第九話 祭壇
「これはこれは、私どもをご存知でしたか」
伊玖は驚いたように、目を瞬たかせた。
ランタンの明かりを反射し、丸眼鏡の奥の瞳が爛々と光る。
「何故、子供たちを集めた?」
気のせいだろうか……篝は用心棒の青年を、ひそかに窺う。
大隈と呼ばれた男性や真生と対峙していた時より、シュテンのまとう空気が、ぴりぴりと張り詰めているように感じる。
「それをお話しするにあたって、ひとつ重大な誤解を解いて起きたいのですが」
沢木が不可解そうに、伊玖を見た。
「誤解って、どういうことですか? あなたがたちは現に、生徒達をこの山に誘拐して」
「確かに私どもが確かにある目的を果たすため、いささか強引な方法で、この子たちをこの廃れた村に集めたことは事実です」
和装の淑女は沢木の言葉を遮って、供台の周囲で眠る子供達を一瞥した。
「ですが私どもが何も手出しせずとも、ここにいる子供たちは遠くない未来、一人残らず死にます」
「……えっ?」
目の前の女性が何と言ったのか、篝は一瞬、理解ができなかった。
「この子達が、全員死ぬ……?」
沢木が訝しげな、しかし不安を隠しきれない表情を伊玖へと向ける。
「それって、どういうことですか!?」
「それは、どういうことだい?」
身を乗り出した篝と、いくぶんか冷静な蘇芳の声が重なった。
「事情をお話しする前に、集めたお子さんたちはお返ししましょう」
「本当かい?」
「ええ、その方がお互い、気分良く話が出来るでしょう? それに……」
伊玖は小さく咳払いをして、麻のショールを肩にかけ直す。
「なにぶん、込み入ったお話になってしまいそうなので」
伊玖に目配せされた大隈が、無線機を取りだしどこかへ無線をかける。
彼は面倒そうに、スピーカーに向かって「撤収」と言い放つと、相手の応答を待たずブツリと無線を切った。
すると一分も経たないうちに、外からバタバタと耳慣れない騒音が響き渡った。
何の音だろうと周囲をきょろきょろ見回す篝の横で、沢木が戸惑ったように天井を見上げる。
「この音……まさか、ヘリコプターか?」
「ええ、ドクターヘリを手配しました」
伊玖がにこりと笑って答える。
空を切るプロペラの回転音に混じって、複数の足音が聞こえ、黒いスーツに身を包んだ男女が数人、幣殿に駆け込んできた。
黒服だけでなく、中には警察官とおぼしき紺の制服を身にまとった者も二名いる。
「……警察?」
沢木が怪訝な目を彼らに向けた。
「本当に、生徒たちを無事に家まで返してくれるんですか?」
「警察に根回しはしてありますので、彼らはこのまま保護されますよ。夕方には私の術も解けて目を覚ますでしょう。五時あたり、行方不明の高校生七名が無事に保護されたと公式発表されるはずです」
黒服と警察官たちは一言も喋らず、持参した担架に子供たちを載せる。
特に声をかけたり、意識の有無を確認するといったことはなかった。
まるで六人の子供たちが目を覚まさないことを、最初から知っているかのように――――
篝はなんともいえない気分で、粛々と運ばれてゆく麻音の姿を見守る。
運ばれてゆく担架を追いかけ外に出ると、篝は思いがけず強風に煽られ立ち止まる。
社から少し離れた場所に、白い小型のヘリコプターが着地した。
黒服たちは扉を開けると、手際よく高校生達を機内へ運び込んでゆく。
どうやら定員は六名までらしく、青の制服をまとった操縦士と整備士の他に、四人の高校生を乗せると、ヘリコプターは離陸した。
その場に麻音ともう一人、同じ高校の平子という男子生徒が残される。
旋回し、山から遠ざかってゆくドクターヘリと入れ替わるように、すかさずよく似た機体がもう二台、こちらに向かって飛んできた。
