愛なき番にさよならを
百と十
白い石を拾ったら
綺麗に綺麗に黒に染め上げて
ひとつずつ
百と十の日
獣神様に捧げたら
◇
セレスティは今日も、獣神様の像の前にひとつ黒い石を置いた。両手を組んで祈りを捧げる。
まだ陽も昇り切らない早朝。獣神を祀った神殿には、他の信者の姿は見当たらない。
「今日もいらしたんですね」
かけられた嘆息まじりの声に、セレスティは顔をあげた。
「あら、神官様。おはようございます」
「おはようございます、セレスティさん」
セレスティが獣神に捧げた黒い石を、この獣神神殿の神官であるアレスは複雑そうに見る。
「明日で最後ですか」
「ええ。そうですね」
「やり直す余地はないのですか?」
百と九日の間、毎日聞かれた問いに、セレスティは苦笑する。
「さあ、どうでしょう? 決めるのは、あの人ですから」
琥珀色の目を細めて、あっけらかんと言ったセレスティに、アレスはふたたび複雑な視線を向けた。
「番の方はご存知なのですか」
その問いに一瞬キョトンとしてから、セレスティは「ふふ」と小さく笑う。
「知っていたら、止めたでしょうか」
「止めるに決まっているでしょう」
かすかに苛立ちが混じったその言葉に、セレスティは首をかしげる。
「番は神からもたらされた最大の祝福です。獣人は皆、番を大切にします」
「祝福……」
一度言葉を切ってから、セレスティは続けた。
「あの人に言わせると、番とは本能なのだそうですよ。ただの本能。獣神様が決めたことだから仕方なく、役にも立たないおまえを側に置いているんだって、よく言っています」
「なんて罰当たりなことを!」
「罰当たり、なんですね」
感情をどこかに置き忘れてきたかのように、淡々と呟くセレスティに、アレスはなぜかゾッとした。
「セレスティさん……?」
「ほら、わたしは獣人ではないので、その辺りのことがよくわからなくて」
種族を問うのは差別にあたるというのが、獣神の教えだ。種族に関わらず、獣神の恵みはもたらされる。だから、アレスは、セレスティの種族が何かと聞いたことはなかった。
だいたい獣人であれば、自分の種族に誇りを持っている。そのため、こちらが聞かなくても、自分から名乗ることが多い。
果たして、セレスティのその言葉から、やはり獣人でないことが知れた。
「わたしは番がよくわかっていなかったから。でも今は、わかっていると思います」
「セレスティさん、それは」
「番だから愛されるわけではない。そういうことですね」
獣人がおのれの番に執着するのは、確かだ。だが、それと愛することは違う。違うということが、今のセレスティにはよくわかっている。
番であるエドガーがいつも、老婆のようだと蔑むセレスティの白い髪が風に揺れた。
「では、神官様。また、明日」
そう言って明るく笑ったセレスティに、アレスは苦い声で「また明日」と返した。
◇
セレスティが神殿に通い始める、ひと月前のことだった。
テーブルの上に並んだ料理は、完全に冷めていた。
香草を利かせたチキンに、きのこのポタージュ。番であるエドガーの好物ばかりが並んだ食卓。焼きたてだったパンも、すっかり冷えて固くなっている。
ただし、そこに並ぶのは一人分の食事だけ。セレスティの分は初めから用意されていない。
時刻はとうに、夕食の時間を過ぎていた。
自分のものでもない食事を前に、来ない相手をじっと座って待ち続けるセレスティに、周囲からくすくすと忍び笑いがもれる。
食堂の扉が勢いよく開く音がした。
「――なんだ、これは?」
ようやく帰ってきたのエドガーに、セレスティはほっと息をつき、椅子から立ち上がる。
狼の獣人である彼は最近、一族の次期後継者として選ばれたらしい。後継者教育が忙しいのだと、これも使用人が噂しているのを聞いた。
「お帰りなさい。ご飯、食べるでしょう? 温め直してもらうわね」
「いらない。夕飯ならもう食べてきた」
「……そうなの?」
「ああ、リディアの調子が良くなくてな。食べさせるついでに、俺も食べた」
リディアとはエドガーの幼馴染で、番であるセレスティが現れなければ、彼が結婚していたはずの女性だ。彼自身から聞いたことはないが、初恋の相手だと使用人が言っていた。
