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裏方は誰でもできるそうなので

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/02/19

 フォルスター公爵家の執務棟は、朝から紙の擦れる音と靴音で満ちている。


 五年のあいだ、この流れを途切れさせない役目を握ってきたのは、元大公令嬢フランソワーズ・ヴァイス、公爵夫人という立場に置かれた一人の女だった。


 机上に並ぶのは、収支報告、薬草の搬入計画、春の播種予定、そして王都大手商会との決裁書。

 いずれも今日中に手当てをしなければ、明日から誰かが困る類のものばかりだ。


 扉の外で、わざとらしく床を鳴らす足音が止まる。控えの者が戸惑い、しかし止めきれないまま、勢いよく扉が開いた。


「まだそんな灰色の紙束に埋もれているのか、朝から晩までそればかりで、見ている方の気が滅入るとは思わないのかね、少しは公爵夫人らしい顔を作る努力をしてみたらどうだ」


 入ってきたのは、フォルスター公爵家当主エーリヒ・フォルスター公爵。

 整えられた外套、磨き上げられた靴、誰の目にも立派に映る姿で、しかし執務机に並ぶ数字へは一瞥もくれない。


「本日中に承認が必要なものが積み上がっております、視界の良し悪しより、滞りなく回ることの方が、ここでは優先されるべきものだと考えていますが」


 羽根ペンを置かずに返す。

 顔を上げるのは、署名の位置を確認してからで十分だった。


「回る回ると言うがな、それを回しているのは結局家名だ、誰が座っていても同じように進むものを、自分だけの手柄のように抱え込む態度は感心しないな」


 書類を閉じる。

 ゆっくりと重ね、ずれを揃え、机の端へ置く。


「では本日から、別の方がなさいますか、引き継ぎに必要な量と時間を今この場で計算いたしますので、担当のお名前をお聞かせください」


 エーリヒの眉が動く。

 だがそこで、彼は後ろへ手を差し出した。


「紹介しよう、今日から屋敷に入る、ヘレナだ、気立てが良くてね。細かいことに気が付く。君よりもずっと人の顔色が分かる」


 扉の陰から進み出たのは、淡い色のドレスを纏った若い女。

 遠慮がちに見える仕草のまま、しかし机の上を値踏みする視線を隠さない。


 フランソワーズは立ち上がり、正面を向いた。


「大公令嬢フランソワーズ・ヴァイス、公爵夫人としてこの家の運営実務を預かってきました、新しく入られる方にとって、今日が良い一日であることを願っています」


「まあ怖い、歓迎と言いながら、まるで試験を受ける子供を見るような目をなさるのですね。わたくし何か失礼をいたしましたか」


「いいえ、まだ何も、これから起こることについては、どなたにも平等に訪れますから」


 空気が止まる。

 エーリヒは肩をすくめ、笑った。


「そう身構えるな、ヘレナに難しい仕事をさせるつもりはない。君がやっていた裏の整理など、手順さえ分かれば誰でもできる。だからこそ心配はいらないと言っている」


 その言葉を聞き終え、フランソワーズは小さく息を吸う。

 怒鳴らない。

 机を叩かない。


「承知しました、誰でもできると当主がお認めになるのであれば、もう特定の誰かが席に縛られる必要はありませんね、空け渡す準備をいたします」


「準備とは何だ、話が飛躍しすぎている、ヘレナを迎えただけで家を空けるなどと騒ぐのは、大人の振る舞いとは思えないぞ」


「空けません、空けるのは役目です、形だけ残しても回らないものは、最初から置かない方が良いでしょう」


 そう言って、鍵の束を机へ置いた。

 引き出しから取り出したのは、分厚く綴じられた帳面。


「五年間の工程、取引先、支払期日、緊急連絡の順番、必要であれば今から読み合わせもできます。誰でもできるのでしたら、確認は早いほど良い」


 エーリヒは黙る。

 ヘレナが、戸惑ったように彼を見る。


「公爵様、そんなに難しいことなのでしょうか。わたくし、努力いたしますから」


「もちろんだとも、ほら見ろ、やる気がある。君は少し大袈裟なんだ、フランソワーズ」


「では問題ありませんね」


 視線を外し、机の端に置いてあった封書を持ち上げる。


「こちらは離縁の届け出です、署名の欄は既に整えてあります。必要になる日が来ると判断していましたので」


 エーリヒの顔から色が消えた。


「冗談が過ぎるぞ、そんな紙切れで脅しが効くと思うな。家は遊び場ではない」


「ええ、だからこそ、遊びに変わる前に片付けておきます。この方との関係は存じ上げておりました。どうぞ、お幸せに」


 封書を置く。

 整然と、まっすぐに。


 窓の外で鐘が鳴った。

 午前の決裁期限を告げる音だった。



 鐘の余韻が、執務室の窓硝子を震わせる。普段ならば次の書類が運び込まれ、署名が重ねられ、滞りなく昼へ向かう時間帯だった。


 だが今日は、誰も動かない。

 机の上に置かれた封書が、妙に白く浮いている。


「そんな物騒なものを持ち出して場を引っかき回すとは思わなかったな。私も、少し嗜みを教え直す必要があるのかもしれんが、君は立場を理解しているのか」


「理解しています、この家が止まればどこが最初に崩れるのか、誰がどの順番で困った顔をするのか、そして最後に責任が誰へ集まるのかも、数字と同じくらい正確に」


 エーリヒのこめかみが強張る。

 笑って流せば済むと思っていた空気が、指先から抜け落ちていく。


「大げさだと言っている、家名がある限り取引は続く。多少手間取ったところで誰も本気で困りはしない、世の中はそういう仕組みだ」


「そうであれば素晴らしいことですね。手順も記録も不要で、誰も痛みを負わずに済むのですから。では本当に、私は本日で役目を終えます」


 帳面の表紙を閉じる音が、はっきりと鳴る。


 ヘレナが一歩近づき、視線を泳がせながら口を開いた。


「待ってください、そんな急に全てを終わらせるなんて、あまりに極端ですわ。仕事には、ゆっくりと慣れていきますので」


「慣れるまでのあいだ、誰が代わりに支払期日を守り、薬の不足に頭を下げ、凍えそうな畑へ肥料を回すのでしょう。優しい言葉がそれを運んでくれるのなら、今すぐにでもお願いしたいところです」


