魔獣を倒せない辺境防衛兵は、今日も糞を数えている
テオ・マーレンは、辺境防衛隊に入って四か月で、魔獣より魔獣の糞を多く見ていた。
正確には、魔獣という呼び方は正しくない。
防衛隊の記録上は《外域生物》。
外域由来の魔力環境へ適応した生物の総称であり、人間を食うものもいれば、草しか食わないものもいる。
だが村人も若い兵士も、牙や角の生えた厄介なものをまとめて「魔獣」と呼んだ。
テオもそうだった。
そして今。
その魔獣よりも。
その糞を見ている。
「十一、十二……十三」
朝露に濡れた草を測定棒で掻き分ける。
黒褐色の塊。
十四個目。
テオは深々とため息をついた。
「曹長」
「なんだ」
「これ、本当に防衛隊の仕事ですか」
少し離れた場所で境界標を検分していたベルント・ハーゼ曹長は振り返らなかった。
「数え終わったのか」
「まだです」
「なら数えろ」
「はい」
しゃがみ直す。
草の下にもう一個。
十五。
帳面を開く。
日付。
位置。
種類。
状態。
《北方第七巡回路・第二観測点。灰角鼠と思われる排泄痕十五――》
「思われる、を書くな」
背後から声がした。
振り返ると、いつの間にかベルントが立っていた。
「でも、たぶん灰角鼠です」
「なら判別しろ」
「はい」
テオは木片で一つを崩した。
植物繊維。
灰色の毛。
特徴は一致する。
「灰角鼠。十五」
「新旧」
「新しいものが九。古いものが六」
「昨日は雨だ」
「はい」
「古い六つのうち、雨の前からあるのは」
そこまで見るのか。
テオは一つずつ確認した。
表面の崩れ方。
泥の跳ね。
水を吸った具合。
「……二つです」
「書け」
「はい」
記入する。
ベルントは四十代後半。
左頬に古い裂傷がある。
腰には擦り切れた鞘。
歩き方には無駄がなく、若い掃討兵よりよほど戦えそうだった。
実際、昔は何度も外域掃討へ出ていたらしい。
なのに、今やっているのは新人と一緒に糞を数える仕事だ。
テオにはそれも理解できなかった。
「次。巣穴」
「了解」
二人で森の縁を進む。
茂みが揺れた。
灰色の小獣が飛び出す。
子犬ほど。
丸い胴体。
背には短い角状突起。
灰角鼠。
テオは反射的に腰の杖へ手を伸ばした。
「待て」
ベルントの声が飛ぶ。
「ですが」
「何で殺す」
「外域生物ですよ」
「だから?」
答えに詰まった。
外域生物なのだから倒す。
そういうものではないのか。
灰角鼠は二人を見たが、襲ってはこない。
やがて草を蹴り、林へ消えた。
「人身危険度〇。環境改変度一」
ベルントが言った。
「追えば巡回路から外れる。巣を潰しても別の穴を掘る。怪我人が一人増える。何が得だ」
「でも、防衛隊は外域から人類領域を守るための――」
「防衛隊は害獣駆除屋じゃない」
ベルントは歩き出す。
「俺たちの仕事は境界を維持することだ」
「境界を維持するって」
「昨日と今日で、何が変わったか知る」
「それだけですか」
ベルントが足を止めた。
「それができなくなった場所から、人類領域じゃなくなる」
テオには、いまいち意味が分からなかった。
だから帳面には書かなかった。
ベルントから何度も言われている。
――見たものを書け。意味は後で考えろ。
観測記録に新人の勝手な解釈を混ぜれば、記録として使えなくなる。
分かっている。
分かってはいる。
だったら。
自分はいつまで「見たものを書く係」なのだろう。
同期のルーカスは、もう掃討班に配属されている。
三日前には嘴狼を二頭仕留めた。
昨日は境界域へ入り込んだ裂爪鹿の排除にも加わった。
一方、自分は。
糞十五個。
ため息をつきながら進み。
十六個目を見つけた。
◇
ローデ村は、北方防衛砦から歩いて二刻ほどの場所にある。
百七人が暮らす開拓村だ。
畑。
製粉所。
鍛冶場。
宿。
小さな礼拝堂。
村の北には森が広がり、その向こうに湿地と古い採石坑がある。
さらに北へ進めば道は細くなる。
畑が消える。
境界標が増える。
人間が日々使う魔力の痕跡が薄くなる。
そこからが《境界域》。
そして、さらに先が《外域》。
ローデ村は分類上、完全な人類領域である。