忙しくても、彼女のところに行く時間はあったらしい。
「夕飯はいらないと言付けたはずだ」
セレスティは目をみはり、周囲を見回す。使用人たちがさっと視線を伏せた。伏せたその先で、笑うのを堪えるように口元が歪んでいる。
彼らが用意したのは、エドガーの分だけ。セレスティに食べさせる気など最初からない。
わざわざ誰も食べない夕食を用意するなど、ずいぶんと手の込んだ嫌がらせだ。
「どうして食堂で待っていた? 当てつけか?」
「夕飯がいらないなんて聞いていなかったから」
「言い訳か? まあ、いい。さっさと部屋へ戻れ。目障りだ」
セレスティの胸の奥が、ひどく冷えていく。
「エドガー。今日は……」
言葉が喉で詰まる。
それでも、顔を上げて続ける。
「今日くらいは、一緒にいたいわ」
彼は苛立ったように眉を寄せた。
「何のために? わがままを言うな」
「わがまま……?」
セレスティは首をかしげると、ひどく静かな声で続ける。
「リディアさんから聞いたわ。あなたは自分の誕生日も、獣神様の生誕祭も全部、彼女と一緒だった」
「当然だ」
「……誕生日くらい、わたしを優先してほしいと願うことは、そんなにもいけないことなの?」
エドガーは視線を逸らしたまま黙っている。
セレスティは大きく息を吸いこむ。今まであえて、口にはしなかった言葉を告げる。
「わたしは、あなたの番ではないの?」
ざわりと周囲がざわめく。
やはりエドガーは、セレスティが番であると周りに知らせていなかったようだ。
冷たい視線が返ってくる。
「だから、何だ? 何度も言っている。番などただの本能だ。愛とは違う。俺が愛しているのは、リディアだけだ」
「やっぱり、愛と番は別だと言うのね」
エドガーはぎろりとセレスティを睨む。彼の声が初めて強くなる。
「思い上がるな! 人間でしかないおまえが、俺に愛されるわけがないだろう!? 番じゃなけりゃ、とうに放り出している」
「番でなければ、側に置いていなかったということ?」
「当たり前だ。魔力も持たないひ弱な人間が俺の番などと。穢らわしい!」
嘲りに満ちた声で続けられた言葉に、セレスティは小さく笑みを浮かべた。
「わたしがいなくなったら、困らない?」
「どうして俺が困るんだ? 困るのはおまえだろう。孤児のくせに。どうせ帰る場所なんてないんだろう?」
「わたしに、帰る場所がない?」
「ないんだろう? だからみっともなく俺にしがみついている。屋敷においてやるだけ、ありがたく思え」
その言葉を聞いた瞬間、ストンとセレスティの中で何かが切り替わった。
「……そう」
セレスティは静かに告げる。
「わかったわ。じゃあ、もう口を出さない。あなたに何かを願うことも止めるわ」
感情の消えたセレスティの顔をじっと見つめてから、エドガーは気まずそうにふいと顔をそらすと、がりがりと頭を掻いた。
「そうしてくれ。おまえは大人しくこの屋敷にいればいいんだ」
そう言い残して、エドガーは荒々しく食堂を出ていった。扉の閉まる音が、静まり返った部屋に響く。
セレスティはしばらく動かなかった。
やがて冷え切った料理を見つめ、小さく息を吐く。
「……そうね。終わりにしましょう」
並べられた皿に、セレスティはそっと触れた。温もりはもう、どこにもない。
きっとそんなものは初めからなかったのだ。
「……ふふ」
小さな笑いがもれた。
悲しみも、怒りもない。感情とは違う透明な何かが、胸の中で固まっていくのを感じる。
「あの。番様。食事をお持ちしましょうか」
使用人が恐る恐る声をかけてくる。
「わたしが番だと知ったから、そう言っているの? それとも、番に顧みられないわたしが哀れだから?」
「それは……」
「両方といったところかしらね」
「あの、番様。わたしたちは」
言いかけた言葉が途切れる。大切にされるはずの番が、どこまでも顧みられず、冷たくされ、蔑ろにされる姿にかける言葉がないのだろう。
そして、その一端を担っていたのは自分たちだ。今更、何が言えるというのだろう。
名前さえまともに呼ばれないことに、セレスティは笑ってしまう。
彼女は笑みをおさめると、冷たく言い捨てた。
「食事は結構よ」
