指輪5 雑音の中
冬が終わる頃。
暖かな風はまだ吹かないが、真冬のような厳しい寒さは和らぎ、少しくらいの薄着でも充分過ごせる位になった。高層ビル群で空の見える範囲が狭くなった事にも気付かない人々でも、見上げた洗濯日和は見て取れるほど。
空はどこまでも青く、遠い飛行機雲は止まっているようで実は伸びやかに、一本の線を引いていた。
そんなうららかな空の下。
白に赤のラインの入ったリボンを無造作に巻き付けられたシルクハットを目深に被り、赤みがかった洋式の正装服を身に纏い、所々解れた真白いマフラーを首に巻き、硬く真っ直ぐな肩口までのブロンドを風になびかせた男が、雑踏の中を無表情に歩いていた。端正な顔立ちは身に付ける装飾具で半分は隠れており、中々表情は窺えない。瞳の色も分からない。
蠢く人波に多少流されながらも、男は目的地へと直線的に進んでいく。
たまに歩幅を緩め周囲の大きな建物を見回すが、道筋は合っているのだろう。迷う事無くまた早足で歩き続けた。
やがて人波から外れ雑踏を遠目に見るが、それでも足は止まらない。
だがふと足を止めたのは、あれからまた暫く歩いた所の装飾の激しい大きな建物の前だった。
「ここ、か?」
店頭の立て看板には『本日新台入荷!』とやはり派手に書かれており、建物の上に設置された目立つ看板には『パチンコ&スロット』と掲げられていた。
建物と並ぶ駐車場は巨大だが、停車されている車も大した数だった。
男は一瞬躊躇ったが、直ぐに入り口へと足を向けた。
「……」
ガラガラと煩い台の前、1人の中年代の男性が、横に銀の玉を敷き詰めた籠を積んで座っていた。
白髪の入り混じった黒髪はとても短く、後ろは刈り上げられている。顎には不精髭。
その男、岡本 博志は台が賑やかに鳴っているにも関わらず、すっかりくたびれた服やズボンでそこここを掻き散らしている。
「…ぃ…ぉ…い…おい!」
「うおっ!?」
突然肩を掴まれて、驚きに肩を跳ねさせ声を上げた。
振り返って見ると、第一に飛び込んできたのは派手なシルクハット。そして次にシルクハットの奥に見えるブロンド、少し解れた真白いマフラー、赤みがかった洋式の正装服。
その男に見覚えはなく、且つ場に合わない服装をしている事に不審がる。
「だ、誰だいあんたよぉ」
肩を掴んだまま次の動作を始めない男に苛立ち声を掛けてみるが、返事はない。
更に何か言おうと口を開くとそれより早くガッシリと頭部を固定され、ずいと顔を近付けられた。
「少し黙っていろ」
吐息が掛かるのでは、と思うほどの至近距離。実際には口元までマフラーで覆われている為、息は届かないが。
奇妙なこの男の行動に戸惑うばかりだが、暫くして漸く男が口を開いた。
「やはりな。発信源はお前だ」
そう言うと、きっちりと巻かれたマフラーを緩めてその端正な顔を笑みで象った。
「な…何言って……」
「最近、悲しい事でもあったのか?」
博志の言葉を遮って告げる声。優しいと思える類ではないが、妙な響きがあり安心できるもの。
だが逆にそれを聞いた博志は更に怒りを高め、既に静けさを取り戻していた台に自身の拳を叩き付けた。
安心感など。
今は無駄な物でしかない。
「悲しい事だぁ……? 言ってどうにかなんのかよ……っ!?」
剣呑な雰囲気を纏いぎらついた双眸。小動物程度なら容易に睨め殺せそうなそれに男はふむ、と感嘆の声を上げると、右手を気だるげに振った。
「わざと言ったのではないが…お前の自尊心が傷付いたのなら謝ろう。悪かった。…場所を変えよう、話がしたい」
「はあ!? ちょっと待てったら、おい!」
着いて来いとでも言うように踵を返す男に、当惑しきった博志は焦り追いかけようとする。
「おいっ、兄ちゃん!」
駆け出そうとする博志を、不意に隣の台で遊んでいた中年男性が呼び止めた。見知らぬ人。
「兄ちゃん、せっかくフィーバーして玉出たんだろ? どうすんだい」
先程まで博志の足元に積み上げられていた籠を指している。一瞬迷ったが、角を曲がり姿を消した男に慌ててまた走り出した。
「んなもん全部くれてやらぁっ!!」