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第八話 呪術師

 男の先導に続き、四人は庭の裏木戸から元の道に戻った。

 スーツに革靴という服装にもかかわらず、男は慣れた足取りで、軽々と険しい山道を登ってゆく。

 歩きにくそうに後を追いながら、沢木がこわごわと口を開いた。

「あの、あなたがたはどうして生徒達を誘拐したんですか? まさか身代金が目当てで……?」

 それは篝も薄々考えていた可能性だった。

 篝や麻音が通う私立颯徳学園は、私立の名門校というだけあって、裕福な家庭の子が多い。

 麻音の家など、その最たるものだ。

 地元では名家で通っており、代々、政治家を輩出している。

 対する篝は、一般家庭の出身だ。

 少しでも家計の負担を減らすため、給付型の奨学金を利用している。

「身代金だァ?」

 沢木の問いを小馬鹿にするかのように、男は糸のように細い目を吊り上げ、鼻で笑った。

「生憎、うちは金に困ってないんでね。まあ、アンタにゃ関係ねェさ」

「なっ……関係ないことはないでしょう。生徒たちや僕を誘拐しておいて」

 沢木はこわごわと食い下がった。

「別にアンタは狙ってない。勝手に霊道から紛れ込んできて、うろちょろされると迷惑だから縛って閉じ込めといただけさ」

「れいどう? 何ですか、それは」

「ここは学校じゃないし、アタシは教師じゃないからねェ。いちいち説明なんかしてやんないよ。巻き込んじまったのは気の毒だが、一般人はこれ以上深入りしない方が身の為さねェ」