冷めきった料理に一瞥もくれず食堂を出ると、セレスティは屋敷の外れにある自分の部屋に戻った。
部屋に置かれているのは、固くギシギシと鳴るベッドと、薄い毛布だけ。
ドレスも装飾品も、身を飾るものは何ひとつない。そんなものは望んでいなかったから、どうでもいいのだけれど。
冬に凍えるように寒いのだけは、最後まで慣れなかった。
この部屋で、一年暮らした。
もう少し。もう少しだけ、と思って、ここまで来てしまった。
最初は、番だという関係に戸惑った。
まさか自分の身に、そんなことが起こると思っていなかったからだ。
次に、番だというエドガーを信じてみることにした。獣人は番を大切にすると言われていたから。
番が現れても彼にまとわりつくリディアにも、何か事情があるのだろうと思っていた。番であるセレスティよりも彼女を優先し続けるエドガーにも、何か考えがあるのだろうと。
お互いが同意しなければ、番の絆は結ばれないというのに。たとえ、それが無意識下であったとしても。
けれど、一年経ってもエドガーもリディアも、三人の関係も変わらなかった。
あげくの果てに、あの暴言だ。
――ならば、もういい。
ふっと甘い香りが部屋に漂った。
ベッドの上で、自分の膝に広げた帳面に書き付けを行っていたセレスティが顔を上げる。
窓辺に一本、黒薔薇が置かれていた。
クスリと笑って、セレスティはそれに手を伸ばすと、鼻先にかざす。
甘くどこか懐かしい香りを、胸の奥まで吸い込んだ。
◇
神殿に通い始めてから、百十日目。
まだ星も消えきらない明け方に、セレスティは神殿への階段を上っていた。
握り込んだ手の中には、たった一つ残った黒い石。百と九の日かけて積み上げてきた祈りの、最後のひと欠片だった。
「――今日で、百十個ですね」
階段の上、いつもより早い時間だというのに、アレスがすでに待っていた。
この日を逃すまいと固い決意を浮かべた彼に、セレスティは笑顔を浮かべた。
「神官様にはお手数をおかけしていますね。毎朝、お疲れ様です」
「セレスティさんほどではありませんよ」
アレスが嘆息した。
それにも笑顔を返しながら、セレスティは神殿の中に入り、獣神の像の前に進む。
獣神の像は、猛々しい相貌をしていながら、どこか静謐な目でこちらを見下ろしていた。
アレスが後ろから、じっと見つめている気配を感じる。
セレスティは握り込んだ手を解くと、最後の黒い石をそっと摘み上げる。
「――後悔はしませんか?」
背後からかけられたアレスの言葉に、セレスティは肩越しに振り返った。
「昨日もあの人は帰ってきませんでした。顔も合わせていません」
きっと愛しいリディアと一緒にいるのだろう。
アレスが目を伏せる。
「……やはり」
「ええ。あの人、変わりませんでしたね」
そう言うセレスティに、アレスは沈鬱な表情を浮かべた。獣神に仕える神官である彼にとっては、受け入れがたいことだろう。
一度結ばれた番の絆を切ろうとするなんて。
そして、獣神に遣わされた番との絆を大事にしない獣人がいることも。
セレスティはまた前に向き直る。
「だから、もういいんです。お互い自由になるべきです。こんな不毛な関係から」
「不毛な関係、ですか」
「ええ」
「……番が」
「番でも」
――あなたさえ、いなければ。
エドガーの幼馴染であり、彼が愛していると言うリディアに、憎々しげに睨みつけられながら、セレスティは何度そう言われたことだろう。わざわざ屋敷にまで押しかけてきてまで言うのだ。暇なのだろうか、と何度も首をかしげたものだ。
屋敷の使用人がセレスティを冷遇するのも、彼女が泣いて訴え、同情を買ったためだとわかっている。
本音をいえば、こんな茶番に付き合うのは飽きた。それに尽きる。
「ほら、これで終わります」
セレスティは、指先に摘んだ黒い石を祭壇に置いた。両手を組んで最後の祈りを捧げる。
瞬間。
獣神の像が黒い光を帯びた。風もないのに、神殿内の空気がふわりと揺れる。
『――祈りは果たされた』
低く威厳に満ちた、けれど優しさを含んだ声が、神殿に響く。
セレスティは弾かれたように顔を上げる。 獣神の像に、確かに淡い光が灯っていた。
ぷつり。
言葉にするとすれば、そんな言葉。
セレスティの中で、何かが切れた感覚がした。
