第七話 蠢く者たち 後半
「餌になりたくないなら、せいぜい俺か蘇芳の側を離れるな」
こともなげに言って、シュテンは地面に散らばったリュックの中身を拾う。
蘇芳もそれを手伝い、我に返った篝もあわててしゃがんだ。
散らばった荷物の中から、篝は真っ先に革紐のネックレスに手を伸ばす。
少女より先に、骨張った大きな手が、それを拾い上げた。
「すみません。ありが……」
篝は礼を言って受け取ろうと、手を伸ばす。
だがシュテンはそれを手のひらの上にのせ、薄茶の革紐にくくられた黒曜石の剥片のような丸い石を、まじまじと見詰めた。
「……篝、その首飾りは?」
土地神の声が少し緊張しているように聞こえ、篝は怪訝に思う。
「母からもらったんです。お守りというか」
なんとなく「形見」という言葉が使いづらく、曖昧に答える。
すると、少女の顔に影が落ちた。
顔を上げた篝の首に、シュテンはそっと革紐をかける。
思いもよらない行動に、篝は驚き、用心棒の青年を見上げた。
しかしシュテンは他の荷物を拾ってリュックに詰めると、背負い、立ち上がる。
「そろそろ行くぞ」
篝は迷った。
山歩きにネックレスはそぐわないかとリュックに入れていたが、今この場でわざわざ外すのも気が引ける。
「身につけているといたほうがいい。きっと、篝を守ってくれるはずだから」
少女の迷いを察したように、蘇芳が柔らかな声で助言を添えた。
土地神の言葉で、篝は不意に、母が遺した言葉を思い出す。
少し迷って、ネックレスは首から提げたまま、黒い石を襟の下に隠した。
小休憩を終え、一行は再び歩き出す。
すると今までより更にぬかるんだ、足場の悪い急斜面に差し掛かった。
好き放題に生い茂った木々が日光を遮って、周囲は暗く、足元は湿っている。
スニーカーやジャージの裾にはねた泥水は、赤錆のようにくすんだ朱色をしていた。
ぼうぼうに生えた雑草で足元が見えず、篝は何度もぬかるみに足をとられ、転びそうになる。
奥に進むほど、腐葉土のような異臭が強くなってゆく。篝はスニーカーを泥で汚しながら、今まで以上に慎重に、急勾配の坂をそろそろと登った。
しかし黒下駄を履いているシュテンも、雪駄の蘇芳も、まるでコンクリートで舗装された道路を歩くかのようにスタスタと進んでゆく。
急勾配の坂を抜けると岩場に差し掛かった。
おそらく土砂崩れがあったのだろう。剥き出しなった岩肌はわずかばかりの雑草が生えるのみで、ごつごつとひび割れ、ところどころ土や砂をかぶっている。
周囲を見回すが、迂回路は見当たらない。
傾斜は緩やかだが、転倒すれば怪我は免れないだろう。
命綱や梯子など、どこにもない。
だが篝以外の二人は、まるで階段を登るかのように、軽々と岩場を登ってゆく。
土地神の蘇芳はともかく、何故シュテンがこの切り立った足場を下駄で登れるのか、篝には不思議で仕方がない。
篝は慎重に、岩にへばりつくようにして、用心棒の後を登った。
苔や土でジャージが汚れるが、それを嘆く余裕すらない。
「す、すみません。もう少し……」
ゆっくり進んでほしいと、喉まで出かかった弱音を飲み下す。
つい先ほど休憩したばかりなのだ。
蘇芳が岩の上で止まり、振り返る。
「ゆっくりでいいから、焦らず登っておいで」
差し伸べられた手を、篝は有り難く取った。
ひやりと冷たい掌の感触がしたと思うや、意外と強い力で引っ張り上げられる。
その最中、蘇芳の背後に先ほどと同じ、楕円形の小さな石碑があるのが見えた。
