死に戻った光輝く聖女様は、隠密加護で護衛騎士と逃げ出したい
ルルシア・フォルデは、真っ白な空間に浮かぶスクリーンを見つめていた。
そこには、雨の中で無惨に殺された自分の亡骸と、それを抱きしめて泣き叫ぶティオ・ハーヴェルの姿が映っている。
騎士装束を血と泥に汚し、崩れるように嗚咽を漏らす彼の背中が、ひどく痛々しかった。
死してなお、自分の体は淡い光を纏っている。
雨の中に、一人の女性が現れた。
銀灰色の巻き髪を揺らし、紫紺の瞳を細める彼女は、濡れることなく完璧だった。
クラリーチェ・アルヴェリオ公爵令嬢。
従者たちが差し出す傘に守られ、衣装には雨粒一つ付いていない。
彼女が目配せをすると、魔獣は音もなく森へと消えていった。
その光景に、ルルシアは息を呑む。
すべてを悟った。
『ティオ。悲しまないで。ルルシア様は民を守って逝かれたのです……泣かないで』
クラリーチェの声は甘く澄んでいた。
だがティオは血まみれのルルシアを抱きしめたまま、彼女を見ようともしない。
クラリーチェは小さく肩をすくめ、微笑んだ。
『……困った子』
クラリーチェの体が光を放った。
苦痛に顔を歪めても、その苦悶すら気高く美しい。
光が収まると、白銀の髪は白金に変わり、瞳は金色に、肌も淡く輝いていた。
『まあ……! わたくしが次の聖女なのね!』
雨音に溶ける歓喜の声。
従者や侍女たちは濡れるのも忘れ、拍手と歓声を送った。
クラリーチェは恍惚と微笑み、目を閉じる。
ティオに抱かれたルルシアの髪と瞳から光が失われ、幼い頃の薄茶色へ戻っていく。
ただの村娘に戻る、その理不尽さが──ティオの目の前で突きつけられていた。
『ティオ。これからはわたくしの護衛騎士になりなさい。
あなたの力、余すことなく使ってあげますわ』
その声に、ティオがゆっくりと振り返る。
瞳には、底知れぬ暗さだけが沈んでいた。
映像が途切れた。次の瞬間、別の光景が映る。
炎に焼かれる屋敷。
豪華なカーペットに、背を斬られたクラリーチェが倒れ込んでいた。
血を吐き、なお叫ぼうとしている。
周囲には、公爵家の人々や使用人、護衛が無惨に折り重なっていた。
『ティオ! あなた、一体何をしたかわかっているの!?』
剣を手に、血まみれの騎士装束の男が背を向けて立っている。
「ティオ……?」
思わずルルシアの声が漏れた。
『……わかっています、クラリーチェ様。
禁忌で魔獣を使い、ルルを殺し、聖女の力を奪ったことも──すべて』
ティオはゆっくり振り返り、血に濡れた髪を揺らして無表情に一礼した。
その空色の瞳は、虚ろに曇っている。
『……お前だけは、絶対に許さない』
『嫌! だれか、助け──!!』
言い訳の隙もなく、剣が振り下ろされる。
その動きは美しく、絶望的だった。
『ああ、ルル……僕も今から行くから。どうか待っていて──』
崩れ落ちる瓦礫がティオを覆い、映像は切断された。
ルルシアは茫然と、消えたスクリーンを見つめるしかなかった。
「哀れだな」
後ろからの声に、はっと振り返る。
そこには、白金色の髪と金色の瞳を持ち、肌が淡く光る神々しい人物が立っていた。
その髪は床まで届き、男とも女ともつかない中性的な体躯を隠すように流れている。
纏うのは一枚布を斜め掛けしただけの、古代神像を思わせる簡素で荘厳な装いだった。
その声は複数の男女の声が重なったように響く。
ルルシアは息を呑んだ。この声は、聖女として祈るたび頭の奥に届いていた声だ。
「……神様」
「そうだ」
神は淡々と告げた。
「残念だ。私が与えた繁栄の力を、このように踏みにじるとは。しかも民を導くべき高位貴族が、だ」
ルルシアは俯いた。
自分は聖女になりたかったわけじゃない。ただの村娘だった。
前代の聖女が亡くなり、仕組みの中で偶然選ばれただけ。
あの日、幼馴染のティオの前で突然変異し、そのまま大聖堂の使者に連れ去られた。
家族もティオも泣き叫んでいたが、家族とは二度と会えなかった。
