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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

万能の特効薬は存在しない

ループ物、現代、短編。

作者: 邏廻回
掲載日:2026/05/04

ループ物、現代。一部に残酷な表現を含みます。

「……ずっと、守ってくれる?」


夢の中、世界は眩しいほどに輝いていた。

幼い僕の手を握る、温かな手の感触。


「……絶対に、守る」


幼馴染と交わした、あまりにも幼く、あまりにも純粋な約束。

その声は、どこまでも優しく、僕の心に深く刻まれていた。


――しかし、今は……。


---


――ピピピピッ!ピピピピッ!


けたたましく鳴り響くアラームの音に、僕は重い瞼を開ける。


「……また、あの夢か……」


窓から差し込む朝日は、夢の温もりを容赦なく奪い去っていく。

一人きりの部屋。

朝食のトーストを齧りながら、僕はぼんやりと今日一日の予定を考える。


学校へと向かう道すがら、ふと、見慣れた後ろ姿が目に留まる。

黒い長い髪が、朝の風に揺れている。

幼馴染、東雲結華だ。


かつては、登校中、僕たちはいつも隣を歩いていた。

とりとめもない話で、時間が過ぎるのも忘れるほどに。


かつて、あんなに賑やかだった会話は、いつの間にか消えていた。

けれど今は、彼女の背中を見つけるだけで、喉の奥が詰まるような感覚に陥る。

声をかける勇気も、かける理由も見当たらない。

ただ、すれ違う瞬間の、あの言いようのない気まずさだけが、僕の胸を締め付ける。


(昔は、あんなにたくさん話していたのに……)


僕は、彼女の背中から視線を逸らし、ただ黙々と歩き続けた。

成長とともに、僕たちの間には、目に見えない壁が築かれていったのだ。


---


学校の教室に足を踏み入れ、いつもの席に座る。

窓の外を流れる雲や、教壇から響く教師の単調な声。退屈なほどに平穏な、日常の風景がそこにはあった。


数時間が過ぎ、数学の小テストが返却された。

手元に置かれた答案用紙。赤ペンで記された数字は、「98」だった。


「……あと一問、いや、あの計算さえ間違えなければ」


わずかな悔しさが、胸の内で小さく爆ぜる。

僕は小さく息を吐き、意識の奥底にある「スイッチ」に指先を触れるような感覚を呼び起こした。


(……やり直そう)


視界がぐにゃりと歪み、周囲の音が逆再生のように巻き戻っていく。

気がつくと、僕は再び、答案用紙を受け取る直前の瞬間に立ち戻っていた。


手元の数字は、紛れもなく「100」。

一点の曇りもない、完璧な満点だ。


昨日の朝へと、時間を巻き戻す。あらゆる失敗を、すべて「なかったこと」にするために。

——それは、もう慣れた手順だった。


---


放課後の時間は、いつもこうして手持ち無沙汰に過ぎていく。

バスケ部の練習の補助をしたり、美術部の片付けを手伝ったり。誰かの役に立つふりをして、空白の時間を埋めていくのが、今の僕の習慣だった。


夕暮れ時。

街がオレンジ色の影に飲み込まれ始める頃、僕は一人、いつもの帰り道を歩いていた。


ふと、視界の端に、見慣れた黒い髪の揺らぎが映る。

東雲結華だ。


(……あ、……)


心臓が、不意に跳ねた。

彼女の姿を見つけた瞬間、反射的に声が出そうになる。けれど、それと同時に、喉の奥に冷たい拒絶の感覚が突き刺さった。


……彼女は、変な方向へ歩いている。

いつもなら、僕の後を追うように、並木道の方へ進むはずなのに。

彼女が向かっているのは、人通りの少ない、大きな交差点へと続く裏通りだった。


(なんで、あっちに……?)


違和感が、胸の中に小さな棘となって刺さる。

何か、言い訳を探さなければならない。何か、自然な理由を作って、彼女の背中に声をかけるべきではないのか。


けれど、僕たちの間には、もう言葉を交わすための「橋」なんて残っていない。

今さら声をかけて、もし拒絶されたら。もし、あの冷ややかな視線に射抜かれたら。

迷い、足が止まった。その、ほんのわずかな、一瞬の躊躇。


――キィィィィッ!!


鼓膜を突き刺すような、鋭いブレーキ音。

路面を猛烈な勢いで削り取る、タイヤの悲鳴。

思考が、凍りついた。


視界が、不自然なほどにスローモーションへと変貌していく。

激しく明滅するヘッドライトの光。

ひしゃげるフロントガラスの断片。

視界の端、すべてをなぎ倒さんばかりの速度で、巨大な影が彼女へと牙を剥いた。


(……いや、来る……!)


