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氷の令嬢の初恋と白き残響  作者: 錆猫てん


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3/9

03. 令嬢ではない、ただの“私”

 あの夜から、三日が過ぎた。

 湖畔の光──BLANCと名乗った存在に包まれたあと、

 私は一度死に、そして生き返った。

 胸の奥には、今も彼がいる。


 BLANCは外にはいない。

 彼の声は頭の奥で響き、意識の隙間に滑り込む。


 彼が見せる淡い光の球は、混乱を防ぐための幻、つまり、私にしか見えない。

 他人には、何もない空間しか映っていない。


『歩行パターンに不規則な揺らぎ。筋力調整を提案します』

(……うるさいわね)


 廊下を歩いているとき、BLANCの声が響く。

 外に声を出さないよう注意しなければいけない。


 うっかり返事をすれば、侍女に「令嬢は一人で話している」と噂されるだろう。

 伯爵家の娘として、それは避けたい。

 そして、そう思う自分自身が、まだ“あの頃”から抜け出せていない証拠だった。


『心拍数の上昇を確認。理由の解析を実行しますか』

(いらないわ)


 声を遮ると、胸の奥の熱が少しだけ静かになった。

 BLANCは私の生命活動を補助している。

 彼がいなければ、私は今この場所に立っていない。

 ──まるで、もうひとつの心臓が体の中にあるみたいだった。


***


「お嬢さま、一人で市場になど……」

「ふふ、今日は、掘り出し市があるらしいわ」


 侍女を軽くあしらい、私は屋敷を抜けて市場へ向かう。

 王都では、伯爵令嬢が買い物かごを手に歩くなどありえなかった。

 けれど、ここでは誰も私を「氷の令嬢」と呼ばない。

 ただ、町にいる一人の娘として、道を歩くだけ。


『心拍数の上昇。温度変化ではない──情動反応と推定』

(ブラン、いちいち指摘しなくていいの)


 香草の束を手に取ると、葉の香りが鼻孔を満たした。

 王都の香草とは違う、生きた匂い。


 何でもないことなのに、胸の奥がかすかに温かくなった。

 誰も私を見上げず、誰も私の肩書きを知らない世界。

 こんな場所で、私は初めて「私」という存在の輪郭を意識した気がした。


 侍女が少し離れた場所で心配そうに見ている。

 でも彼女には、私の隣をふわりと漂う“光”が見えない。


 もし私がBLANCと口を開いて話せば、きっと奇妙に映るだろう。

 だから、私は意識の内でだけ彼と話す。

 この世界で、彼と私だけが共有する静かな空気の中で。


『外部との対話時、返答に一・四秒の遅延。注意を促します』

(解析しなくていいってば)


『了解。発話頻度を二〇%下げます』

(ちょっと……あなた、素直すぎるわ)


 いつもの淡々とした声。

 冷たいはずなのに、その冷たさが少しずつ心地よくなっている自分に気づいてしまう。


 ──夜


 寝台に横たわると、月光が窓辺から差し込んできた。

 BLANCは姿を見せていない。


 いや──そもそも、彼は私の中にいる。

 声は呼吸と同じくらい自然で、もう“ひとり”ではなくなってしまった。


(ブラン……)

『はい』


(……私は──伯爵令嬢じゃなく、ただの“クラウディア”として生きてもいいのかしら)

『あなたの生死以外の判断は、私の任務に含まれません』


(……ふふ、そうよね)


 その無機質な返答が、不思議と痛くなかった。

 BLANCは、王都の人々のように“正しい淑女”を求めてこない。

 ただ、私を見ている。

 観測し、記録するだけ。

 でもそれは、私の存在を否定しないということでもあった。


『あなたの心拍数、安定しています』

(……そんなの、いちいち言わなくていいのに)


 BLANCは沈黙した。

 それが、少しだけ優しい沈黙に聞こえた。


 月明かりが頬を撫でる。

 王都では感じたことのない夜の静けさだった。

 彼がいて、私がいて──誰にも見えない世界で、私は少しずつ変わり始めている。


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