マフラー2 鬼ごっこのち突然の使命
勝手に部屋に入り。
勝手に土足で家中を徘徊し。
勝手に仁のベッドを占領している、男。
「…っ出てけ――!!」
「騒がしいな。夜中なんだ、喚かないでくれないか。…この部屋は寒いな。ホットレモネードか何か作ってくれ」
そう言って、男は仁の所有している小説のページを捲る。
「寒いんなら厚着しれば良いじゃねえか! それにっ! ベッドに上がる時くらい靴脱げっつの!」
「どうせ海外に行った事がないだろうお前に少しでも洋風というのを感じさせようとしているんだ、私の心遣いを無駄にするな」
「余計なお世話って言うんだよそういうの! …ったく、仕方ねえから暖房くらいは付けてやるよ」
「中々気前が良いな。その調子でホットコーヒーを1つ頼む」
「レモネードで充分だ。粉とお湯で済むし、お前の好みの味分かんねえよ」
勝手に付け加えられた注文にぶつぶつと文句を洩らしながらも、部屋から出て台所へと向かう。
その時、仁は気付かなかった。
男が見ていたのは、本棚の小説だけではなかった事に…――
小鳥の囀りが響く爽やかな朝。
そんな朝に良く似合う笑顔の男と、まるで正反対の仁の表情。
「…あんたが俺を救いに来たのは知ってる。やり方は知らねーしどんなのかも分かんねーけど……」
「別に良いさ。これから分かれば良いだけだ」
「…っだからって何で学校まで付いて来んだよ!」
叫ぶ。
その服装は、一般的な学生服だった。ブレザーで中はネクタイ。
だがそんな仁には全く構わず、男は見えている口元だけで笑みを象っている。
「学校に付いて行くくらいどうって事ないだろう。お前の1日を知りたいんだ」
「つ…付いて来んなっ!」
そう言い残すと、仁はダッと自室から駆け出した。
予め準備していた、真白いマフラーを巻きつけた鞄をたすき掛けに肩に掛けてアパートの階段を全速力で駆け降りる。
朝早くにこんな騒がしい音をたてるのは少々気が引けるが、あんな妙な格好をした男と登校するなんでプライドが許さない。
「はっ…っ着い、たっ!?」
最後の階段の踊り場を回った所で、目に入ったものに驚き足を踏み外した。およそ下から5段目を踵で蹴ってしまい、体勢が前のめりに崩れていく。
そこで突然腹元に手を伸ばされ、地面に激突する直前で受け止められた。肩に乗せられるとドスンと鈍い音がし、腹にフルスイングされたような激痛が走る。
「馬鹿かお前は。何でそんな所で転んだ」
「くっ苦し……! …っ離せ!」
仁を助けたのは、何故か3階に残して来た筈のあの男。
階段で追い付かれた覚えはなかったし足音もしなかったが、いつの間にか1階に来て悠々と待っていたのだ。
言ってやりたい事は色々あったが、男に担がれたままでは肩が腹にめり込んで苦し過ぎる。
「貧弱だな……」
ため息を吐かれて解放され幸い傷も汚れもなかったが、仁はブルーを通り越して、例えるなら黒ずんだ紫になっていた。
ここで捕まったと、いう事は。
「…そんなに…行きてーのかよ……」
「当然だろう? さあ、案内してくれ」
後で訊いたら、ベランダから飛び降りて先回りしたのだと言う。
一時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
学校の校門前で別れた男とは、校内を散歩すると言って行ったきりそのままだ。
冬真っ只中で教室内の気温は低く、底冷えする程。日が高い時間の筈だが流石にその寒さに我慢出来ず、仁は鞄に巻き付けていた真白いマフラーを解いて口元を隠すように首に巻いた。
凍える指先を吐息で温めながら、次の授業の為に教科棟へと急ぐ。
科学室に着きドアを開けると、まだ人はまばらだった。
4人で一つのテーブルの前にある席へと腰を降ろしあまり良いとは言えない2階からの景色を楽しんでいると、やがて人も集まり授業が始まった。
「……」
ぼんやりとしているといつの間にかテーブルに試験管やら何かの薬品やらが並べられ、グループで分けられているこの班は賑やかに課された課題をこなしていた。
葉の枯れた木ばかりの景色にも飽き始めていたので、実験には参加せずに透明な薬品へと目をやってみる。
異変に気付いたのは、その時だった。