逃げろ、と。

声にならない叫びが、喉の奥で形を成す前に。


ドォォォン……ッ。


鈍く、重い。

肉体と、巨大な質量がぶつかり合う、生理的な嫌悪感を呼び起こすような、生々しい衝撃音。


彼女の体が、まるで糸の切れた人形のように、宙に投げ出された。

アスファルトの硬い感触が、彼女の細い体を容赦なく打ち据える。


「あ……」


音が、消えた。

ただ、視覚だけが、あまりにも鮮明すぎる残酷な現実を、網膜に焼き付けていく。


夕闇に沈みゆく路上に、力なく転がる、黒い髪の塊。

つい先ほどまで、あんなに凛として、僕を拒絶しながらも確かにそこに存在していた、彼女の背中。

それが今は、ひび割れた陶器のように、あまりにも静かに、あまりにも無残に、街の灯りに晒されている。


動かない。

呼吸すら、止まっているように見える。


(……嘘だ……そんな……)


指先ひとつ、動かせない。

脳が、目の前の光景を「現実」だと受け入れることを拒絶し、激しい拒絶反応とともに、世界が、音を失ったまま、深い、深い、底なしの闇へと、溶け始めていった――。


---


気がつけば、朝だった。カーテン越しの光が、見覚えのある部屋を照らしている。

さっきまで確かに——


(……違う)


喉の奥が乾く。


息がうまく吸えない。


頭の中だけが、異常に静かだった。


「……戻ってる」


それだけを、ようやく理解する。次の瞬間、思い出す。


——トラック。


——彼女の顔。


——潰れるような音。


(死んだ)


現実が遅れて追いつく。胃の奥が冷える。だが、身体は動かない。


「……ふざけるな」


それだけが、ようやく出た。


---


震える手で、何度も時計を確認する。

午前七時。

昨日…いや、明日の、あの忌まわしい光景が、鮮明な色彩を伴って脳裏に焼き付いている。


(……間に合う。まだ、あの場所には辿り着いていない)


あれは、放課後。夕暮れ時。

彼女が、あの忌々しい裏通りへと足を踏み入れる、あの瞬間。


僕は、狂ったように準備を始めた。

明日の、あの「最悪のルート」を。彼女の歩みを、すべて書き換えるために。


学校での時間は、まるで砂時計の砂が落ちるのを待つような、ひどく長く、残酷な沈黙に満たされていた。

授業の内容など、一切頭に入ってこない。

ただ、窓の外を見つめ、彼女がいつ、どの角を曲がるのか、その瞬間を、その予兆を、神経を研ぎ澄ませて待ち続けた。


そして、放課後。

あの、不吉な予感のする時刻が近づく。


僕は、彼女の背中を見つけた。

いつも通りの、どこか寂しげで、凛とした、黒い髪の揺らぎ。

彼女は、あの日と同じ、あの裏通りへと向かおうとしていた。


(……今だ)


僕は、思考を止めた。

迷いや、躊躇、拒絶される恐怖。そんなものは、すべてゴミ箱に捨てた。

今の僕にあるのは、彼女を失うことへの、剥き出しの恐怖だけだ。


「――結華!」


叫ぶような声が、静かな放課後の廊下に響いた。

彼女の足が、止まる。

ゆっくりと、振り返る。そこには、困惑と、拒絶の色を孕んだ、見知らぬ他人を見るような瞳があった。


「……何? 急に」


冷ややかな声。

僕は、彼女の行く手を遮るように、強引に距離を詰めた。

彼女の視界を、僕の存在だけで埋め尽くすように。


「一緒に、帰ろう」


「……は?」


彼女は、呆然としたように瞬きをした。

その瞳に、戸惑いが広がる。


「急に何を言っているの。……用がないなら、どいて。私、急いでるから」


彼女は視線を逸らし、再び歩き出そうとする。

突き放すような、拒絶の拒絶。

かつての僕たちなら、ここで言葉を失い、道を開けていただろう。


けれど、今の僕は、そんなことは許さない。


「ダメだ。今日は、こっちの道を行く。……僕と一緒に」


「……な、何言ってるのよ。意味わかんない。……離して!」


彼女の手首を、僕は掴んだ。

強引に、逃がさないように。

彼女の抵抗を、その拒絶を、物理的な力と、執念でねじ伏せる。


「……っ、痛い……! 何なのよ、急に……!」


「いいから。……頼む、結華。今日だけは、僕の言う通りにしてくれ」


声が、震えてしまうのを隠せなかった。

懇願ではない。これは、命令に近い、祈りだった。


彼女は、信じられないものを見るような目で僕を睨みつけた。

怒りと、困惑と、わずかな……恐怖。

けれど、僕のあまりの剣幕に、彼女は言葉を失い、ただ、力なく立ち尽くしていた。


「……勝手なこと、しないで」


絞り出すような声。

それでも、彼女は僕の手を振り払うことはできなかった。

拒絶しきれない、しぶしぶとした、屈服。


「…………分かったわよ。……そんなに言うなら、少しだけよ」


彼女は、恨めしそうに視線を落とし、重い足取りで歩き出した。

僕は、その背中を、逃がさないように追う。


選んだルートは、あの事故現場とは正反対の、賑やかな大通りへと続く道だった。

信号を待ち、街灯が灯り始めるのを、並んで見つめる。


「……ねえ、本当に、意味わかなかったんだけど」


沈黙を破ったのは、彼女の、どこか投げやりな声だった。

「どうしてあんな、強引なことするの?」


「……別に。ただ、今日は、一緒に歩きたかっただけだ」


「……ふん。……相変わらず、変な人」


彼女は、胸元に手を当てながら、ぷいっと顔を背けた。

けれど、その横顔には、先ほどまでの刺々しい拒絶は、もうなかった。

とりとめもない、なんてことのない、日常のような時間が、そこには流れていた。


少なくとも、その瞬間だけは。


街の喧騒。

通り過ぎる車のライト。

隣を歩く、彼女の、かすかな体温。


ふと、腕時計に視線が向いた。


(……勝った)


