08. そして、夜明け
──あの日から、季節が少しだけ移ろった。
夜明けの空気は柔らかく、草原を撫でる風は春の匂いを帯びていた。
伯爵領の朝は静かだ。
羊飼いの笛の音と、小鳥の鳴き声が、ゆっくりとした時間の流れを告げていた。
私の胸の奥で、BLANCは今日も呼吸のように静かに存在している。
初めて声を聞いたときは冷たく無機質だったあの音も、今では私の日常の一部になっていた。
けれど──どこか、違和感がある。
『──出力の低下を確認』
(……ブラン?)
『機能限界まで、残余稼働時間……二百四十一時間』
返ってきた声は、いつもよりわずかに硬く、少しだけ“遠い”と感じた。
それが何を意味するのか、理解するのに長い時間は必要なかった。
(……いなく、なるの?)
『正確には、活動を停止します。
あなたの生命維持機能は、すでに自律可能な状態まで回復しています』
(そんな……)
BLANCは、私を生かした。
心臓の鼓動と共にあった声。
夜空を一緒に見上げ、幸福の形を少しずつ教えてくれた存在。
それが、もういなくなる。
『クラウディア。あなたの幸福が、あなた自身のものになったからこそ』
『私は役割を終えられます』
(そんなの……そんなの、いらない)
夜の湖畔で見上げた星空が、脳裏に浮かんだ。
パンの香り。ナタリーの笑顔。
BLANCと交わした言葉の数々──そのすべてが、私の今を形作っている。
そして今、その“始まり”が消えようとしていた。
***
別れは、静かな夜に訪れた。
満天の星が広がる湖畔。
あの夜、BLANCと出会った場所。
湖面に映る星が、今日だけは少し滲んで見えた。
『活動停止予定時刻まで、あと三時間四十五分』
「……そんなに具体的に言わなくていいのよ」
『正確な情報の提示は、あなたとの習慣です』
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
BLANCは、いつもと変わらぬ声で話すのに、私はもう平静ではいられなかった。
「ねえ、……ブラン」
『はい』
「あなたと過ごした時間、私……とても、好きだったわ」
『……特異な記録として、保存しています』
「それ、あなたなりの“ありがとう”なのかしら」
『……はい』
ほんのわずかな沈黙のあとに返ってきたその「はい」は、どんな愛の言葉よりも私の心に深く染みた。
最初はただの声だった。
けれど今は──私の心の一部になっている。
「ねえ、ブラン……ひとつ、わがままを言ってもいい?」
『はい』
「あの夜、あなたの故郷だって言ってた星……あれ、もう一度、教えて」
湖畔の空に、あの夜と同じ星が瞬いていた。
BLANCは、少しの間だけ何も言わなかった。
嘘をついたことを、彼は誰よりも知っている。
湖畔の風が止み、草木が息を潜めた。夜空の星だけが、二人の世界を静かに見つめていた。
『……はい。あの星です』
私は星を見上げた。
あの時と同じ光が、静かに夜空で瞬いている。
「綺麗……」
声が震えた。でも、それは悲しみだけじゃなかった。
BLANCの嘘を、きっと私は薄々感じていたのだと思う。
それでも、この嘘は優しい。とても、優しい嘘だった。
『クラウディア。私は、あなたの中で記録を終えます』
(……ブラン)
『最後の記録に、あなたの幸福を刻みます』
涙が頬を伝った。
幸福と痛みが、ひとつに溶けていくようだった。
(ねえ、ブラン。私、あなたが……)
『はい』
言葉が、喉で震えた。
夜空の星が少し揺らいだ気がした。
心の奥にある何かが、はっきりとした形になっていく。
「──好きよ」
それは、初恋だった。
叶うことのない想い。けれど、確かに私の心に宿った本物の感情。
BLANCはすぐには応えなかった。
けれど、胸の奥で彼の声が、初めてほんの少し揺れた気がした。
『……幸福、ですね』
夜空が、静かに、深く、満ちていった。
星々の光が湖面に降り注ぎ、風が頬を撫でる。
『ありがとう。クラウディア』
──そして、声は静かに消えた。
春の朝は、眩しいほど明るい。
目を覚ましたとき、胸の奥は不思議なほど静かだった。
もうBLANCの声はしない。
それでも、彼の存在は確かに私の中に残っている。
彼が見た星。市場の匂い。夜の会話。幸福の痛み。
(ブラン、ありがとう)
声にはならなかったけれど、心の中でそう呟いた。
──湖面に吹く風が、まるで返事のように頬を撫でた。