「一般人って……」

 面倒そうに返され、沢木は物言いたげな表情で黙り込む。

 男の物言いに不穏なものを感じて、篝は気が重くなった。

 一般人なのは沢木だけでなく、自分も同じなのだ――


 五分ほど歩くと、前方に赤い二本の柱のようなものが見えた。

 近くまで来ると、それが単なる柱ではなく、どうやら鳥居のようだと気付く。

 風雨にさらされて劣化したのか、それとも何者かに破壊されたのか、笠木や貫の部分が無残に折れ、二本の柱しか残っていない状態だった。

 鳥居の傍らには途中で何度か見かけた石碑が建っていた。

 「天」と彫られている。

 天……山頂という意味だろうか。

 今までより少し開けた周囲を、少女は見回した。

 山道はここで終わっている。

 鳥居の奥にはぽつりと、古く朽ちた神社のような木造の建物が、背の高い木々や伸び放題の雑草に囲まれていた。

 平屋建てだが奥に建物が連なっており、今まで見た廃家の倍近く大きい。

「ここは、神社……なのか?」

 沢木は不審そうな表情を隠そうともせず、目の前の建物を見上げる。

 仰々しく大きな扉に、篝は違和感を覚えた。

 ここは本当に神社だろうか。

 参拝のときに鳴らす鈴や、賽銭箱らしき物は、どこにも見当たらない。

 男はそれには答えず、八幡造りの社殿の前で立ち止まり、篝たちを振り返った。

「子供たちはこの中でさァ。もう用無しだ、焼こうが煮ようが連れ戻そうが、お好きなようにしてくだせェ」

 この中に行方不明になった子たちがいる。

 本当だろうか――篝は不安と疑心暗鬼、わずかばかりの期待がない交ぜになりながら、目の前の扉を見つめた。

 観音開きの木戸が、錆びた和錠で施錠されている。

 周囲はしんと静まりかえって、中から人の声や物音が聞こえてくる気配はない。

「何を企んでいる」

 シュテンは不機嫌そうに、鋭く切れ上がった目で男を睨む。蘇芳が「えっ」と男を振り返った。

「君、まだ何か企んでいるのかい?」

「し、心外ですねェ、旦那。そんなことあるわけないじゃないですか」

 言葉とは裏腹に、男の目がわずかに泳ぐ。

「ふん。御託ごたくはいい、扉を開けろ」

 相手を遮って、素っ気なく言い放つ。

 男は「へい、ただ今」とやけに従順に、引き攣った愛想笑いを浮かべ、錆びた和錠に鍵を差し込んだ。

 シュテンへの態度は、沢木に対する時とは、ずいぶんと違う。

 篝はなんともいえない気分で、目の前の男性を改めて見る。

 黒いスーツの上下に、白とグレイのストライプのシャツ。

 襟元は少しボタンが開いており、ネクタイはしていない。

 少し長めのショートの黒髪をオールバックに撫でつけ、革靴もきちんと磨かれたものを履いている。

 荒れた山に入るには、そぐわない格好だった。

 ジャケットやスラックスという沢木の出で立ちより、男の装いはフォーマルに近い。

 身なりは整っているのに、その佇まいからはどこか厭世的な雰囲気がぬぐえない。

 一見普通の人間に見えるが、彼がまとう空気はひどく異質だ。

 シュテンや蘇芳と似ているようで、少し違う気配が、男性から薄々伝わってくる。

 何より……見覚えのない顔だが、篝は彼の声をどこかで聞いた覚えがあった。

 視線に勘付いたのか、男が篝を振り返る。

 一九〇センチ以上はある長身に、痩せた手足の長い体。

 面長で脂肪が削げた顔は土気色で、猫のような細い吊り目の下には青々とクマが浮いている。

 意図せず視線がぶつかってしまい、篝はあわてて目を逸らした。

 そんな篝を怪訝そうに眺めたが、シュテンにじろりと睨まれ、男はあわてて前を向く。

 軋んだ音を立て、建て付けの悪い扉が開かれてゆく。

 カビと埃、古くなった木のにおいに混じって、かすかに線香のような香りが漂った。

 沢木が腕時計を腕から外し、LEDライトをつけた。

 青白い光がぼんやりと、暗がりを照らし出す。

 篝もスマホの懐中電灯アプリを起動させた。

 観音開きの扉の奥には、拝殿とおぼしき板の間が広がっている。

「どっ、どういうことなんだ!」

 中を見た沢木が抗議の声を上げた。

 篝も狼狽を隠せず、スマホのライトであちこちを照らす。

 広々とした板張りの部屋は殺風景で、何もなかった。

 行方不明の子供たちはおろか、祭壇やご神体らしきものすら見当たらない。

「……子供たちは、どこだい?」

 蘇芳はいくぶんか冷静に、室内を見回し尋ねる。

「この奥の幣殿へいでんに寝かせてありますよ」

 男は平然と答え、土足のまま板の間に踏み入る。

 神社なのに良いのだろうかと、篝は迷った。

 しかしシュテンや蘇芳も履き物を脱がないため、少女は内心、謝罪しながら、他の者たちにならう。

 沢木も躊躇いがちに、靴のまま床板に足を乗せた。

 内部は、外観ほど古くはなかった。

 先ほどの廃家のように、人の重さで床がたゆむこともない。

 奥へと進むたび、外の音が遠ざかってゆく。

 社殿の内部は気密性が高いのか、空気が生ぬるく、こもったにおいが鼻についた。

 精巧に何層も組まれた木材が、隙なく外気と音を遮断している。

 静寂に包まれた社殿の中を、五人分の足音だけが静かに響いた。

 男が奥の引き戸を開く。その先にはごく短い通路が伸びており、十歩も歩けば大きな外開きの扉に突き当たる。

 分厚く大きな木の扉には、二本の太い角材で閂がかけられていた。

 ゴトゴトと物々しい音を立て、男の手で閂が外される。

 外側へ開かれてゆく扉の先をじっと見詰め、篝はごくりと固唾を呑んだ。

 金気をまとったなまぐさい臭気が鼻を衝く。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、仄明かりに照らされた赤いキャンバススニーカーだった。