僕は、胸の内で、静かに、しかし確信を持って呟いた。

あの交差点には、彼女はいない。

あの裏通りで、彼女とあのトラックが交わる未来は、もうない。


ルートは、変えた。

因果は、僕の手によって、書き換えられたのだ。


「……これで、いいんだ」


僕は、確信していた。

これで、彼女は助かった。

あの忌まわしい結末は、消え去ったのだと。


僕は、目の前の、穏やかな日常に、完全な「成功」を見出していた――。


---


「……何、独り言? 気持ち悪いわよ」


不意に、隣から呆れたような声が降ってきた。

結華だ。彼女は、僕の背中を軽く小突きながら、どこか嬉しそうに、いたずらっぽく笑っている。

その表情を見た瞬間、僕の胸の奥にこびりついていた、あの悍ましい鉄の匂いが、一瞬で洗い流されたような気がした。


「……いや、何でもない。……ただ、良かったと思って」


「……何が?」


彼女は足を止め、僕の顔を覗き込んできた。

夕暮れの街灯が、彼女の瞳の中に小さく灯る。

僕は、言葉を飲み込もうとした。けれど、堰を切ったように、抑えていた感情が溢れ出した。


「……やっと、ちゃんと話せているなって。……前の、あの……言葉も交わさなくなった時期、怖かったんだ。また、お前を失うんじゃないかって」


結華の表情が、一瞬、硬直した。

彼女は視線を逸らし、歩道に落ちた自分の影をじっと見つめる。

沈黙が、重く、けれど以前のような拒絶の重さではなく、どこか切ない熱を帯びて僕たちの間を満たした。


「……あの日、私、怒ってたもんね」


彼女が、ぽつりと、呟くように言った。


「……何で、あんなに冷たくしちゃったのかなって。……ずっと、考えてた」


「……結華」


「……だって、怖かったんだもん」


彼女の声が、震えていた。


「……あなたが、約束を忘れて、私を置いていってしまうのが。……それ以上、あなたが私に『気を遣う』のが。……これ以上、あなたとの関係を、壊したくなかったの。……私、頼って、あなたが離れていくのが、一番怖かったんだから」


彼女の告白は、僕がずっと見落としていた、僕たちの間の「断絶」の正体だった。

彼女は、僕を拒絶していたのではない。

僕を失うことを恐れるあまり、自分から壁を築き、その壁の中に閉じこもり、耐えていたのだ。


「……ごめん。気づいてあげられなくて」


僕は、彼女の細い肩を、壊れ物を扱うように、けれど力強く引き寄せた。

彼女の体は、一瞬、驚いたように強張った。

けれど、すぐに力が抜け、僕の服の袖を、ぎゅっと掴み返してきた。


「……もう、いいよ。……もう、逃げないから」


彼女の言葉は、まるで魔法のように、僕たちの間にあった、数年分の空白を埋めていった。

疎遠になっていた理由。

すれ違っていた、互いの「守り方」。

そのすべてが、今、この瞬間の対話によって、劇的に、そして鮮やかに、溶けていく。


(……成功だ。僕は、やり直せたんだ)