その後の大聖堂での生活は拷問だった。
自由もなく、抑圧と罰の日々。
反発すれば「信仰が足りない」と咎められ、食事を抜かれ、夜通し祈りを強制された。
ただでさえ苦しいのに、平民出身というだけで見下され、皮肉や嫌味を浴びせられる毎日だった。
祈れば怪我人や病人が癒え、遠くの地で奇跡が起こったと噂されることもあった。
けれど誇りややりがいより、ただ苦痛ばかりが残った。
そんな人生にティオを巻き込んだことが、唯一の後悔だった。
二年前、護衛騎士として現れたときは本当に驚いた。
平民がその座に就くには、どれほどの訓練と勉学を積んだのか。
泣き虫で「ルル、まって!」と雛鳥のように後ろをついてきた三歳下の彼が、今は幼い面影を残したまま、「今度は僕がルルを守る」と微笑んでくれた。
聖女の部屋で、ふたり昔のように笑い合う時間が好きだった。
柔らかな金髪に触れると、恥ずかしそうに顔を背ける仕草が愛おしかった。
その思い出に、頬を一筋の涙が伝った。
「お前は、聖女という役目を誇りに思うか」
神の問いに、ルルシアは首を横に振った。
「思いません。なりたくなかった。
大聖堂の暮らしも窮屈で……死にたくないけど、あの女が引き取るっていうなら、それでいいって思ったくらいです」
「そうか。元はこんなにも窮屈な役目ではなかったのだが……残念だ」
「……ティオや家族と穏やかに暮らせたら、それでよかったのに」
ふと、声が震えた。
「……人生、やり直したい……」
その呟きに、神は微笑んだ。
「ルルシアと言ったな。やり直しをさせてやろう。
聖女本来の力とは別に、必要そうな力も授ける。
存分に使い、ティオと生き延び、聖女の力をあの女に押し付けてみせよ」
驚く間もなく光に包まれる。
「え、ちょ、ちょっと──!」
「せいぜい、励むといい」
神の声が遠のき、意識が途切れた。
「──ん……」
目を開けると、そこは大聖堂の祈りの間だった。
組まれた手はまだ幼く、着ている聖女服も、少女用の簡素なものだ。
驚いて身じろぎすると、腰まで伸びた髪がはらりと視界に落ちる。
白金の髪は以前より強く光を放ち、肌からも微かな光が滲んでいた。瞳もきっと同じだろう。
声にならない悲鳴が漏れた瞬間、室内に立つ神官が冷たい目を向ける。
「聖女様、どうなされましたかな?」
心配を装う声の奥に、軽蔑と嘲笑が滲んでいた。
「な、何でもありません。申し訳ありません」
取り繕い、跪き直す。
(……神様、『必要そうな力を授ける』って言ってた。これも、その影響……?)
心臓が早鐘を打つ中、必死に呼吸を整えるしかなかった。
あれから気づいたことがある。
自分は神の力で、十五歳の頃へと戻されたらしい。
聖女に変異したのが十四歳、クラリーチェに殺されたのが二十四歳。
九年分の時間が巻き戻った計算だ。
(……もうティオの前で変異してるから、巻き込まないことも、避けることもできないのね)
どうせなら、聖女にならず村娘のままで生きたかった。
けれど、人生はそんなに甘くない。
胸の奥で、ルルシアは小さく舌打ちした。
神から授かった新しい力は、どれも隠密行動に特化していた。
《気配遮断》──存在感を完全に消し、視覚も音も気配も察知されなくなる。
《結界透過》──どんな結界も壁のようにすり抜けられる。
《幻影創出》──短時間だけど、自分そっくりの幻影を実体のように作れる。
試しに幻影を祈りの間に座らせて、自分は抜け出してみた。
思わず笑みが漏れる。
(……これなら、聖女のお勤めなんて、いくらでもサボれちゃうじゃない)
一度目の人生でも、何度も逃げ出したいと思った。
でも、全身が光り輝く聖女なんて、どこにいても目立ちすぎる。
『……なんでこんなクソ目立つ仕様なのよ、聖女の加護って』
祈りの間で思わず呟いた愚痴に、神の声があっさり返ってきた。
『私が眩しい存在なのだから、信徒もそうであろう』
(……は?)
