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残滓  作者: ムツキ
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変ったふり

 一息に語り切った後、僕は自分が泣いていることに気づいた。久々だな、と思った。


 佐々木さんの方に目を向けると、彼女も静かに泣いていた。膝の上に手を置いて、静かに真っすぐソレの方を見ていた。


 そのあとで佐々木さんは、少し息をこぼして、涙も拭かず、僕に微笑んだ。目は赤く、瞼も少し腫れていた。涙は目からだけじゃなくて、鼻や口元からも垂れていた。


 その言葉は似合わないはずなのに、僕は『綺麗だ』と感じた。


 それは、心の美しさだったんじゃないかと思うけれど、わからない。それも嘘かもしれないし、勘違いかもしれない。どうだっていいことだ。


 だって、僕がそう感じたことだけは確かだからだ。




 佐々木さんは何も言わないでいてくれた。何も言えなかったんじゃなくて、何も言いたくなかったのでもなくて、ただ、僕のために何も言わないでくれたのだ。


 それくらいは、僕にもわかる。分からない人にはきっと分からないけれど、でもこれくらいなら、僕にも分かる。分かって当然だ。


 佐々木さんは黙って微笑んでくれた。それが、嬉しかった。


 気まずい空気も、口癖の「ごめんなさい」もなく、照れたような表情も、気恥ずかしさも何もなく、ただただ一緒に哀しんで、笑ってくれた。それが、どうしようもなく暖かかったのだ。


 暖かくて、抱きしめたいと思ったのだ。自分が暖まるために。





「もしよければ、今晩抱いてくれませんか?」


 病院から出た後、佐々木さんは率直にそう言った。驚くほどすっきりしたその声に、逆に僕がたどたどしくなってしまう。


「え、どうしてですか?」


 佐々木さんは照れ臭そうに笑った。


「抱かれたいんです。生きるために」


 それが『誰かに』であるのか、『僕に』であるのか、どうしても気になった。それを尋ねようか迷っている途中で、佐々木さんは、付け足すように囁いた。


「佐伯さんに、抱かれたいんです」


「ちょうど、尋ねようか迷ってたところだったんですが、偶然ですかね」


「嘘をつくのは苦手なんですけど、こういうのを察するのは得意なんです。昔から」


 それはすごい長所なんじゃないか、と僕は素直に思った。そのあとすぐに、むしろ生きづらそうだと思った。それで嘘をつくことができるなら楽なのに、自分は本心でしか話せず、相手からは本心だけが伝わってくるとしたら。


 この世界がどれほど悲しく歪んだものに見えてしまうことだろうか。


 僕は黙って佐々木さんがどのような人生を歩んできたのだろうと、少しだけ悩んだのちに、ベッドで聞けばいいじゃないか、と思い至った。





 あの時と違って、酒が入っているわけじゃなかった。濃い霧のようなぼやけは少しもなく、お互いのことがよく見えた。


 佐々木さんが美しい女性でないことは、わかりきっていた。醜いというほどではないけれど、お世辞にも美人とは言えない。僕だって多分そうだろう。自分の顔が褒められたことは、この人生においてそれほど多くない。貶された回数よりは多いかもしれないが、それはきっと佐々木さんだって同じことだ。


 それが現実だと、僕たちはずっと前から知っていたと思う。むしろ二週間前のあの雨の夜だって、僕たちは夢に溺れてなんていなかった。いっときの快楽をむさぼっていただけでもない。僕たちは現実の悲しさを分かち合っていたのだ。




 佐々木さんはあの夜よりさらに敏感になっていた。途中で大丈夫か心配になるくらいだったけれど、時々息を荒げながら真っすぐ見つめてきて、微笑むのだ。この人は、ずっと正気のまま生きているんだと思った。




 交わった回数が分からなくなってきて、それ以上することができないくらい頭がぼんやりしてきたころ、佐々木さんは穏やかな口調で「まだ、生きていられるかもしれません」と呟いたような気がした。それが気のせいだったかどうかが分かる前に、僕は深い眠りに落ちた。


 佐々木さんの人生について聞く予定だったことなど、激しいセックスのせいで全部忘れてしまった。




 目が覚めてすぐそのことに思い当たったけれど、どうにもそういう気分ではなかった。雨が降っていたからだ。


「雨は嫌ですね。傘、どこかに売ってませんかね?」


 佐々木さんはわりと元気そうだった。僕が起きたときにはすでにちゃんとした服装で、軽く化粧も済ませていた。


 眠い目をこすりながら、予定について考えて、午後からバイトだとぼんやりと思った。午前中どう過ごそうか、悩んだ。




 しばらく、静かな時間が流れた。佐々木さんはスツールに座って外を眺めていて、僕はそんな佐々木さんの姿を眺めていた。


 ほんのりとした憂鬱が辺りを支配していて、動きだすのが面倒だった。別に嫌だというわけではないのに、ただどこまでも気怠い気分だった。ずっとこのままでいいとも思わないのに、このままじゃいけないとも思わない。こうしたいとか、こうしたくないとか、そういう感情すら少しも湧いてこなくて、ただただ時が過ぎていくのを眺めているだけの時間。空しさとも違うそんな感覚は、どうにも愛しいとも憎いとも感じられない、ただただうんざりさせられた。


「それでも、生きなくちゃ」


 佐々木さんがそうつぶやいた。僕の気持ちを察したのか、それとも彼女自身の思考によって導き出されたのかは分からない。ただ、その声と同時に僕も彼女も立ち上がって、部屋を出た。その間に目を合わせることはなかったけれど、そこに気まずさは少しもなかった。


 僕たちは愛し合ってなどいないのだと、感じた。それでも、尊重はしている。お互いを大切にしている。


 この関係が何なのかは全く分からないが、人が勝手に作った何かの名称や既成概念に当てはまってるかどうかなんて、どうでもいい。


 ぼんやりしているうちに佐々木さんはひとりで支払いを済ませた。今思い出したが、あの夜も僕は財布を出さなかった。常識的に考えれば、それは男として非常に良くないことなのだろうと思い当たった。


 そう考えていることが、佐々木さんに言わなくても伝わるかと思って少し見つめてみたが、佐々木さんは首をかしげて照れて笑った。


「なんですか?」


 超能力ではないのだから、伝わらないのは当たり前だと、自嘲しながら考えていることを具体的に言った。


「いや、前もですけど、僕がお金を出さないのは良くないんじゃないかと思いまして」


「あはは。どうでもいいじゃないですか、そんなこと。それに、私こんなんですけど、お金だけは結構あるんです。宝の持ち腐れってやつですね」


 お金は宝なのだろうか、と僕はどうでもいいことに疑問を抱いたが、そういうことを考えている時点で、自分にとってもお金というものがどうでもいいものであることの証明だった。


「ところで、お金を宝物みたいにして隠しておくのって、面白いですよね。ただの道具なのに」


 いつも触っているコンビニのレジを思い浮かべた。同時に、子供の時香織とふざけてやったお店屋さんごっこも思い出した。真剣にやっている分、今の方がバカみたいだなと自嘲したくなった。


「佐伯さんって意外と皮肉みたいなこと言いますよね。素なのはわかりますけど」


 佐々木さんはくすくすと可愛らしく笑った。


「ちょっと気を抜くと、人の気を悪くしてしまうんです」


「そうですかね? 私は好きですけど。そういう風に考えられるのかぁって感心したりもして」


「佐々木さん、ちょっと変わりましたね」


 僕は素直にそう言った。


「変わったふりをしてみてるだけなんです。多分」


 佐々木さんはぎこちなく笑ってみせた。僕は真顔のままだったと思う。



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