猛暑の中、近所に住む子が家の鍵を忘れていたから自宅に招いた話
それは真夏日、高校からの帰り道での出来事だった。
「……椙原くん?」
炎天下を払い除けるような高く柔らかな声が、僕の名を呼んだ。見れば、左手にあった書店から出てきた影がある。艶のある黒髪を肩くらいまで伸ばした、物静かそうな子だ。
「……鴫野さん」
彼女、鴫野陽翠さんは拙宅の二軒隣に住んでいる子だ。昔は遊んだりもしていたが、幼馴染み、なんて名称を使えるほど仲良しだったわけでもない。最近はあまり関わりもなく、事務的なもの以外の会話をした記憶がない。
つまるところ彼女とは、ただ近所に住んでいる、同じ学校に通う友達未満の関係性だ。
「今、帰り?」
「うん。ちょっと用事があって」
「そうなんだ」
「……」
なんとはなしに僕は歩き出して、なんとはなしに彼女も着いてきた。汗がところどころに煌めく肩くらいまで伸ばした彼女の黒髪が、そよ風に靡いた。
×
用事といったが、あれは真っ赤な嘘だ。
僕と彼女は帰り道が同じだから、帰るタイミングが同じだと必然的にこうなってしまう。並んで歩いているのに会話が生まれない気まずさから、僕は毎日時間をずらして帰るようにしているのだ。
だから、今日のこれは全くもって想定外だった。
「……」
このように、僕も彼女も口達者な性格をしていないから、会話が生まれるはずもなく。近況も親からなんとなく聞いているため、本格的に話すことがない。
やがて彼女は自宅の前で立ち止まった。
「……えっと……じゃ、私ここだから」
「あー、そっか。うん、じゃあ」
別れ際ですらこの様だ。僕は軽く搔頭して、自分の口下手を恨みながら、十数メートル先に迫った自宅へと足を進める。今日は一人反省会コースだな。
「あれ、えっと……」
後方で声が聞こえ、僕は思わず振り返った。玄関先であたふたする君の姿を見た。鞄を置いて何かを探しているようだった。
「……どうかした?」
「椙原くん……えっと……」
回れ右して鴫野さんの元に戻ると、僕に気づいた彼女は困った笑みを浮かべながら、
「鍵、忘れたみたい」
「え……」
「……いやー、困ったなー……」
そこで彼女は虚勢を張るように、普段より大きな声で話し始めた。
「あ、いやでもすぐに誰か帰ってくると思うし! 心配してくれてありがとね」
身振り手振りを交えつつ、心配させないように気遣う彼女に僕は苦言を呈する。
「流石にこの猛暑の中で待つのは危ないよ」
今もギラギラと、真夏日は牙を剥いている。風も吹かないこんな日に外で待つのは自殺行為だ。
「んー、でも行くあてもないから……」
そこで僕は断られる前提で、とある提案をすることにした。
「その、もしよければなんだけど……」
「?」
うるさかった蝉が鳴き止んで、自分の早まる鼓動の音がよく聞こえた。
×
なんの変哲もない見慣れた白い家屋の、これまた白いドアを開ける。
「どうぞ」
「おじゃましまーす……」
直射日光がない故、幾分か屋外よりはマシである。もっとも、これから冷房を効かせるからもっと快適に過ごせるようになるのだが。
顔が熱いのは暑さのせいだろうか。そういうことにしておこう。しかしそれだと、早まる鼓動の説明がつかなくなってしまう。
リビングのエアコンをつけ、ソファに彼女を待たせ、キッチンから麦茶をとってきた。
「ありがとね、ほんと……」
彼女はリビングを見回した後、麦茶を呷って一言。
「久々に来たけど変わってないね」
「まあ、うん、そうだね……」
僕はしどろもどろに首肯しながら、まだ汗の伝う額をタオルで拭った。
自宅に女の子が、というか、鴫野さんがいることが非日常すぎて、気まずさ以外の何かを覚えてしまっている。
「……それじゃ僕は自室にいるから、何かあったら呼んでね。ごゆっくり」
すると彼女は少し驚いたようにこちらを見つめてきた。
「え……ここにいないの?」
「うん。僕がいると思う存分寛げないだろうし」
「……そっか」
「うん、じゃあ」
つとめて冷静に振る舞いながらドアを開け、廊下へと出た。帰宅した当初感じていた涼しさは消え失せてしまっていた。
×
自室で課題を解き進めていると、ノックの音がした。時計は十四時過ぎを指し示している。どうぞ、とだけ言って、何か不都合なことがあったのかな、などと勘案しながらそのドアが開くのを待った。
「……何かあった?」
「いや、そういうわけでもないんだけど……」
鴫野さんは僕の自室にに入るなり、リビングでした時と同様、部屋中を見回した。
「椙原くんの部屋がどんななのか気になっちゃって」