言葉を失った。ほんとうに、勘弁してほしい。
もう、大聖堂の役目なんてどうでもいい。ただ、ティオと二人で生き延びること──それだけだった。
それからのルルシアは、大聖堂での日々を調査に費やした。
日中は幻影を祈りの間に残し、自身は気配遮断と結界透過で神殿内外を自在に歩き回る。
神官に話しかけられそうになれば、幻影に頷かせるだけで十分だった。平民出身の聖女など、誰も興味がないのだ。
祈りは部屋でひっそり済ませた。一度目の人生では日が暮れるまで祈り続けたのに、今は十分もかからない。加護が強化されているせいだろう。
(……私、今まで何をしてたんだろう)
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
まず調べたのは、逃亡先だった。
この国にいる限り、大聖堂や貴族に怯え続けるしかない。
そんな未来は御免だった。
隣国──ベルディア公国は、聖女信仰を持たない国だという。
宗教干渉を嫌い、平民や移民に寛容で、身分証明がなくとも素性を問われない村もあるらしい。
けれど問題は、防壁だった。
聖女は王都から出られない。今の力でも外縁の防壁は越えられない。
神が言ったように、聖女の力をクラリーチェへ渡さなければ、この国を出ることはできない。
次に調べたのは、あの魔獣だった。
一度目の人生で、自分を殺した禍々しい存在。
魔獣は、クラリーチェがわずかに目配せするだけで森の奥へと消えていった。
ティオは断罪の時、こう言っていた。
『禁忌を用いてあの魔獣を使役し、聖女の力を奪った』
つまり、クラリーチェは魔獣を召喚できる。
そして、魔獣は聖女を殺すことで力を奪う。
(なら……あの女に魔獣を召喚させ、殺されることなく力を渡せれば……)
自分やティオが禁忌を犯すつもりはない。使役するのはあくまでクラリーチェ。
彼女に使わせ、自分は死なずに済む方法を探すしかなかった。
ルルシアは夜ごと公爵邸に忍び込み、禁忌儀式の文書を探した。
大聖堂で偶然出会ったときには、軽く挑発もしてみた。
だが成果はなく、ただの村娘にできる調査など限られていた。
禁忌どころか、魔術の基礎理論を読むだけで日が暮れる日々ばかりだった。
(……どうすれば……)
それでも諦めきれなかった。
夜ごと街道や港、古い下水路を歩き回り、抜け道を探した。
気づけば、王都と周辺地図はすべて脳裏に刻まれていた。
七年が過ぎ、二十二歳。
もうすぐ、ティオが護衛騎士として現れる。
決定打は掴めないまま。
それでも──諦めるという選択肢だけは、どこにもなかった。
とうとう、その日が訪れた。
応接室に通されたルルシアは、膝上で手を組み、静かに息を整える。
黄金と白を基調とした室内は、差し込む朝日に照らされているのに、どこか冷たく感じられた。
「聖女様、護衛騎士をお連れしました。──入りたまえ」
神官たちの声と共に、一人の青年が現れる。
「こちらがティオ・ハーヴェル。……同郷でしたね」
その名を聞いた瞬間、ルルシアの胸が跳ねた。
目の前に立つのは、幼い面影を残しながらも、見違えるほど凛々しくなった彼。
柔らかな金髪が光を受け、碧い瞳がわずかに揺れている。
騎士装束を身に纏う姿は少しぎこちないのに、不思議と堂々として見えた。
その成長ぶりに、誇らしさと切なさがないまぜになり、胸が痛む。
一度目の人生では、あまりの嬉しさに抱きついてしまったことを思い出す。
真っ赤になって必死に抗議するティオが可愛くて、あの時は思わず笑ってしまった。
(今回はちゃんと我慢しないと)
そう思った矢先だった。
「──えっ?」
ティオが迷いなく駆け寄り、ルルシアを強く抱きしめた。
聖女服の上から伝わる彼の腕は、一度目よりも少しだけ逞しく、そして震えていた。