だから防衛隊は巡回する。
何かがいるからではない。
何も起きていないことを確認するために。
「曹長」
村へ入ったところで製粉所の主人が声をかけてきた。
五十過ぎの大柄な男だ。
「変わりないか」
ベルントが訊く。
「変わりないと言えば変わりないんですが」
主人は頭を掻いた。
「最近、風が妙でね」
テオは空を見た。
「今日は無風ですが」
「天気じゃない。こっち」
主人は製粉所を指した。
内部では石臼が回っている。
粉塵が溜まりすぎないよう、簡単な風の一般魔法で外へ排出する仕組みになっていた。
「術式が乱れるのか」
ベルントが訊く。
「乱れるというほどじゃないんです。ただ、ときどき弱くなる。術具も見たけど壊れてない」
ベルントがテオを見る。
「書け」
「これもですか」
「村内一般魔法の不調。発生頻度、時間帯、術式種別」
主人が笑う。
「防衛隊さんも大変だ」
テオも苦笑した。
本当にそう思う。
魔獣ではなく、今度は製粉所の換気だ。
鍛冶場でも似た話を聞いた。
「火が一発で安定しない日がある」
鍛冶師が炉を指す。
「薪が湿ってるんじゃ」
「この道三十年だぞ」
睨まれた。
「湿った薪くらい分かる」
テオは帳面へ書いた。
火属性一般術式。
不安定。
数日に一度。
術者の疲労でも起こる。
気象条件でも起こる。
大気魔力の揺らぎでも起こる。
異常と呼ぶには弱すぎる。
重大なことなど何もない。
むしろ良い兆候がある。
村北側で見かける外域生物が減っていた。
五日前。
七。
三日前。
四。
今日。
一。
「掃討班の成果ですかね」
村を出たところでテオが言った。
ベルントは答えない。
湿地へ続く道で測定器を取り出した。
長い金属杭。
地面へ刺す。
上部の細い板が震え、刻印が淡く発光する。
《淀み》濃度指数。
外域由来魔力が、その地点の環境中にどの程度滞留しているかを相対的に示す値だ。
地域ごとに平常値は異なる。
この一帯なら、おおむね〇・四から〇・七。
継続して一・五を超えれば、追加観測が必要になる。
「〇・七」
ベルントが読む。
テオは前回記録を確認した。
「前回〇・六です」
「その前」
「〇・六」
「さらに前」
「〇・五」
「書け」
「でも全部平常範囲ですよね」
「書け」
「はい」
〇・五。
〇・六。
〇・六。
〇・七。
それだけなら誤差に見える。
湿地の縁には、青白い小草が生えていた。
夜光苔草。
外域でも人類領域でも育つが、外域由来魔力の濃い場所を好む。
位置を地図へ記録する。
前回より五歩ほど村側。
植物なのだから広がる。
不思議ではない。
今日も。
何も起きなかった。
◇
「お帰り、糞拾い」
砦の門をくぐると声が飛んできた。
ルーカスだった。
テオと同い年。
背が高く、防具の胸元には泥と乾いた血が付いている。
「拾ってない。数えてる」
「何個?」
「一個」
「一日かけて?」
ルーカスが吹き出した。
「そっちは?」
「嘴狼三頭」
胸を張る。
「群れから外れて牧草地へ入りかけてた。先輩が右から追って、俺が――」
「ルーカス!」
遠くから班長の声。
「報告が先だ!」
「あ、はい!」
ルーカスは走りかけ、振り返る。
「今度飲もうぜ。糞の話でも聞かせろ」
「誰がするか」
笑って返した。
だが、胸には小さな棘が残った。
夕食時。
話題になるのは掃討班の戦果だ。
どこで何を倒した。
どの魔法が効いた。
何人で囲んだ。
誰が仕留めた。
観測班の今日の成果を訊く者はいない。
当然だ。
何も起きていない。
夕食後。
テオは記録室へ向かった。
新人の雑務。
巡回中の帳面を正式記録へ移す。
古い記録と照合する。
「第七巡回路……」
羽根ペンを走らせる。
灰角鼠排泄痕。
一。
前回四。
前々回七。
その前十一。
「減ったな」
呟く。
掃討が効いた。
それで終わりのはずだった。
ふと。
ベルントの言葉が浮かぶ。
――昨日と今日で、何が変わったか知る。
テオは何となく隣の棚へ手を伸ばした。
第六巡回路。
灰角鼠の痕跡。
九。
十二。
十五。
十八。
「……増えてる?」
第五巡回路。