苔むした表面に、今度は「人」の一文字が彫られている。
地名なのか、何かの目印なのか。
鬱蒼と異臭が漂う山中。
加えて廃れた村にぽつぽつと残る、因習の残滓じみた痕跡を見つけるたび、いたずらに不安を煽られるようで、篝は気が滅入るのを嫌でも自覚させられる。
岩場を抜けると、緩傾斜の坂道に差し掛かった。
ゆるやかで比較的状態のよい坂を歩いていると、篝もようやく周囲を観察しながら歩く余裕がでてくる。
五分ほど歩くと、行く手にちらほらと廃家が見え始めた。
植林木に隠れるような平屋建ての家はいずれも古く、時代がかかって見えた。
山肌にすがりつくように築かれた石垣は苔むし、木造の家屋たちは黒く朽ちている。
山と人の生活区域の境がひどく曖昧な集落だ、少女は周囲を見回す。
林業が盛んな土地だったのか、至る所に材木が放置されている。
六道坂村は八十年前に廃村になったとネットで知ったが、この集落はもっと昔に時が止まってしまっているように感じた。
何故そう感じたか、篝自身もよく分からない。
電気の外灯やトタンの屋根、電化製品らしきものは見える。ガラス窓がついている家もある。
なのに、どこか昭和や大正より更に前時代の山村を歩いているかのような錯覚に陥りそうになる。
「打ち棄てられたような家ばかりだね。ここらで大きな災害があったという話は、あまり聞いたことがないけれど……」
倒壊した小屋を見て、蘇芳がこぼした。
打ち棄てられた――確かにその通りだと、篝は小屋の奥の家へ視線を向ける。
どの家も木の雨戸が閉め切られているが、中には玄関や勝手口の扉が開いている家もあった。
誰かに荒らされたのか、それとも台風で飛ばされたのか、物が散乱している。
倒れた米びつ、土間に散乱する食器や鍋、剥がれたトタンや割れた木の雨戸。
玄関先に放置された物干し竿、玄関先に散らばった陶器の破片。
古く朽ちていてるが、確かに人々が生活していた痕跡が、生々しく残っていた。
風化し、草木に飲み込まれてゆく民家たちを遠巻きに眺め、少女は不思議に思う。
何故、六道坂村は廃れてしまったのか。
住民たちはどうして自分たちの家や土地を放棄したのだろうかと。
不意に、先頭を歩いていた用心棒が立ち止まった。
「シュテンさん? どうかしたんですか?」
「何かいる」
「え? 何かって」
それには応えず、シュテンは斜め向かいに建つ廃家にふらりと足を向ける。
背の高い塀に囲われた、門に「芹澤」と表札のある家だった。
倒壊寸前ではあるものの、他の家より大きく立派な造りであるところを見るに、裕福な家……引いては村の有力者の家だったのかもしれないと、篝は二階建ての家屋を見上げる。
黒ずみ、ところどころ腐って穴があいた木の引き戸に、シュテンはためらうことなく手をかけた。
ガタガタと音を立てながら、建て付けの悪い戸板が開いた。
カビのにおいと共に埃が舞い上がり、真っ暗な室内が露わになってゆく。
それを見守っていた篝は、つと顔を上げた。
引き戸の上に立てかけられた、小型の木の札。
表札かと思えば、よく見ると積もった埃の下には朱色で「忌」と書かれている。
篝の視線に気付き、蘇芳も札を見上げた。
「忌中札かな? しかし、朱書きとは珍しい」
なにげなく相槌を打とうとして、篝は口を半開きにしたまま固まった。
これとよく似たものを以前、どこかで見たような気がする。
おぼろげな既視感と同時に、頭の奥底からかすかな記憶の断片が浮かび上がる。
――――あのおうちも、誰か亡くなったの?