 白い靴下に包まれ、制服のスカートからはみ出す二本の細い足。

 ライトをかざす手に汗が滲む。

 早鐘を打つ胸を抑えながら、篝は室内をぐるりとライトで照らした。

 先ほどの部屋とよく似た板の間で、奥には祭壇とおぼしき段差に、薄い御簾が垂れ下がっている。  

 部屋の中央には白木の供台があり、豆電球のような小さなランタンが乗っていた。

 それが供台の周囲に倒れた、数人の子供達の姿を、薄ぼんやりと暗がりに浮かび上がらせる。

 ある者は仰向けに、ある者はうつ伏せや横向きに、無造作に床で寝かされていた。

 高校の制服を着ている生徒もいれば、私服姿の者もいる。

 いずれも小学生から高校生までの、未成年者ばかりだった。

 呆けたように生徒達へと歩み寄った沢木が、我に返って人数を数え始める。

「四、五……七人、間違いない。行方不明になった生徒たちだ」

 篝は一番奥で仰向けに横たわる、制服姿の少女に駆け寄った。

「麻音っ……」

 呼びかけながら、力なく横たわった上体を抱え起こした。

「しっかりして、麻音!」

 麻音はかすかな呼吸を繰り返すだけで、目を閉じたまま、親友の腕の中で全身をだらりと弛緩させている。

 いくら篝に肩をゆさぶられても、反応らしい反応を返さなかった。

「しっかりしなさい! おい、助けにきたぞ!」

 沢木も他の生徒たちに声をかけているが、皆一様に目を覚ます様子はない。

「あんた、生徒たちに何をしたんだ!?」

 沢木が焦ったように詰め寄ると、男はにやにやと薄ら笑いを浮かべた。

「騒がれても面倒だから、眠ってもらっているだけさ。もっとも旦那がたは、ガキ共が何をされたのか薄々察しているみたいですねェ」

 水を向けられ、シュテンは昏睡状態の子供達を見下ろした。

操蠱そうこか」

「ご明察です」

 篝はおそるおそる麻音の胸元に耳をつける。

 心音は聞こえるし、顔色もさほどいつもと違わないように見えるのに、何故誰も目を覚まさないのか。

「眠っているだけなら、どうして誰も目を覚まさないんですか!?」

 焦りのあまり、半泣きで叫んだ声が裏返る。

 蘇芳は床に膝をつき、麻音とは別の女生徒の手を取り、脈を確かめるように手首に指を押し当てた。

「大丈夫だよ。蠱師まじないしが術を解けば、この子達は目を覚ますはずだ」

「まじない……? 術って、催眠術のことですか?」

 沢木が困惑も露わに尋ねると、蘇芳は「いや」と立ち上がる。

巫蠱ふこという呪術だよ。その中でも蟲を共食いさせて造る〝蠱毒〟という呪いには、大きく分けて二種類ある。一つは先ほど私たちを襲ってきた、大蜈蚣おおむかでのような物の怪を生み出すもの。もう一つは〝毒〟……人を害したり操ったりすることができる呪毒じゅどくをつくりだすという」

