人形
憎い。
今、目の前にいる女が憎い。
「た、助けて…!」
女は無様にも、私に向かって命乞いをした。
だが、今の私にとっては、その行動は逆効果にすぎない。
…それにどうせ、その傷では永くないだろうに。
私は構わず、手にしたナイフを振り上げる。
「い、嫌…!死にたくない…!」
どうしてそんなに怖がるの?
私は貴女が羨ましくて仕方無いのに。
私が代わりたい程なのに。
だって──
貴女はあの人に、愛して貰えるのだから。
ある晴れた日の昼下がり。
私は何時ものように、 材料の買い付けに出掛けていた。
ガラスに、布に、陶土に、ビーズ。
それら全てを持って帰るのは、女の私には厳しい仕事だ。
最近やっと涼しくなってきたのが、唯一の救いだろうか。
季節は晩夏。
もうじき秋がやって来る頃だった。
「あら、カルメンちゃん。お使い?」
そう声を掛けてきたのは、近所に住む中年の女性だった。
何度か話したことがあるのは覚えているが、名前までは覚えていない。
私は興味の無いことは直ぐ忘れる質だから、聞いたことはあるかもしれないが…。
「ええ、材料が切れたものですから。色々と買い付けに。」
「まだ若いのに偉いわねえ。家の子供たちなんて、カルメンちゃんより歳上だって言うのに家事 手伝いもしないのよ?この間だって…。」
一つ、彼女についての事を思い出した。
それは、 彼女が話好きだと言うことだ。
今、こんなところで時間を潰すような暇は私には無い。
言い付けられた仕事の途中であるし、こうしている間にもあの人は私を待っているのだ。
「あの…すみません、急いでますので…。」
「あらやだ。私ったら何時もの癖で話し込む所 だったわ。ごめんなさいね、呼び止めたりして。」
私は軽く頭を下げ、その場を去ろうとした。
けれども、その背中に再び彼女の声が掛けられる。
「あ、そうそう。カルメンちゃん、余り一人で出歩いちゃ駄目よ?最近物騒なんだから…。」
「物騒…ですか?」
「ええ、知ってるでしょう?この辺りで起こってる連続殺人事件。この間だって、隣町で女の子が殺されたらしいわよ。犠牲者はみんな、カルメンちゃんみたいに可愛い子だって言うし…。だから 私、この町でも起こるんじゃないかって、心配で心配で…。」
そう言って、不安げな表情をする女性。
私はそれに対して、笑顔を浮かべて応えた。
「大丈夫ですよ。この町も、人も。」
「…そうだと、良いけれど。」
そんな女性の呟きを背に、私は再び歩き出す。
目的地は直ぐそこだ。あの人に会えると思えば、自然と足も軽くなる。
「申し訳ありません、シリル様。遅れてしまいまして…。」
家に到着して 、最初にしたことは頭を下げることだった。
予定より、10分程の遅刻。
それだけ、彼の仕事が遅れたと思え。
私は自分にそう言い聞かせる。
「いや、一人で重い荷物を持ってきてくれたんだ。謝ることなんてないさ。いつもありがとう、 カルメン。」
こんな私にさえ、優しい言葉を掛けて下さる彼こそが、私の愛しいシリル様。
頭脳明晰、容姿端麗。
天から二物も三物も与えられた御方だ。
元々は医者だったが、先の大戦に軍医として従軍した際に両足を負傷し、歩けなくなってしまっ た。
その為今では医者を止め、仕事で培った手先 の器用さを活かして人形師をしているのだが、その身の周りの御世話をするのが私の役目という訳だ。
「それでは、買ってきた材料はいつもの所に仕舞っておきますね。」
「うん。…あ、そうだ。カルメン、やっと人形が完成したよ。」
「えっ…?もう、ですか…?」
シリル様の言葉に、私は驚きの声をあげる。
“材料”を手に入れてから、まだ一週間も経っていない。
幾らシリル様とは言え、早すぎるのではない だろうか?
