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氷の令嬢の初恋と白き残響  作者: 錆猫てん


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8/9

08. そして、夜明け

 ──あの日から、季節が少しだけ移ろった。

 夜明けの空気は柔らかく、草原を撫でる風は春の匂いを帯びていた。


 伯爵領の朝は静かだ。

 羊飼いの笛の音と、小鳥の鳴き声が、ゆっくりとした時間の流れを告げていた。


 私の胸の奥で、BLANCは今日も呼吸のように静かに存在している。

 初めて声を聞いたときは冷たく無機質だったあの音も、今では私の日常の一部になっていた。

 けれど──どこか、違和感がある。


『──出力の低下を確認』


(……ブラン?)


『機能限界まで、残余稼働時間……二百四十一時間』


 返ってきた声は、いつもよりわずかに硬く、少しだけ“遠い”と感じた。

 それが何を意味するのか、理解するのに長い時間は必要なかった。


(……いなく、なるの?)


『正確には、活動を停止します。

 あなたの生命維持機能は、すでに自律可能な状態まで回復しています』


(そんな……)


 BLANCは、私を生かした。


 心臓の鼓動と共にあった声。


 夜空を一緒に見上げ、幸福の形を少しずつ教えてくれた存在。


 それが、もういなくなる。


『クラウディア。あなたの幸福が、あなた自身のものになったからこそ』


『私は役割を終えられます』


(そんなの……そんなの、いらない)


 夜の湖畔で見上げた星空が、脳裏に浮かんだ。

 パンの香り。ナタリーの笑顔。

 BLANCと交わした言葉の数々──そのすべてが、私の今を形作っている。


 そして今、その“始まり”が消えようとしていた。


***


 別れは、静かな夜に訪れた。

 満天の星が広がる湖畔。


 あの夜、BLANCと出会った場所。

 湖面に映る星が、今日だけは少し滲んで見えた。


『活動停止予定時刻まで、あと三時間四十五分』


「……そんなに具体的に言わなくていいのよ」


『正確な情報の提示は、あなたとの習慣です』


 胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 BLANCは、いつもと変わらぬ声で話すのに、私はもう平静ではいられなかった。


「ねえ、……ブラン」


『はい』


「あなたと過ごした時間、私……とても、好きだったわ」


『……特異な記録として、保存しています』


「それ、あなたなりの“ありがとう”なのかしら」


『……はい』


 ほんのわずかな沈黙のあとに返ってきたその「はい」は、どんな愛の言葉よりも私の心に深く染みた。


 最初はただの声だった。

 けれど今は──私の心の一部になっている。


「ねえ、ブラン……ひとつ、わがままを言ってもいい?」


『はい』


「あの夜、あなたの故郷だって言ってた星……あれ、もう一度、教えて」


 湖畔の空に、あの夜と同じ星が瞬いていた。

 BLANCは、少しの間だけ何も言わなかった。

 嘘をついたことを、彼は誰よりも知っている。


 湖畔の風が止み、草木が息を潜めた。夜空の星だけが、二人の世界を静かに見つめていた。


『……はい。あの星です』


 私は星を見上げた。

 あの時と同じ光が、静かに夜空で瞬いている。


「綺麗……」


 声が震えた。でも、それは悲しみだけじゃなかった。

 BLANCの嘘を、きっと私は薄々感じていたのだと思う。


 それでも、この嘘は優しい。とても、優しい嘘だった。


『クラウディア。私は、あなたの中で記録を終えます』


(……ブラン)


『最後の記録に、あなたの幸福を刻みます』


 涙が頬を伝った。


 幸福と痛みが、ひとつに溶けていくようだった。


(ねえ、ブラン。私、あなたが……)


『はい』


 言葉が、喉で震えた。

 夜空の星が少し揺らいだ気がした。

 心の奥にある何かが、はっきりとした形になっていく。




「──好きよ」




 それは、初恋だった。

 叶うことのない想い。けれど、確かに私の心に宿った本物の感情。


 BLANCはすぐには応えなかった。

 けれど、胸の奥で彼の声が、初めてほんの少し揺れた気がした。


『……幸福、ですね』


 夜空が、静かに、深く、満ちていった。

 星々の光が湖面に降り注ぎ、風が頬を撫でる。


『ありがとう。クラウディア』




 ──そして、声は静かに消えた。




 春の朝は、眩しいほど明るい。

 目を覚ましたとき、胸の奥は不思議なほど静かだった。


 もうBLANCの声はしない。

 それでも、彼の存在は確かに私の中に残っている。

 彼が見た星。市場の匂い。夜の会話。幸福の痛み。


(ブラン、ありがとう)


 声にはならなかったけれど、心の中でそう呟いた。

 ──湖面に吹く風が、まるで返事のように頬を撫でた。


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