 ヘレナは唇を閉じる。

 エーリヒが苛立ちを隠さず机を指で叩いた。


「つまり何だ、失敗する姿を見たいのか?君がいなければ何も出来ないと証明して満足したいのか、随分と卑しい考え方じゃないか」


「証明は必要ありません。止まれば皆の目に入ります。きちんと動いていれば、私は忘れられます。それだけの違いです」


 静かに、鍵の束を彼の前へ押し出す。


「決裁棚、倉庫、非常用金庫、すべての所在と順番は手順書の最初にあります、読み進めれば、次に何を呼ぶべきかも分かるようになっています」


「ふん、脅しだな、回らないと騒ぎ立てて、自分の価値を吊り上げる算段だろう」


「そう受け取っていただいて構いません、必要のない裏方であれば、明日からは一人静かな生活が待っています」


 フランソワーズは椅子の背へ手を掛ける。

 座っていた時間の形が消えるように、まっすぐ整える。


「出て行く気か、本気で言っているのか」


「五年間、本気でやってきました、ですから最後も同じ形を取ります」


 封書の上に、もう一枚紙を重ねた。

 古い羊皮紙、先代当主の印がある。


 エーリヒの視線がそこへ吸い寄せられる。


「……それは何だ」


「先代フォルスター公爵との取り決めです、運営責任者が任を解かれ、機能が停止した場合、当代の裁量は一時凍結される、確認と再委任が済むまで決裁権は留保される」


「聞いていない、そんな話は継承のときに出なかった」


「署名の頁は最後にあります、興味がなければ閉じたままでも構いません。ただ効力は変わりません」


 紙をめくる手が震える。

 ヘレナが、不安げに彼の袖を引いた。


「公爵様、難しいことでしたら、いったん今日は穏便に、改めてお話し合いをなさってはいかがでしょう」


「穏便に済むなら五年も前に終わっています。最初から別の方に気があった。婚約を破棄するべきでしたわ。あなたのお父様にはよくしていただいたのに残念ですわ」


 フランソワーズは帽子と手袋を取る。

 準備はいつでも出来ていた。


「行き先は決まっているのか」


「仕事がある場所へ向かいます、手順が理解され、責任が宙に浮かないところへ」


「戻らなければどうなる」


「書かれている通りになります」


 それ以上は足さない。


 扉へ向かう靴音が、普段と変わらぬ速さで進む。


「待て、フランソワーズ、まだ話は終わっていない」


「いいえ、今日の分は終わりました、次に始めるかどうかは、そちらが決めることです」


 振り返らない。


 扉が開き、閉じる。


 残されたのは、署名の重さと、触れられない決裁棚だった。



 扉が閉まったあともしばらく、誰も息を吐かなかった。

 外の廊下で控えていた使用人たちも、中へ入る合図を失ったまま立ち尽くしている。


 エーリヒは羊皮紙を握りつぶすように持ち上げ、文字を追い、そしてもう一度最初へ戻った。

 読み違いであってほしいと願うような動きだった。


「こんな但し書きが通るわけがない、当主の権限を縛るなど冗談ではない。父上は何を考えていたのだ」


「公爵様、先代様は、あの方に任せると決めた以上、最後まで形にしたいとおっしゃっていました。わたくしも何度か、その話を耳にしたことがあります」


 古参の執事が、慎重に言葉を選びながら前へ出る。


「記録にも残っております。統治が回らぬ時、責任の所在が曖昧にならぬよう、権限の凍結は必要だと」


「黙れ、今は理屈を並べる場面ではない、目の前の問題はあの女が勝手に出て行ったことだ、呼び戻せば済む」


「呼び戻す、というのは、どのような形でなさいますの」


 ヘレナの声が、わずかに揺れる。


「お願いをなさるのでしょうか、それとも命令で連れ戻すのでしょうか、もし後者であれば、先ほどの紙がさらに問題になるのではありませんか。私の立場は、どうなるのでしょう?」


