1-5. グラス家の人々(2)
翌日、私はお屋敷内を散策していた。
私の侍女教育は道半ばだ。給仕の合格は出たが、それ以外はリラが合格を出してくれないのでソナタ様にお仕えする事がまだ出来ていない。だから暇なのである。
赤い絨毯が敷かれた廊下を歩くのにも飽きて窓の外を眺めていると、長身のリラの後ろ姿を見つけた。早く一人前になりたいから彼女にもっと色々な事を教えてもらいたい。
「リラ! 探しましたよ!」
屋敷の中庭へ向かった私はリラの元へ駆け出した。彼女に声を掛けると困った様な表情を見せた後に口を開く。
「ああ、ヒカリかい。悪いけど奥様に頼まれ事をしてしまってね」
リラをよく見ると昨日よりも身綺麗な格好をしており、片脇には細長い木箱を抱えていた。この後に何処かへ出掛ける予定なのだろうか。
「そうだ、あたしについておいで! どうせ暇なんだろ?」
何か良い事を思い付いた様子で、リラは口元に笑みを浮かべた。
◇
早足のリラの後をついてお屋敷の庭の奥へ進むと、手入れの行き届いた花壇が見えてきた。
その手前には木製の長椅子が置かれており、黒髪の美しい御婦人が座っていた。
「奥様。暇潰しの相手を連れてきましたよ」
リラの声に顔を上げたご婦人はふわりと笑う。
「ふふ。リラ、ありがとう。そろそろ行くの?」
「ええ、奥様。街まで行ってまいります。ヒカリ、きちんとお役目を果たす様にね!」
軽快に笑うリラはそう言うと、私の背中を強く叩いた後に門の方へ去っていった。
背中が痛い。一瞬、呼吸が止まったかと思った。そんな恨みを視線に込めてリラの背中を睨むが彼女は振り返る事はなかった。
視線を正面の女性に戻す。どうやら二人きりになってしまったようだ。
「ヒカリ、こちらへいらっしゃい。少しわたくしとお話ししましょうか」
白く塗装された長椅子に座る女性は微笑みながら、椅子の空いた空間を指差している。
このお方と会話を交わすのは初めてだ。まずはちゃんとご挨拶できることを示さなければ。
「こ、こんにちは。ヴィオローネ様」
お辞儀をした後、乾く唇から言葉を発する。
緊張のあまり掠れ気味の声しか出てこない。気付けば拳を強く握りしめていた。
「あら、ヒカリは大人しい子なのね。リラの騒がしさを少し見習った方がいいわよ」
ヴィオローネ様の言葉に強く首を横に振る。私にはとても無理ですから!
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。わたくしの話し相手になってくれればそれでいいのだから。難しくはないわよね?」
柔らかな笑みを浮かべるヴィオローネ様は、そう言うと目を見つめながらそっと私の髪を撫でる。
それが何だかくすぐったくて、心地良くて不思議な気持ちになった。
「何からお話しましょうか。そうね、ここでの暮らしにはもう慣れたかしら?」
「はい、ヴィオローネ様」
お屋敷に来たばかりだが私に対して皆優しく接してくれる。怖い思いも辛い経験も特にない。
特にリラの存在は大きい。彼女が居たから新しいこの生活にも慣れたと思っている。
「良かったわ。何か不便を感じることがあれば何でも言ってちょうだいね」
優しく笑うヴィオローネ様の様子に心が温かくなるのを感じる。
気が付けば最初に感じていた緊張もほぐれていた様だ。口元も自然に緩む。
「ソナタとは上手くやってるかしら?」
「いいえ、まだお仕えしたばかりであまりお話する機会もなくて」
ソナタ様の侍女の筈だが驚くほど接する機会が少ないのだ。
原因の大部分は私の教育が足りないせいだけど。早く仕事を覚えてお仕えしたいなあ。
「大丈夫、ゆっくりでいいわよ。あの子は少し気難しいところもあるけれど、ヒカリが支えてあげてくれると嬉しいわ」
「私ごときが支えるだなんてそんな……」