それとともに身体の中に力が満ちてくる。
エドガーにみっともないと散々酷評された白く色の抜けた髪が、墨を流したように黒へ染まる。瞳もまた、夜より深い漆黒へ変わった。
「ああ、久しぶりだわ」
セレスティは自分の髪を一房すくい、懐かしそうに笑う。
獣神の像を黒い光が取り巻いてから、何ひとつ見逃すまいと黙って見つめていたアレスが、呻くように声をもらす。
「――魔女」
セレスティが漆黒の瞳を細める。紅を刷いたような唇が弧を描いた。
刹那、神殿に先ほどとは違う風が舞う。
「終わりましたか?」
セレスティとはまた違う、漆黒を身にまとった青年が彼女の前に立っていた。
「あら、クレイ。そうね。もういいわ。番の絆とやらは、もう理解したから」
「長かったですね。いつ殺しに行こうかと思っていましたよ」
「殺さないで。検証できなくなるじゃない」
セレスティは苦笑しながら、漆黒に染まった髪を指先で払った。
一年ぶりに取り戻した本来の色。番の絆によって魔力を奪われ、失っていた魔女である標。
「だいたい血の匂いは苦手でしょう、あなた」
「あなたのことなら話は別です」
クレイと呼ばれた青年は、不満そうに眉を寄せていた。
「止めてちょうだい。わたしは『理』のと違って、種族ごと滅ぼそうなんて考えないわ」
「……思考の物騒さに変わりはないと思いますが。俺が考えたのは、あなたの番を殺すことだけです」
「あら?」
失敗したというように、セレスティは肩をすくめた。
黒いローブの裾を払い、クレイは恭しく片膝をつくと頭を下げた。
「師匠。一年間、お疲れ様でした」
「たった一年だけどね」
セレスティは困ったように笑う。
エドガーと番の絆が結ばれてからの日々を思い返す。あの屋敷で過ごした時間は、思っていたよりずっと長く、そして退屈なものだった。
もう少し、こう、何かときめくものでもあるかと思ったのに。
「なぜ一年もかけたんです? あなたなら、獣神に祈らなくても片手間で番の絆なんて壊すことができたでしょうに」
クレイの問いは、淡々としていながら、どこか責めるような響きを含んでいた。
「壊せたわよ? でも――」
セレスティは獣神の像を見上げる。
灯っていた光は、もう消えていた。祈りの対価は、すでに支払われたということだろう。
「知りたかったの。番というものが、どういうものなのか。そして番の絆を切る方法。古い教典に書かれていた方法が本当に機能するかどうか」
「……答えは得られましたか?」「ご覧のとおりね」
セレスティは、黒髪を指で漉く。
そこに何ひとつ心残りがないのを見てとって、クレイはにこりと笑う。
「それなら帰りましょうか、師匠。僕たちの家に」
「ええ。帰りましょう」
セレスティは頷き、立ち上がったクレイが差し出した手を取る。最後にもう一度だけ、アレスを振り返った。
「ありがとう、神官様。百と十の日、付き合ってくださって。おかげで退屈せずにすみました」
その言葉を合図に、ふたたび神殿内に風が舞う。
腕で目をかばったアレスが視界を取り戻す頃には、もう黒い二人の姿はなかった。
祭壇にひとつだけ置かれた黒い石が、窓から差し込む朝日を浴びて光っていた。
◇
ぷつり。
まだ夜も明けきらない早朝。
ふいに自分の中で何かが途切れる感覚に、エドガーは目を覚す。胸を押さえながら、ベッドから身を起こした。
隣りには愛しいリディアが、まだ眠っている。
体が怠い。
今まで身体に満ちあふれていた力が、砂を噛むように消えていく。身体を起こしていることすら辛くて、またベッドに身を横たえる。
エドガーは何度も拳を握っては開いた。
何かが変だった。
やがて起きたリディアに「どうしたの?」と問われても、言葉を返すことすらままならない。
結局、ベッドから起き上がることができたのは、三日後だった。
リディアに支えられるようにして戻った屋敷は、ひどくよそよそしかった。
今まで明るく迎えてくれていた使用人たちが、視線をそらし目すら合わせようとしない。
「なんなんだ、いったい!」
怒鳴ったエドガーの前に、屋敷の奥から歩いてきた男が足を止めた。
「ようやく戻りましたか」
「ヴィルフレド。俺の屋敷で何をしている?」
狼一族を束ねる現頭首の右腕と呼ばれる男。