 エーリヒは答えない。

 答えを持っていないからだ。


 そこへ、控えの者が慌てて入ってくる。


「公爵閣下、王都のベッカー商会から使いが参りました、本日締結予定であった春季の融資契約について、確認が必要とのことです」


「通せ、すぐにだ。何も問題はないと伝えれば終わる」


 だが使者は、席に着く前に頭を下げた。


「失礼ながら、確認事項は一点のみでございます、運営責任者フランソワーズ・ヴァイス夫人の署名が本日より無効となったと通知を受けました。後任の方のお名前を承りたい」


 執務室の空気が、さらに重く沈む。


「後任ならここにいる、公爵である私が承認する、それで十分だろう」


「もちろん当主の署名は必要です、しかし実務保証の条項は別でございます。同額の担保、もしくは同等の履行実績を提示いただけなければ、契約の延長は難しい」


「五年だぞ、この家がどれだけ取引してきたと思っている」


「ええ、その五年間の責任者のお名前が、そこにございました」


 机の上の空白を、使者は丁寧に示す。


 エーリヒの喉が鳴る。

 怒鳴りたい。

 だが相手は敵ではない。


「時間をくれ、すぐに用意する」


「承知いたしました、本日中に確認が取れなければ、条項に基づき枠は一度閉じられます」


 深く礼をし、使者は下がった。


 扉が閉じる。


 沈黙。


 ヘレナが、小さく息を吸う。


「公爵様、これは、少しだけ想像していたものと違うようです。誰かがいなくなったくらいで、こんなにすぐ揺れるとは思っておりませんでした」


「揺れてなどいない、手続きが面倒になっただけだ。明日になれば落ち着く」


「明日までに、畑へ送る肥料の支払いが通らなければ、種が無駄になると聞きました。それでも同じことをおっしゃいますか」


 執事の声が低く落ちる。


「……方法はある、必ず」


 だがその言葉は、誰の胸にも届かなかった。


 机の端には、整えられた手順書が置かれている。

 開けば進める。

 だが開くという行為は、認めることと同じ重さを持っていた。


 エーリヒは、そこへ手を伸ばせない。



 フランソワーズが屋敷を去って三日、フォルスター公爵家の朝は、これまでと同じ鐘の音で始まった。

 廊下は磨かれ、給仕は整列し、外から見れば何も変わっていない。


 変わったのは、机の上で動くはずだったものが動かないことだった。


 決裁棚には書類が積み上がり、印章は箱の中で静かに眠っている。

 いつもなら昼前には半分以上が消えている高さが、今日はほとんど減っていない。


 エーリヒ・フォルスター公爵は椅子へ深く座り、目の前の紙を睨んでいた。


「手順など読み物に過ぎん、順番が分かれば誰にでも出来る、そう言っていたのだからな、試してみればいいだけの話だ」


 そう言って頁を開く。

 最初に並ぶのは、日付と時刻、担当者の呼び出し順、必要書類の保管場所。


 読み進めるごとに、呼ぶべき名が増えていく。


「……なぜこんなに多い」


「公爵様、その方々はすでに暇を願い出ております、昨日の時点で半数以上が退職の手続きを進めました」


 執事が、机の横で頭を下げる。


「契約が個人名義で結ばれていたため、継続の保証がない限り、残れないとのことです」


「保証なら出す、当主である私が命じると言えば足りる」


「命令は、明日の支払いを肩代わりしてはくれません」


 低い返答が落ちる。


 エーリヒは紙をめくる手を止め、舌打ちをした。


「ならば商会だ、融資があれば時間は稼げる、三日もあれば立て直してみせる」


「その商会から、本日さらに連絡が届いております」


 差し出された封を破る。

 短い。

 冷たい。


 履行保証者不在のため、新規承認停止。


「ふざけるな、昨日と同じ文面ではないか、こちらの窮状を面白がっているのか」


「いいえ、条項通りです」


 ヘレナが、机の端に立っている。

 飾りの多い衣装が、この部屋では浮いていた。


「公爵様、こうなる前に戻っていただけば良かったのではありませんか、あの方は、まだ近くにいらっしゃるのでしょう」


