02. 墜ちた星、無機質な声
白い光の向こうで、何かが壊れる音がした。
ぱきん、と。凍った氷を踏み抜いたときのような音。
肺の奥が急に痛くなり、息が詰まる。
声を出そうとしたけれど、喉の奥は音を紡ぐことを忘れていた。
次に感覚が戻ったとき、視界は光ではなく闇に包まれていた。
湿った地面に背中を預けている。
夜の森の匂いがして、少しだけ焦げたような金属の匂いが混ざっていた。
身体は、まるで鉛のように重い。
息をするたび、胸が深い水の底から浮かび上がるみたいに軋んだ。
──私は、生きている?
胸の奥で、自分でも信じられないほど冷静な声が響く。
視線を上げると、倒木の向こうで淡い光が脈打っていた。
夜の森には似つかわしくない、整然とした、冷たい光だ。
光源の中心に、何かがいた。
機械と呼ぶには、形があまりに曖昧だった。
球状のようでいて、輪郭が揺らぎ、表面には光が格子のように走っている。湖に映った月を手で掬おうとしたときのように、直視できないほど、輪郭が揺らぐ。
声がした。
『──生命活動の維持を確認』
無機質。抑揚がなく、何者でもない音。
でも、その声は明確にこちらに向けられていた。
『損壊率──深刻。
外傷修復、進行率八十二パーセント。
残余素材、自律ユニットより転用』
意味を理解できない単語がいくつも混ざっていた。
でも、今の私には、その冷たい声そのものが、妙に心地よかった。
悲しみも、怒りも、同情も、何も含まれていない。
ただ「生きる」という事実だけを確認している声。
「……あなた、誰?」
喉から擦れた声が漏れた。
口を動かすと、舌の先が乾いていた。血の味がする。
光の球がわずかに振動した。
まるで、私の問いを解析しているように、沈黙が走った。
『名称未定。識別子──BLANC』
「ブラン……?」
『対話可能な音声プロトコルを選択。──現地言語との同期を完了』
その言葉の意味もわからないのに、不思議とその声は耳に馴染んだ。
夜の湖畔の冷たさと似ていた。鋭く、けれど、私を傷つけない温度。
身体を起こそうとした瞬間、胸の奥でひどい鈍痛が走った。
「あっ……」
思わず声が漏れ、視界が歪む。
光の球──BLANCはその瞬間、わずかに形を変えた。
波紋のような光が広がる。
『移植処理により、あなたの生命活動は安定化しています。
しかし、過剰な動作は、破綻の危険があります』
「移植……?」
『あなたの身体を修復するため、私の有機構造を素材として転用しました』
……つまり、私は──この存在に救われた?
思考が追いつかない。
でも、確かなことがひとつだけあった。
もしあの夜、湖畔で光の中に呑まれたあと、この存在がいなければ、私は死んでいた。
「なぜ、私を……?」
問いかけると、BLANCは短く沈黙した。
『現地生体の危害は、第一級禁則事項に該当』
「……禁則?」
『私の任務における最優先保護対象です。
あなたの死亡は、私の行動規範における重大な逸脱となります。
よって──蘇生処置を実行しました』
淡々とした声。
感情なんて一欠片も混じっていない。
しかし、その無感情な事実が、胸の奥に奇妙な痛みを残した。
禁則とか、規範とか。そういう言葉ではなく、“助けた”という結果が、いま目の前にある。
「……助けてくれたのね、私を」
『──はい。禁則事項の是正です』
そう言われたのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
“義務”であっても、あの夜、私は確かに死ぬはずだったのだから。
「あなたは……何者なの?」
『調査ユニット。星間航行型観測構造体。識別子、BLANC』
私は苦笑した。
言葉の意味はほとんど理解できない。
でも、それでもこの“BLANC”という存在が、嘘ではないことだけはわかった。
夜空から降ってきた星。私を生かした不思議な存在。
きっと、今の私はこの存在によってかろうじて繋ぎとめられているのだ。
森の外から風が吹いた。
火ではなく光で焦がされた草が、夜気の中で微かに煙を立てている。
BLANCはその中に静かに浮かび、私を見ている……見ている、と言っていいのかわからないけれど、確かに視線を向けられているような感覚があった。
『あなたの生命活動は、私のユニットによって一部補助されています。
しばらくは単独行動を避けることを推奨します』
「……つまり、私はあなたなしでは生きられないということ?」
『肯定』
BLANCの声に温度はない。
けれど、私の胸の奥で何かが波立った。
私は、氷の令嬢と揶揄された存在。規範のために感情を殺して生きてきた。
その私が、今はただ禁則事項の是正という理由だけで保たれている。
「……皮肉ね」
その呟きに、BLANCは反応しなかった。
けれど、なぜだろう。
無反応のその沈黙が、王都で受けたどんな言葉よりも優しく感じられた。
湖面から反射した夜明けの光が、森の隙間に差し込み始める。
新しい朝の匂いがする──けれど、その朝はもう、昨日と同じではなかった。