五。
八。
十三。
増えている。
第八巡回路。
十四。
九。
六。
三。
減っている。
テオは机の上を片づけた。
広域地図を広げる。
最初は糞だけ。
次に足跡。
巣穴。
目撃記録。
一日分では分からない。
三日でも曖昧。
だから三週間分を重ねた。
赤。
青。
黒。
日付ごとに印を変える。
次第に。
地図の上に流れが浮かんできた。
第七と第八では減る。
第五と第六では増える。
北東から南西へ。
いや。
違う。
中心がある。
ローデ村北側。
湿地。
そこを中心として、外域生物の活動域が外へ押し出されている。
テオの手が止まる。
「減ったんじゃない」
声が漏れた。
背筋が冷える。
「逃げてる?」
何から。
分からない。
だから。
テオはその部分を記録には書かなかった。
◇
翌朝。
ベルントは起床鐘の前に叩き起こされた。
「曹長」
「……なんだ」
「見てください」
「朝飯前だぞ」
「お願いします」
地図を広げる。
ベルントの眠そうな目が細くなる。
一分。
二分。
身体を起こした。
「説明しろ」
「第七巡回路では三週間で灰角鼠の痕跡が十一から一まで減っています」
「知ってる」
「第六では九から十八まで増えています。第五も増加。第八は減少」
テオは地図上を指でなぞった。
「位置を重ねると、こうなります」
湿地。
そこから遠ざかる。
「何がいると思う」
テオは口を開きかけた。
大型捕食種。
変域個体。
未知の外域生物。
候補はいくらでも浮かぶ。
だが。
「分かりません」
ベルントの眉がわずかに動いた。
「続けろ」
「分かるのは、この周囲から小型外域生物の活動が離れていることだけです」
「他には」
「《淀み》」
記録を出した。
「〇・五、〇・六、〇・六、〇・七。まだ平常範囲です。でも継続上昇しています」
「植生」
「夜光苔草が村側へ移っています」
「ローデ村」
「一般魔法の不安定化。製粉所、鍛冶場。ほかにもあるかもしれません」
ベルントが立ち上がった。
制服を取る。
「記録室へ行く」
「今から?」
「三週間で足りない」
靴を履く。
「二か月出せ」
◇
一刻後。
机の上は記録用紙で埋まった。
当直明けの観測兵まで呼ばれた。
数字。
地図。
天候。
植生。
外域生物。
生活魔法。
二か月へ広げると、傾向はさらに明瞭になった。
湿地周辺の《淀み》濃度指数は、一か月半前から緩やかに上昇。
一回ごとの差は小さい。
警戒値未満。
だから異常判定されていない。
夜光苔草。
少しずつ南下。
小型外域生物。
同じ時期から活動域が変化。
二週間前。
ローデ村で一般魔法の不安定化が出始める。
ベルントは地図を見た。
「報告を上げる」
テオは訊いた。
「変域個体でしょうか」
「まだ言うな」
「でも」
「俺たちは何も見ていない」
ベルントは地図を巻く。
「種名を当てる仕事じゃない」
それからテオを見る。
「見たものだけ持っていく」
◇
エリアス・ヴェルナー防衛尉は二十八歳だった。
学院卒。
辺境勤務六年。
普段は穏やかな男だが、報告を受けるときだけ目が冷える。
「人身被害は」
「ありません」
テオが答えた。
「大型個体目撃」
「ありません」
「《淀み》濃度指数一・五以上」
「ありません」
「環境干渉による施設停止」
「ありません」
質問されるたび、不安になる。
何もない。
改めて並べると。
本当に何も起きていない。
これで部隊を動かすのか。
自分が数字を弄んだだけではないか。
エリアスが地図を見る。
「それで?」
ベルントは黙ったまま。
説明しろということらしい。
テオは唾を飲んだ。
「一日だけなら、何も起きていません」
エリアスが顔を上げる。
「三週間で見ると、小型外域生物の活動域が変わっています」
地図を広げる。
「この湿地を避けるように」
《淀み》の記録を置く。
「同時期から濃度指数が継続上昇。夜光苔草が村側へ広がっています。ローデ村では一般術式の小規模な不安定化」
「原因は」
「分かりません」
「推定は」
迷う。
「何らかの要因が、この一帯の環境を変化させている可能性があります」
