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氷の令嬢の初恋と白き残響  作者: 錆猫てん


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04. 長い星の記憶

 風が静かに吹いていた。

 湖の水面は夜の光を受け、鏡のように澄んでいる。

 療養と称したこの地に来てから、私は夜に湖畔を歩くのが習慣になっていた。

 あの夜、BLANCと出会った場所。あの冷たい光が降ってきた場所。


(不思議ね……)


 湖の上に映る月を見つめながら、私は独り思う。


(あの日は……怖くなかったのよね)


 あの夜、私は死の淵にいたのに、怖くなかった。

 幸福というものを知らないまま終わるのなら、それもいいと思っていた。

 けれど今は、こうして夜風を感じながら息をしている。


『心拍数、落ち着いています。外気温の影響ではありません』

(ふふ、なんでも解析しないと気が済まないのね)


『解析は私の任務です』


 BLANCの声が、頭の奥に穏やかに響く。

 静かな夜に、彼の声はよく通る。

 まるで湖に投げた石が、波紋を広げるように。


「ブラン」


 思わず、口に出していた。

 月明かりの下で一人、独り言を呟く令嬢の姿。

 もし誰かが見ていたら、きっと変に思うだろう。

 それでも、今夜はいいと思えた。


「あなたの世界の話……聞かせてくれる?」

『……私の、世界』


 一拍、間が空いた。

 BLANCはどんな問いにも即座に答える。それがいつもの彼だ。

 だからこそ、このわずかな“沈黙”が、私にはとても印象的だった。


『私たちの世界には……空を行く馬車があります』

「空を?」


『はい。馬も道も不要。光を束ね、空を走る移動体です』

「……まあ」


 空飛ぶ馬車。まるで子供の絵本のような話だった。

 でも、BLANCの声はいつもと同じ冷たさで、嘘をついているようには思えない。

 この世界の外を、本当に見てきた声。


『地の下には、巨大な蛇のような乗り物が走っています。

 何千、何万の人が、それを使い世界を渡る』


「それは……怖くないの?」


『怖い?』

「だって、そんなに大きなものが地の下を走るなんて……」


『怖くはありません。それが“あたりまえ”でした』


 夜風が一度、頬を撫でた。

 BLANCは抑揚のない声で淡々と語るけれど、

 そこには確かに「かつての記憶」が宿っている。


 私には見たこともない世界。

 けれどBLANCにとっては“あたりまえ”だった世界。


「ねえ、ブラン……あなたは、どうしてこんなところに来たの?」

『──移住先を探していました』


「移住先?」

『私たちの母星は、争いの果てに滅びました。

 長い時間をかけて、私はこの星へと来ました』


 その声には、いつもの冷たさの奥に、

 わずかに触れられない何かが混ざっていた。


 感情──ではない。

 けれど、淡い余韻のようなものが、確かにあった。


「長い時間って……私がおばあちゃんになっちゃうぐらい?」

『もっとです』


「え?」

『長い時間……分かりやすい言葉で言えば、何百年という時です』


「……それって、私がおばあちゃんになっちゃうどころじゃないわね」

『そうです。あなたという存在が生まれて消える時間が、

 幾度も積み重なるほどの長さです』


 その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 彼は、どれほど長い時間を一人で……。


 "一人"という概念が、彼にあるかは分からない。

 でも、私は勝手にそう思ってしまった。


「ブランは……寂しくなかったの?」

『寂しさ──その感情の定義を、私は正確には理解していません』


「……そう」


 でも、それは嘘ではなかった。

 理解できなくても、彼はちゃんと私の問いを受け止めた。


『しかし、あなたと会話をすると、演算負荷が軽減します。理由は不明です』

「……それ、つまり」


『あなたとの対話は、私にとって特異な事象です』


 湖面を渡る風が、少し冷たくなった。

 空を見上げると、星が瞬いている。


 BLANCの世界から見える星空とは、きっと違うだろう。

 けれど、彼はこの空を見上げている私と“同じ場所”にいる。


(ブラン……あなたは、ここにいるのね)

『はい。あなたの内側に、います』


 胸の奥が静かに脈を打った。

 私は彼と、この静かな世界を共有している。

 かつて王都で閉ざされた空間にいた私には、想像もできなかった時間。


 ──夜風が、優しく吹き抜ける。


「ブラン、ありがとう。……教えてくれて」

『情報共有は、任務の一部です』


「ええ。でも、今のは“任務”じゃなくて……なんだか、いい夜だったわ」


 BLANCは何も言わなかった。

 でも、沈黙は拒絶ではない。

 湖面に落ちる星の光が、ふたりの世界を静かに照らしていた。


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