僕は、確信した。

僕は、彼女を救った。

僕たちの、壊れかけていた関係を、僕の手で、完璧に修復したのだ。


――しかし。


その「成功」の熱狂の中に、僕は、入り込む隙間さえなかった。


翌日。

学校の廊下ですれ違った時、彼女は、いつものように明るく笑ってくれた。

放課後、一緒に歩く時も、彼女は僕の隣で、楽しげに喋ってくれた。

すべては、僕が望んだ、理想的な「再生」の物語だった。


けれど。


「……なあ、結華。少し、顔色が悪い気がするけど……大丈夫か?」


帰り道の、夕暮れ時。

ふと、隣を歩く彼女の横顔に、僕は声をかけた。

街灯が灯り始めた道に、彼女の影が長く伸びる。


「……え?」


呼びかけた瞬間、彼女の動きが、コンマ数秒、不自然に止まった。

まるで、言葉にされることを予期していなかったかのように。


「……何よ、急に。……大丈夫。ちょっと、寝不足なだけ」


彼女はすぐに、いつものように、明るいトーンで返した。

けれど、その瞳は、一瞬だけ僕の視線を避けるように、足元へと流れた。

視線が合わない。

けれど、僕はそれを、彼女が恥ずかしがっているのだとか、あるいは単に、僕の強引な接し方にまだ少し気まずさを感じているのだとか、都合のいい解釈で塗りつぶした。


「……そうか。無理はするなよ」


「ふふ、分かってるって。……っ、」


不意に、彼女が小さく咳き込んだ。

慌てて口元を抑え、彼女は手元のペットボトルの水を一口、喉に流し込む。

何事もなかったかのように振る舞おうとする、その健気な仕草さえ、僕には「少し疲れているだけ」の証拠に見えた。


「……大丈夫。本当に、何でもないから」


繰り返される「大丈夫」という言葉。

その頻度が増えるたびに、僕はそれを、彼女が僕に気を遣って、無理に明るく振る舞おうとしている「優しさ」だと受け取っていた。

彼女が、自分自身の内側で起きている、小さな、けれど決定的な軋みに気づいていないことなど、微塵も疑わずに。


「……じゃあ、また明日」


彼女の家の前。

見慣れた、けれどどこか遠く感じられる、彼女の家の門扉の前で、僕たちは立ち止まる。

沈みゆく太陽が、彼女の美しい黒髪を、血のような、あるいは燃えるような、鮮やかな朱色に染め上げていた。


「……うん。また明日。……おやすみ、……」


彼女の声は、どこか遠い場所から響いているように、頼りなく、か細かった。

けれど、僕はその声に、決定的な破綻を感じることはできなかった。


「……おやすみ、結華」


僕は、彼女の家へと消えていく後ろ姿を見送る。

明日も、その次も。

僕たちが、こうして穏やかに、当たり前の日常を積み重ねていけると、僕は信じて疑わなかった。


僕の選んだ、この「完璧なはずの結末」を。


……それ以外の結末など、考えたことすらなかった。


──少なくとも、この時までは。


---


――すべては、僕の計画通りだったはずだった。


あの忌まわしい交差点。

あの、トラックの轟音と、彼女の体が宙を舞う絶望的な光景。

それらすべてを、僕は「書き換えた」のだ。


それからの数日間、僕たちの世界には、かつて失いかけていた穏やかな色彩が戻ってきた。

学校の帰り道、並んで歩く時間。

とりとめもない、なんてことのない会話。

不意に視線が合い、彼女が少しだけ照れたように微笑む瞬間。


(……ああ、これでよかったんだ)


僕は、自分が成し遂げた「成功」を、何度も心の中で噛み締めていた。

僕は、彼女を救った。

彼女の未来を、あの残酷な死から、僕の意志によって引き戻したのだ。


けれど。


その「成功」という名の、薄氷のような平穏が、音もなくひび割れていくことに、僕は気づいていなかった。


「……ねえ、本当に、大丈夫なの?」


数日後の放課後。

夕闇が迫る教室で、僕は隣に座る結華に、思わず問いかけていた。

彼女の横顔は、あの日よりも、どこか透き通るような白さを帯びている。

街灯に照らされた肌は、まるで内側から光を失いつつあるかのように、頼りなく、淡い。


「……何よ、また。……大丈夫だって、言ってるでしょ」


彼女は、いつものように、少しだけ呆れたような、けれど拒絶とは違う、柔らかなトーンで返した。

けれど、その瞳は、僕の視線を捉えることができない。

彼女の視線は、常に僕の肩越し、あるいは、窓の外の、どこか遠い虚空へと彷徨っていた。


「……顔色が、悪い。……少し、休んだほうがいい」


「……ふふ、過保護なんだから。……っ、」


不意に、彼女の口元が、苦しげに歪んだ。

小さく、押し殺すような、けれど鋭い咳。

彼女は慌てて手元のハンカチで口元を抑え、呼吸を整えようとする。


「……大丈夫。……本当に、何でもないから」


繰り返される、その言葉。

そのたびに、彼女の背後に、見えない影が忍び寄っているような、言いようのない不安が僕を襲う。

けれど、僕はそれを、「彼女の優しさ」だと、自分に言い聞かせていた。

僕が、彼女を「守ろう」と強引に介入したから、彼女は僕に気を遣って、無理に明るく振る舞おうとしているのだと。


彼女の「大丈夫」を、僕は、信じたいと願っていた。

そう信じていなければ、僕が書き換えたはずの「完璧な結末」が、すべて砂の城のように崩れ去ってしまうことを、心のどこかで予感していたからだ。


そして、その瞬間は、あまりにも唐突に、そしてあまりにも静かに訪れた。


「……あ……」


帰り道。

街灯の明かりが、長く、伸びた二人の影を路面に描いている。

隣を歩く彼女の、規則正しい足音が、ふっと、途切れた。


「……結華?」


呼びかけた言葉への、返事はない。

ただ、彼女の身体が、不自然に、激しく、大きく、のけぞるようにして、道端へと倒れ込んだ。


「……っ! 結華!!」


僕は、反射的に、彼女の身体を支えようと駆け寄った。

けれど、僕の手が彼女の肩に触れるよりも早く、彼女の身体は、力なくアスファルトへと叩きつけられた。


ドサッ、という、鈍く、重い音。

肉体が、硬い地面に衝突する、生々しい衝撃音。


「……結華、おい! 結華!!」


僕は、震える手で彼女の肩を掴み、仰向けに寝かした。

彼女の美しい黒髪が、夕闇の中で乱れ、街灯の光を乱反射させている。

その瞳は、うっすらと開いていた。

けれど、そこには、僕の姿も、目の前の光景も、映っていないようだった。


ただ、苦しげに、痙攣するように、彼女の胸が大きく上下している。

呼吸が、喉の奥で、ヒュー、と、掠れた音を立てている。


「……嘘だ……。……嘘だろ、……おい、目を開けろ! 結華!!」


叫んでも、返事はない。

僕は、必死に、彼女の細い手首を掴んだ。

脈を、探そうと、狂ったように指先に力を込める。


けれど。


伝わってくるのは、壊れかけの時計のように、不規則で、弱々しく、そして、急速に、遠ざかっていく、命の鼓動だけだった。


(……どうして……。……どうしてなんだ……!!)