「ルル……ずっと、会いたかった……」
耳元で落とされた声に、思わず目を見開く。
こんなの知らない。記憶にはない展開だった。
神官たちが慌てて叫ぶ声が遠くに聞こえる。
見上げたティオの瞳には、涙が滲んでいた。
(……ティオ……こんなに……)
胸が締め付けられるように痛んだ。
神官たちに引き剥がされると、「再会は個室で」とだけ告げられ、二人は無言で回廊を歩いた。
黄金と白の壁が続く廊下。ティオの足音が、小刻みに追いかけてくる。
聖女の個室に入った途端、ティオは待ちきれないようにこちらを見つめた。
その瞳に“聖女”ではなく、“ルルシア”としての自分が映っている気がして、喉が詰まる。
ルルシアは震える指先で、彼の柔らかな髪を撫でた。
「……来てくれてありがとう。本当に……嬉しい」
ティオは俯き、掠れた声で呟く。
「……驚かないんだね」
その一言に、胸がざわめいた。
まさか──彼も。
ティオは、暗い瞳を伏せて口を開いた。
「……頻繁に夢を見るんだ。ルルが……血まみれで……動かなくなって……」
声は震え、今にも泣き出しそうだった。
「殺した女の顔も……何度も見た。屋敷が燃えて……僕が……剣を……」
七年前から、ずっと同じ夢を見続けていたらしい。
ルルシアは小さく息を整えた。
「今から言うこと、驚かないでね」
そう前置きし、ティオに伝える。
自分が一度殺されたこと。
ティオがその女を殺した光景を死後の世界から見ていたこと。
そして神から力を授かり、この運命を変えるためにクラリーチェに聖女の力を押し付け、二人で逃げる計画を立てていること。
最後に──自分だけでは、決定打が足りないことも。
ティオは最初、信じられないというように目を伏せた。
けれど、ルルシアの言葉を受け止めるたび、その瞳に覚悟が灯っていく。
「ルルを信じる。一緒にここから抜け出そう」
その一言に、胸がじんと熱くなる。
思わず彼を抱き寄せた。
「ありがとう……大好きよ、ティオ」
「っ、ルル! 子どもの頃じゃないんだから……!」
彼の頬は真っ赤だった。
昔と違い、今の自分は柔らかくて、あたたかくて、女の匂いがする──
抵抗するティオが可愛くて、もっと強く抱きしめたくなった。
それは……彼には内緒のまま。
それからティオは、ルルシアの幻影と共に祈りの間へ同席した。
神官たちは異を唱えるどころか、「さすがは聖女様の護衛騎士」と満足げに頷いていた。
ルルシアは日々、禁忌儀式や古文書の記述をメモし、自室でティオに確認してもらった。
ティオは元々護衛騎士になるために勉学を重ねていたが、悪夢を見始めてからはクラリーチェの禁忌についても独自に調べていたという。
王都の国立図書院に通い詰め、古い儀式書や禁忌魔術の編纂資料を丹念に読み込む。
休憩時間には衛兵や研究者に質問を繰り返し、古代語や符号術の基礎も独学で習得していった。
ルルシアには理解できない文献も、ティオを通せば核心が繋がっていった。
そして少しずつ、禁忌儀式の全容が見え始めてきた。
ある日、クラリーチェが祈りの間へと現れた。
目当てはティオだった。
「まあ……護衛騎士殿、お顔色が優れないようですけれど? 無理をさせられているんじゃなくて?」
紫紺の瞳が、ちらりとルルシアの幻影へと向けられる。
「聖女様も、もう少し護衛の方を労わって差し上げたらいかがかしら?」
ティオは一瞬だけ鋭い眼差しを向けたが、すぐに微笑んだ。
「ご心配痛み入ります。クラリーチェ様のようなお方に気遣っていただけるなんて。……私は幸運です」
「まあ……ふふっ、お上手ね」
頬に手を当て、楽しげに微笑むクラリーチェ。
幻影のルルシアも、一応の礼として頭を下げた。
「お気遣い、感謝いたします」