エドガーが次期に選ばれるまでは、ヴィルフレドが次期頭首だと目されていた。
うなるように言ったエドガーに、彼はふっと鼻で笑った。
「次期頭首たる俺にむかって、なんだその態度は!」
「頭首があなたをお呼びです。族長方も首を長くして待っていますよ」
それは一族全体での会議が開かれることを意味する。一族に関わる重要事項を決めるための会議だ。エドガーが次期頭首に決まったときも、この会議が開かれた。
「何の会議だ。俺は何も聞いていないぞ」
探るように目を細めたエドガーに、ヴィルフレドははっきりと冷笑を浮かべた。
嘲笑うような、それでいてどこか哀れむような笑みだった。
「貴様!」
「――あなたの進退について、ですよ」
その一言に、エドガーの表情が凍りつく。
「なんだと……?」
「聞こえなかったのなら、もう一度申し上げましょう」
感情を交えず、淡々と告げる姿が不気味だった。
「あなたを次期頭首の座から下ろす。その是非を、一族全体で問う会議です」
「ふざけるな! 俺が何をしたというんだ!」
エドガーは声を荒らげたが、その声にはどこか力がなかった。
かたわらでエドガーを支えていたリディアが、心配そうに彼の腕をぎゅっと握る。
「エドガー様……」
「離せ、リディア」
振り払おうとした腕はやはり弱々しく、リディアの手さえ振り解けなかった。
ここ数日、獣人としての力が明らかに衰えているのを、エドガー自身も感じていた。以前のように、力を振るおうとしても全く力が入らない。まるで、何かが決定的に欠けてしまったかのような感覚ばかりが湧きおこる。
「何をしたか、ですか」
ヴィルフレドは、エドガーへ歩み寄る。エドガーはその圧に押されたように、一歩引いた。
「思い当たる節が、本当にないと?」
その問いに、エドガーは答えられなかった。脳裏をよぎったのは、一人の女の顔だった。
老婆のようだと評した白い髪。ありふれた琥珀の瞳。魔力も持たない平凡な人間の娘。 どれだけ邪険にしても静かに佇んでいた、あのほっそりとした姿。
「――まさか」
エドガーの声が震える。
「獣神の祝福である番から絆を切られる者など、族長にはふさわしくない。それが一族の総意です」
「番から、絆を切られる……?」
「気づいていないのですか? 三日、立ち上がれなかったと聞きましたが」
「これは、この怠さは」
「絆を切られた者など、ここ数百年ほどお目にかかっていませんのでね。どういう状態になるかについてはお答えしかねます」
ヴィルフレドが顎をひねる。
「族長会議は三日後です。それまでに身の振り方を考えておいてください。これ以上醜態はさらさぬように。頭首からの言葉です。確かにお伝えしましたよ」
それだけ言い残すと、ヴィルフレドは屋敷を出ていった。
本当にそれを告げるためだけに来ていたらしい。頭首の右腕であり、忙しいはずの彼が。
それだけで、この会議の重要性がわかる。
残されたエドガーは拳を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
「エドガー様、大丈夫ですか……?」
気遣うリディアの声すら、今の彼には遠い。
「番の絆を切っただと……?」
――あの何の取り柄もなさそうな、セレスティが?
一年前、森で出会ったエドガーの番は、魔力も何も持たない人間だった。
エドガーが「番だ」と言うと、きょとんとした、まぬけな顔でエドガーを見つめていた。
親はいないと言うので、そのまま攫うようにして連れてきて、屋敷に閉じ込めた。閉じ込めた自覚はある。
番なのだ。逃すわけにはいかなかった。番に出会った獣人は、力を増すと言われている。
実際、エドガーの力と能力は、飛躍的に向上した。
だが、平凡な人間が番であることを認められず、ろくに顔も見なかった。
周囲にも、アレが番であるとは知らせなかった。
まさか、あれが。
まさか、あの女が。
「あの女はどこにいる!?」
「部屋におられるのではないかと」
「呼んでこい!」
使用人頭の答えに、エドガーは怒鳴った。
あわてて走り出した使用人のひとりが、すぐに青い顔で戻ってくる。
「お部屋にはいらっしゃいません」
「なんだと? あいつの部屋に案内しろ」