新たに到着したヘリに麻音と平子が乗せられ、黒服達もちらほらと搭乗してゆく。
その一部始終を所在なげに見守っていた沢木が、意を決したように彼らに近寄った。
「……あの、僕も乗せてください」
担架を片付けていた黒服の女性が顔を上げ、それには答えず伊玖の方を見る。
「僕は教師です。生徒達が本当に無事に家に帰れるか、見届ける義務があります」
張り詰めた表情で続けた沢木を、伊玖は少し意外そうに見返した。
「いいでしょう。ですが今回の件はくれぐれも、他言無用でお願いしますね。私としても沢木先生のような生徒想いな方に、真生の担任を続けていただきたいので」
遠回しな脅迫に、沢木は神妙な顔で頷いた。
「分かりました。生徒達が無事に保護されたら、一切他言しないと約束します」
沢木の提案に、篝は少しだけ安堵した。
黒服の女性は「こちらに」と、麻音たちが乗ったヘリコプターに沢木を誘導する。
機内に乗り込む前、彼は篝を振り返り
「宮代も、くれぐれも気をつけて帰りなさい」
と、教え子を気遣うように言い残した。
扉が閉じ、プロペラが勢いよく回り出す。
風を吹き上げ、機体が離陸してゆく。
そうして上空を飛んでゆく白いヘリコプターを、篝は祈るような気持ちで見送った。
プロペラの旋回音が遠ざかり、機体が見えなくなってゆく。
冷たい秋風が木々を揺らした。
篝は誘拐され、昨日からずっと背後の古びた社の中で眠らされていた親友のことを思う。
怪我や顔色など、異常なところは見当たらなかったが、麻音は本当に無事なのだろうか。
沢木が付き添ってくれたから、大丈夫だと思いたいが――そんなことをぐるぐると考えていると、ぐう、とお腹が鳴った。
篝はあわてて周囲を見回す。
ヘリコプターの音にかき消されたのか、幸い、誰も見ていない。
朝食はろくに食べられなかったし、ここに来るまでお茶しか飲んでいない。
少しだけ何かお腹に入れておこうと、篝は休憩の時ポケットに入れておいた個包装のバタークッキーを取り出した。
堂々と食べるのは、なんとなく憚られ、皆に背を向け、こそこそと袋を破る。
するとどこからか飛んできた小さな鳥が、篝の人差し指に止まった。
「ん?」
一見、雀によく似た鳥だった。
だが雀にしては顔周りや羽が黒く、何より目が赤い。
今までほとんど動物を見なかったが、こんな所に鳥がいたのかと、篝は少しホッとする。
すると小鳥は指を足場にぴょんぴょんと跳ね、クッキーをついばんだ。
「え? うそ、ちょっと待っ……」
鳥がクッキーを食べても大丈夫だろうか。
しかし邪険に追い払うのも気の毒な気がして焦る篝に、皆の視線が集まる。
すると無関心な様子でスマホをいじっていた真生が、篝の元に足早に駆け寄った。
「お前、何喰ってんだ」
そう言って、篝の手から小鳥を奪うように取り上げる。
はずみでクッキーが地面に転がり落ち、真っ二つに割れた。
「餌付けされてんじゃねえ」
「ちがっ……その子が、勝手に」
篝が弁解しようとしたら、小鳥は真生の手から、するりと抜け出した。
地面に着地し、割れたクッキーをつつき始める。
欠片すら残さず焼き菓子を平らげると、小鳥は飛び上がり、今度は大隈の肩に止まった。
「ったく、仕方ねえなァ。ほれ」
大隈は小鳥を慣れた手つきで掴むと、上着のポケットに無造作に突っ込む。
夜雀と呼ばれた小鳥はポケットからひょっこり顔を出すと、周囲を見回した。
真生の家で飼われているのか、人に慣れている様子だった。
もふもふと丸いフォルムや愛くるしい動きに、篝はクッキーを横取りされたことも忘れ、一瞬で心を奪われる。