そんな日々が続く中、ティオは淡々と告げた。
「お茶に誘われた時、少し褒めてやると機嫌が良くなる。……禁忌儀式の話も断片的に喋るんだ」
彼は瞳を伏せ、口元だけで冷笑した。
「この前なんか、こんなことを言ってた」
『禁忌だなんて、馬鹿げているわ。
素晴らしい術式を、なぜ使わないのかしら。
民を救える力を眠らせるなんて、わたくしには理解できない。
すべて神と民のためなのよ。……ルルシア様ったら、見ていて痛々しいわ。
教養も神への理解も乏しい。国を背負う覚悟もない者が聖女を名乗るなんて……あなたもそう思わなくて?』
彼女は艶然と笑みを浮かべた。
『わたくしなら、もっと上手くやれる。国のためにも、神殿のためにも、そして……ルルシア様のためにも。
可哀想じゃない? 役目もわからず祈りに縛られているだけなんて。
でも安心して。禁忌を使っても、命が奪われるわけじゃないの。
ただ……聖女としての役目が、わたくしに移るだけ』
そして、陶酔するように目を細めた。
『ええ……そうすれば神も喜ぶ。
神殿も国も、ルルシア様も……誰も悲しまないわ。わたくしが聖女になれば、すべてが正しい形に収まるのだから』
ティオは静かに息を吐いた。
「……民のため、神のため? 結局は自分のためじゃないか」
拳を握りしめる。
「ルルが死なない? ……そんな嘘で利用するなんて」
その声は低く、氷の刃で削ぐような冷たさと、底知れない憎悪を滲ませていた。
その後も、二人は役目を果たし続けた。
ティオは護衛騎士として、幻影のルルシアに付き従い、大聖堂内を歩く。
ルルシアは隠密能力を駆使し、禁忌儀式や逃亡経路の調査に明け暮れた。
一度目の人生より、共にいられる時間は減った。
けれど、夜だけは違った。
二人きりになれる夜には、その分を埋めるように、ただ寄り添った。
聖女は清らかでなければならないと、深い触れ合いは許されない。
それでも──
額を寄せ、手を繋ぎ、抱きしめ合うだけで十分だった。
それだけで、二人は生きていけると思えた。
そんなある夜、ティオが疲れ切った顔で部屋に入ってきた。
護衛がない日は、あの女と恋人みたいに過ごさなければならない。
情報を得るためとはいえ、その負担は想像に余りあった。
「……禁忌の決行日は、もう少し先だって」
声が掠れている。瞳に熱が宿り、彼は必死に笑おうとしていた。
「ルル……昔やってくれた……あれ、また……お願い」
「……あれ?」
「っ、忘れたの? ……『いいこいいこ』……頭、撫でてくれるやつ……」
震える声に、胸がきゅっと締め付けられた。
こんな頼りない顔、他の誰にも見せないくせに。
ルルシアはそっとティオの手を取り、自分の膝へと誘った。
指を髪に滑らせると、ティオは目を閉じ、小さく安堵の吐息を漏らす。
「……いつも離れたがってたから、嫌なのかと思ってた」
「ばっ……! そんなわけ……わかるだろ……」
耳まで真っ赤にして視線を逸らすその横顔が愛しい。
昔はただ「かわいい」だった。
今は──こんな熱を帯びた瞳で見つめられたら、もう“かわいい”だけじゃ済まない。
「……ありがとう、ティオ。大好きよ。……いい子」
「……っ、……うん」
小さく震えた声と、膝の上で落ち着いていく体温。
彼の寝息を感じながら、ルルシアは静かに誓った。
(絶対に……二人でこの国を出る)
とうとう、その日が来た。
前日、大神官から命令が下る。
「森の麓の湖に凶悪な魔獣が現れた。聖女様の祈りで封じねばならない」
(……来た。あの女の仕込み)
「いよいよね、ティオ」
「……ああ。絶対に、生きて帰る」
馬車の中で手を取り合う。白と白金に囲まれた閉ざされた空間。
ティオの手は冷たく、けれど震えていなかった。
討伐の地に着く。馬車から降り立った瞬間──