沈黙。
エリアスは地図から目を離さない。
「最初に気づいたのは?」
「昨日です」
「何を見て」
「糞です」
エリアスが顔を上げた。
「……糞?」
「第七巡回路では減ってました。でも第六では増えていました」
しばらくして。
エリアスが立ち上がった。
「ハーゼ曹長」
「はい」
「第二観測班をローデ北方へ。携行測定器を増やせ。地表だけじゃない。地下魔力流も取る」
「了解」
「工兵班に旧採石坑の図面を出させろ」
「はい」
「ローデ村には?」
ベルントが訊く。
「避難準備。まだ村は出すな」
通信兵を呼ぶ。
「防衛佐へ速報。環境改変度三以上の可能性あり。原因未確認」
テオは思わず訊いた。
「動かすんですか」
エリアスがこちらを見る。
「何のために報告した」
「いや、その……」
「新人の推測は疑う」
地図を指で叩く。
「だが、二か月分の記録は新人じゃない」
◇
異常が確認されたのは午後だった。
湿地中央。
濃度指数一・二。
旧採石坑入口。
一・四。
坑道内部。
一・八。
地下水路。
二・三。
進むほど高い。
「止まれ」
ベルントが手を上げる。
壁一面。
青白い苔。
先週まで、ここにはなかった。
水の流れる音。
その向こうから。
低い脈動。
音ではない。
周囲の魔力そのものが、周期的に揺れている。
テオの指先が重くなった。
頭の奥が鈍く痛む。
外域由来魔力そのものが毒なのではない。
だが人間の魔力循環は、人類由来魔力が優勢な環境に適応している。
《淀み》の濃い場所では、体内へ入り込む魔力を絶えず補正し続けなければならない。
短時間なら疲労。
長くなれば。
話は変わる。
「戻るぞ」
ベルントが言った。
「でも、まだ奥が」
「観測班が倒れてどうする」
テオは頷いた。
地上へ出る。
工兵が坑道図を広げていた。
「この地下水路」
男の指が一本の線を追った。
「ローデの井戸系統と繋がってます」
全員が黙る。
テオの背筋を汗が伝った。
村まで来ている。
目に見えないところから。
ゆっくり。
何週間もかけて。
ベルントが通信器を取る。
「防衛尉へ。環四疑い」
一瞬。
通信の向こうの空気まで変わった気がした。
『確認。環境改変度四疑いとして受領』
続いて別の声。
『規則に基づき、防衛監へ即時直報する。防衛佐にも同報。現地班は追加命令まで観測継続、深部侵入禁止』
環四。
その一語だけは通常の報告順序を待たない。
人身危険度が〇でも一でも関係ない。
土地そのものを変える可能性が四に達した個体、あるいは現象。
それは。
人を襲わないから安全、では済まない。
◇
ローデ村へ避難命令が出たのは日暮れ前だった。
当然。
揉めた。
「魔獣なんて出てないじゃないか!」
製粉所の主人が声を荒らげる。
「現時点では大型の外域生物は確認されていません」
テオが答える。
「じゃあ何で逃げる!」
「地下水路の魔力環境が変化しています」
「水が毒になったのか」
「違います」
説明は難しい。
飲めば倒れる毒ではない。
触れれば死ぬものでもない。
だからこそ。
目に見えない。
《淀み》が濃くなる。
外域植物が増える。
その植物や生物が、さらに外域由来魔力を周囲へ散らす。
環境が環境を呼ぶ。
ある線を越えれば。
人が住んでいるのに。
そこは、人類領域ではなくなっていく。
「畑はどうする!」
別の男が怒鳴った。
「収穫まで二週間なんだぞ!」
「安全が確認できれば戻れます」
「だったら原因を倒せばいい!」
テオは言葉に詰まった。
以前なら。
自分も同じことを言った。
何か悪いものがいる。
倒す。
終わり。
それが防衛だと思っていた。
「まだ、何が原因か分かってません」
「なら何も起きてないじゃないか!」
「はい」
村人が一瞬黙った。
テオ自身も、自分の返事に驚いた。
「何も起きていないうちに出てもらいます」
「……」
「何か起きてからでは、遅いので」
◇
百七人。
老人。
子供。
家畜。
荷車。
食料。
一時避難先まで夜通しの移動になった。
テオは最後尾を歩いた。
剣は抜かない。
魔法も撃たない。
老人の荷物を持つ。