「戻す、だと」


「だって、困っているのでしょう、このままでは領民が不安になります、誰かが責任を持って動いていると見せなければ」


 見せる。


 その言葉に、エーリヒの顔が歪む。


「私はここにいる、当主が座っている、それ以上に何を見せろというんだ」


「実際の経営が動いているところ、です」


 返事はすぐには出ない。


 そこへ、また扉が叩かれた。


「公爵閣下、北部倉庫より急報です、薬草の搬入が止まりました。支払確認が取れない限り馬車は出せないとのことです」


「立て替えろ、後で払うと言えばいい」


「前回の不足分がまだ処理されておりません。約束は、紙に書かれていないと信用できないと」


 エーリヒは立ち上がる。

 椅子が大きな音を立てて倒れる。


「どいつもこいつも、揃いも揃って足元を見る。これが名門に向ける態度か」


「名門だからこそです、滞った記録は長く残ります」


 執事は目を伏せる。


 机の上の手順書は、開かれたまま。

 そこには赤い印が付いている。


 停止時、契約確認。


 そして次の行。


 責任者再招致。


 エーリヒは視線を逸らす。


「ほかに道はある。探せば必ず」


「三日で三十件が止まりました、明日には五十を越えます」


 淡々と数字が積まれる。


 ヘレナは、耐えきれないという顔で言う。


「お願いするしかないのではありませんか。今さら体裁を守っても、誰も助かりません」


「公の場で頭を下げろと言うのか、あの女に向かって」


「違います、領地に向かってです」


 言葉が、まっすぐ刺さる。


 エーリヒは拳を握る。

 白くなる。


 だが、それでもまだ、手順書には触れない。



 午後になるころには、報告の数が増えすぎて、読み上げる声の方が先に疲れ始めていた。

 紙は尽きないのに、人の判断が追いつかない。


 廊下には順番を待つ者の列ができ、扉の前で何度も帽子が握り直される。


「南の水路、修繕の契約更新が保留のままです。このままでは明日の作業に人を出せないと親方が」


「麦の先物、期日が迫っています・延長の保証がないと積み込みを止めると」


「診療所から、薬箱が空になります。代替の手当てを教えてほしいと」


 一つずつ、答えが必要だった。

 だが席に座る男は、すでに答えを持っていない。


「なぜこんなことになる、三日前までは黙っていても進んでいた。誰も騒がなかったではないか」


「三日前までは、呼ばれる前に動く者がいたからです」


 執事の声は静かだが、逃げ道を残さない。


「必要な書類がどこにあるのか、どの順で印を通すのか、怒鳴られる前に整えていた者が」


 エーリヒは机を叩く。


「だからと言って、全てが消えるわけではないだろう、やり方は残っている。ここに書いてある」


 手順書を持ち上げる。

 重い。


「残っています、ですがそれを使うための条件も書かれています」


 頁をめくる。

 赤い印。


 再委任には、現責任者の同意が必要。


 さらにその下。


 公開の承認。


 エーリヒは、本を閉じた。


「誰がこんな屈辱を受け入れる」


「受け入れなければ、もっと大きなものがを失います」


 扉が再び叩かれた。

 今度は、控えめではない。


「公爵閣下、王都より監査官が向かっているとの報せです。融資停止の連絡を受け、状況確認を行うと」


「早すぎるだろう、まだ何も決まっていない」


「経営が止まっていることが、すでに決まった事実です」


 ヘレナが椅子へ座り込む。


「こんなはずではありませんでした。もう少しゆっくりと、慣れていけばよいものだと」


「誰も急がせていない、勝手に崩れているだけだ」


「崩れる前に支えていた人が、いなくなったからです」


「あの女、いや、お互いの家の先代同士がした取り決めが不当だ。確かに結婚時に多大な援助を大公家から受けたが、まさかこんな取り決めまで…」


 言葉が、何度でも同じ場所へ戻る。