最初は真っ赤な目に驚いたが、見慣れるとつぶらで、綺麗だとも思う。
熱い視線に気付いたのか、夜雀は篝を見上げて小首をかしげる。
「か、可愛い……」
思わぬ癒やしに夢中になっていた篝は、真生が物言いたげな表情で自分を見ていたことに気付かなかった。
蘇芳が物珍しそうに、小鳥に顔を近づける。
「もしや、この子は〝夜雀〟かい?」
そういう種類の雀がいるのだろうか。
後で画像検索してみようと考え、篝は相好を崩す。
「ええ。飼い主に似て、お行儀の悪い子に育ってしまって」
「なっ」
真生の抗議を遮るように、伊玖は「さて」と手をぽんと叩き合わせる。
「では次の便を呼ぶまで、少し込み入った話をしましょうか」
感情の読めない笑みを浮かべた和装の淑女に、シュテンは無言のまま、相手の真意を見極めるように目を細めた。
「皆様は〝七殺〟という祟りをご存知ですか?」
伊玖はそう切り出し、社殿に向かって歩き出す。
「ななさつ? いえ……」
篝は眉をひそめる。聞いたことのない言葉だった。
「七殺とは、もしや金神七殺のことかい?」
蘇芳が尋ね返すと、伊玖は頷く。
「ええ。金神とは、陰陽道における方位の神。その金神が向かう方角に禁忌を犯せば、その者の親族から隣人に至るまで七人が殺されるまで続くという、とても苛烈な祟りです」
予想外に恐ろしい話に、篝はぎょっとする。
「古くは陰陽道により提唱された信仰ですが、陰陽博士たちの度重なる議論により、中世になると陰陽道から金神の存在は棄却されました。しかし一度生まれた金神信仰は密教や修験道、民間の呪術師や宗教者に受け継がれ、また一部の神道では〝荒神〟と習合することで、各地に根強く残っています。ここ六道坂村とその周辺でも、その類いのものと思われる信仰が古くから続けられてきました」
淀みなく語りながら、伊玖は拝殿へと足を踏み入り、他の者を振り返った。
「六道坂村ではその恐ろしい神を、金神でも荒神でもなく、こう呼んでいたそうです。厄災をもたらす神……〝厄神〟と」
そう言って、和装の淑女は奥へ進んでゆく。
後ろから真生と、ランタンをかざして大隈が続いた。
蘇芳も続いて拝殿に入り、シュテンは三人から少し距離を置いて後を追った。
篝もおそるおそる、用心棒について歩く。
「この社は厄神を祀り、同時にあるものを捧げる儀式のために、使われてきた場所です」
「あるもの?」
伊玖は振り返り、篝に含み笑いを返す。
「決まっているでしょう? 有史以来、この手の儀式で人間が神に何を捧げてきたか」
「人身御供かい?」
尋ねるというより、正解を確かめるような口調で、蘇芳が呟いた。
猿面の下から漏れる声は、いつになく低い。
「ちょうどそのお嬢さんくらいの年頃の、人間の娘を生贄に捧げていたそうですねェ」
大隈が篝を振り返って、ニタリと嗤った。
顔色を変えた少女に、男はくつくつと抑えた笑い声を漏らす。
昔の話だと分かっていても、篝は背筋に冷たいものがつたった。
「まさか、その生贄にするために麻音たちを誘拐して……?」
「それは違います」
篝の言葉を、伊玖は即座に否定した。
「あの六人……引いては彼らの家系は本来、人身御供の恩恵を受ける側でなのす」
「恩恵? どういうことですか?」
少女の不可解そうな表情に、和装の淑女は思案顔を作る。
「では、この地の因習を順にお話ししましょうか。昔、六道坂村を含むここら一帯の地域は長期的な大飢饉に見舞われました。冷害に干魃、疫病の蔓延……田畑は荒れ果て、山の鳥獣や虫、植物、木の皮や枯れ草すら食べ尽くしても尚、人々の飢えを防ぐことは叶いませんでした。挙げ句の果てには人が人を襲い、その肉を喰う。そんな地獄絵図のような惨状が年単位で続いたそうです」
