聖王国へ1
大きく馬車が揺れ、サラは目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだ。カーテンの隙間から外を見ると、馬車は明るい光が差し込む林の中を進んでいた。
北の国ステイシアの首都を出てから一週間。
予定では今日の午後には目的地に着くはずだ。柔らかい座席とはいえ、ずっと座り続けていたので身体中が痛い。サラは大きく伸びをした。
「司祭様、お目覚めですか」
向かいに座っていた少女が、読んでいた本を閉じる。
「少しはお休みになれましたか」
どれくらい眠っていたのだろう。長旅で溜まった疲労は減るどころか増える一方だ。しかし、それを言っても意味はない。
サラは黙って頷いた。
少女は満足そうに頷いて、傍らに置かれた水差しから硝子の器に水を注ぐ。
「この林を抜けたところに、聖都の検問があります。もうちょっとだけお待ちくださいね。司祭様、お水どうぞー」
サラが返事をする前に、少女は器に入った水を差し出した。水はぬるかったが、柑橘類の果汁を入れてあるのか後味は爽やかだった。
まだ春の初めだというのにずいぶん暑く感じるのは、気候の違いからだろう。そういえば景色の中に見慣れない植物が増えてきた。
サラは他国に来たということを実感する。
「おかわりいりますか」
「…ありがとうございます。あの、ニーナさん」
「はい、何でしょう。あっ、お菓子忘れてました」
紙袋から小さな焼菓子を取り出して、ニーナが笑う。
ニーナの白い服は見習いの神官が着るものだと聞いている。癖のある焦げ茶色の髪を二つに結び、まだ幼さが残る顔には笑うとえくぼが浮かぶ。
「そんなに気を使わないでください。自分のことは自分でできますから」
「いいんです。これはあたしの役目ですから」
サラの倍の日程で旅をしているはずだが、ニーナはずっと楽しそうだ。疲れてはいないのだろうか。
一週間前に出会ったばかりだというのに、ニーナは甲斐甲斐しくサラの身の回りの世話をしてくれる。しかし、ずっと一人で家事をこなしてきたサラにとって、仕事とはいえ自分より年下の少女に気を使われるのはどうも居心地が悪い。
なぜ自分はここにいるのだろう。
幾度となく繰り返してきた自問自答の答えを、サラはまだ見出だせずにいる。
「そこの馬車、止まってください」
そのとき、男性の声がして馬車が止まった。
「騎士団の検問です」
御者で護衛の男性が小窓を開けて言った。その小窓から外の様子を見たニーナが立ち上がる。
「この馬車が本物の聖教会のものか確認しに来たんだと思います。ちょっと行ってきますね」
ニーナは荷物から何枚かの書類を取り出すと、扉を開けて出ていった。取り残されたサラは外の音に耳をすませる。
「聖教会、神官見習いのニーナ・マルシェです。新しい司祭様をお連れしています。こちらが通行証です」
「確認します。…確かに王家の紋章ですね」
どうやら話はまとまったようだ。今さら偽物だと言われても困るのだが、内心安堵した。
「新しい司祭様にご挨拶してもよろしいですか?」
ふいに若い男性の声がした。「副団長」と誰かが言う。身分の高い人が来たようだ。
きちんと対応しなければ。お辞儀の仕方、挨拶の作法、昔どこかで読んだ本の内容を必死で思い出す。
「司祭様、王立騎士団の副団長様がいらっしゃいました」
「わかりました」
サラは緩めていた胸元のリボンを整えてから、扉を開ける。
馬車の前には、簡素だが小綺麗な鎧に身を包んだ背の高い男性が立っていた。
「王立騎士団のセシル・ランサーです」
セシルは人の良さそうな笑みを浮かべて敬礼する。紅茶色の髪が揺れる。騎士と言われてもにわかに信じがたいくらいの、穏やかな物腰の男性だった。
「サラ・ファティマと申します」
ドレスの裾を持って、サラは一礼した。
お辞儀の作法はこれで良かったのだろうか。いや、少し膝を折ると書いてあったのを今思い出した。
「お話は伺っています。ここからは騎士団の兵士が護衛につかせていただきます」
サラの心配をよそに、セシルは微笑を絶やさない。騎士団の人はこういう細かい作法は気にしないのかもしれない。
「よろしくお願いいたします」
サラが答えるとセシルの後ろに控えていた二人の兵士が敬礼した。こんなに手厚い待遇を受けるなんて、一月前のサラには想像もつかなかっただろう。とても居心地が悪い。
聖王国アレクディアの司祭。
それがどのような立場であるのか、他国から来たサラにはまだわからない。しかし、これから自分が負う責任が大きいことだけはわかる。受け入れたのは自分だ。がんばらないと。
「司祭様、せっかく護衛の方もついてくださることだし、窓を開けて景色を見ながら行きましょう」
これからこの国で生きていくのだ。断る理由はなかった。
サラは小さく頷いた。
気持ちの良い風を受けて馬車は再び走り出す。
窓を開けて正解だった。気分が軽くなる。
「ニーナさん。お願いがあるのですが」
「何でしょうか。あたしにできることなら何でもしますよ!」
目的地である聖教会に着く前に、サラにはどうしても解決したいことがあった。ずっと言い出せずにいたのだが、意を決して口に出す。
「司祭様と呼ぶのをやめていただけますか? まだ正式に決まったわけではないですし…」
サラが本当に司祭かどうかは、サラ自身にもわからない。それなのに肩書きで呼ばれるのは恥ずかしい。
すると、ニーナは首をかしげて不思議そうにサラの顔を覗きこんだ。
しばらく見つめた後、にっこり笑って大げさに頷く。
「大丈夫! 司祭様は、司祭様です。あたしにはわかります!」
ニーナは胸を張った。その自信はどこから来るのだろう。サラは心の中でため息をついた。
「そうではなくて、あの…、恥ずかしいのです。サラ、と呼んでいただけますか?」
「いいですよ! じゃあサラ様もあたしのこと、ニーナって呼んでくださいね」
「…様も、いらないです」
「それはダメです。サラ様は司祭様で、あたしは神官見習いですもの。あたし、みんなに怒られちゃいます」
確かにニーナの言うとおりだ。
サラは自分の配慮の無さを恥じた。これからは自分の立場を考えて行動しなければならない。
しかし、ずっと居心地が悪かった原因のひとつを、解決することができた。勇気を出して良かった、と思う。
「そうですか。ではニーナ」
サラは姿勢を正した。
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ、精一杯がんばります!」
ニーナはサラの手を取り、ぶんぶんと振り回した。子どものような仕草に、サラもつられて笑ってしまう。
「あ、やっと笑ってくれましたねー」
ニーナは嬉しそうに言った。この少女とはうまくやっていけそうな気がした。