僕は、あの事故を防いだ。

あの、トラックの衝突を、回避した。

因果は、僕の手によって、正しく修正されたはずだった。

それなのに、どうして。

どうして、目の前で、彼女が……。


「……あ……」


彼女の唇から、一筋の、白い、熱い吐息が漏れた。

そして、その瞳から、光が、ゆっくりと、、抜けていく。


「……結華……。……結華!!」


僕は、彼女の名前を、何度も、何度も、叫び続けた。

けれど、返ってくるのは、冷たい夜の風の音だけだった。


僕が、守ったはずの、彼女の命。

僕が、手に入れたはずの、完璧な未来。


そのすべてが、今、音を立てて、崩れ去っていく。

目の前にあるのは、回避したはずの「死」よりも、もっと残酷で、もっと、救いようのない、静かな、真実の残骸だった――。


---


病院の廊下は、不自然なほどに白く、無機質だった。


消毒液の匂いが、鼻の奥を刺す。

遠のいていく意識の底で、僕は、何度も、何度も、あの「やり直し」のスイッチを探していた。

今度こそ、あの交差点に彼女を向かわせないように。

今度こそ、あのトラックを消し去るように。


けれど、指先は空を切る。

どれだけ意識を研ぎ渡しても、世界は巻き戻らない。

視界の端で、点滅を繰り返す医療機器の赤い光だけが、抗いようのない「今」を突きつけてくる。


「……先生、どうして……」


掠れた声で、僕は、目の前に立つ医師に問いかけた。

医師の表情は、悲しみさえ読み取れないほど、ただ静かだった。


「……非常に、急激な経過でした」


医師の口から漏れたのは、宣告に等しい、淡々とした事実の羅列だった。


「急性心筋炎です」

「……もう少し早ければ、せめて、違ったかもしれません」


視界が、激しく揺れる。

足元の感覚が、消失していく。


その言葉は、理解ではなく、否定として僕の中に落ちてきた。


「……無理を、していた……?」


違う。


それは、今初めて与えられた情報じゃない。


僕は、知っていた。

見ていた。


——見ないふりをしていただけだ。


「……大丈夫。本当に、何でもないから」


あの時の声が、やけに鮮明に蘇る。


視線を逸らしたままの横顔。

ほんの一瞬だけ止まった動き。

隠すように押さえた口元。

水を飲んで誤魔化した仕草。


——あれは、全部「助けて」だった。


「……そうか。無理はするなよ」


何も考えずに返した、自分の声まで、はっきりと思い出せる。


軽い。

浅い。


——他人みたいな言葉。


(違うだろ)


(そこで、止めるべきだっただろ)


(聞くべきだっただろ)


どうして、聞かなかった。

どうして、踏み込まなかった。


どうして、


——“信じるふり”なんかした。


僕は、“彼女を信じていた”んじゃない。


ただ、


都合のいい結末が壊れるのが怖くて、目を逸らしていただけだ。


「……っ」


息が詰まる。


胸の奥が、遅れて、引き裂かれる。


守る、と約束した。


あの日。

あの時。

あの手の温もりを、


僕は、確かに覚えているはずなのに。

僕が守ろうとしていたのは、彼女じゃない。


“彼女を救えた自分”という、都合のいい物語だった。


その代償が、これだ。


(……違う)


(違う、違う、違う……)


これは、事故なんかじゃない。


運命なんかじゃない。


僕が、見殺しにしたんだ。

その事実だけが、逃げ場もなく、僕の中に残った。


---


意識の底で、指先が疼いていた。

あの、すべてをなかったことにする「スイッチ」。


(……戻れる)


あの夕暮れへ。

彼女が「大丈夫」と言った、あの瞬間へ。


何度でもやり直せる。

失敗を消して、望んだ形に直してしまえばいい。


そうすれば——


「…………っ」


指先が、止まった。


――違う。


胸の奥で、何かが引っかかる。


あの時も、同じだった。


「……大丈夫」


その一言に、逃げた。


(……また、同じことをするのか)


息が詰まる。


今、ここで戻れば——

また“正しくやる”ことだけを考える。


また、間違えないように。

また、失わないように。


そのために——


「……違う」


掠れた声が、漏れた。


何を間違えたのかも、

どうすればよかったのかも、

分からない。


それでも。


あの時みたいなやり方だけは——


もう、選べない。


「……分からない。……でも」


喉の奥が、震える。


「今度は、逃げない」


答えはない。正解もない。


それでも——


今度は、


彼女の言葉から、目を逸らさない。


拒まれてもいい。

壊れてもいい。


それでも、触れなければならないものがある。


僕は、もう一度、指先を動かした。


今度は、書き換えるためじゃない。


ただ——


あの瞬間に、立ち返るために。


---


気がつけば、また、あの放課後の、夕暮れ時だった。


オレンジ色の光が、教室の床に長い影を落としている。

僕は、震える足で、彼女の背中を追っていた。


見慣れた、黒い長い髪の揺らぎ。

かつて僕が、強引な力で引き止め、自分の望むルートへと導いた、あの背中。


(……今度は、無理に、連れて行く必要はない)


