなくて嫌々OKする麗奈。何故、このギャルたちの輪に、和服と薙刀が似合う系女子の美佳がいるのかはわからないが、案外相性はいい様である。
教室で話し合っていた美佳の話を横から聞いていた男子たちが、自分たちも一緒に行きたいと良いだし、女子に大変渋られるも、キャンプ場の宿泊費や機材レンタル代を負担するならいいとの提案に男子たちが2つ返事で首を縦に振ることで男女合同キャンプが決定された。
日程は、夏季用のキャンプ用品でも大丈夫なように、初夏ということになった。女子たちは、キャンプ場の映えを調べてテンションを上げ、男子たちは、自分の男を見せるためにキャンプ知識を頭に詰め込みながら、未来の彼女に思いを馳せる。
そんな嬉恥ずかしな数か月後、至る現在。
治は、立派な趣味の人となっていた。
当初、治が自分の趣味と言えるものは釣りしかなかったが、よく考えれば自分は自転車も良く乗っていた。そう考え、仕事とは関係なくサイクリングをしてみると、これが存外面白かったため、今までに貯めたお金を多少使い、ロードバイクを買ってしまった。ロードバイクだと、坂道も軽快に登れるため、持ち運べる荷物を増やせることに気が付いた治は、釣るだけで売る必要が無くなった魚を食べる方向にシフトして考えるようになった。炭火焼きである。旅館でも出せる品質を誇る魚だ。当然美味しいため、売ることができなくなった治にとっては、当然の帰結だったと言えよう。
釣れる場所を求め、流石に毎日とはいかないまでも、川の様子を確認するようになった治にとって、この辺りの川辺は、もはや自分の庭のような状態となっていた。この川の危険な場所、流れが急な場所、逆に安全な場所。それらを語らせるなら、恐らく治はトップクラスに語れる。
そんな治が今日選んだ場所は、キャンプ場近くの少し高台になっている場所だ。
この辺りは、雨が降って川が増水しても比較的安全なのだが、一回川に落ちるとしばらく危険な場所が続く地域だった。そんな場所だからこそなのか、カヌーで川下りに挑戦して死ぬ人が毎年出る場所としても有名だった。死人が出ると、流石にその辺で釣れた魚は暫く食べたくなくなってしまうため、治にとっては迷惑な客だった。
そんな場所で、流石にこの増水した川で釣りをするかどうかについて治が悩んでいると、背後のハイキングコースを騒がしく歩く一団に気が付いた。そういえば、今日は従姉の美佳がクラスメイトとキャンプをすると言っていた日だなと思いだすと、やはり彼らがそうなのだろう、美佳の姿も確認できた。前日そこそこ大雨が降ったのにも関わらず、川の近くのキャンプ場にやってくるとは中々の度胸だな、などとキャンプの経験の殆どない治がぼーっと考えていると、そのうちの一人が足を踏み外して川に落ちていった。あの辺りは、土が張り出していて、崩れて落ちやすいから、行かないように木の立て札もあるはずだが、目に入らなかったんだろう。
治が、実の所かなり慌てている自分を落ち着かせるために、努めて冷静な考察をしてから、改めてどうするべきかを考える。はっきり言って、この増水した川に落ちるのは、かなり危険な事態だ。小さいころから川に慣れ親しんだ治ですら、かなり恐怖を感じる事態。恐らく落ちた本人は、今パニックになっている事だろう。そんな奴が、この先2㎞程を無事に流れていけるだろうか。途中には、ゴツゴツとした岩場や、尖った流木が溜まりやすい場所が大量に存在している上に流れが速く、陸に這い上がれる場所も無い。更に悪い事に、今日みたいに増水すると、流れによって危険な場所が変わってしまうのだ。
治(きっと落ちた奴を俺が助けないと死んじゃうんだろうなぁ……。周りに救助に行ける人はいなさそうだし、あっちのクラスメイト集団が川に飛び込んでも絶対二次災害だ。釣り用のライフジャケット着てる俺がやるしかないけど、嫌だなぁ……。)
治は、あまり人助けをしたがるタイプではない。ただ、流石に世話になった美佳の友達をほおっておいて死なせるのも気が引けるし、人死にが出てこの辺りで釣った魚が食べられなくなるのも困る。というわけで、治は、割と軽い理由で命を賭ける事に決めた。とりあえず、予想される到着場所を今まさに川に飛び込もうとして、周りの友人に抑えられてる美佳に連絡して、すぐさま流れてきた奴の所に向かって川に飛び込む。
近寄ってみると、どうやら美佳の親友の天音麗奈という女の子らしい。
治(昔からの同級生だと美佳は言っていたけど、そうなると俺とも同級生だったんだろうか。小中学校時代にこんなギャルギャルしいギャルあんまり覚えがないんだが。)
水難救助の際に、溺れている人間の正面から近寄ると、抱き着かれて動けなくなり、諸共溺れやすいという知識があった治は、溺れている麗奈の背後から捕まえるように抱き着く。ライフジャケットの浮力を活かして、水面よりも上に顔を出すようにしながら、落ち着かせるために話しかける。
治「天音さんだっけ?もう2㎞くらい流されたら川岸に上がれる所があるから、それまで頑張って。因みにここから2㎞の間は、カヌーの川下りで死人がたまに出る危険地帯だから気を抜かないで。」