――――違うよ。あれは「コモリ」のお札。
「……コモリの、おふだ?」
「篝? 今、なんて」
蘇芳が怪訝そうに声をかけたその時、廃家の中からかすかな物音が廃屋の奥から響いた。
「う……ぅぐ……」
呻き声のような、低くくぐもった音。
それに混じって、何か重たいものを床に引きずるような、鈍い摩擦音が聞こえる。
先ほどの大蜈蚣を思い出してしまい、篝は体が竦んだ。
しかしシュテンは迷うそぶりも見せず、土足で三和土にあがり、廊下を進んでゆく。
土足で踏み込むことに抵抗はあった篝だが、さすがに廃屋で靴を脱ぐ勇気はない。
やむなく用心棒の後を追った。
劣化した廊下を歩くたび、床板はみしみしと危うい音を立てて軋んだ。
開け放たれた玄関の引き戸から、真っ暗な室内にわずかばかりの光が差し込む。
歩くたび舞い上がる埃を左手で払いながら、篝はスマホの懐中電灯アプリで奥を照らした。
屋内はがらんとして、どの部屋も扉が閉め切られている。
用心棒の青年は廊下の突き当たりで立ち止まると、目の前の襖を開いた
黴と古い畳の酸い臭いがむっと立ちのぼる。
部屋の奥に巨大な芋虫のようなシルエットがちらりと見え、篝はたじろぐ。
対照的に、シュテンは和室に足を踏み入れる。
「蘇芳。確か昨晩、ここに集められているのは子供たちだと言ったな」
「は、はい。確かそのはずですが」
戸惑いを隠しきれない様子で、土地神が応えた。
シュテンの言葉に違和感を覚え、篝は暗がりに目を凝らす。
「うぅ、むうう!」
呻き声が小さな和室に響く。暗がりに浮かび上がったのは、芋虫ではなく人影だった。
手足を縛られ、地面に転がされている。体格を見るに男性のようだ。
何かを訴えかけるように呻きながら、男性が体をよじった。
懐中電灯アプリのライトに何かが反射し、チカッと光る。
「えっ?」
男性のそばに銀縁の眼鏡が落ちていた。
室内が暗く、布で目と口を覆われているせいで顔がよく見えない。
けれど暗がりに浮かぶ髪型や服装、そして銀縁の眼鏡に、思い当たる人物が脳裏に浮かぶ。
「まさか……」
必死で頭を上下させる男性に、篝は急いで駆け寄った。
手足を拘束していた麻縄を、ナイフで切る。
目隠しと猿轡を取ると、篝のよく見知った男性の顔が現れた。
「やっぱり、沢木先生! 大丈夫ですか⁉」
スマホのライトに眩しそうに目をしかめると、沢木は呼吸を整えながら、目隠しの布で口元をぬぐう。
手ぬぐいのような白い布が、唾液でぐっしょりと濡れている。
篝から眼鏡を受け取り、上着の裾でレンズをぬぐう。
「み、宮代? どうして、こんな所に」
蘇芳が歩み寄り、沢木をじっと見下ろす。
「彼は篝の知り合いなのかい?」
「はい。担任の先生です」
沢木が眼鏡をかけ顔を上げた。
すると猿の面に驚いたのか、ビクッと体を仰け反らせる。
「あ、あなたは?」
「私は土地神の蘇芳という。先生はどうしてこんな所に? まさか誘拐されたのかな?」
「は? 土地神……?」
沢木は戸惑いも露わに、救いを求めるような視線を篝に向けた。
「宮代、この方たちは知り合いなのか?」
篝は返答に詰まる。
猿の面をつけ、十二単のようにぞろりと派手な着物を着た土地神。
時代錯誤な服装に、漂泊したように真っ白な長髪、そして右手には二メートル近い鉾を携えている。
もう一人は山中にもかかわらず袴に下駄を履き、腰まで伸びた髪の間から鋭い眼光を覗かせる、用心棒の青年。
二人をどう説明すべきか、篝は言葉が見つからなかった。
「この二人は、その……知り合いの、シュテンさんと蘇芳様という方です。行方不明になった子たちを助けに来てくれたんです」
篝は担任教師を不安にさせまいと、ことさら明るい声を出した。
「な、なんで様付けなんだ?」
「それはその……神様なので、一応」
しどろもどろになる篝と二人の同伴者を、沢木は露骨に困惑した表情で見比べる。
「さ、沢木先生こそ、どうしてここに」
気まずさのあまり、篝はやや強引に話題を変えた。しかし担任教師の答えは、彼女にとって全く予想外のものだった。
「それが、分からなっ……」
答えようと口を開いた沢木が咽せ、苦しそうに咳き込む。
「だ、大丈夫ですか?」
篝はリュックから水筒を取りだし、飲み口をタオルで拭いて沢木に手渡した。
喉が乾いていたのか、沢木は水筒を受け取り、勢いよく冷茶を飲み干す。
「……ありがとう、助かったよ」