泣く子供を母親のところへ連れていく。
荷車の車輪が泥にはまれば押す。
掃討兵になりたかった。
ずっと。
魔獣の前に立つ人間になりたかった。
今。
自分が守っているのは。
魔獣が姿を見せてもいない村から逃げていく人々だ。
これも防衛なのか。
まだ。
完全には分からない。
ただ。
百七人が全員村を出た。
その事実を。
テオは夜明け前。
帳面へ書いた。
◇
翌朝。
掃討班。
工兵班。
専門観測班。
旧採石坑へ入る部隊が編成された。
ルーカスもいた。
「妙な仕事になったな」
装備を締めながら言う。
「俺が見つけたわけじゃない」
「誰が見つけた」
「糞」
ルーカスが笑った。
「帰ったら奢る」
「俺に?」
「糞に」
「じゃあ俺には」
「一杯くらい」
「生きて帰れよ」
「そっちもな」
二人は分かれた。
ルーカスは地下。
テオは地上の観測点。
少しだけ。
悔しかった。
やはり。
あそこへ行きたい気持ちは残っている。
装備を着込み。
危険な場所へ踏み込み。
外域生物と向き合う。
それが格好いいと思う気持ちは消えていない。
消す必要もないのだろう。
しばらくして。
通信器が鳴った。
『対象確認』
周囲の兵が黙る。
『単独個体。全長およそ一・二。甲殻型』
一・二。
大型犬ほど。
『種別確認――苔甲獣』
テオは瞬きをした。
苔甲獣。
知っている。
辺境では珍しくもない。
湿地帯や古い坑道を好む外域生物。
通常個体なら人身危険度一。
環境改変度一。
不用意に触れば噛む程度。
積極的に人を狩ることもない。
苔や植物質を食べる。
掃討対象にすらならないことが多い。
「苔甲獣……?」
誰かが呟いた。
これのために。
百七人を避難させたのか。
通信が続く。
『待て。通常個体と魔力器官構造が異なる』
声色が変わる。
『腹部後方に異常発達器官。地下水と植物根へ魔力流接続あり』
地上の測定器が跳ねた。
「濃度指数、上昇!」
二・四。
二・六。
二・七。
地下の一頭が動いただけで。
地上まで変わる。
『暫定分類を申請』
間。
『人身危険度――一』
想定通り。
『環境改変度――四』
誰も声を出さない。
『解析度――丙』
既知種。
だが。
既知の個体ではない。
テオはその意味を理解した。
苔甲獣という名前を知っている。
通常の生態も知っている。
それでも。
目の前の一頭が何をするかは。
別だ。
「……同じ苔甲獣でも」
ベルントが隣で言った。
「同じじゃない」
テオは測定器を見る。
「強いんですかね。あれ」
「何が」
「苔甲獣です」
「知らん」
ベルントは地下入口を見る。
「強い弱いで全部測るな」
◇
討伐は二十分もかからなかった。
変域個体は戦闘能力そのものなら通常の苔甲獣と大差がなかった。
甲殻は硬い。
だが鈍い。
攻撃も単純。
工兵が退路を塞ぎ。
観測員が異常魔力器官の位置を特定。
掃討班が地下水へ伸びる魔力流を切り。
ルーカスたちが弱点を突く。
ほどなく。
『対象停止』
地上で歓声が上がった。
テオも息を吐く。
終わった。
そう思った。
測定器。
二・五。
「……え?」
もう一度。
二・五。
下がらない。
「曹長」
「なんだ」
「濃度が」
ベルントが見る。
顔色が変わった。
「第二点!」
「二・一! 変化なし!」
「第三点!」
「一・九! 〇・一上昇!」
ベルントが通信器を取る。
「掃討班、撤収待て! 対象停止後も《淀み》維持!」
『了解!』
「工兵、地下水路再確認!」
『了解!』
すぐに調査が始まった。
原因は。
討伐した個体だけではなかった。
一か月以上。
苔甲獣の変域個体は周囲へ外域由来魔力を送り続けていた。
地下水。
土壌。
植物根。
苔。
菌類。
それらが既に、外域側の循環へ組み込まれ始めている。
倒したから。
戻るわけではない。
「討伐したのに」
テオが呟いた。
ベルントが横目で見る。
「だから言ったろ」
「何をです」
「防衛隊は害獣駆除屋じゃない」
その日から。
戦闘より長い仕事が始まった。
異常増殖した苔を剥がす。
変質した土壌を掘る。
地下水路を一時封鎖。
魔力吸着材を投入。