見覚えのある景色に足がすくむ。
(……ここだ。私が死んだ場所)
うやうやしく敷かれた白金の絨毯に跪く。
息を整える間もなく、禍々しい魔獣の姿が脳裏をよぎる。
牙が肉を裂く痛みと、あの恐怖に全身が震えた。
「ルル」
肩に置かれた手。振り返ると、ティオが泣きそうな瞳で見つめている。
(……だめ。泣かないで)
その瞳には、昔から弱かった。
小さく、けれど力強く頷く。祈りの構えを取り直す。
「ティオ、こちらまで下がりなさい。聖女様が祈りに集中できないわ」
クラリーチェの声。ティオは悔しそうに視線を落とし、彼女の隣へ下がった。
周囲を取り巻く従者と神官たち。
(逃げ道なんてない──)
空を覆う重たい雲から、冷たい雨が降り始めた。
(……来る)
魔獣が、森の奥から現れた。
建物のように巨大な躯体。黒紫の瘴気が渦巻き、その隙間から鱗が不気味に覗く。
開かれた口には無数の鋭い牙。赤黒い顔面に並んだ金色の眼球が、ギョロギョロと絶え間なく動いていた。
その視線に捕らえられた瞬間、背筋が凍りつく。
「……っ……」
恐怖で足が竦む。
魔獣が咆哮し、牙を振り上げた。
(──今だ)
祈りの構えのまま、僅かにティオへ視線を送る。
ティオも頷き返した。作戦は共有済みだ。
次の瞬間、ティオがクラリーチェの隣から駆け出した。
白金の絨毯を蹴り、雨を裂き、一気にルルシアへと走る。
「ティオ! おやめなさいっ! ティオ!戻って!!」
クラリーチェの叫び。
従者たちの手が伸びるが、彼の勢いを止められる者はいなかった。
牙が振り下ろされる、その刹那。
「ルル……!」
ティオが飛び出し、彼女を庇うように立ちはだかった。
「っ……ティオ!」
ルルシアは祈りの構えを強める。
内側から溢れ出した金色の光が、魔獣の口へと奔流となって流れ込み、奥底で閃光と共に炸裂した。
聖女としての加護。そして同時に、“明け渡し”の儀式。
ティオと二人で辿り着いた、唯一の答えだった。
魔獣の喉奥から、ひときわ強い光が吹き上がる。
その瞬間、ルルシアは《幻影創出》を発動させた。
牙が噛み砕いたのは──二人の幻影だった。
ルルシアは、自分とティオそっくりの幻影を血飛沫と肉片で演出し、周囲の神官や従者たちは悲鳴を上げて立ち尽くすしかなかった。
幻影が牙に囚われた刹那。
ルルシアは《気配遮断》と《結界透過》を同時に展開し、ティオの手を強く握る。
「ティオ、目を閉じて──!」
二人の気配は完全に消え、魔獣にも、神官たちにも届かなくなった。
その時。
『……よくぞここまで成し遂げた。最後の祝福だ、受け取るといい』
聞き慣れた神の声が頭の奥に響く。
『神様……!』
いつの間にか、幻影の奥には、血と肉の匂いを纏った二つの死体が横たわっていた。
それは幻ではなく、温度すら帯びるほど生々しかった。
「ティオ……!? ティオォォォーーッ!!」
クラリーチェは取り乱し、雨に濡れた白金の絨毯を駆け寄り、血塗れの死体を前に涙を流した。
だがその瞳は、喪失の悲しみだけでなく──
計画を狂わされた女の、醜く濁った怒りで満ちていた。
今だけは──クラリーチェが聖女の力を継承する、その瞬間を見届ける必要があった。
神が作り出したルルシアの亡骸から、淡い光が失われていく。
代わるように、クラリーチェの身体がじわりと輝きを帯びた。
「っ……ああっ……!」
苦痛に歪む顔。胸元を押さえ、紫紺の瞳に涙を滲ませながら、荒い息を吐く。
一度目のように優雅な受け入れではない。
肩は震え、吐息は震え、声にならない呻きが漏れる。
「……っ、……っ、は……っ……!」
変異が完了すると、周囲に歓喜の声が響いた。
「次代の聖女が……!」
「神よ、感謝いたします!」
「クラリーチェ様……なんと尊い……!」