僕は、自分の喉を震わせる恐怖を、必死に抑え込んだ。

もし、また間違えたら。

もし、また、彼女を傷つけてしまったら。

その恐怖が、僕の足を、重い鉛のように地面へと縛り付ける。


以前の僕なら、迷わず駆け寄り、彼女の手首を掴み、言葉を押し付けていただろう。

けれど、今の僕には、その強引な「正しさ」が、どれほど残酷な刃であったか、痛いほど分かっていた。


僕は、彼女の数歩後ろで、立ち止まった。

声をかけることすら、躊躇われる。

彼女の歩みが、不意に、わずかに乱れる。


彼女は、振り返った。

そこには、困惑と、警戒、そして――僕の顔を見て、一瞬だけ、ひどく怯えたような、悲しげな瞳があった。


「……また、なの?」


彼女の、低く、静かな声。

それは、僕のこれまでの「過ち」を、すべて見透かしているような、冷ややかな響きだった。


「……何よ、一体。……どうして、そこまでするの」


彼女の瞳に、迷いと、拒絶が混ざり合う。

僕は、答えを持たなかった。

彼女を救うための、完璧な計画も、正しいルートも、今、僕の手元には何一つ残っていない。


ただ、心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。

僕は、言葉を探した。

彼女の心の壁を、壊さずに、けれど、踏み込むための、たった一つの言葉を。


「……分からない」


絞り出した声は、情けなく、掠れていた。


「……何も、分からないんだ。……何が正しいのかも……」

「……でも、それでも……」


僕は、言葉に詰まり、唇を噛んだ。

彼女は、悲しそうに、わずかに目を伏せた。


「……もう、いいわ。……放っておいて。……そんな風に、私を……」


彼女が、再び歩き出そうとする。

その背中が、また、あの暗い、拒絶の淵へと消えていこうとする。


僕は、思わず、一歩、踏み出した。

けれど、彼女の手を掴むことはしなかった。

ただ、震える声で、彼女の背中に、祈るように告げた。


「……逃げたくないんだ」


彼女の足が、ピタリと止まる。


「……お前が、どう思っているのか……。……どんなに、苦しくても……。……ちゃんと、聞かせてほしい。……僕は、……今度は、逃げたくないんだ」


僕は、答えのない問いを、彼女へと投げた。

制御できない、不完全で、あまりにも無力な、僕の、本当の願いを。


---



彼女の足が、ピタリと止まった。


沈黙が、僕たちの間に降り積もる。

夕闇が深まり、街灯の光が、僕たちの足元をぼんやりと照らしていた。

かつてなら、この沈黙に耐えかねて、僕はまた「正解」を求めて言葉を重ねただろう。

彼女を動かすための、もっともらしい理由や、抗いようのない論理を。


けれど、今の僕には、そんな武器は持ち合わせていない。

あるのは、ただ、震えるほどの恐怖と、彼女の痛みを、そのまま受け止めたいという、あまりにも無力な願いだけだ。


「……何よ、それ」


結華が、低く、掠れた声で言った。

彼女は顔を上げない。視線は、地面に落ちた僕たちの影を見つめたまま、どこか拒絶の色を帯びていた。


「……また、私をコントロールしようとしてるんでしょ。

 ……『こうすれば、あなたはこうなる』って、自分の思い通りに、私を導こうとしてる……。

 もう、そんなの、いらない」


彼女の言葉は、鋭いナイフとなって僕の胸を突く。

痛かった。けれど、それは、彼女が僕の「不器用な支配」に、ようやく気づき、対峙してくれた証でもあった。


「……コントロールなんて、しない」


僕は、静かに、けれど力強く言葉を紡いだ。


「……ただ、見ているだけだ。

 ……お前が、どんなに『大丈夫』だと言っても。

 ……お前の顔が、こんなに、痛々しいほどに白くなっているのに、……僕は、それを見逃したくないんだ」


僕は、彼女の瞳に、逃げ場のない真実を突きつける。

彼女が必死に隠そうとしていた、その「ゆらぎ」を。


「……っ、…………」


結華の肩が、小さく震えた。


「……『大丈夫』じゃないって言ったら、……どうするのよ。

 ……そうなったら、……また、怖くなるじゃない……。

 ……私が、弱くて、……あなたに、……迷惑な存在になったら……っ」


彼女の瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。

それは、僕がこれまで「書き換えて」きた、どの時間軸にも存在しなかった、生々しい、彼女の真実の涙だった。


彼女は、怖がっていたのだ。

頼ることが、関係を壊すことだと、自分自身で結論づけていた。

強固な「大丈夫」という盾は、僕を拒絶するためのものではなく、自分自身が壊れてしまわないための、精一杯の防壁だったのだ。


僕は、一歩、彼女に近づいた。

けれど、彼女の手を掴むことはしなかった。

強引に引き寄せることも、無理に病院へ連れて行くことも、僕の選択肢にはない。