水筒を命綱のように握る彼の手首には、縄の跡が赤々と残っていた。
「それが一体、何がおきたか、全然分からないんだ」
そう前置きをして、沢木は事情を語った。
「昨日の夜、行方不明になった生徒を駅の近くで見かけたから声をかけようとしたんだ。でも立ちくらみをしたのか、急に目の前が真っ暗になって」
不可解そうに話す担任教師の声は、いつもより少しかすれていた。
沢木は凝り固まった体をほぐすように肩や指、腰を動かし、間接を伸ばす。
「その時、背後から頭を殴られて、気を失っていたらしいんだ。目が覚めたら、さっきの状態だった」
絶句する篝の隣で、蘇芳は何かを考え込むように顎に指を添えた。
「じゃあ先生は、昨日からずっとここに閉じ込められていたのかい?」
「たぶん、そうだと思います」
確かに担任教師の服装がいつもと同じだと、篝は気付く。
ジャケットにスラックス、革靴では、荒れた山を登ることなど到底できない。
では一体、誰が沢木をここに閉じ込めたのか。
「というか、ここは一体どこですか?」
沢木が落ち着かない様子で、薄暗い和室をキョロキョロと見回す。
「ここは六道坂村だよ」
「六道坂って……確か、何十年も前に廃村になった集落じゃないですか?」
じっと話を聞いていた用心棒が、不意に顔を上げた。
「童子様?」
蘇芳の問いかけに答えず、シュテンは畳を小さく軋ませながら、奥の障子戸に歩み寄った。
「囲まれたか」
低い呟きとほぼ同時に、ドン、と鈍い音が部屋と空気を震わせる。
篝と沢木はそろって、音がした方を振り返った。
「な、なんの音ですか?」
おそるおそる尋ねた沢木を、シュテンは横目で一瞥する。
「お前達は、そこから動くな」
ドンッ、と更に重い音を立て、障子戸が揺れた。
不意に軋むような音を立て、荒く桟が組まれた障子に光が差した。
バタン、と倒れるような音で、雨戸が外れたのだと気付き、篝は体を硬くする。
「……っ!?」
一拍の沈黙の後、目の前の障子は外側から突き破られた。
桟をへし折り、障子戸を巻き込んで押し倒しながら、赤い獣が弾丸のように躍り出る。
「な、なんだ!?」
沢木が唖然と叫ぶと同時に、シュテンは獣との距離を一歩詰める。
無造作に足を上げると、真っ赤な獣を勢いよく蹴り飛ばした。
鳴き声ひとつ上げず、獣の体が宙を舞う。
倒れかかってきた障子戸もろとも、鈍い音を立てて庭へと吹き飛んだ。
息をつく間もなく、篝は目を瞠った。
人の手を離れて荒れ果てた庭を囲むように、無数の赤い獣たちが集まっていた。
「や、野犬……?」
確かに獣たちは一見、大型犬のように見えた。
血のように真っ赤な毛や、歪に裂けた口元から突き出した、杭のように太く長い牙を除けば――
異形の犬たちは涎を垂らしながら、用心棒の青年を目がけて一斉に飛びかる。
「危ない、シュテンさん!」
篝の叫び声が和室に反響した。
シュテンはごく自然な所作で、左手を振り上げる。
一瞬の後、鈍い破裂音とともに、シュテンの左腕が犬の喉元を貫いた。
篝はとっさに瞼を閉じる。
しかし鼻をかすめたにおいに違和感を覚え、そっと目を開く。
犬の首から吹き出したのは血ではなく、榛色の細長い、枯れ草のような束だった。
「なっ……」
一体何が起きているのかと、篝は目を疑った。
シュテンが手を引き抜くと、ハラハラと空中を舞ってそれは床に散らばる。
蘇芳はしゃがみ、一筋つまみ上げた。
「これは、藁……?」
確かにと、篝は混乱する思考回路の片隅で、妙に納得する。
犬から漂ってくるのは獣臭でも血の臭いでもなく、干し草のようなにおいだった。
同時に床に倒れた犬の体が、ぐにゃりと歪んで輪郭が膨れ上がる。
そうして犬は藁の塊へ――犬の形に組まれた藁の人形へと形を変えた。
「藁の狗……もしや、これは〝蒭狗〟なのか?」
蘇芳が不意に口を噤み、篝も肌を刺すような感覚に見舞われた。
シュテンが敷居を跨ぎ、獣たちに向かって縁側へと踏み出す。
すると風船を割るような、乾いた破裂音とともに、犬たちの体が一斉に爆ぜた。
篝は呆気にとられ、あるいは全身から藁を吹き出す異形の犬たちを見る。
シュテンは微動だにしていない。
襲いかかってくる犬たちに無言で対峙していただけなのに――何が起きたのか、少女は全く理解できなかった。
裂けた体から藁を吹き出しながら、犬たちは人形へと姿を変えてゆく。
「なんだこれは。一体何が、どうなって」
沢木が説明を求めるように、篝や蘇芳に視線を向ける。