クラリーチェは震える手で自らの髪に触れた。
発光する白金の髪、金色に揺れる瞳、淡く光る肌。
そのすべてを確認したとき、苦痛で歪んでいた顔に、うっとりとした恍惚の笑みが浮かんだ。
クラリーチェはティオの亡骸へと歩み寄り、跪いた。
「ティオ……待っていて。今、わたくしが貴方を救ってあげるわ」
震える声。けれどその響きは、高慢で澄み切っていた。
隣のルルシアの亡骸には目もくれず、ティオの顔に両手をかざす。
祈りの言葉を紡ぎ、光を注ぐ──しかし。
……何も起こらない。
「……っ、な……ぜ……?」
死者を蘇らせる加護など存在しない。それを理解しないまま、クラリーチェは必死に祈り続けた。
そのときだった。
『愚かな娘よ』
頭の奥に、氷のように冷たい声が流れ込む。
クラリーチェは祈りの手を止め、目を見開いた。
『禁術を使い、守るべき民を殺め、私の力を私欲で穢した。その罪は決して消えぬ』
淡々とした声には、救いも慈悲もなかった。
『加護は与える。しかし……相応の代償はすでに課した。一生をかけて、苦しむがいい』
声が消えた瞬間、背筋を悪寒が貫いた。
胸の奥から腐臭が湧き上がる。
皮膚は白く輝き神々しいのに、その下で骨と臓腑が崩れ落ちていく感覚が走った。
(っ、……なに、この……感触……!?)
(……っ、あぁ、苦しい……! 息が……助けて! 誰か……!)
声にならない悲鳴を噛み殺す。
身体はびくりとも動かず、声帯は勝手に震え、祈りの旋律が零れ続けた。
「ティオ……ティオ……わたくしが……救って……」
外には崇高な祈りの旋律だけが響き渡り、内側では絶望の叫びが木霊していた。
ルルシアとティオは、冷たい雨の中を背を向けて歩き出す。
二度と振り返ることはなかった。
──数日後。
それでも祈りの声は止まらなかった。
自害しようと歯を噛み合わせても、舌を噛み切ろうとしても、肉は動かない。
代わりに身体は祈りの間へと勝手に足を運んだ。
「──ああ、クラリーチェ様は今日も熱心でいらっしゃる」
神官の賞賛が背に降り注ぐ。
その無関心で無垢な賛美が、何よりも恐ろしかった。
(違う……違うの……こんなの……お願い……誰か……気付いて……!)
足元から腐臭が立ち昇る。
皮膚はなおも神々しく輝き続けるのに、骨と臓腑が崩れ落ちていくような感覚は止まらない。
その時。
『誇らしいだろう?』
頭の奥に、冷たい声が響いた。
『これが望んだ世界だ。称賛され、神に選ばれ、永遠に祈る“聖女”として生きる未来だ』
(やめて……こんなの、わたくしは望んでいない……!)
『一生祈り続けるがいい。肉も心も腐り果てるまで、誰も気づかぬ』
声は淡々と続く。
『……祈る者が必要なのだ。お前も、あの娘も。 聖女という器である限り、名も顔も命も意味を持たぬ』
(……そんな……わたくしは……)
『この世の愛も正義も階級も、我が前には無価値だ。祈りだけが価値、それが信仰──』
崇高な祈りの旋律が木霊する中、内側では絶望の叫びが響き渡っていた。
そして。
『……それが“神”だ』
走り続け、追っ手の気配がないと悟ると、ルルシアは気配遮断を解いた。
夜気混じりの森の匂いと、雨上がりの冷気が肌を撫でる。
「……ティオ。髪……どうなってる?」
震える声に、ティオがそっと彼女の髪をすくい上げた。
月明かりに照らされるそれは、聖女になる前と同じ──やわらかな薄茶色。
「……やっぱり、ルルにはこの色がいい」
彼は安堵の笑みを浮かべ、微かに目を潤ませた。
「そうね……わたしも、ずっとそう思ってた」
ルルシアも微笑み返し、そっとティオの頬に額を寄せる。
冷たい夜気の中、そのぬくもりだけが確かだった。
森の奥深く、あらかじめ隠していた荷袋を取り出す。
