第四話
セラとの話も一段落し、藍丸がとりとめのない事を考えていると、坂道を登りきって目的地へとついた。
視界一杯に広がる天然のライ麦畑。太陽が丁度昇り始めた事でより美しく見えて圧倒的な光景だ。
「……凄い、綺麗」
隣に居たセラはそう呟くと、足を止めてじっとライ麦畑を見つめる。
後ろの村人たちも何事かと思って登ってくると、皆呆けたように立ち止まる。
「なぁ、俺は夢でも見てるのか?」
「これ一面が、食い物だっていうのか。夢なら覚めるなよ……」
「こんな場所があったなんて」
口々にそう言って、少しだけ皆が喋らなくなる間が出来た。
その間を打ち破ったのは、付いてきていた村人全員の歓喜の声だ。
沸くような歓声の後、村人たちは隣の人と話したり、空を仰ぎ見て涙を流す人もいた。
「これで、これなら皆助かるぞ!」
「娘に腹いっぱい食わせてやれる」
「なぁ、早く刈ろう。綺麗な場所だけど我慢できねぇ」
「少し落ち着け、皆」
そういう村長も、足がそわそわとしているようで、直ぐにでも作業を始めたいのは見て取れた。
「ランマル殿。疑うような事を言ったこと、申し訳なかった。こんな近くにこのような場所があったことも気付けなかったとは」
「いいえ、こうして皆の喜んだ顔を見ればそんな事、大したことではありません」
「それはありがたい。約束どおり、収穫が終わった後はそれを挽いてお渡しします」
「ありがとうございます。皆待ちきれない様子です。早速収穫に入りましょう」
「おお、そうですな。そうしましょう。皆、これより収穫作業に入る。荷馬車も引いてきているが、今日は持ち帰れる分だけ刈る事! 怪我も勿論気をつけろ」
村人の何人かが気もそぞろに返事をし、ワッと一斉にライ麦畑に走っていく。
全力疾走しているのは一人や二人ではない。
「全く聞いて無いな……仕方ないか」
そう言いながら村長もそれに続いた。
セラもようやく目的を思い出したのか、藍丸を小突いて催促してくる。
「私達も行きましょう? 沢山とらないとね。どれだけとっても取りきれそうに無いけど」
「収穫を手伝う約束もしたし、やるか」
藍丸は以前、畑を借りて農作業も行っていた。
とても疲れる上に単純ではあるが、楽しい作業でもある。
ライ麦に近づくと、事のほか大きくて驚かされた。
二メートル近く育っていて、先端にはびっしりと種が付いている。
鎌を借りると、少しだけ惜しみながらライ麦を刈り取っていく。
ワラが顔に触れくすぐったい。柔らかいし、ワラのベットは持ち歩くのに便利かもしれないと藍丸は思った。
数十人で一斉に刈り入れを始めた為、昼を迎えた前には荷馬車も持ってきたフクロも満杯となった。
なので各人が持てるだけ持ち抱えるという傍からみるとやや珍妙な光景となる。
その珍妙ささえ大豊作の前には面白さのひとつでしかない。
それでもまだまだライ麦畑は健在だった。
皆笑いながら村の帰路へと着く。
藍丸もライ麦を両手一杯で抱えて少し苦労しながら歩いていると、村長も同じ格好で話しかけてきた。
「ランマル殿。ライ麦が他の小麦や大麦と似た穀物というのは見れば分かるのですが、手順も同じで構わないので?」
「確かそうだったはずです。数日ほど干して脱穀。そのあと食べる分は籾殻を外して粉にすれば大丈夫だったかと」
「なるほど。此処は日が良く当るので脱穀には明日一日干せば大丈夫でしょう」
「脱穀はどうやっているのですか?」
「板を踏むと回転する木の道具を最近大工の倅が作りましてな。始めはどうなるものかと思っていたのですが、面白いように種が取れるのです」
「足踏脱穀機というやつですか」
「ランマル殿の国ではそういうのですか。ある所にはあるのですな」
「ええ。多分売ろうと思えばかなり売れるはずですよ。商人の方が来たら聞いてみるといいと思います」
「確かに他の村が知れば欲しがりそうですな。商売といえば羊から取れるものや薬草がもっぱらだったので、他のものを売るという発想がなかった。ランマル殿は良く思いつきますなぁ」
機嫌がいいのか、感謝もあるのか藍丸を褒めてくる村長。
社交辞令もあると分かっていても照れくさく、藍丸は頬を掻こうとして両手が塞がっている事に気付く。
思わず苦笑してしまった。