人類由来魔力を緩やかに循環させる環境安定術式を設置。
観測。
記録。
観測。
記録。
一日。
二日。
五日。
十日。
少しずつ。
《淀み》濃度指数が下がる。
二・五。
二・一。
一・八。
一・四。
一・一。
〇・八。
そして。
平常域へ。
後日。
回収された変域個体を解析した研究班から報告が届いた。
腹部の異常魔力器官。
そこから散逸していた魔力には、通常の苔甲獣にはない強い偏りがあった。
周辺に棲息する灰角鼠など複数の小型外域生物にとって、その魔力特性は不快な刺激となるらしい。
だから。
逃げた。
外域化そのものを嫌ったのではない。
その個体固有の魔力から。
一方。
空いた環境には、その偏りへ適応した苔類や微小生物が定着を始めていた。
つまり。
生き物が減っていたのではない。
入れ替わり始めていた。
テオは報告書を何度も読み返した。
もし。
灰角鼠が減ったという記録だけを見て。
「安全になった」
で終わっていたら。
ローデ村はどうなっていただろう。
◇
住民が戻れたのは二十三日後だった。
村の門が開く。
子供が走る。
犬が吠える。
荷車が軋む。
家々の戸が開く。
製粉所。
石臼が回る。
主人が風の一般魔法を起動する。
粉塵が外へ流れた。
「お」
男が笑う。
「戻った」
鍛冶場でも炉に火が入る。
一度で安定した。
赤い炎。
鉄を打つ音。
井戸では水を持ち上げる魔法。
家では火をつける魔法。
洗濯物から水分を飛ばす。
荷車を少し軽くする。
固い土をほぐす。
どれも。
大した魔法ではない。
試験なら初歩と呼ばれるものばかり。
だが。
百人が暮らす。
一日に何百回も使う。
人が食べる。
働く。
眠る。
畑を耕す。
水を汲む。
火を焚く。
子供が走る。
家畜を育てる。
その一つ一つが。
少しずつ。
土地へ人間側の魔力循環を取り戻していく。
「軍隊が取り返した村に見えるか」
いつの間にか。
ベルントが横にいた。
「違うんですか」
「俺たちは戻れる状態にしただけだ」
製粉所から石臼の音。
鍛冶場から槌の音。
家々から夕食の匂い。
「土地を取るのは兵隊でもできる」
ベルントは言った。
「人類領域にするのは、暮らしてる連中だ」
歩いていく。
テオはしばらく。
その場に立っていた。
◇
半年後。
新人が三人入った。
そのうち一人が観測班へ回された。
十七歳。
細身。
露骨に不満そうな顔。
テオは妙な既視感を覚えながら、装備棚から道具を出した。
測定棒。
《淀み》濃度測定器。
帳面。
採取袋。
少年の目が輝く。
「今日、外へ出るんですよね」
「出る」
「魔獣、いますかね」
「正式には外域生物な」
「あ、はい」
「たぶんいる」
「戦闘になったら、僕、前に出てもいいですか」
「駄目」
「ええ?」
「新人は勝手に動くな」
少年は露骨に肩を落とす。
テオは帳面を渡した。
「第七巡回路」
「はい」
「境界標を確認する」
「はい」
「《淀み》を測る」
「はい」
「発光植物の位置を記録する」
「はい」
「足跡を測る」
「はい」
「糞を数える」
少年の顔が止まった。
「……糞?」
「ああ」
「それ、防衛隊の仕事なんですか?」
半年前。
同じ質問をした。
あの頃。
テオにとって防衛とは。
魔獣の前に立つことだった。
剣を抜くこと。
魔法を撃つこと。
倒すこと。
今も。
それが防衛であることは知っている。
ルーカスたちは今日も武器を整えている。
あいつらがいなければ。
変域個体は止められなかった。
だが。
倒すべきものがどこにいるのか。
本当に倒すべきなのか。
倒したあと何が残るのか。
それを知らなければ。
境界は守れない。
テオは採取袋を少年へ投げた。
「ああ」
一度答えた。
少し考える。
そして。
「たぶん、一番防衛隊らしい仕事だ」
少年は。
まるで意味が分からないという顔をした。
それでいい。
テオもそうだった。
意味は。
後から分かる。
まず。
見たものを記録すればいい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