ビーカーに入っている薬品が、初めは小さく、だが少しの時が経つにつれて大きな波紋を広げていく。
バッと振り返って周囲の生徒達を見るがテーブルを揺らす者など1人もおらず、皆異変に気付かずにお喋りに花を咲かせている。
体験した事はないが、なんとなくは分かった。
「…っ地震だ!! 皆、テーブルの下に隠れろ!!」
叫ぶと同時に、瞳に映る全てがズンと音をたてて揺れ始めた。
悲鳴を上げながら隠れる生徒達を他所に、仁は急いで出入り口のドアを開ける。
激しい揺れは収まる気配を見せず、テーブルの上に並べられていたビーカーやフラスコが落ちては割れ、ガタガタと暴れるドアを押さえる仁の手足を容赦なく制服を裂いて傷付けていった。
更に、激しくなる揺れ。
やがてドアや窓枠の変形に耐えられなくなったガラスまでもが砕け散り、派手な音で余計に生徒達を脅えさせる。
寒さに弱い仁だけはマフラーを巻いていた為首を怪我する事はなかったが、他の者はどうだろう。未だ致命的な傷を負った者は居ないが、このままでは確実に死に繋がる怪我をする者が出るかも知れない。
仁は1番手近なカーテンをレーンごと毟り取り、窓際の机の下に隠れている生徒に投げ付ける。
そして、困惑する女生徒に叫んだ。
「そこの窓はまだ割れてねーから…っそこの班、布で防いどけ!」
「あっ…えっ!?」
床に広がったカーテンを手繰り寄せて戸惑う女生徒。すると同じ机の下に隠れている男子生徒は長袖の学生服を脱いで女生徒の頭に被せてやり、その手のカーテンを取って体全体を隠すように覆わせてやる。
「わっ、ちょ……!?」
「怪我、するからっ!」
強い当惑を見える女子生徒に、その男子生徒は揺れに耐えながら必死に告げた。
「ナイス……っ!」
仁は僅かに笑んだ。
この教室内での1番の怪我人は仁、手足や頬が切れてはいるが、それ程出血は酷くない。このままいけば、これ以上の怪我人を出す事なく乗り切れるかも知れない。
確信を感じる仁の瞳の端、赤みがかった洋式の正装服が映った。
永遠とも思われる揺れの中どうやってバランスを取っているのか、男は悠然と廊下を通り、仁が支えるドアをすり抜けて教室内に足を踏み入れた。相変わらず土足のまま。そして窓際に面した班で立ち止まり、首だけを仁に向けて呆れた声で囁いた。
「怪我しすぎだ、馬鹿が。…危ない点が、1つあるぞ」
「は……!?」
訝しがる仁。危険は回避した筈だ、意味が分からない。
だが、その思考も直ぐに中断される。
男の足元で不安がる女子生徒。当然だろう、学校関係者とも誰かの保護者とも思えない、言ってしまえば不審者なのだ。だが仁が見たのは、女子生徒を前にしている男の後ろ、軋み悲鳴を上げているガラス窓。
「あ…危ねえ! あんた、そこから離れろ!」
叫ぶ。そして、割れる窓。鋭い破片は教室内に、弾かれたように。
「……っ!!」
酷い惨劇を想像し、自然、ギュッと瞼を閉じていた。
厚い布を裂く音が聞こえた。生徒達の小さな悲鳴も。
「…割れる窓に対して、布を被るというのはまあまあだな。だが、それは体に密着させたままではあまり効果はない。ガラスが刺さるぞ」
「……え」
続いたのは、男の穏やかな声。驚きに目を見開くと、無数のガラスの破片が突き刺さった厚い上着を掲げた男が目に入った。実際には見ていないが、恐らくそれで危険の大部分をを防いだのだろう。中から着ていた白いワイシャツや肌が浅く切れている。
「お前の為のこのシチュエーションだ、もっと活躍して見せろ」
上着に刺さった破片を引き抜き、廊下に投げて捨てていく男。少しずつ収まってはいるが、激しい揺れの中でのその行動は異様なものだった。
「あ、あんた怪我は!?」
「ほぼない。それより、プールへ行け。素行の悪そうな奴等が騒いでいたぞ」
「は? …っ、こんな時に……! ここ、押さえててくれ!!」
一瞬不審がるが直ぐに状況を理解し、足取りは不安定だが石を強く教室から飛び出して行った。見送られるその背は意外にも逞しい。
それから数秒も経たない内、だが教室から仁の姿が見えなくなった頃、タイミングを読んだように静かに地震は止まった。仁のいない教室で、安堵のため息がその静けさを誇張させるかのように響いたのだった。