「後は臼に挽いて、粉にすれば食べられます。それも大部分が持っていかれる税ではないと考えると感無量です」
村長が、少しだけ俯いてそう告げる。
税で食べ物の殆どを持っていかれた後だ。言葉の重みが違う。
現代でこそ税金は全て金銭となったが、そうなるほどお金に価値が出始めたのはそれほど古い時代では無い。
それ以前は主食となるモノに税金が掛けられていたのだ。
日本なら米。欧州などならここと同じく小麦といった具合に。
税の掛からない穀物はそれだけで別物なのだ。
「大仕事になりますね」
「ええ、ですが嫌がるものは一人もいないでしょう」
そういうと村長はにやりと笑う。
藍丸もそれに釣られて笑った。
村に着くと残っていた住民たちも沸きに沸いた。
食糧不足が一転し、食べきれないだけの食料が運び込まれてきたのだから当然だろう。
村人総出で今日の張る間が続くうちに間に合うよう天日干しの用意をしていく。
見事な手際で進められ、藍丸は簡単な作業ばかりしか手伝う暇がなかった。
村の隣で一面にライ麦が並べられる。
太陽は天高く上り、その輝きでよりライ麦の色がさわだつ。
「たいりょーたいりょー。ランマルを連れてきてよかったわ」
「こっちも助かったよ」
セラが水を飲みながら話しかけてくる。
良く働いたのか汗で服が体にへばり付いていて、体のラインが浮かび上がっている。
(数年後はかなり期待できそうだ。うん)
男のサガか、ついそんな事を考える。
一度枯れているのだが、肉体が若いとやはり違ってくるようだった。
「粉を挽くのは明日からだから、今日は羊の世話をする人以外はお休みかな」
「いいねぇ。のんびり出来るのは」
「のんびりって……、なんていうかランマルって変わってるわねぇ。変に肝も据わってるし」
「そう? 一日のんびり日向ぼっこする事は一番の贅沢だと思うけど」
「年寄りくさいわよ。うーん――なんだか汗が気持ち悪い。川で水浴びでもしてこような。ランマルも来る?」
「ああ、こっちも汗を流したいところだったんだ」
「そ。じゃあ着替えを取ってくるわ。ランマルはどうするの?」
「昨日からそういえば着たままだった。この天気なら干せば直ぐ乾くだろう。川で一緒に洗うよ」
「分かったわ。あ、一つ言っておくけど裸にはならないからね? もし想像してたらただじゃ置かないんだから」
「残念だけど、俺の好みはもう少し年上で出るところが出ていて」
「なによバーカ!」
ランマルが言った直後に。間髪居れずにそう言うとセラは走って行ってしまった。
好みを言っただけなのに。妻もかつては何気ない一言で怒ったものだ。
女性とは常に理解の向こう側である。
「森の手前にある川に行くから、先に行っておいてー!」
セラは走りながら、ランマルにそう伝えて去っていった。
改めて服の匂いを嗅いで見ると、嫌な溜め息が出るような匂いだった。
ランマルは先に川に到着すると、服を脱ぎ捨て下半身の下着を残して裸手前になる。
下着は麻で作られたトランクスのようなものを履いていた。今更ながら履き心地は良い。
川の近くだからか、水が熱をすっているのだろう。とても涼しい。
服を水に浸すと、じゃぶじゃぶと揉み洗いをする。
流れは穏やかなので、流される心配はなかった。
一通り洗い終わると近くの木の枝で服を干し、水の中へと入る。
「冷たー……、けど気持ちいいな」
一気に体の熱が水にさらわれる感覚。
この感覚は若い時だけの特権ともいえる。
しばらく水の中をゆったり過ごしていると、セラが歩いてきた。
「お待たせ。って裸じゃないの。はしたない!」
「下は履いてるよ。他に服は無いし」
「もう。後で村長に言ってあげるわよ。全くレディの前でそんな格好するなんて下品よ」
「おや、これは失礼致しました」
ランマルは水の中からおどけたようにお辞儀をする。
それを見てセラは堪えきれずに笑う。
「ぷっ、何それ。変なの。私も川に入ろうかな。汗は気持ち悪いけど、汗をかいた後川に入ると気持ちいいのよね」
「同感」
セラは着替えを置くと、水の中に入ってくる。
セラの格好は白くゆったりとしたシュミーズのような服だ。膝上まで隠れていて、活発なセラに似合っている。
彼女はワンピースなども良く似合うだろう。