 エーリヒは額を押さえた。


「……場所はどこだ」


「はい」


「あの女は、今どこにいる」


 執事が答える。


「辺境伯ヨハン・グリューナー閣下の領地へ入ったとの知らせがあります。正式に客人として迎えられたようです」


 エーリヒは、乾いた笑いを漏らす。


「早いな、もう居場所を見つけたのか」


「見つけられるだけの仕事をしてきたからでしょう」


 またそれだ。


 また、そこへ戻る。


 机の上には封書。

 先代の印。


 破ることも、燃やすことも出来ない。


「……準備をしろ」


「どのようなご準備を」


「会を開く、公の場だ。商会も、役人も呼べ、条件を確認する」


 言葉が出るまでに、長い時間がかかった。


「そこに、呼ぶのですね」


「呼ぶしかない」


 拳が、ゆっくりと開く。


「領地を止めるわけにはいかん」


 初めて、手順書に手が置かれた。



 グリューナー辺境伯領の朝は早い。霧が晴れきる前に馬が動き、倉庫の扉が開き、昨日の続きを今日へ渡す準備が整えられていく。


 その中心に、新しく席を与えられた人物がいた。


 大公令嬢フランソワーズ・ヴァイス。

 かつてフォルスター公爵家で実務を預かっていた女は、今日からは客ではなく、責任を持つ者として机に向かっている。


 運び込まれた帳簿は分厚い。

 だが迷う手つきではなかった。


「こちらが今季の収支見込みです、輸送路の不安が解消できれば余剰が出ます、投資に回すなら春の終わりが適切でしょう」


 机の向かいで聞いているのは、ヨハン・グリューナー辺境伯。

 軍装を解いた姿のまま、だが姿勢は崩れない。


「必要な権限は渡している。足りないものがあれば追加する。こちらで止めることはしない」


「助かります、では遠慮なく進めます」


 やり取りは短い。

 許可を求めるための言葉が減っていく。


 横で控えていた副官が、小さく目を丸くした。


「随分と早いのですね、説明や根回しが必要になると思っていました」


「必要なのは順番です。理解を待つより、動いた結果を見せた方が話は速い」


 フランソワーズは次の紙へ手を伸ばす。


「倉庫の棚割りを変更します、輸送の向きと積み替えの手間が合っていません、このままでは人が疲れるだけです」


「許可する。責任はこちらが持つ」


「持つのは共有にしましょう。手柄も失敗も、どちらか一方に寄せると歪みます」


 ヨハンは、わずかに口元を緩めた。


「それを言ってくれる者を探していた」


 部屋の空気が軽くなる。

 命令ではなく、委ねられている。


 そこへ伝令が駆け込んできた。


「閣下、王都方面より正式な書状が届いております、封印はフォルスター家のものです」


 副官が受け取り、机へ置く。


 ヨハンは開かない。

 視線だけをフランソワーズへ向ける。


「読む権利はそちらにある」


 封を切る。


 文面は整っていた。

 だが行間は荒れている。


「……公の場での確認会を開く、管理責任の再委任について協議したい、出席を求める、だそうです」


 部屋の誰もが、次の言葉を待った。


「行くかどうかは、こちらで決めていい」


 ヨハンの声は変わらない。


「戻れとは言わない、ここに残れとも命じない、選ぶのはあなただ」


 フランソワーズは、書状を畳む。


「向こうにはまだ止まっているものが山ほどあります、放っておけば冬に響くでしょう」


「助ける義理があると考えるか」


「義理はありません、ただ、見捨てる趣味もないだけです」


 副官が息をつく。


「では、お戻りに」


「いいえ、戻りません」


 顔を上げる。


「協議には出ます、条件を確認し、責任の線を引き直す、そのために行きます」


 ヨハンは頷く。


「帰ってくる場所は用意しておく」


「戻る場所があると分かっていれば、遠くへも行けます」


 短い沈黙。


 外で馬が鳴いた。


 新しい配置表が運び込まれる。


 仕事は止まらない。


 止まらない場所が、ここにある。