伊玖のなだらかな声で、壮絶な郷土史が語られてゆくのを、篝は気圧されながらも耳を傾けた。
飢饉という言葉や、それが起きた時代背景を日本史の授業で習っても、飢饉の内実についてあまり触れられることはない。
生まれてこのかた、篝は食べるものに困るという経験をしたことがなかった。
だから「飢え」というものがどのような感覚なのか、実際のところ分からない。
けれど「食べられるものが人しかないから人を食べる」ことは一体どれほど根深く凄まじい苦しみなのだろう――
「この惨状に甘んじているわけにはいかないと、七つの村の代表者たちはある日、とある神にすがり、起請文に血判を捺しました。飢饉から村を救が救われるなら、どんな対価も払うと」
「……その神が〝厄神〟か」
幣殿へと続く道を歩きながら、ずっと黙っていたシュテンが口を開く。
「ええ。厄神は彼らの願いを叶え、豊穣をもたらしました。田畑は蘇り、枯れた川には清水が湧き、飢えた人々がその恵みを貪り尽くした山には木々が生い茂り、色とりどりの花が咲き誇ったそうです。人々は飢饉から解放されて、貧しかった山村は肥沃の地へ生まれ変わったかのように思われました。しかし……」
伊玖がひと呼吸置いたタイミングを見計らうように、大隈は幣殿の扉を開く。
ぎしぎしと蝶番を軋ませ、大きな外開きの扉が開いた。
「豊穣の対価は、血判を捺した七人の代表者にとって、最も大切なものだったのです」
蘇芳が猿の面を上げ、伊玖を振り返る。
「まさか、七殺の対象は」
「そう、彼らの子供……おそらく跡継ぎにあたる長子でしょう。今回私どもが集めたのは皆、その七人の末裔たちです。もっともそのうちの一つの家系は現在では途絶え、今は六人になってしまいましたが」
篝はじとりと汗ばむ手をきつく握った。
ランタンに照らされ、幣殿が暗がりに薄く浮かび上がる。
「飢饉が起きるたび、村は厄神と取引を交わし、そのつど七人の子供たちが生贄となりました。ですがある時、その代償は変化します」
「変化? 一体、どのように」
土地神の問いに、和装の淑女はどこか皮肉げな笑みを浮かべた。
「村は七人の子供たちの代わりに、村の外から来た巫女を〝花嫁〟という名目で捧げたのです」
「花嫁……それで、供犠は成立したのかい?」
「したそうですよ。私も詳細は知りませんが、その娘は自分の家族を村に住まわせることを代償に、自分の身を厄神に捧げたそうです。以降も村では厄神との取引に、娘の家系から年頃の少女を〝花嫁〟として差し出すようになりました。ゆえに村の者たちは、娘の家をこう呼んだそうです」
床板に伸びる伊玖の影が、ランタンの光に合わせて小さく揺れる。
「厄神の宿、と」
祭壇を照らしながら、大隈が口を挟んだ。
「厄神との婚姻が実際どんなものだったかは、当事者にしか分かりませんねェ。なにせ明治時代には絶えた風習で、村でも秘匿されていたことなのか、記録も証人もないもんですから。ただ異類婚姻譚……神との結婚なんてもんは、本当に神と結ばれたれたケースはごく一部で、実際は人身御供と何ら変わらないことの方が多い。そっちのお二方はよくご存知でしょうなァ」
そう言って、シュテンと蘇芳の方を向く。
七人の子孫を守るために、一人の娘を生贄に捧げる。
まるで「トロッコ問題」だと、篝は拝殿の奥を見渡した。
白木の供台や、御簾に覆われた祭壇に、篝は幼い頃参加した叔母の結婚式を思い出す。
有名な神社で行われた神前式で、白無垢をまとう叔母は美しく、晴れやかに笑っていた姿をよく覚えている。
だからだろうか。