「……迷惑なんて、一度も思ったことはない」


僕は、彼女の視線が、ようやく僕の瞳を捉えるのを待った。


「……お前が、弱くても。お前が、僕に、助けを求めても。

 ……僕は、それを、……拒まない。

 ……むしろ、……お前のその『大丈夫じゃない』っていう言葉を、……僕は、待ち続けていたんだ」


僕は、彼女の目の前に、ただ、そこに居続けることを選んだ。

彼女の「大丈夫」という嘘を否定せず、けれど、その背後にある「痛み」を、共に背負う覚悟を示すために。


「……嫌なら、……行かなくていい。……無理に、動かなくていい。……でも……」


僕は、言葉を継いだ。


「……一人で、その痛みを、背負わせることは、……もう、させない。……お前が、……『もう、無理だ』って、……そう思えるまで、……僕は、ここにいるから」


長い、長い、沈黙。

街の騒音さえも、遠い世界の出来事のように感じられた。

結華の瞳の中で、葛藤が、激しく渦巻いている。

彼女の「強さ」という名のプライドと、彼女の「命」という名の、逃れられない限界が。


やがて。

彼女の瞳から、決意のような、あるいは、すべてを諦めたような、微かな光が灯った。


「………………」


結華は、震える手で、自分の胸元を、ぎゅっと、強く押さえた。

その指先が、白く、痛々しいほどに強張っている。


「…………本当に、……ここに、いてくれるの?」


掠れた、震える声。

それは、かつての、幼い日の約束を、もう一度、確かめるような、祈りに似た問いかけだった。


「……ああ。……ずっと、ここにいる」


僕は、答えた。

書き換える必要のない、ただの、一人の人間としての、誓いとして。


結玉が、ゆっくりと、小さく、頷いた。


「……じゃあ……、……少しだけ……」


彼女は、消え入りそうな声で、そう呟いた。


「……病院に……行こう。…………一緒に行って……くれる?」


その言葉は、僕にとって、どんな「完璧な計画」の成功よりも、重く、そして、眩いほどの救いだった。

彼女は、自分自身の意思で、僕に、その手を取ることを許してくれたのだ。


僕は、彼女の震える手を、壊れ物を扱うように、けれど、決して離さないという強い意志を込めて、優しく、包み込むように握りしめた。


「……ああ。……行こう」


僕たちの歩みは、以前のような、確信に満ちたものではなかった。

重く、不安定で、どこか、途切れそうな、危ういものだった。


けれど。

少なくとも、今、僕の掌に伝わってくる彼女の体温は、間違いなく、今、この瞬間、僕たちの手の中に存在している。


僕は、もう、迷わない。

結末を操作するためにではなく、彼女の歩む、その一歩一歩を、共に刻むために。


夕闇に沈む街の中で、僕たちは、ゆっくりと、一歩を踏み出した。


---


病院の待合室は、どこまでも白く、そして、ひどく静かだった。


窓の外では、夜の帳がゆっくりと降りていき、街の灯りが、まるで遠い世界の出来事のように、無機質な光を放っている。

僕の耳には、自分の、早すぎる鼓動の音だけが、うるさいほどに響いていた。


どれくらいの時間が過ぎただろうか。


不意に、廊下を歩く足音が近づき、視界に、白衣の医師の姿が映る。

僕は、反射的に、立ち上がっていた。

震える手を、無意識に、強く握りしめる。


「……お付き添いの方でしょうか?」


医師の声は、感情を削ぎ落としたような、淡々としたものだった。


「……はい。……彼女は、……結華は、大丈夫、ですか……?」


絞り出すような問いに、医師は、わずかに、本当にわずかに、表情を和らげた。


「幸い、手遅れではありませんでした。早く通院してくれてよかった」


その言葉が、僕の肺の中に、溜まっていた熱い塊を、一気に溶かしていく。


「……急性心筋炎……。……症状がひどくなる前で良かった。今なら、数週間から1ヶ月様子を見れば収まるでしょう」


医師は、淡々と、医学的な事実を並べていく。

救われた。

彼女の命は、繋ぎ止められたのだ。


けれど。


その「成功」の感覚は、僕がかつて味わってきた、あの「満点の答案用紙」を手にした時のような、清々しい達成感とは、決定的に、何かが違っていた。


あの時の、やり直しの「成功」は、あまりにも完璧で、あまりにも、無味乾燥だった。

すべてを計算し、すべてを制御し、一切の傷跡を残さずに、歪な現実を「正解」へと書き換える。

そこには、何の痛みも、何の葛藤も、何の「生」の感触も、存在していなかった。


今の、この「成功」は、あまりにも泥臭く、重苦しい。

恐怖に震え、喉を枯らし、彼女の痛みに、逃げ場のない絶望を味わい、……それでも、ただ、祈ることしかできなかった、あまりにも不完全な結果。


僕は、自分の、震えが止まらない手を見つめる。


(……僕は、……正解を、選べたのだろうか)