「……そうか」
その発言が示唆することがまるで分からず、僕は言葉に詰まり、反応に困った。
一頻り見終えたのち、どこか不思議そうな顔をして、彼女は僕のベッドの下へ興味を持ったらしい。ちょっと待ってそこにはあれやこれやが……。
「ひゃっ!?」
「……ごめん、そこは見てほしくない、かも」
そこへ伸びた彼女の細い右腕を慌てて掴んだ。彼女は僕へ振り返り、いたずらっ子のように笑みを浮かべた。
「……やっぱ、椙原くんも男の子なんだね」
どうやら分かってての行動だったらしい。やられた。
「……そうだよ、だから」
なんとなくやられっぱなしは癪だったから、彼女の腕を掴んだままだった左手に力を込め、そのまま彼女をベッドに押し倒した。
「こんなことだってできるんだよ」
「……」
鴫野さんの髪が僕の粗暴な行動に乱れる。見開かれる彼女の瞳、交錯する互いの視線。僕は左手の力を抜いて、
「……これに懲りたら、男子の前でそんな軽率な行動は……」
「……別に、いいよ」
「え……」
僕は彼女の言っている言葉の意味が理解できなかった。幾度咀嚼、反芻しようと分かるわけもなかった。
「……」
「……」
先刻の並んで歩いていた時とは比較にすらならないほどの気まずさが部屋の空気を蹂躙する。重苦しい雰囲気を押し除けるように、僕の真下にいる彼女は口を開いた。
「私ね、ずっと君のこと……榠士くんのことが好きだったんだ」
「……」
「そうじゃなきゃ、こんな気の緩んだ行動なんかしないよ」
彼女のこぶりな口から発せられる言葉の数々が奇妙な色味を帯びて僕の頭の中で好き勝手に動き回る。
「だから、その……私を彼女にしてほしい、です……」
先ほどまでの威勢はどこへやら、彼女は一気にしおらしくなって、僕から目を逸らす。そこで僕は漸く握っていた彼女の右腕を解放した。
「……とりあえず、押し倒してごめん」
「……」
彼女を起き上がらせ、ベッドに座らせた。一呼吸置いたのち、足りない頭を使って最善の言葉を紡ぐ。
「……これから、よろしくお願いします……」
「……え、いいの?」
「むしろ、僕の方こそいいの? っていう感じだよ。鴫野さんみたいな可憐な子と付き合えるなんて……」
言い終えると、彼女は強張らせていた表情を一気に綻ばせた。
「嬉しい……本当にありがとう」
昔から何となく知りあっていただけの間柄は今日を以て彼氏彼女の関係になった。それもこれも全て、彼女が鍵を忘れたからだ。
そうして、僕らは見つめあって、唇を重ねた。上手くできるはずもなかったが、えもいわれぬ幸福感があった。
いつまでも感じていたい幸福をいつまでも感じているわけにもいかない。顔を離して、まともに目も見られないまま、
「じゃあ、えっと……」
仕切り直すように咳払いをして一言二言口にしたその時。
「ただいま! ……あれ、お客さん?」
玄関のドアが開いて、騒がしい声が聞こえてきた。母親の声だ。僕と鴫野さんは大いに驚いて、慌てて立ち上がった。
……頃にはもう遅かった。
「榠士? お客さんが来て……あら! 陽翠ちゃんじゃない! 久しぶり!」
「お、お久しぶりです」
僕の部屋に入って鴫野さんを一目見るなり、母はハイテンション及び早口で捲し立てた。これではムードも何も台無しである。
「でもなんで陽翠ちゃんがうちに……まさか、あんたが無理矢理連れ込んだとか?
「人聞きの悪いことを抜かすな」
「違うんです! 私が家の鍵を忘れて、それで……」
「なんだ、そういうことね!」
その後なんやかんやと世間話をしたのち、
「それじゃ、ごゆっくりね」
ようやく母は去っていった。
「……ごめん」
「榠士くんのお母さん、変わってないね」
僕の開口一番の陳謝に、彼女は苦笑しながら呟いた。
「……いつか、お義母さんって呼ぶ日が来るのかな……」
「……ん? なんか言った?」
「なんでもない! なんでも……」
僕の質問に、彼女は顔を赤くして否定した。
×
夕暮れが世界を包み込む頃に、彼女の携帯に連絡が入った。今日はこれでお開きらしい。
「それじゃ、またね」
「うん、また」
玄関先で彼女を見送る。母親は執拗に挨拶をしてから買い物に出かけたため、一人での見送りである。
「あ、そうだ……榠士くん」
「なに?」
「つ、次に会うときは……名前で呼んでほしいなって」
「っ!」
「そ、それだけ! じゃあね」
ドアが閉まる前の陽翠の顔が脳裏に焼き付いて離れない。卑怯だよ恥じらいと嬉しさと様々な感情が入り混じる顔を見せてくるのは……。
リハビリがてら書いたやつです
もうちょい上手く文章かけるようになりたいなー