結婚という晴れやかで幸せな縁結びの儀式のイメージが、目の前の薄暗い神殿と、うまく結びつかない。
「厄神の宿……巫女の子孫は八十年ほど前、自分たちだけ犠牲を強いる村に見切りをつけ、他所の土地に移ったそうです。彼らが行方をくらました後、ていのいい生贄を失った住民たちは、厄神の祟りを恐れ、他の土地へ逃げたそうですよ」
伊玖は失笑交じりに言って、とん、とんと短い階段を昇ってゆく。
大隈が御簾を巻き上げた。舞い上がる粉塵がランタンの光を白く反射する。
御簾の向こうにも部屋があったのかと、篝はちらりと奥を覗く。
「供犠は五十年に一度、この部屋で行われていたそうです」
奥まっているせいか、幣殿より更に暗く、内部がよく見えない。
黴くさく乾いた冷気が頬を撫でる。
狭くはなさそうだが――まるで四方を闇に囲まれているかのように暗い。
部屋の中心にぽつりと、置き畳が一枚敷かれていた。両脇には三脚が立てられ、鉄の篝籠が乗っている。
蘇芳とシュテンが置き畳へと歩み寄る。
じんじんと傷が疼く左手をさすりながら、篝も御簾をくぐった。
「しかし時代の流れと共に、供犠は廃れました。当の厄神も五十年前、最後の供犠の場でここに封じられ、その信仰は絶えてゆくばかりかと思われたのですが……四年前、各地の寺社仏閣を荒らし回っていた窃盗団に厄神を封じていた呪物が盗まれたことで、かの神の封印が解かれてしまったのです。そして来年はちょうど、前の供犠から五十年の節目。契約通り、花嫁を捧げなければ七殺が起きます。彼らは……血判を捺した七人の血を引く者たちは、遠からず厄神に祟り殺されるでしょう」
篝はぎこちなく顔を上げ、伊玖を見た。
「麻音が……殺される……?」
伊玖は無言のまま、じっと篝を見詰め返す。
丸眼鏡の奥の瞳で、ランタンの光が小さく揺れた。
「だから君たちは七人の末裔を集め、厄神様を呼び出そうとしていたのかい?」
蘇芳の静かな問いかけに、伊玖は頷く。
「ええ。向こうの訪れを待ち構えるより、こちらが先手を打つ方が有利なので」
「でも、君たちが集めた子は六人しか」
「術者がいるだろ」
不意に、黙り込んでいた真生が口を開く。
「俺を足せば七人だから、数が合うだろ。言っとくけど、俺たちは別に、厄神と供犠や取引をするために呼び出そうとしたわけじゃない」
真生の意図が分からず、篝は混乱した。
すると蘇芳が少年に一歩距離を詰める。
「……厄神様を斃すか、それが出来ない時は自分達ごと、差し違えてもこの山に封じ込めるつもりだったのかい?」
土地神の言葉に、真生は黙り込む。
「七人の子供は囮でもあり、失敗した時に払う代償でもあった、ということかな。この山を結界で封鎖すれば、呼び出された厄神様を閉じ込められる」
「お察しの通りです」
真生に変わって、伊玖が答える。
「君たちは何故、そんな危険な賭を?」
「それは……」
伊玖が何かを続けようとして、思いとどまったように口を閉じた。
真生が二人から顔を背ける。
「それについては、後ほどお話しましょう。ところで土地神様。そちらのお方も、厄神の正体をご存知ありませんか?」
伊玖は声のトーンを上げ、強引に話題を逸らす。
その不自然さが、篝は少し気になった。
「かの神への信仰は、あまりに記録が少ない。人身御供の後ろ暗さから、当事者たちは口を噤んだのでしょうが」
蘇芳は少し考え込むようにうつむく。
「……昔、聞いた覚えがあるよ」
そう畳の横に置かれた鉄籠に手を入れ、中に残っていた炭をつまむ。
指でつままれると、半ば灰色と化した消し炭はぼろぼろと崩れて床に落ちた。
「ここら一帯には山の神や、私のような土地の守り神がいない。代わりに村人達は何十年かに一度、外つ国の神を迎え、奉り、その代償として富を得ると」
