志望動機
銀行の窓口で笑顔を振りまき札束を数える沙也加の日常は、家に帰れば底なしの地獄だった。夫の健吾は三十代前半で年収八百万円。ガッチリした体格で一見優しそうな風貌をしており、周囲からは「よく稼ぐ良い旦那さんね」と羨ましがられていた。だが、その素顔は全く違った。暴力は娘の凛を妊娠している最中から始まり、出産後も止むことはなかった。
「おい、早よ来いや」
夕食後、いきなり腕を強く握られ、一階の薄暗い畳の部屋へ引きずり込まれた。拒否権などあるはずもない。
畳に突っ伏せられて服をめくられると、急にバックから挿れられた。身体を引き裂くような激しい痛みが走ったが、隣の部屋には生後八ヶ月の凛が眠っている。大声を上げて凛を起こすわけにはいなかった。
(凛を起こしちゃいけない……)
沙也加は畳の目をじっと見つめながら、己の感覚を麻痺させた。そして、痛みを押し殺しながら嘘の声を漏らした。
「あ……気持ちいい……っ」
狭い和室に、ぴちゃぴちゃと卑俗で濡れた音が響く。健吾のプライドを満たすための完璧な演技。自分が快楽を感じているフリをすることで健吾は機嫌を良くし、結果として突発的な暴力の間隔は空くようになった。自分の尊厳を削り取って勝ち取ったそのわずかな「静けさ」で、沙也加は夫が寝静まった深夜、床下に隠した参考書を開いた。
「稼ぎのないお前に親権など渡すわけがないだろ」
健吾の言葉に怯え続けた沙也加だったが、子どもを守るには経済的自立という武器が必要だと知っていた。狙うは母子で生きていける確実な収入が得られる看護師の道だった。
健吾には一切隠し通し、パートと育児の合間に死に物狂いで猛勉強を重ねた。そして一年後―ついに、沙也加は合格通知を手にした。
その日、郵便受けから取り出した合格通知を抱きしめた直後だった。帰宅した健吾がいつものように服を脱がせ、無理やりセックスをしようと迫ってきた。
その瞬間、沙也加の中で何かが切れた。もう耐える必要はない。合格通知という「武器」を手に入れた沙也加は、健吾の手を振り払い、生まれて初めて大声で叫んだ。
「触るな!」
突然の激しい抵抗に、隣の部屋で寝ていた凛が大きな声で泣き叫び出した。沙也加のただならぬ叫び声と赤ん坊の激しい泣き声、そして暴れる物音が外へ漏れ出し、異変に気づいた近所の住民がすぐに警察へと通報した。
数分後、駆けつけた警察官が家へ踏み込んできた。沙也加は隠してきた診断書や写真、音声データ、そして合格通知を差し出し、「暴力を振るわれ続けています。助けてください」と訴えた。
両腕を押さえつけられた健吾は、何が起きたのか理解できず顔を真っ赤にして暴れ狂った。
「なんでや! なんで俺が捕まらなあかんねん! あいつらは俺の金で生きてるんやぞ!」
妻が陰で看護学校の試験に合格し、脱出の準備を整えていたことなど、健吾は夢にも思っていなかったのだ。
健吾がパトカーへ連行され、静まり返った室内で沙也加は凛を強く抱きしめた。
長い夜は明け、本当の人生がここから始まる。
◇
数ヶ月後、看護学校での臨床実習前面接。
実習を直前に控えた教務室で、沙也加はパリッとした実習衣に身を包み、緊張した面持ちで椅子に腰かけていた。
目の前には、実習指導担当のベテラン教員がメガネの奥の目を優しく細めながら、記録用紙を手に尋ねてくる。
「山村さん、これからいよいよ病院での実習が始まりますね。改めて確認なのですが、あなたが看護師を目指そうと決意した『一番の志望動機』を教えていただけますか? 実習中のモチベーションとして心に留めておきたいのです」
(……一番の志望動機?)
沙也加の脳裏に、あの薄暗い和室の畳の目と、床下から引っ張り出した参考書、そしてパトカーの赤色灯に照らされながら連行されていった健吾の顔が高速で駆け巡った。
もしここで正直に言ったらどうなるだろう。
『旦那のDVとセックスの強制が酷すぎて、自分の尊厳と娘の親権を守るために隠れて勉強し、合格通知を手に入れた瞬間に「触るな!」と叫んで警察を呼んで逮捕させ、離婚して母子で自立するためです!』
……絶対に引かれる。
沙也加は一瞬だけ遠い目をしたあと、かつて銀行窓口で鍛え上げた完璧な「プロスマイル」を炸裂させた。
「はい! 幼い頃から人と接するのが大好きで、病気や怪我で苦しんでいる方々の心と体に寄り添い、地域医療に貢献したいと強く思ったからです!」
「素晴らしい! その初志を忘れずに実習も頑張ってくださいね!」
感動したように頷く教員。よし、対策はバッチリだ。
看護師になりたい真の志望動機 は『暗、クラ、暗、クラ、暗過ぎて言えるわけないやろがい!』