医師の言葉によって、彼女の命は救われた。

けれど、僕は、彼女が抱えていた「痛み」そのものを、消し去ることはできなかった。

彼女の「大丈夫」という嘘も、その背後にあった、張り裂けそうなほどの「恐怖」も、僕の手元には、まだ、重い残骸として、残り続けている。


僕は、あの「スイッチ」を、一度も、使わなかった。


事態を、都合よく、書き換えるために。

最悪の結末を、なかったことにするために。


僕は、ただ、彼女の、崩れゆく現実を、そのまま、受け止めるために、あの瞬間に、立ち返った。


……成功、と言えるのだろうか。


すべてが、解決したわけではない。

彼女の身体には、今も、目に見えない、消えない傷が、刻まれている。

僕たちの間に流れる空気には、以前のような、無垢な、何の疑いもない、透明な平穏は、もう、戻ってはこない。


けれど。


僕は、自分の、胸の奥で、静かに、しかし、確かな熱を持って、そう感じていた。


……少なくとも、僕は、今、この瞬間を、

彼女と共に、――消さなかったのだ。


書き換える必要のない、この、痛々しいほどに、生々しい、

彼女の、苦しみに満ちた、

「今」を、僕は、――見捨てなかったのだと。


その、震えるような、手応えだけが、

僕の、すべてだった。


---


退院から、数週間が過ぎた。


季節は少しずつ、ゆっくりと、止まっていた時間を動かしていくように進んでいく。

結華の身体は、医師の言葉通り、着実な回復を見せていた。けれど、僕たちの間に流れる空気は、以前のような、何の濁りもない透明なものでは戻っていなかった。


学校の帰り道、並んで歩く。

距離は、以前よりもずっと近い。

けれど、その近さには、言いようのない、ひりつくような、ぎこちなさが混ざっていた。


僕たちは、お互いの「痛み」を知ってしまった。

彼女が必死に隠していた脆さと、僕がそれを「都合よく」見過ごしていた傲慢さを。

その事実が、僕たちの間にある、透明な膜のように、薄い、けれど決定的な隔たりとして存在していた。


「……ねえ」


不意に、結華が足を止めた。

夕暮れの光が、彼女の横顔を、どこか寂しげに照らしている。


「……何?」


「……また、忘れるんじゃないの?」


その言葉は、問いかけというよりも、僕に対する、小さな、けれど鋭い警告のように響いた。


「……何を、だよ」


「……こういうこと。……あなたが、自分の望む『正しい結果』だけを見て、目の前にある、本当の……。……私が見せようとしていた、本当のことが、見えなくなっちゃうこと」


彼女の瞳には、まだ、あの夜の恐怖の残滓が、小さな火種のように灯っている。

彼女は、僕の「完璧主義」を、僕の「逃避」を、恐れているのだ。

僕がまた、都合のいい現実を選び、彼女の真実を、なかったことにしてしまうのではないかと。


僕は、即答できなかった。

僕の口から出てくる言葉が、また、彼女をコントロールしようとする「正解」のテンプレートではないかと、怖かったから。


僕は、自分の震える指先を見つめ、しばらくの沈黙の後に、絞り出すように言った。


「……忘れないように、する」


「……ふん」


彼女は、小さく、鼻を鳴らした。


「……もし、忘れたら」


僕は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返して、言葉を継いだ。


「……その時は、教えてくれ。……何度でも、何度でも、教えてほしい」


一瞬の、沈黙。

街灯が、不器立ちながら、僕たちの影を長く、路面に引き延ばしていく。


やがて、彼女の唇が、わずかに、本当に、わずかに、弧を描いた。

それは、かつての、何の悩みも知らない幼い頃の微笑みではなかった。

痛みを知り、傷つき、それでもなお、僕の隣に立ち続けている、一人の人間としての、強くて、脆い微笑みだった。


「……バカね。……本当に、手がかかるんだから」


小さく、笑う彼女の隣で、僕は、止まっていた呼吸が、ようやく、深く、整っていくのを感じた。

完全ではない。

修復されたわけでも、元通りになったわけでもない。

僕たちの関係は、傷跡を抱えたまま、新しく、不器用な、形を作り直そうとしていた。


---


並んで歩く、帰り道。


言葉は、多くない。

沈黙が、僕たちの間を、時折、通り抜けていく。

けれど、その沈黙は、以前のような、息が詰まるような、拒絶の重さを持っていなかった。

ただ、そこにある、共有された、静かな時間。


僕は、自分の歩幅が、彼女の歩幅に、不器用に合わせようとしていることに気づく。

背後を振り返れば、そこには、僕が「書き換えた」はずの、あの忌まわしい、けれど、僕が「消さなかった」現実が、確かに繋がって、続いている。


(……これで、よかったのかは、分からない)


僕は、自分自身に問いかける。

あの時、もし、時間を巻き戻して、すべてを「完璧」に、傷一つなく、スマートに解決できていたとしたら。

今の、この、痛々しいほどに生々しい、彼女の体温も、この、割り切れない不安も、手元にはなかったはずだ。


僕は、正解を、持っていない。

この道が、彼女を、そして僕を、どこへ連れて行くのか、その答えを、僕はまだ知らない。


けれど――。


(……少なくとも、僕は、間違えてはいない気がした)


目の前を歩く、黒い髪の揺らぎ。

その、不完全で、脆くて、けれど、確かにそこに存在する、彼女の背中。

その背中を、僕は、もう、見失うことはない。


僕は、一歩、踏み出した。

彼女の、その、不器用な歩みに、重なるようにして。


――それでも、まだ、怖いくらいには、幸せだった。


ループ物が書きたかった。以上です。

何度か妄想で考えてた物語です。勢いで書いたので後で修正するかも……。


楽しんでいただければ幸いです。

よろしければ、何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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