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氷の令嬢の初恋と白き残響  作者: 錆猫てん


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05. 小さな幸福

 朝の空気は、夜の冷たさをほんの少しだけ残している。

 伯爵領の市場は早朝から活気に満ちていて、パン屋が焼きたての香りを漂わせ、野菜を並べる商人の声が通りに響いていた。


 王都では、一歩外へ出れば視線と肩書きがついてまわった。

 けれど、ここでは誰も私の名前を知らない。


 ただの一人の人として歩くことが、こんなに息をしやすいなんて

 ──あの頃の私には、想像すらできなかった。


『心拍数の上昇。感情的要因と推定します』

(ブラン、いちいち指摘しなくていいの)


 思わず笑みがこぼれそうになり、慌てて唇を引き結んだ。

 BLANCは淡々としていて、まるで空気のように私の中にいる。

 今ではその存在に違和感を覚えなくなっていた。

 それが、少しだけ怖い。けれど、不快ではなかった。


「お嬢さま!」


 声をかけられ、顔を上げる。

 声の主はナタリーだった。王都から一緒に来た、年の近い侍女だ。

 彼女は息を弾ませながら、私に駆け寄る。


「本当に……お一人で市場に来られていたんですね。伯爵令嬢がこんなことを……!」


「療養中よ。空気を吸うくらい、いいでしょう?」


 ナタリーは困ったように眉を寄せたが、すぐに口を閉ざした。

 昔の私なら、こんな軽口を返すこともなかっただろう。

 口調は少し柔らかくなった、と自分でもわかる。


『あなたの声のトーンが平均値より四%ほど柔らかくなっています』

(……ブラン、それは言わなくていいの)


 パン屋の前を通ると、焼き立ての香りが胸いっぱいに広がった。

 ふと足が止まる。


「ナタリー、あれ……」


「ええ、朝一番の焼き立てですね。買いますか?」


「……いいえ、自分で」


 パンを買ったことなんて、これまでなかった。

 いつもは誰かが運んできた皿の上に、綺麗に並べられていただけ。

 手を伸ばし、温かいパンを受け取る。

 掌に感じる柔らかさが、不思議なくらい新鮮だった。


「ありがとうございます、お嬢さん」


 商人の声に軽く会釈を返した。

 その仕草も、誰かに見せるための礼儀ではなく──自然に出たものだった。


『……あなたの表情筋が緩んでいます』

(ブラン、観察しすぎよ)


 けれど、心の奥では、少しだけくすぐったい感情が膨らんでいた。

 焼き立てのパンの温度が、心の内側にまで染み渡る──


 私は今、自分のために笑っているのだと気づいた。


***


 屋敷に戻る道すがら、ナタリーがぽつりと呟いた。


「……お嬢さま、最近、少し……変わられましたね」


「変わった?」


「はい。こう……怖くなくなったというか……。

 その……笑顔が見えるようになった気がします」


 その言葉に、胸の奥がかすかに震えた。

 "笑顔"──それは、王都では常に“演じるもの”だった。


 しかし今、ナタリーの言葉は、演技ではないものを指している。


『観測データに基づけば、あなたの表情筋の動きに明確な変化が──』

(ブラン、黙って)


 彼の声を遮った。

 でも、その声があることが、逆に“自分の変化”をより確かに実感させてくれる。


「ねえ、ナタリー」


「はい?」


「もし、私が──ただのクラウディアになったら、あなたはどう思う?」


 ナタリーは目を丸くした。


「……そんなこと、あるんですか?」


「あるかもしれない、と思っているの」


「……うまく言えませんけど、お嬢さまは……お嬢さまのままでいいと思います。

 でも、笑っているお嬢さまは、素敵です」


 その言葉が、胸の深いところに柔らかく落ちた。

 “お嬢さま”という枠ではなく、“クラウディア”という私自身に向けられた言葉。

 かつて王都で誰もくれなかったものだった。


 ──夜


 寝台に横たわると、月光が窓辺から差し込んできた。

 BLANCは姿を見せていない。


 いや──そもそも、彼は私の中にいる。

 声は呼吸と同じくらい自然で、もう“ひとり”ではなくなってしまった。


(ブラン……)

『はい』


(私……伯爵令嬢という枷を外し、私は私として、ここで生きていいのかしら?)

『あなたの生死以外の判断は、私の任務に含まれません』


(……ふふ、そうよね)


 その無機質な返答が、不思議と痛くなかった。

 BLANCは、王都の人々のように“正しい淑女”を求めてこない。


 ただ、私を見ている。

 観測し、記録するだけ。

 でもそれは、私の存在を否定しないということでもあった。


『あなたの心拍数、安定しています』

(……そんなの、いちいち言わなくていいのに)


 BLANCは沈黙した。

 それが、少しだけ優しい沈黙に聞こえた。


 月明かりが頬を撫でる。

 王都では感じたことのない夜の静けさだった。


 彼がいて、私がいて──


 誰にも見えない世界で、私は少しずつ変わり始めている。


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