ためらう使用人を急かせ、セレスティの部屋だという場所にリディアに支えられながら、エドガーは覚束ない足取りで辿りつく。
部屋をのぞきこんで、愕然とした。
使用人にでさえ使わないような古びたベッドと薄い毛布。
部屋にあったのはそれだけ。机も椅子も、暖をとるための道具さえ置かれていなかった。
「これは。こんな……」
あえぐようなエドガーの声に、使用人たちは顔を伏せた。
リディアが昏い色を瞳に浮かべる。
エドガーが苛立たしげに舌打ちした。
「どういうことだ? あいつは俺の番だぞ!?」
「旦那様はそうはおっしゃいませんでしたので。適当に面倒をみておけと」
「あいつは何も言わなかったのか」
使用人頭は何も答えなかった。
言わなかったのではない。言わせなかったのだ。
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
「セレスティ……」
応える声はもうない。
初めてまともに呼んだ番の名は、屋敷の廊下に虚しく吸い込まれていった。
族長会議で、エドガーの次期頭首からの降板が決定した、次の朝。
エドガーは獣神神殿の階段を登っていた。
まだ倦怠感は抜けないが、ひとりで動けるくらいにはなっていた。ただ、あの全てをねじ伏せられるような力強さは、完全に消えていた。
エドガーの番の絆が切れた報告は、この神殿からもたらされたと会議で聞いた。
階段を登り切り、エドガーは神殿の扉を開ける。
箒を手にした若い神官がこちらを向いた。
「おまえか? 俺が番から絆を切られたと知らせたのは」
「……ああ。あなたが彼女の番、だった方ですか」
神官の声と表情には隠しきれない冷ややかさが漂っていた。
だった、という言い方に、エドガーは思わず顔をしかめる。
「番に絆を切られるなんて大事ですからね。すぐに一族にお知らせしましたよ」
唸るようにして「あいつはどこだ」と問うエドガーに、神官――アレスはうっそりと笑った。
「彼女なら家に帰りましたよ」
「家?」
馬鹿にしたように笑ったエドガーに、アレスは眉をひそめる。
「あいつに家なんかない。親はいないと言っていたからな」
「――親がいないからといって、家がないわけでも、家族がいないわけでもないでしょう」
アレスは、セレスティを迎えにきた漆黒をまとう青年を思い出す。
彼は彼女をずいぶんと慕っているようだった。師匠と呼ぶ以上、血は繋がっていないのだろうが、僕たちの家に帰ろうと彼が言った言葉を、アレスは覚えている。
「そんなわけ」
言いかけて黙り込んだエドガーに、アレスは静かな目を向けた。
「なんにしろ、彼女はあなたの元を去った。絆をきれいに解消してね」
「番の絆が切れるなんて、あるはずがない」
「あなたはご存知なかったんですね。教典の内容を」
「教典?」
「獣神の教えは、もうずいぶんと古いものになってしまったようだ」
そう嘆息すると、アレスは詠うように告げる。
「百と十
白い石を拾ったら
綺麗に綺麗に黒に染め上げて
ひとつずつ
百と十の日
獣神様に捧げたら
祈りは届く
願いは叶う
――番の絆を切ることさえも」
「さすが魔女ですね。獣人でさえもう忘れてしまった教典の内容をきちんと知っていた」
付け加えられたアレスの言葉に、エドガーは呆然とする。
「……魔女?」
「瞳と髪が漆黒に染まるほどの魔力量。魔女以外になんだというんです?」
「そんなはず……」
エドガーが森で出会ったセレスティは、白い髪に琥珀色の瞳をしていた。決して漆黒ではなかった。だから攫ったのだ。彼女はずっと、普通の人間の顔をしていた。
「相手が誰だろうと、獣神様の決めた絆をないがしろにするのは愚かな行為ですが。魔女を番に得ながら、絆を切られるなんて。馬鹿な真似をしましたね」
漆黒を纏う魔女の魔力量は、常人をはるかに凌ぐ。
魔女の番を得た獣人であれば、狼の一族だけでなく、種族をこえ、すべての獣人の王になることすら夢ではなかっただろう。
強さに敬意を払う獣人たちは誰もが、エドガーの前に首を垂れたはずだ。
彼女を大事にしていれば。
彼女を愛していれば、あるいは。
「セレスティ……おまえ、どうして……」
――なぜ、何も言わなかった?
