03. 令嬢ではない、ただの“私”
あの夜から、三日が過ぎた。
湖畔の光──BLANCと名乗った存在に包まれたあと、
私は一度死に、そして生き返った。
胸の奥には、今も彼がいる。
BLANCは外にはいない。
彼の声は頭の奥で響き、意識の隙間に滑り込む。
彼が見せる淡い光の球は、混乱を防ぐための幻、つまり、私にしか見えない。
他人には、何もない空間しか映っていない。
『歩行パターンに不規則な揺らぎ。筋力調整を提案します』
(……うるさいわね)
廊下を歩いているとき、BLANCの声が響く。
外に声を出さないよう注意しなければいけない。
うっかり返事をすれば、侍女に「令嬢は一人で話している」と噂されるだろう。
伯爵家の娘として、それは避けたい。
そして、そう思う自分自身が、まだ“あの頃”から抜け出せていない証拠だった。
『心拍数の上昇を確認。理由の解析を実行しますか』
(いらないわ)
声を遮ると、胸の奥の熱が少しだけ静かになった。
BLANCは私の生命活動を補助している。
彼がいなければ、私は今この場所に立っていない。
──まるで、もうひとつの心臓が体の中にあるみたいだった。
***
「お嬢さま、一人で市場になど……」
「ふふ、今日は、掘り出し市があるらしいわ」
侍女を軽くあしらい、私は屋敷を抜けて市場へ向かう。
王都では、伯爵令嬢が買い物かごを手に歩くなどありえなかった。
けれど、ここでは誰も私を「氷の令嬢」と呼ばない。
ただ、町にいる一人の娘として、道を歩くだけ。
『心拍数の上昇。温度変化ではない──情動反応と推定』
(ブラン、いちいち指摘しなくていいの)
香草の束を手に取ると、葉の香りが鼻孔を満たした。
王都の香草とは違う、生きた匂い。
何でもないことなのに、胸の奥がかすかに温かくなった。
誰も私を見上げず、誰も私の肩書きを知らない世界。
こんな場所で、私は初めて「私」という存在の輪郭を意識した気がした。
侍女が少し離れた場所で心配そうに見ている。
でも彼女には、私の隣をふわりと漂う“光”が見えない。
もし私がBLANCと口を開いて話せば、きっと奇妙に映るだろう。
だから、私は意識の内でだけ彼と話す。
この世界で、彼と私だけが共有する静かな空気の中で。
『外部との対話時、返答に一・四秒の遅延。注意を促します』
(解析しなくていいってば)
『了解。発話頻度を二〇%下げます』
(ちょっと……あなた、素直すぎるわ)
いつもの淡々とした声。
冷たいはずなのに、その冷たさが少しずつ心地よくなっている自分に気づいてしまう。
──夜
寝台に横たわると、月光が窓辺から差し込んできた。
BLANCは姿を見せていない。
いや──そもそも、彼は私の中にいる。
声は呼吸と同じくらい自然で、もう“ひとり”ではなくなってしまった。
(ブラン……)
『はい』
(……私は──伯爵令嬢じゃなく、ただの“クラウディア”として生きてもいいのかしら)
『あなたの生死以外の判断は、私の任務に含まれません』
(……ふふ、そうよね)
その無機質な返答が、不思議と痛くなかった。
BLANCは、王都の人々のように“正しい淑女”を求めてこない。
ただ、私を見ている。
観測し、記録するだけ。
でもそれは、私の存在を否定しないということでもあった。
『あなたの心拍数、安定しています』
(……そんなの、いちいち言わなくていいのに)
BLANCは沈黙した。
それが、少しだけ優しい沈黙に聞こえた。
月明かりが頬を撫でる。
王都では感じたことのない夜の静けさだった。
彼がいて、私がいて──誰にも見えない世界で、私は少しずつ変わり始めている。