「呪術? それに人を操るって、あなたたちは先ほどから何の話を――」

 沢木と篝の混乱が頂点に達しようとしていたその時、背後からかすかな呻き声が響いた。

「う……」

 麻音のすぐ隣で横向きに倒れていた私服姿の少年が、うっすらと目を開いた。

「幸野くん?」

 篝が少年の様子を、おそるおそる窺う。

 幸野真生。

 篝の前の席の、麻音より少し前に行方不明になったクラスメイトだ。

「……ゴホッ」

 真生は口元を抑えると、苦しそうに顔をしかめて咳き込んだ。

「大丈夫か、幸野!」

 沢木が教え子に駆け寄る。

 何度目かの咳と同時に、少年は口から真っ赤な血を吐き出した。

「えっ!? うそ、大丈夫……?」

 動転しつつも、篝はハンドタオルを貸そうと差し出す。

 真生がわずかに体を起こし、篝に向かって手を伸ばした。

 しかし――――

「駄目だ、篝!」

 蘇芳の声が暗く閉じた部屋に反響する。

 鋭い静止にビクッと顔を上げると、篝は目の前の少年に襟元をぐいっと掴まれた。

「……へ?」

 わずかに揺れた視界の端で、スマホのライトを反射して何かが鈍く光る。篝が瞬きをしたほんの一瞬で、それは首元に迫った。

「動くな」

 すぐ傍まで距離を詰めたシュテンや、鉾を構えた蘇芳を牽制するように、真生は低く命じる。

 篝は何が起きたのか分からず、自分の喉元に突きつけられた、小型のナイフを見下ろした。

「こ、幸野? どうしたんだ、一体何を……」

 担任教師の問いかけには答えず、真生は篝の襟元を掴んだまま立ち上がる。

 篝は喉が締まって涙目になりながらも、クラスメイトの為すがまま起き上がった。

 少年は壁を背に、出入り口にいた男をじろりと睨む。

「遅えよ、大隈おおくま

「すんませんねェ、坊ちゃん」

 大隈と呼ばれたスーツ姿の男が、へらへらと笑う。

 真生は不機嫌そうに、眉間と鼻筋に皺を寄せた。

「その呼び方、いい加減やめろっつってんだろ」

 何故、クラスメイトの少年が、あの男性の名前を知っているのか。

 篝はわけがわからず、真生と男を見比べる。

「どう、して」

 かすれた声で尋ねる篝を見下ろし、真生は忌々しそうに顔を歪めた。

「何しに来たわけ? 本条麻音でも助けに来たのかよ。しかも厄介な奴らまで連れて来やがって、偽善者」

「ぎ、偽善者?」

 辛辣な言葉に唖然としつつも、篝はその物言いに何かが引っ掛かった。

 単に友人を助けることが偽善だと言うのだろうか。

 それとも他に、何か意味があるのか。

「その娘を放してやっておくれ。何か要求があるなら聞くし、人質なら私が代わりに」

 土地神の提案を、真生はすげなく一蹴する。

「そんな見え透いた手に乗るかよ。なにが土地神だ、薄気味悪い仮面かぶりやがって」

「なっ……⁉」

 猿の面まで否定され、蘇芳が絶句する。

 その後ろで、大隈が盛大に吹き出した。

「いけませんよ坊ちゃん。一応、神様なんですから崇めなきゃ」

「馬鹿馬鹿しい。呪術師が神なんぞに頭下げられるかよ」

 毒づく同級生を、篝は呆気にとられて見上げる。

 彼は本当にクラスメイトの「幸野真生」なのだろうか。

 篝が知る真生は、教室ではあまり目立たないタイプの、大人しい男子だったのに。

 真生は隙なく周囲を見回す。

「や、やめなさい幸野。宮代を放し――」

 教え子を説得しようとした沢木が、青ざめて口を噤んだ。

 篝は首元にかすかな痛みが走り、ぎくりと体を強張らせる。

「先に言っとくけど。誰か一人でも動いたら刺すからな」

 冷え切った声に、篝は胸がひやりと冷えた。

「何が目的だ」

 真生を隙なく見据えながら、シュテンは静かに尋ねる。

「そうだな、とりあえず……」

 真生は左手でポケットから何かを取りだし、床に落とす。

「アンタは危険だから、さっさと死んでくれよ」

 それは小さな藁の人形で、先ほど廃屋で見た犬の藁人形とよく似ていた。

 落下する直前、人形はミシミシと音を立てて膨れ上がる。

 藁人形は真っ赤な犬へ姿を変え、用心棒の青年へ躍りかかった。

 シュテンはその場から一歩も動かず、襲いかかる異形の犬をじっと見据える。

「危ない!」

 沢木の叫んだ声が、薄暗い部屋に反響した。

 二メートルにも満たない至近距離から、犬はシュテンの右肩に勢いよく喰らいつく。

 鋭い牙が上着を貫通して沈んだ。

「やめっ――」

 しかし篝が声をあげると同時に、ぱん、と乾いた破裂音が鳴る。

 シュテンは微動だにしていない。

 にもかかわらず真っ赤な犬の体はひとりでに裂け、勢いよく爆ぜて藁を撒き散らした。

 篝はとっさにシュテンの様子を窺っう。

 噛まれた箇所は上着に穴が開いていたが、血が出ている様子は無い。

 安堵する篝とは対照的に、真生は忌々しげに舌打ちする。

「チッ。どういう体してんだ、こいつ。藁人形じゃ、相手にもならないのか」

 真生は口の端から溢れた血を親指で拭うと、床に伸びる自身の影へと振り払う。

 すると、床に飛び散った血痕が赤く光った。

 真生の影が輪郭を失ったように歪み、表面がぶくぶくと沸騰するように盛り上がる。