「あぁ、語弊が有ったようだね。人形と言うのは、普通の方さ。悪いけど、また売りに出てもらおうと思ってね。あっちの方は、まだ時間がかかりそうだよ。」
「そ、そうですよね。すみません。頭が回らなくて…。」
一々シリル様に要らぬ話をさせてしまう自分がもどかしい。
もっともっと、彼のお役に立ちたいのに。
役に立たなければならないのに──。
「じゃあ、これが旅費だから…渡しておくよ。」
「ありがとうございます。明日にでも売りに出掛けてきますね。では、早速私はその間のシリル様のお食事を作って置きますので…しっかりと食べてくださいよ?シリル様、人形作りに没頭すると寝食忘れるんですから…。」
「はは、気を付けるよ。いつも苦労を掛けてすまないね、カルメン。」
笑顔でそう語りかけて下さるシリル様。
彼と暫く別れる事になるのは多少辛いが、これも彼の為。
そう考えれば、私は例え火の中だろうと水の中だろうと、躊躇わずに飛び込んでいけるのだ。
人形を売り歩く、と言うのは、中々に大変な仕事だ。
注文を受けて納品する、というようなものではない。
各地の人形を取り扱う店を回り、買い手を探 さなければならないのだ。
無論、有名な人形師ならば注文が入ることも有るだろうが…失礼ながら、シリル様は人形師としては有名だとは言えない。
注文なんてさっぱり来ないし、売れたとしても安値で買い叩かれてしまうこともしばしば。
それで、今回の結果はと言うと…惨敗と言って差し 支えないものだった。遙々遠くの町まで来たのに 安く売らされ、あっさりと今までの安値記録を更新してしまった。
これも全て、私が至らないせいだ。
もっと私に巧みな交渉術があったなら、こうはならなかった筈。
そう、自分を責め立て唇を噛み締める。
…まあ、こうなった時の為にと、野宿や食費を切り詰めて節約した旅費の残りがあるから、それを足せばそれなりの値段で売れたように見せることができるだろう。
問題は慧眼なシリル様を騙しきれるかどうか、だけれど…そこは自分の演技力に掛けるしかなかった。
なにより、何時までもこんなところでぐずぐ ずとはしていられない。
シリル様の世話や仕事の手伝いをしなければならないのだ。
ようやく腹を括った私は、道行く人々を眺めるのもそこそこにベンチから立ち上がると、足早にその街を後にした。
「只今戻りました、シリル様。」
数日ぶりに家に戻ると、シリル様は笑顔で私を迎えてくれた。
それはとても眩しく、また私が旅先で早く見たいと思う程のものだったのに、今はただ、辛かった。
「あぁお帰り、カルメン。今回の売り上げはどうだったかな?」
それもその筈。
久々に家に帰った私が先ずしなければならなかったのは、シリル様に嘘をつく事だったからだ。
…シリル様に嘘をつくのは大変心苦しいが、彼の悲しむ顔を見るのはもっと辛い。
すみません、許して下さい…。
「こ、今回も、中々の高値で売ることが出来ましたよ!見てください、この成果!」
努めて明るく、さも嬉しそうに見えるよう、笑顔を作って金貨を差し出すと、シリル様はそれを受け取って確かめ始める。
…ばれないだろうか?と、シリル様の顔色を伺いながら、私は気を揉む。
暫く勘定をしていたシリル 様だったが、おもむろに顔を上げると、さっきよりも一層眩しい笑顔を見せてくれた。
「うん、ありがとうカルメン。人形が売れたのは、君のお陰だ。疲れただろう?お風呂にでも入って、ゆっくり休むと良いよ。」
この笑顔だけでも、私の苦労が全て報われたと思える。
更に優しい御言葉を掛けて貰えるなんて…私 は幸福者だ。
…最近、彼の笑顔を見ると、何故だかどきどきとして、落ち着きがなくなる時がある。
最初は何なのか分からなかったけれど…今ではちゃんと、分かっ ている。
これは恋なんだ、と。
私は、自分の主人たる人に、恋をしてしまったのだと──そう、思うようになっていた
報告も済み、退出しようとする私に、シリル様は思い出したかの様に声をかけてくる。
「あ、そうだ。済まないカルメン。君が外出している間に、あの人形が完成したよ。今回のは自信作さ。」
「え?特別な方の人形…でございますか?」
「あぁ、そうだよ。でも見たところ疲れてるようだし、後でも良いけれど…。」
「あ、いえ、大丈夫です。今すぐ、見させて頂きます!」
わたしがそう答えると、シリル様は再び微笑み、 じゃあ、こっちだよと案内する。
私はシリル様の車椅子を押しながら、彼の指差す方へと進んでい く。
…そこは、薄暗い廊下を少々進んだところにあるシリル様が人形を作る為の部屋。
頑丈そうな扉に塞がれていて、私は滅多に入ることはない。
部屋の前に来ると、鼻を生臭いような匂いが刺激する。
ぎい、と扉を開けると、それは更に濃くなる。
一歩足を踏み入れると、シリル様は私に声を掛けた。
「暗いから、足元に気を付けて。」
その御言葉の通りに、足元に散らばる人形の手や足を注意深く避け、部屋の奥に進むと、人間大もある人形が数体、厳かに鎮座していた。
「…これさ。この、真紅のドレスを着た人形だよ。 」
彼の示した人形は、その中でも、いや、私が見てきた何よりも美しく、そして無表情で有るように思えた。
その形容し難い程の美しさを持つ人形を見た私は感嘆の溜め息を吐き、呟く。
「あぁ…やはり、美しいものですね。──…人の皮を使った人形というのは。」