 王都の会議場には、早い時間から人が集まっていた。

 商会の代表、各部署の役人、近隣領の立会人、そして事態の推移を見守る貴族たちとグリューナー王太子。


 私的な訪問ではない。

 決定を記録に残すための席だった。


 正面の長机に、エーリヒ・フォルスター公爵が座っている。

 数日前よりも顔色が悪い。だが退くことは出来ない場所だ。


 やがて扉が開く。


 大公令嬢フランソワーズ・ヴァイスが入る。

 その隣には、ヨハン・グリューナー辺境伯が並ぶ。


 ざわめきが走り、すぐに消える。


 司会役の文官が立ち上がった。


「これより、フォルスター公爵領における管理責任再委任についての確認会を開始いたします、条項に基づき、当事者双方の意思を公に記録いたします」


 視線が集まる。


 エーリヒは、机に置いた手をゆっくり握った。


「……来てくれたことに礼を言う」


「協議のために来ました。礼を受け取る立場ではありません」


 距離は、以前よりも遠い。


「現状を説明する、支払いは滞り、搬入は止まり、決裁は棚に積まれている、このままでは次の季節が危うい」


「報告は受けています」


「ならば話は早い、力を貸してほしい」


 室内の空気が揺れる。


 だがグリューナー王太子は首を振った。


「形式が不足している。条項第二、当主は統治の不履行を認め、再委任を求めると宣言する必要がある」


 エーリヒの喉が鳴る。


「……そこまで言わせるのか」


「取り決め通りだ。我が従姉妹に、失礼の無いようにな公爵」


 逃げ道が閉じる。


 エーリヒは、顔を上げた。


「フォルスター公爵家当主として宣言する、現状の統治は維持できていない、フランソワーズ・ヴァイスの補助を求める」


 筆が走る。

 記録される。


 視線がフランソワーズへ移る。


「受諾の意思をお聞かせください、フランソワーズ姉上」


 数拍の間。


 ヨハンは何も言わない。

 選ぶのは彼女だ。


「条件があります」


 ざわめき。


「権限は明文化すること、責任の所在を曖昧にしないこと。そして同じ事態が起きたとき、撤回の自由を妨げないこと」


 グリューナー王太子が頷く。


「妥当な要求と判断する」


 エーリヒは、目を閉じる。


「……受け入れる」


 それで、手続きは整う。


 整うが。


 フランソワーズは続けた。


「もう一つ、現在預かっている辺境の業務は手放しません。並立の形になります。また、今までとは違い、相当分の利益を頂きます」


 視線がヨハンへ向く。


「当然だ」


 短い返答。


「こちらでの仕事は、既に始まっている。また、我が家に嫁いでいただく方だ」


 会議場の誰もが理解する。


 戻るのではない。

 選ばれ続けるかどうかの位置へ変わった。


 エーリヒは、その意味を飲み込む。


「……分かった」


 署名が並ぶ。


 再委任は成立する。


 だが以前とは違う。


 頼まれなければ、来ない。


 任せられなければ、動かない。


 それが文字になる。


 文官が閉会を告げた。


 人が立ち上がり、音が戻る。


 ヨハンが隣で言う。


「帰ろう、向こうで皆が待っている。婚礼の準備もある」


「ええ、すぐに戻ります」


 フランソワーズは頷く。


 会議場の出口は一つ。

 進む方向も、もう決まっていた。


「こんな事なら、姉上との婚約を破棄するべきではなかったな。私にもチャンスはあったかな」


 グリューナー王太子は、笑って言った。


「何を仰いますやら、婚約も婚約破棄も幼い頃の私達だけの、たわむれでしかありませんよ殿下」


 フランソワーズも笑った。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
一人でしか回らないような仕組みにしていなくなるって壮大な仕返しですねえ
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