冷遇されていたことも。
魔女であったことも。
番であったはずのエドガーに何ひとつ、告げられることはなかった。
言葉にされなかった問いが、誰にも届くことなく消えていく。
獣神の像が静かに、愛と番であることは別だと言い続けた哀れな男を見下ろしていた。
◇
「リディア、おまえ、知っていたのか」
父の言葉に、リディアはうつむけていた顔をあげると「知っていました」と答えた。
その言葉に両親が、ひゅっと息を吸い込む。
「なんてことを……! 番がどういうものか知らないわけじゃないでしょう!?」
母の悲鳴のような声に、リディアはつんと顎をそらす。
「番だから何だと言うのです。エドガー様は彼女を愛していないと言ったわ。愛と番の絆は別だと。過去には同性の番もいたと聞きました。エドガー様が愛しているのは、わたしです」
「それと、番である者を虐げるのとは話が別です! 虐げたあげくに見限られて、番から絆を切られるのに加担するなんて!」
母が顔を覆って嘆く。父はこれ以上ないくらいに苦い表情を浮かべた。
セレスティ――エドガーの番であった女が消えてから、一ヶ月。
リディアの周りからは完全に人がいなくなった。
友人であったはずの者たちに声をかけても、言葉を濁し避けられる。手紙を送っても、丁重な定形文だけが返ってくる。
エドガーの訪れも、ぱったりなくなった。
彼女を包んでいたはずの温かな世界が、音もなく崩れていく。
「どうして? どうしてよ!?」
エドガーが好きだった。恋していた。結婚するのだと思っていた。
それなのに、森で出会っただけの人間にすべて奪われた。
番が現れたというだけで、すべてを諦める気になんてなれなかった。
リディアは何もしていない。
ただ、あちらの屋敷に行って、あの女がいるから両思いなのに結婚できないのだと泣いただけだ。あの女を冷遇しろ、なんて言っていない。
エドガーにも、不安そうにしながらも「番がいても愛しているわ」と健気に微笑んでみせただけだ。
女なら愛する男を手に入れるために誰でもやっている手管を、少し使ってみせただけ。
なのに。
それなのに。
どうして。
リディアがこんなに責められなければいけないのか。
――あなたさえいなければ。
あの女に何度もそう言った。
あの女――セレスティさえいなければ、幸せになれたはずなのに。
セレスティはもうどこにもいないのに。
どうして、リディアは幸せになっていないのだろう。
「番の絆を壊した女」
「獣人の風上にもおけない」
「近寄らないでくれ。獣神様に呪われたくない」
そう言って、責められ、避けられ、冷たい視線が突き刺さる。
両親からも顔をそむけられる。
手を伸ばそうにも、どこに伸ばせばいいか、もはやわからない。
誰かを踏みにじって得ようとした幸せは、どうあがいても幸せには辿り着かないのだと、リディアは、ここにいたって初めて理解した。
◇
セレスティの家は、常人には辿り着けない深い森の奥にあった。
蔦と苔に覆われ小さな木造の小屋が、ぽつんと木々の間に建っている。
懐かしい扉を開けた瞬間、セレスティは深く息を吸った。
クレイがきちんと手を入れてくれていたのか、一年前と何ひとつ変わっていない。
靴を脱ぎ捨てて、そのままお気に入りのソファへ倒れ込む。
「ああ、落ち着く」
ふうと息を吐くと、身体中の力が抜けていく。そのままクッションの柔らかさを堪能する。
黒髪がさらりと広がった。
「師匠。本当にお疲れさまでした」
「そうね。人生で初めて、ひもじいとか、寒いとか体験して楽しかったけれど、もう充分だわ。お腹が空くって、ああいうことだったのね」
「魔力があるとその辺とは無縁ですからね」
苦笑するクレイに「そうなのよね」と返すと、セレスティはもそもそと体の向きを変えた。猫のようにソファの上で丸くなる。
もともとそのあたりを体験しようとして魔力を制御し、黒味を失った姿で適当な世界の適当な森で自給自足をしていたら、エドガーに出会ってしまった。
あれも運命というのだろうか。
エドガーの屋敷で冷遇してくれたおかげで、目的としていた体験は達成できたので、セレスティとしては満足だ。
クレイが、手早く用意した茶の入ったカップを差し出す。セレスティは寝転がったまま受け取ろうと手を伸ばした。クレイは困ったように笑って、直接には渡さず、セレスティの手の届く場所へカップを置いた。
「熱いですよ」
「はぁい」
返事だけして、セレスティはカップからあがる湯気を眺めた。なんだか久しぶりに湯気のあがるのを見た気がする。
まったく身を起こす気のない彼女に、クレイはまた苦笑した。
ごろごろしているセレスティをしばらく眺めていたクレイが、逡巡したように何度か口を開いては閉じる。
「言いたいことがあるなら、言いなさい」
言葉だけはぴしゃりとうながしたセレスティに、クレイはようやく声にした。
「……あの男のことは、もういいんですか?」
「そうねえ。絆を切ったあとどうなるか知りたいから、使い魔は飛ばすけれど。番ごっこはもういいわ」
「結局、番とは何だったんです?」
「魔力の器に対して、足りない魔力を補うための循環装置ね」
