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氷の令嬢の初恋と白き残響  作者: 錆猫てん


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07. 幸福という名の痛み

 夜風が、薄いカーテンを揺らしていた。


 療養と称して領地に身を移してから、もういくつもの夜をここで過ごしている。

 最初は“逃げてきた”としか思えなかったこの場所が、いまでは私にとって息を吸える場所になっていた。


 市場に出かけるようになり、ナタリーに「笑顔が増えた」と言われ、夜空の下でBLANCと他愛もない話をする。

 ほんの少しのことなのに──

 その「少し」が、胸の奥をやわらかく温めるようになった。


(……ブラン)

『はい』


(ねえ、今夜は少し……眠れそうにないの)

『理由を解析しますか』


(いらない。そうじゃないの──ちょっと、話をしてほしいの)


 声に出さなくても、BLANCには伝わる。

 彼は私の胸の奥にいるから。


 もう、ひとりではない。


「……幸福って、こんなに静かなものなのね」


 自分でも驚くほど穏やかな声が漏れる。

 王都での“幸福”とは、誰かの視線や称賛、完璧なふるまいの先にある“役割”だった。


 でもいま、私の中にあるのは、それとはまったく違うものだった。


『あなたの心拍数は、過去の平均より十二パーセント上昇しています』

「ふふ、もう……それ、言わなくていいってば」


 胸の奥が、少しだけきゅっと締め付けられる。

 幸福は、こんなにもやわらかくて、こんなにも痛いものなのだと──

 初めて知った。


「ブラン……」

『はい』


「あなたに、生かされてよかった」


 その言葉を自分で口にしたとき、心の奥で何かが波紋のように広がった。

 あの夜、湖畔で死を受け入れようとした私を、この存在は引き戻した。

 理由は“禁則の是正”であり、感情ではない。

 でも、それでも──今こうして、生きているのは彼のおかげだった。


『あなたの生命維持は、私の任務です』

「ええ、わかってる。でも……それでも、ありがとう」


 一瞬、BLANCは応えなかった。

 沈黙は、拒絶ではない。

 BLANCが何かを“感じている”ように思えたのは、気のせいだったのだろうか。


***


 数日後の昼下がり。

 ナタリーが花を抱えて部屋に入ってきた。


 庭で咲いたばかりの春の花──王都では侍女が活け、飾るものだった。

 でも今、ナタリーは「お嬢さまもご一緒に」と微笑んでいた。


「えっ、私も?」

「はい。だって、ただ眺めるだけじゃもったいないじゃないですか」


 小さな花瓶に花を挿す。

 不器用に茎を切ると、ナタリーはくすっと笑みをこぼした。


「お嬢さま、切りすぎです」


「……仕方ないじゃない、慣れてないんだから」


 花を一輪挿すたびに、部屋の空気が少しずつ変わっていく。

 いつの間にか笑っていて、ナタリーも笑っていて──


 その景色が、胸の奥に沁みた。

 こんな光景を、“幸福”と呼ぶのだろうか。


『あなたの顔面筋肉の活動量が、記録値を更新しました』

(……それ、わざわざ言わなくてもいいと思うのよ)


 でも、不思議と腹は立たなかった。

 むしろ、そのやり取りさえ愛しく思えた。


 ──夜


 月明かりの差し込む寝室で、私は天井を見上げた。

 湖畔の星空のこと、BLANCが教えてくれた遠い星のこと──すべてが心の奥に残っている。


「ブラン……私ね」

『はい』


「昔は、幸せになっちゃいけないって思ってたの」


 その言葉は、夜気の中に静かに溶けていった。

 小さい頃から、伯爵令嬢として、王太子妃になるための教育を受け続けてきた。


 笑うときも、話すときも、歩くときさえも──「正しく」なければならなかった。

 私の笑顔は誰かのための飾りで、自分のためのものではなかった。


『幸福を恐れる理由が、それですか』


「……そうね」


 夜風が窓をすり抜けた。

 その風の中で、私は気づいていた。


 BLANCと過ごしたこの時間が、私の中の“恐れ”を少しずつ融かしていたことを。

 幸福が“罰”ではなく、ただ“ある”ものとして感じられるようになっていたことを。


「ブラン……あなたに出会って、よかった」

『……そうですか』


「ええ。……本当に」


 その時、BLANCは、ほんの少しだけ沈黙した。

 そして、今まで聞いたどの声よりも、少しだけ柔らかく響いた。


『私も、あなたとの記録は……特異です』


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

 幸福が痛みと似ているのは、きっと心に染み込むからだ。


 でも、この痛みは嫌じゃない。

 ──ずっと抱きしめていたい痛み。


『あなたの心拍数が上昇しています』

「……もう、ほんとうに、それ言わないでってば」


 声に出して笑った。

 BLANCと共にある夜は、あの頃の私では考えられないほど、静かで、温かい。


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