「外つ神? 土地神の旦那、それは一体どういう」
「〝蕃神〟……客人神とも呼ばれていた」
「あだしくにの……かみ……?」
少女はこわごわと、聞いたことのない言葉を反芻する。
その時、真っ暗で何も見えなかった壁にふと凹凸のようなものが見えた。
シュテンは先ほどから無言で、壁をじっと見つめている。
ライトで照らしてみようとスマホを取り出すと、篝は不意に、左手に痛みと違和感が走った。
いつの間にか、伊玖に巻かれたハンカチが取れ、足元に落ちている。
真生がそれに気付いて、篝に声をかけた。
「おい、血」
ぱっくりと裂けた傷から血が流れ、ポタポタと床にこぼれた。
篝はあわててハンカチを拾おうと屈む。すると、足元がぐにゃりと歪んだ。
「えっ?」
目の前の床から無数の黒い何かが勢いよく突き出される。
おびただしい数のそれらは、まるで群生する竹のように、目にも止まらぬ速さで天井へと伸びてゆく。
後ろで結んだ髪を揺らし、シュテンがいち早く少女を振り返った。
篝はあわてて後退る。
「そっちは駄目だ、篝! 童子様と離れては……」
だがそれにより、彼女は図らずも自分の元に駆けつけていた用心棒から遠ざかってしまう。
瞬く間に、目の前が真っ黒に覆われてゆく。
篝は驚愕し、まるで自分を囲い尽くすように伸びて行く何かを見上げた。
影のように真っ黒で、よく見ると手や指らしきものが先端にある。そ
れらは人間の腕にひどく似た形をしていた。
「なっ、なんだァ!?」
「二人とも、逃げ――――」
素っ頓狂な大隈の声と、蘇芳の叫び声が遠ざかってゆく。
「篝!」
おびただしい腕のわずかな合間から、シュテンが何かを叫びながら、自分に向かって手を伸ばすのが見えた。
しかしそれを最後に、目の前は完全に、何十、何百もの真っ黒な腕たちに覆われ閉じられてゆく。
「宮代!」
呆然としていた篝は、不意に横から突き飛ばされ、手をついて床に転んでしまう。
とっさに顔を上げれば、自分が立っていた場所には真生がいた。
しかし――無数の黒い腕に体の至る所を絡め取られ、少年の足が床から浮かび上がる。
壁のように目の前を覆う無数の腕に、真生の体は沈むように取り込まれてゆく。
「幸野くん‼」
篝は少年の左手を掴んだ。が、真生はそれを振り払う。
「さっさと逃げろ!」
「でも」
「馬鹿か、人のこと気にしてる場合じゃ」
言いかけて、真生は自分の口元を手で覆う。
だがそれも束の間、少年は堪えきれずに赤黒い血をどろりと吐き出した。
「幸野くん!?」
足首を掴まれる感触がして、篝はふと足元を見下ろした。
何本もの腕が足を掴み、更に新たに床から生えた真っ黒な腕たちはまるで蛇のように、篝の体に向かって伸びてくる。
「い、いやっ! 離して……」
振り払おうとしたその時、少女の耳元で、無数の人間の声が一斉に響いた。
憎い 嫉ましい
何故私が 何故 死にたくない 死にたくない 何故私が
恨めしい 痛い 触るな
寒い 痛い 苦しい 誰か、誰か――――
悲鳴じみた声や絶叫、怨嗟を吐くような低く野太い声。
幼く甲高い子供のような声もあれば、低く濁った大人の声も、聞き取れないほど多くの声が一斉に呪詛のような言葉を叫ぶ。
「な、なにっ……誰!? 誰かいるの!?」
篝が耳を塞いだその時、鼓膜の内側で、低く地を這うような低い声がした。
『アガミコの娘よ、何故お前が生きている』
「あがみこ……?」
足を絡め取られ、身動きのとれない少女の体に無数の腕が這い上がる。
「いっ」
しかし真っ黒な手が体まで迫った次の刹那、胸元から勢いよく、青白い炎が噴き上がる。