すらっと答えたセレスティに、クレイは真面目な顔を向ける。
理解したとの言葉のとおり、本当に答えを持ち帰ってきたらしい。
「本来は、お互いの魔力を循環させて増幅させるものなんだと思う。獣人は魔力の器のわりに魔力の産生が少ない。だから、誰かを使って増幅を試みる。魔力自体の相性の良さ、魔力回路における抵抗の少なさ、魔力の増幅率を総合的にみて、最適と思えたときに『番』と認識されるのね。あの世界では」
本来の色味を取り戻した髪を、セレスティは指先で持ち上げる。
「わたしとあの人では魔力の差が大きすぎるのと、わたしの魔力回路がいろいろ特殊なせいで、全部取られることになってしまったけれど。まあ、わたしも魔力を取り返そうとはしなかったし。わたしがあの世界に持っていった魔力を根こそぎ奪えるだけの魔力の器を、あの人が持っていたのは確か」
「番によって魔力が増幅されるとしたら、それは執着もするでしょうね。魔力は生命力に繋がる」
静かに合いの手をいれたクレイに、セレスティは唇の端をひきあげた。
「そうねえ。それだけ長生きできるってことだし、生き残る機会も増える。でも、生存本能と愛情は別のもの。あたりまえのことね」
セレスティはそこまで喋ると、ようやく体を起こした。ソファの背にくたりともたれて、カップに手に取り茶をすする。一口飲むなり「おいしい」と呟き、満足そうに目を細めた。
クレイの口元がわずかに緩む。彼女の横に陣取ると、自分用に淹れた茶のカップに口をつける。ふと何かを思いついたように首をかしげた。
「そういえば、どうして急に番を辞める気になったんです?」
「だって、わたしには帰る家がないなんて言うのよ?」
「……はい?」
「わたしにはちゃんと帰るところがあって、そこにはあなたがいるのに。失礼ったらありゃしないわ」
「僕、ですか?」
「そうよ。わたしのことは何と言おうとどうでもいいけど、あなたを貶すことは赦さないわ」
エドガーと最初に森の中で出会ったときに「親は?」と聞かれて、いないと答えた。だから、そう思い込んだのか。
親はいなくても、クレイはいる。
彼が家で待ってくれていると信じているから、セレスティは安心して家を空けられた。
そのクレイを貶すなど。クレイがセレスティを待っているのに帰るところがないなどと。
そんなこと、とうてい赦せるものではなかった。
クレイは、しばらく黙ってセレスティを見つめていた。
「あなたが帰るところには、僕がいることが前提ですか?」
「前提よ。いてくれないと困るわ」
「僕が貶されると怒る? 相手が番でも?」
「当然でしょう。あなたはわたしの大事で大切な弟子だもの」
「それって――」
クレイは何か言いかけて、けれど結局、首を横に振った。
「いえ。今はまだいいです」
途切れた言葉の先を測りかねて、セレスティは首をかしげる。
「そのうち、ちゃんと言いますよ」
にこりと笑ったクレイの顔に、セレスティはこれ以上問い詰めるのを諦めた。こう見えて、彼は頑固なのだ。この笑顔になったときは絶対に口を割らないと、もうすでに知っている。
だから、セレスティは話題を変えた。
「獣神は何がしたかったのかしら? わたしとあの人が上手く行くはずもないのに」
「失敗させたかったのですよ」
「そうなの?」
「教訓です。この話が広がれば、番を大事にしないといけないという風潮が再び盛り上がるでしょう? 誰もがあなたのように長く生きて忘れないというわけではないので」
「忘却は神の恩寵だけど、大切なことを忘れてもらっては困るというわけね」
セレスティは黒い瞳を細めて微笑んだ。
「神はいつでも優しく残酷ね」
飲み終わった茶器をクレイに渡すと、またころりとセレスティはソファに転がった。今度はその頭がクレイの膝の上にある。
ぱちぱちと目を瞬くクレイを下から見上げて、ふわりと微笑んだ。
「いろいろ体験したからわかるのだけれど」
「はい」
「こうして甘やかしてもらうのはいいわね」
一瞬、部屋が静まり返る。
クレイは小さく息を吐いた。
「今さら気づいたんですか。遅すぎませんか」
呆れたように言いながらも、クレイは毛布を何もない空中から取り出すと、セレスティの体にそっと掛ける。
百年も前からこの弟子は、セレスティの世話をずっと焼いている。
セレスティは「温かいわ」と嬉しそうに笑った。
「そうそう。会ったら言おうと思っていたの」
「なんです?」
「誕生日に魔力に染まった黒薔薇なんて、怖すぎるわ」
「ああ」と応えて、クレイは視線をそらす。
「嫌でしたか?」
「嫌ではなかったわね。あなたの魔力は心地いいもの」
「それじゃあ、そういうことにしておいてください」
セレスティはくすくす笑う。
クレイの手が伸びて、彼女の漆黒の髪をなでた。
とろりと眠そうにセレスティの瞼が下がる。
セレスティは、黒薔薇の花言葉が「あなたはあくまで私のもの」だと、もちろん知っている。
――やっぱり家が、クレイのいるところが、いちばんいいわ。
それが今回の結論。
世界をまたひとつ理解した『知』の魔女は、いちばん安心できる腕の中で、心から満ち足りた気分のまま眠りに落ちた。




