マフラー4 いずれ、また…
だが不意に、仁の方ではないどこかへと顔を向けてうわ言のように呟き出した。
「また…救難信号だ……。何だ、泣いている……? ここからは遠い…随分遠いな……」
呟きながらも、自然と足はふらふらとそちらへ歩き始めていた。
これで自身の救難信号は鳴らなくなり、一端の別れを迎えるのだろう。そう聡く感じ取った仁は、大声で男を呼び止めた。
「……おい!」
別に引き止めようとしているわけではない。ただ、マフラーだけでは終わらない大きな感謝を込めて。腹の底から声を響かせて叫んだ。
「トランキライザー、あんた1度家に帰ってみろよ! 前と変わらず暴力を奮うんなら、あんたのカウンセリングでねじ伏せちまえ!」
自分でも何を言っているんだと思ったが、男は目を見開いて仁を見つめた。実際には中身はないらしいが、そんな表情をしていた。
それから挑戦的な表情を浮かべると、大きく手を振って、男もまた叫んだ。
「……っは、それは試してみたいもんだな! ……お前の身近に救難信号を発する者がいればまた会えるだろう、仁!」
お互いに笑みを交わし名前で呼び合い、大きく手を振る。どうせ男にはおぼろげにしか見えていないだろうが、恐らく他のセンサーなどで感じ取っているのだろう。
背が消えるまで手を振っていた。
その間数人の同級生に男の存在を問われたが、暫くはそこから目を離す事が出来なかった。
20年以上経った今でも忘れていない。
リボンを無造作に巻き付けられたシルクハットを目深に被っていた。赤みがかった洋式の正装服は最後ガラスの破片で傷だらけになっていたが、今は直されているだろうか。瞳を隠していた硬く真っ直ぐなブロンドは伸びただろう。もしくはまた短く切られているか。
そして…最後まで見えていたあのマフラーは、本当に良く似合っていた。寒いのが苦手なのは変わっていないだろうから、きっとまだ大事に持っているだろう。
あれから暫く経ち、仁は自身の精神科病院を創り院長となった。小さい頃からの憧れだった、人を救う仕事。形は変われど、夢が叶った時には言い様のない嬉しさが込み上げてきたのを憶えている。
理由はそれだけではない。ここで入院している患者の元にきっと現れるであろう男への、再会の希望。
だが、精神科医になって驚いた事が1つだけあった。
「仁院長先生、305号室の患者さんのお薬トランキライザーの用意が出来ましたよ」
「ああ、ありがとう」
トランキライザーというのは、精神安定剤の事だと初めて知った。理解した時、妙に納得した。
――トランキライザーと呼ばれている――
男が洩らしたこの言葉。本人は気付いているのか知らないが、今まで世話になったであろう人達の気持ちを知る事が出来る。
仁は、深い皺の刻まれた顔で無意識に微笑んでいた。懐かしい、とは思えない。毎日思い出して、そして笑っているから。
仁はこの病院のマーク、リボンの巻き付けられたシルクハットとマフラーを象ったバッジを手に取り、小さく呟いた。
「また、会えると良いな……トランキライザー」
俺は、今からちょっとわくわくしている。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
このマフラー編は、僕が大切な親友に向けて書いた小説です。最後は救われるような、そんな。
トランキライザーは、まだまだ続きます。
次回から新章〔指輪編〕始まります、マフラー編はこれにて終了ですが、どうぞこれからも応援して頂けたらと思います!
それでは、長々と失礼しました――