 目鼻を刺すような獣臭がたちのぼり、篝はにわかに息が詰まった。

 粘着質で湿った音と共に、少年の影から真っ黒な獣がずるりと這い出す。

 狼のような巨大な体躯に、目だけが煌々と血のように赤く、暗がりで底光りする。

 真っ黒な獣は威嚇するように頭を下げ、喉を低く鳴らした。

 闇で塗りつぶしたような黒一色の巨躯に、裂けた口からはみ出す杭のような牙。

 血のように赤い双眸。

 獣が太い前足を踏み出すと、劣化した床板が大きく軋んだ。

 低く濁った呻り声に、篝の体が竦む。目の前の獣は先ほどの犬とは格段に、体格も気配の密度も違った。

「も、もうやめて。お願い、幸野くん」

 篝は震える声で懇願する。

「私には何をしてもいいから。だから、あの人にはこれ以上……」

 真生はそれを無視して、低く呟いた。

「噛み殺せ、影狼かげろう

 真っ黒な獣が牙を剥き出す。

 雷鳴のような咆吼が部屋の空気をびりびりと震わる。

 篝はきつく目を閉じた。

 意を決し、自身の首元に突きつけられた刃を掴む。

 しかし獣が勢いよく、シュテンに向かって駆け出した刹那――

「そこまでです、真生」

 開け放たれた扉から、低く澄んだ声が響き渡った。

 篝はこわごわと目を開く。

 狼のような獣が、まるで時を止めたように、ぴたりと静止した。

 一拍の後、獣はどろりと真生の影に溶けるように姿を消す。

 シュテンは体の向きをわずかに変え、声がした方を振り返る。

 出入り口の前にいつの間にか、見知らぬ妙齢の女性が立っていた。

 居合わせた者たちが呆気にとられる中、女性はスタスタと、篝と真生に歩み寄る。

「この、未熟者」

 呆れたように呟く女性を、真生は怪訝そうに見た。

「あ?」

「人質は無傷だからこそ、価値があるというもの。自分の手元をよく見てごらんなさい」

 少年がぎょっと篝を見下ろす。

 彼が首元に突きつけたナイフの刃を、篝は素手で握っていた。

「なっ!? なにやってんだ、離せ!」

 少年は焦ったように、篝の襟首からぱっと手を離す。

 篝自身も突然現れた女性に気を取られ、すっかり放念していた。

 思い出した途端、左の手のひらに鈍い痛みが走る。

「いっ……」

 篝はあわてて刃から手を離した。真生も素早くナイフを引き、折り畳む。

「結構深く切れてしまいましたね」

 動じる様子もなくさらりと言って、女性は慣れた手つきで自分のハンカチを包帯のように、篝の手に巻く。

 篝は痛みに顔をしかめながら手元を見下ろした。

 薄い生成色の綿布に、白と青の糸で繊細な刺繍が施されたハンカチを、じわじわと赤く血が染めてゆく。

 高そうなハンカチだな、と、他人事のようにぼんやりと思った。

「ごめんなさいね。うちの孫が、粗暴な真似をしてしまいました」

「……孫?」

 聞き間違いだろうかと、少女は首をかしげる。

 目の前の女性はどう見ても三十代、せいぜい四十代前半ほどにしか見えない。

 ともすれば、二十八歳の沢木と同年代だと言われても、信じてしまいそうだ。

「お初にお目にかかります。私はこの子の祖母、八洲やしま伊玖いくと申します」

 女性はそう名乗り、恭しく一礼する。

「幸野くんの……祖母? あなたが?」

 沢木も同じ事を思ったらしく、戸惑いを隠せない様子で尋ねる。

「はい。いつも孫がお世話になっております、沢木先生」

 なだらかに澄んだ声が、薄暗い部屋の空気に朗々と流れる。

 沢木は困ったように眉を下げ、唇を引き結んだ。

 幣殿の中に、気詰まりな沈黙が満ちる。

 まるで女優のような美人だと、篝は伊玖をまじまじと眺めた。

 しみ一つない白磁のような肌に、うなじで丸く結い上げられた、艶やかな黒髪。

 瓜実顔に丸眼鏡が印象的な、決して華美ではないが、淑やかな美をまとう女性だった。

 白泥の地に飛び唐草を散らした小紋に、金糸で菊紋があしらった紫紺の帯を締めた、隙のない和装。

 不意に目が合うと、伊玖は口角を上げて微笑む。

 篝は口の中に溜まっていた唾を、ごくりと飲み下した。

 美しく優しげな微笑みに、どこか不穏なものを感じてしまうのは何故だろう。

 蘇芳がぞろりとした打ち掛けを揺らし、おもむろに女性へ向き直った。

 痛いほど静まりかえった部屋に、衣擦れの音が響く。

「君が蠱師まじないしだね?」

「え」

 とっさに土地神を見る。

 篝は真生が――藁の人形を赤い犬に変え、影から狼のような化け物を出したクラスメイトこそが「まじないし」だと、思い込んでいたからだ。

「ええ。お目にかかれて光栄です、土地神様。そちらのお方も」

 涼やかな切れ長の目が、シュテンにさらりと視線を流す。

 シュテンは正面から伊玖を見据えた。

「噂に聞いたことがある。巫蠱の一族――女はむしを、男は獣を使役し、呪いを為す。時に物の怪や精霊、神すら飼い慣らし、世の裏で暗躍する、呪者たちの徒党があると」

 真生がぴくりと顔を上げ、シュテンを窺う。

「確か、その名を九ノくのえという」

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