炎は風に煽られたように膨れ上がり、篝の体を包んだ。
とっさに身を引いたが、熱さは全く感じない。皮膚や服が焼ける様子もない。
ただ彼女にまとわりついた無数の腕だけが、肉が爆ぜるような音を立てて燃え上がる。
一瞬で腕は燃え尽き、燐光のような青白い火花が周囲に散ってゆく。
そこで、少女は我に返った。
真生はまだ真っ黒な腕たちに囚われている。
気を失っているのか、少年はぐったりと目を閉じていた。
いつの間にか、青白い炎は燃え尽きていた。
何が起こったのか、篝は全く状況が理解できない。
彼女の思考回路は恐怖と困惑に埋め尽くされ、とうに限界を超えていた。
――――だからこそ少女は何かを考える間もなく、反射的に叫ぶ。
「助けて、シュテンさん‼」
すると目の前を覆っていた黒い腕を貫通し、大きな黒い手がぬっと突き出された。
それは影のような無数の腕とは明らかに違う。鋭く伸びた鉤のような爪と、黒と鋼色をした大粒の鱗に覆われた、明らかに人間とはかけ離れた異形の腕だった。
篝が目を瞠るのと同時に、無数の腕が一斉に薙ぎ払われてゆく。
その向こうに立っていたのは、篝もよく知る用心棒の青年だった。
だが暗闇の中で、鋭い瞳が煌々と金色に輝いている。
「シュテンさん……? わっ!」
シュテンが近寄ってきたと思えば、篝の視界はがくんと反転した。
青年が自分を右肩に担ぎ上げたのだと気付く。
「坊ちゃん!」
目を白黒させていたその時、篝は視界の片隅で、血相を変えた大隈が駆け寄ってくるのが見えた。
険しい表情でこちらを窺っていた伊玖も、黒い腕に絡め取られ、足から腰まで沈んでいた少年を見て顔色を変える。
「真生!」
「シュテンさん、幸野くんがっ……」
篝が言い終える前に、シュテンはもう片方の手で、少年の襟首を掴んだ。
「なっ⁉」
大隈が絶句する。用心棒の青年はまるで獣の子供を持ち上げるかのように、真生の襟首を掴んだまま、無数の腕から勢いよく引き抜いた。
「蘇芳!」
すかさず脇に少年を抱えると、振り返らずに土地神を呼ぶ。
蘇芳は鉾を中段に構え、横薙ぎに振るった。
銀色の穂が白い軌跡を描くと、闇を裂くように青白い光が虚空に閃く。
彼らの背後にぽっかりと、周囲の暗がりより更に冥く濃い、漆黒の闇が口を開いた。
「霊道を開きました。童子様、皆もこちらに!」
蘇芳の言葉を合図に、シュテンは篝と真生を抱えたまま踵を返す。
そうして土地神の背後に開いた霊道へと駆け込んだ。
鉄錆と湿った土の、ほのかに覚えのある異臭が篝の鼻をかすめる。
わずかに迷うそぶりを見せたが、伊玖と大隈も足早に後に続く。
眩い光りに照らされ、なぎ倒されたおびただしい数の腕たちの後ろで、祭壇の奥の壁が青白く浮かび上がった。
「あれは……?」
篝は思いがけず、それに目を奪われる。
壁一面に広がった凹凸――黒い彫刻だった。
彫刻といっても動物や人間を精巧に模したものではなく、ひどく抽象的な形をしていた。
至る所を無数の紋章のような、幾何学的な形が埋め尽くしている。中には絵か文字か区別がつかないものもあった。
中心には獅子に似た、獣の頭のようなものが大きく彫られている。
獅子舞の獅子頭のような、だが奇妙な形をした獣の彫刻に、篝は目を奪われた。
あれとよく似たものを以前、自分はどこかで見たことがある……うすぼんやりとした既視感が、予期せず記憶に結びつく。
――――そうだ。あの村で見たんだ。
思い出した瞬間、胸の底からひたひたと凍えるようにつめたいものが滲み出してくる。
篝は強引にそれに蓋をして、意識の外へとはじき出す。
蘇芳が鉾を納め、光が消える。
すると周囲は瞬く間に不可視の闇に包まれていった。