篝も沢木と全く同感で、ふるふると首を横に振ることしかできなかった。
蘇芳は縁側に転がった藁の人形を拾い、二人を振り返る。
「これは蒭狗という、獣をかたどった傀儡だよ。何者かが……おそらく蠱師がこれを操って、私たちを襲わせようと……童子様!?」
土地神が答えている最中、シュテンは縁側から飛び降り、庭を駆け出した。
すると庭の隅にある小屋のそばで、ガサッと音を立てて茂みが揺れる。
生い茂る草木の合間から、何者かの後ろ姿がサッとよぎった。
シュテンは素早く人影まで距離を詰める。
人影が後ろを振り返った。
用心棒の青年はすかさず相手の腕を掴んでひねり上げ、小屋の壁に体を叩きつけた。
「がはっ!」
そうして露わになった姿に、篝はおそるおそる目を凝らす。
四十代ほどの、見知らぬ男性だった。
痩せ型だがかなり長身で、シュテンより背が高い。
短髪を後ろに撫でつけ、黒いスーツに身を包んでいる。
「蠱師はどこだ」
「アンタにびびって、とっくの昔に逃げちまっ……ぎあっ!?」
シュテンが更に男の腕をひねり上げた。
「は、はなせ……このっ」
「選べ。拐かした子供らを返すか、このまま腕をへし折られるか」
突然迫られた二択に、男性の顔から血の気が引いてゆく。
今まで聞いたことがないほど低いシュテンの声に、篝は息が止まりそうになった。
ゴリッと骨が軋む嫌な音と共に、男の顔が苦しそうに歪み、額に青筋が浮かび上がる。
見かねたのか蘇芳が庭に降り、あわてて二人に駆け寄った。
「童子様、お待ちください!」
シュテンを制止し、締め上げられている男性に向き直る。
「答えておくれ。子供たちは無事かい?」
「今のところは一応、無傷ですねェ」
野太い声で苦しそうに、わずかな含みを持たせ、男性が答える。
猿面の土地神は、構わず続けた。
「私たちとて、無暗に事を荒立てるつもりはない。集めた子たちを無傷で返してくれるなら、こちらも君や蠱師に危害を加えないと約束する」
男性は窺うような目で蘇芳とシュテンを見比べた。
「君たちには君たちの事情があるとは思うが、ここは手を引いてくれないか」
懇々と諭すような蘇芳の声に、男は逡巡の後、観念したように細く吊り上がった目を伏せる。
「……わかりやした」
降参を合図に、シュテンはスーツ姿の男から手を放した。
男はよろめきながら体勢を整え、ひねり上げられた腕を痛そうにさする。
篝は不意に息苦しさを感じた。
無意識のうちに息を殺していたことに気付き、あわてて深く息を吸う。
「お言葉に甘えて、今回は手を引きましょう。攫ってきた子供たちもお返ししますよ」
「本当かい?」
「アタシだって命は惜しいんでね」
襟を直しながら、男は細く吊り上がった目でちらりとシュテンを盗み見た。
続いて薄暗い部屋に取り残された篝と沢木に、品定めするような視線を投げる。
「それじゃさっそく、子供たちの所までご案内しましょうかねェ」
男はガサガサと雑草を踏み分けて歩き出し、蘇芳たちも後に続いた。
「宮代?」
沢木に声をかけられ、篝は我に返る。
「はっ、はい。今行きま……」
怪訝そうに振り返ったシュテンと目が合い、篝は反射的に顔を背ける。
しまったと思った時には、全身の体温がさあっと下がるのを感じた。
シュテンは特に何も言わず、踵を返す。
謝らなくてはと、篝は焦った。
けれど、喉が詰まって声が出ない。
いたたまれなさのあまり、少女は唇をぐっと噛みしめる。
ぶつりと歯が食い込み、舌の上に鉄の味が広がった。
目の前の青年を、怖いと思ってしまった。
今まで遭遇した大蜈蚣や赤い犬たちより、ずっと恐ろしい存在なのかもしれないと。
自分が頼んだから、シュテンは危険を冒して麻音たちを助けに来てくれたのに。
これまで何度も、危険なところを守ってもらったのに――――。
頭では分かっていてる。
感謝もしているし、自分が間違っているのだと自覚している。
なのに踏み出す足が、体中が、どうしようもなく震えて竦んでしまう。
すると背中にやわらかい感触がして、篝は顔を上げる。
「大丈夫だよ。誰よりも強い御方が、決して無益な殺生をなさる方ではない」
少女のこわばった背中に、蘇芳がそっと手を添えていた。
「さあ、私たちも行こう。童子様とはぐれてしまっては大変だからね」
優しく背中を押され、篝はほんの少しだけ胸が軽くなる。
蘇芳に小さく頷き、ジャージの袖でごしごしと目元をぬぐった。