工夫がなされているのか、濡れても透けるようなことは無い。
しばし二人で水に戯れていると、小さい猫のような獣が近くに寄ってきていた。
良くみるとネコではなくライオンに近い。愛嬌があり、とてもかわいらしい。
「森から出てきたのか?」
獣は人を恐れる様子はなく、ランマルやセラが近づいても警戒する様子は無い。
抱き抱えると毛がフワフワとしていて、とても抱き心地が良い。
「この子怪我をしているわ」
「ん? 本当だ。右の前足から血が出てるな」
木の枝でも刺さったのか、赤い血が流れている。
この状態で歩いてきたのはさぞ痛かったのだろう。
「布を持ってきてるわ。傷を洗って巻いておきましょう」
セラはそう言うと、傷が水に触れるのを少し嫌がる獣をしっかりと洗い、傷口に乾いた布を巻く。
「そう深い怪我じゃないし、これで大丈夫ね」
「良かった」
獣は手当てされると、座り込む。
それを撫でてやると、そのまま受け入れる。
中々堂にいった態度だ。
そうしていると、ふと違和感を感じる。
「……なあセラ、森の小鳥は何時から鳴いてない?」
「え? 本当だ。鳴いて無いわね。ついさっきまであんなに騒がしくしてたのに」
それだけではない。森から一切の音が消えてしまっている。
聞こえるのは川の流れる音と風位だ。痛いほどの沈黙がいつの間にか二人を包んでいた。
「何なの……これ、怖いよ」
「――」
得体の知れない威圧感を藍丸は感じる。
経験に基づくなら、これは怒りの視線だ。それも強く熱された類の。
何処からかわからないが、一直線に此方を見ている。
空が暗くなった。上を見上げると巨大な何かが、此方へと落ちてくるではないか。
「下がるぞ!」
藍丸は呆然としているセラを連れて、尻餅をつくように飛びのく。
ズシン、と地面が重く陥没する。
音の元凶は目前。明白だ。
巨大な獣。その名は――
「も、森の主……」
セラが体を強張らせながら、そう言った。
藍丸も見覚えがある。
その様は暴力という形そのもの。
人では抗えない存在だ。
それが怒りを孕ませながらこちらを見ている。
二人共粗相をしなかっただけ上等といえた。
森の主は目に見えるほど怒気を見せながらも、すぐさま襲ってくる様子は無い。
それどころか、じっとこちらを見ている。観察しているかのようだ。
「なあ、森の主って武器を持ってたり敵意がなければ襲ってこないんじゃないのか」
「そのはずよ。森の外に出るのだってよっぽどのことが無いなら……」
「よっぽどってここには俺たちしか――こいつか」
抱き抱えたままの小さい獣は、このような状態にも拘らずのんびりとしていた。
「こいつが森の主の子供ならしっくりくるな」
直ぐに襲ってこないのも、被害が及ぶのを防ぐ為。
「今私達、子供をさらったって思われてる?」
セラが半泣きになりながら聞いてきた。
「間違いないと思う……」
この子供をどうする?
そう考えて、直ぐに結論が出た。
そっと子供を放してやる。森の主が本気になれば人の二人、どうしようと殺せるに決まっている。
それなら下手な事はせず、子供を放して状況を見るしかない。
セラにも伝わったのか、じっと状況を見ている様子だ。
「オォーン」
子供は四本の足で立ち上がると、すたすたと森の主に駆け寄り小さくほえる。
森の主は眼球を僅かに動かし、子供を見ている。布を見たとき僅かだけ視線が止まった。
そして、天を仰ぐ。
「GHAA――――――――!!」
森全てに轟きわたるような、耳を劈く爆音の咆哮が森の主によって生み出される。
音が質量を伴って全身を圧してくる。
まともに聞こえず、頭がぐわんぐわんとしてくるほどだ。
少しの間咆哮が続き、やがて消える。
森の主は此方を一瞥した後、森へと帰っていった。
子供もそれに続く。一度だけこちらを振り返り、親を真似するかのように上を向いて吼えると去っていった。
呆然と見送る二人がようやく意識を取り戻したのはそれから10分後の事だった。
「生きてるわよね」
「大丈夫だ。きっと生きてる」
「私まだドキドキしてるんだけど」
「俺も全然鼓動が収まらない……」
体が冷えて、くしゃみをしながら二人が動き出すのは、それから優に30分は必要だった。