「ふふ。謙虚なのね。でもね、わたしくは人を見る目に自信があるの。だから期待してるわよ」
茶目っ気の込められたヴィオローネ様の声に思わず笑ってしまった。
短い時間しか言葉を交わしていないが彼女の人柄の良さを感じる。落ち着いた調子で話す彼女の声に懐かしさすら感じ、安らぎを覚えた。もしも私にお母さんが居たら彼女の様な人だったのだろうか。いや、彼女みたいなお母さんが居たらよかったなあ。
そこで会話が途切れ、ゆったりとした時間が流れる。春の香りを含んだ風が肌を撫でて心地が良い。
もっとヴィオローネ様とお話がしたい。そう思うと自然に口から言葉が溢れていた。
「ヴィオローネ様、質問してもよろしいでしょうか?」
「ええ、何でも聞いてちょうだい」
穏やかな表情のヴィオローネ様に向かって問いを投げた。
「ソナタ様ってどんなお方なんですか?」
私から見たソナタ様とリラの語る彼の印象には違いがあった。ヴィオローネ様にはどのように見えているのだろうか。
「そうね。とても優秀な子よ、わたくしたち夫婦には勿体無いくらいに。お陰であまり甘えてくれないの。それが少し寂しいわ」
お屋敷の方を見つめながらヴィオローネ様は言葉を続ける。
「あの子は成人してはいないけれど十分立派に貴族としての務めを果たそうとしている。ただ、あの子の理想とする貴族像とわたくしたちの在り方には乖離があるようだけれども」
「貴族像? 乖離?」
理想? 乖離?
どういう意味なのだろうか。
「ごめんなさいね、少し難しいお話だったかしら。わたくしたちはソナタの理想の親を演じる事が出来なかった、そういうお話よ」
「すみません、よくわかりません」
私に視線を向けたヴィオローネ様は少し寂しそうな表情を浮かべながら説明してくださる。
お話の内容はよく分からないが、あまり親子の関係は上手くいってなさそうな様子だということだけは理解した。何があったのだろうか。
「いいのよ。じゃあ、別のお話をしましょうか。ヒカリ、花壇を見てごらんなさい」
ふんわりとした笑顔に表情を変えた彼女は花壇のある方向を指差す。
その先を視線で追うと色彩豊かに沢山の花が咲き乱れていた。遠目から見る限り色合いの調和が取れていて綺麗だった。
「綺麗でしょう? わたくしのお気に入りの場所なのよ」
「ええ、とても綺麗です」
ヴィオローネ様がおっしゃる通り見ていてとても美しい光景だった。ずっと眺めていたい、そう思ってしまう。
「そうでしょう。けれど残念ながら当家の庭師が去ってしまったの。だからこの美しい風景を眺めていられるのは今だけだわ」
「庭師さんはもう来てくれないんですか?」
「難しいわね」
「どうしてですか?」
「それは……大人の事情かしら」
ヴィオローネ様はとても感情豊かなお方だ。表情や仕種から残念がっている気持ちが伝わってくる。
何か力になれる事はないだろうか。少し考えた後に、私は口を開いた。
「ヴィオローネ様。私が花壇の手入れをしましょうか?」
そう、手入れする者が居ないのであれば代わりに私がやればいいんだ。そんなに大きな花壇ではないから多分大丈夫。
お屋敷での快適な日常の恩返しに何かしたいと考えていたところだ。私でも役に立つのであれば力になりたい。
「だってこんなに美しいんだもん。無くなってしまうのは勿体ないです。だから私に任せてください」
「あら、いいのかしら? 大変よ?」
心配そうな様子の彼女を制し、私は言葉を続けた。
「大丈夫です! きっと来年も美しい花を咲かせてみせます! だからまた一緒にお話してくださいますか?」
「ええ、もちろんよ。わたくしの願いを聞いてくれてありがとう。でもね、ヒカリ。決して無理はしちゃダメよ、貴女が出来る限りでいいのだから。わたくしと約束できるかしら?」
「はい、約束します」
私の様子を見て微笑むヴィオローネ様は花壇に咲く花のように可愛らしかった。