中には、茶と灰色の地味な衣服が二着ずつ畳まれていた。
「……こっち、ティオの服。着替えてね」
「ん……」
二人は背を向け合い、静かに聖女服と騎士装束を脱いだ。
代わりに、旅人のような平民服へと袖を通す。
着替え終えたルルシアは、薄布に包んだ古い聖女服と騎士装束を取り出し、静かに息を吐いた。
「……お疲れさま、"聖女ルルシア"」
小さく呟き、それらを積み上げて火打ち石で火をつける。
ぱちぱちと音を立て、布と革が赤く焼け落ちていく。
灰が舞うたび、何かが終わっていく気がした。
二人は最後まで、炎を見つめ続けた。
夜明け前。
二人は森を抜け、王都の外縁にある防壁の影へと辿り着いた。
(……あれが……)
高くそびえる灰色の壁に、わずかに足が竦む。
けれどルルシアは、一度も立ち止まらなかった。
七年かけて探し出した、唯一の抜け道。
古い下水道の排水路は封鎖されていたが、僅かな地割れが残っていた。
そこから崩れかけた地下通路へと身を滑り込ませる。
水音と土の匂いだけが響く、暗く湿った道を抜けると──
ひんやりとした夜風が頬を撫でた。
振り返ると、もう王都の壁は見えない。
目の前には、深い森と、薄明かりに霞む山脈が広がっていた。
「これが……ベルディア公国……」
ティオが呟いた。
目の前には、山と湖に抱かれた静かな国。
聖女信仰を持たず、他国の干渉を拒む地。
(ここなら……)
国境警備は厳しいはずだった。けれど今、二人の前に立ちはだかる者はいない。
ここなら──二人で生き直せるかもしれない。
ルルシアは夜空を仰ぐ。
群青に散る無数の星が、優しく瞬いていた。
「ティオ……行きましょう」
彼の手を握ると、ティオもぎゅっと握り返した。
二人は静かに歩き出す。
新たな夜明けへと向かって。
ベルディア公国へ逃れて、数ヶ月が経った。
二人は国境近くの小さな村で、夫婦として暮らしている。
山の斜面に建つ古びた木造家屋を間借りし、昼は宿屋で働き、夜は二人で静かな食卓を囲む毎日だ。
ルルシアは皿を洗いながら、窓の外に目をやる。
雪解け水を湛えた湖。遠くに霞む青灰の山脈。
この景色を、二人はすぐに好きになった。
(……神様の加護も、もういらない)
国境を越えてから、隠密の力は消え、声も聞こえなくなった。
それでも怖くない。今はただ、ここでティオと生きていければいい。
時折、故郷を思い出すことはある。
クラリーチェが聖女になり、国は変わらず回っているのだろう。
(せめて、家族が幸せでいてくれますように……)
そう祈りながら、ルルシアは濡れた指先を胸元でそっと合わせた。
暖炉の前で、ティオが薪を割り終え、額の汗を拭っている。
灰茶の地味な作業着さえ、彼がまとうと朝靄のように静かな輝きを放っていて──その背中が愛おしくて仕方なかった。
「おかえり、ティオ。お疲れさま」
「……ただいま。今日の夕飯……鶏肉の煮込み?」
「ふふっ、わかる? 宿屋の女将さんが色々持たせてくれたの。……やっぱり、料理って楽しい……」
ルルシアが笑うと、ティオも微笑む。
その顔を見るだけで、胸の奥がほっと温かくなる。
「……十年ぶり、か」
「やり直してるから、ほぼ倍よ、倍。
──もう、あんな生活は懲り懲りだけど」
「それは……ほんと、そのとおりだ」
二人は笑いながら、煮込み鍋を囲む。
苦しみも、失ったものも、決して消えない。
けれど今、隣に彼がいる──それだけで十分だった。
「明日も……いい天気だといいね」
「うん。明日も、明後日も──ずっと」
握った手のひらから、二人の未来が小さく震えていた。
その遥か上空、静かに見下ろす気配があった。
『……幸福も命も、与えるも奪うも、我が気まぐれだ。
よく成し遂げた、ルルシア。
生きよ、祈りの外でも』