第六話 蠢く者たち
同時に耳鳴りが消え、篝はこわごわと手を下ろす。
「驚かせて悪かったね、篝。だが童子様のおっしゃる通りだ。現に君の友人は連れ去られる直前、これを耳に当てていた。それで暗示をかけられ、ここに……」
蘇芳はそこまで言いかけ、何かに気付いたように自身の手元を見下ろした。
「……蠱師はどうして狙った子供本人ではなく、〝すまほ〟に応成虫を憑けたんだろう」
「え?」
「本人を直接操らずに、何故このような回りくどい真似を? 一体、何のために……」
自分の推測を整理するように、蘇芳がひとりごちる。
しかし篝の視線に気付き、猿面の土地神は「ええと、それでね」と話を戻す。
「おそらくこの結界は、応成虫を持つ人間だけを通すと思うんだ。だから非常に申し訳ないが……篝はこの〝すまほ〟を持って、結界の中に入ってもらえないだろうか」
申し訳なさそうに続けた蘇芳に、篝はとっさに反論する。
「で、でもそのスマホ、さっきのトカゲ……っていうか、呪いがかけられてるんですよね?」
「大丈夫だよ。篝に呪いは効かない」
「ええ……どうして」
そんなことが断言できるのかと尋ねようとした篝を、猿の面が見下ろす。
「現に効いていないからね。応声虫に憑かれたら、篝は自らの意思とは関係なく操られ、この結界の向こうへ足を踏み入れていたはずだ。昨日、君の友人がそうなってしまったように」
信じられないが、蘇芳が気休めを言っているようには聞こえなかった。
彼らの話が理解できないわけではない。
にわかには信じられなかった「妖怪」や「呪術」という言葉も、身を以て数々の異常な現象を体験した今、頭の片隅でわずかに残っていた疑いすら霧散した。
ただ、簡単には受け入れられなかった。
生まれてから十数年、篝なりに積み上げてきた知識や常識が何一つ通用しない世界を。
「だが、怖いなら決して無理にとは言わないよ。むしろ私を信じて、ここまで来てくれただけでも感謝しかない」
脳裏に親友の顔と、篝にとって決して忘れられない、四年前の出来事がよぎる。
黙りこくった篝を窺い、蘇芳はスマホを懐に戻そうとする。
「待ってください」
篝はとっさにぞろりと長い着物の袖を掴んだ。
「本当に、触っても大丈夫なんですね?」
「うん。おそらく篝に呪いや瘴気、穢の類いのものは効果がない。君はそういう血筋だからね」
「血筋……?」
篝は首をかしげたが、それ以上のことを蘇芳は言おうとしなかった。
やむなく、篝はリュックサックから軍手と多機能ナイフを取り出す。
滑り止めのついた軍手を両手にはめ、ナイフはすぐ使えるよう刃を出して右手に持った。
護身用に、小型の熊よけスプレーを上着のポケットに忍ばせておく。
蘇芳もシュテンも、おそらく危険を承知で行方不明者たちを助けにきた。
だったら自分も出来ることをすべきだと、震える足を踏みしめる。
何より、彼女は身をもって知っていた。
別れとはある日突然やってきて、無慈悲に大切な人の命を奪ってゆくことを。
スマホを受け取ろうと震える手を伸ばす。
しかし蠱物が憑いたスマホは篝の手に渡る直前、別の大きな手のひらに取り上げられた。
「シュテンさん?」
「手で持つ必要はない」
そう言って、篝の上着のポケットにするりと差し込む。
「あっ、ありがとうございます……」
相手のあまりに自然な所作に、篝は一瞬ぽかんとしてしまった。
この青年は素っ気ないのかと思えば、時折、急に距離が近くなる。
にわかに心臓が早鐘を打つ。
妙に火照る頬をぱしぱしと叩く篝に、蘇芳が歩み寄った。
「篝。これから私が詠む歌を、復唱しておくれ」
「歌……ですか?」
猿の面の下から、すうっと息を深く吸い込む音が響く。
とこやみを うがちてらすは かがちのめ
われらがゆくてを みちひらきたまへ
少しくぐもった朗らかな声が、不思議な節と韻を踏み、空気を揺らす。
「とこやみを、うがちてらすはかがちのめ……われらがゆくてを、みちひらきたまえ?」
たどたどしく復唱した篝に、土地神は満足そうに頷く。
「みちひらきの加護だよ。困った時は唱えるといい、きっと君の助けになるはずだ」
「はあ、ありがとうございます」
意味は分からなかったが、篝はなんとなく礼を言う。
リュックを再び背負おうとすると、シュテンがそれを遮るように肩紐を掴み、軽々と右肩に担ぎ上げた。
「少しでも身軽にしておけ」
「え、でも」
「山頂まで登ることになるかもしれん」
どこか確信を滲ませた言葉と共に、門の奥に伸びる山道を見上げる。
用心棒として付いてきてもらった上に、荷物まで持たせることを、篝は申し訳なく思って首をすくめる。
けれどこの先のことを考えると、自分が二人の足手まといになることも避けたかった。
「すみません。お願いします」
「…………を」
「はい?」
何を言われたか聞き取れず、篝は尋ね返す。
「何かあれば、俺の名を呼べ」
蘇芳がハッとしたような様子で、シュテンを見る。
危険な時は助けを求めろということだろうか。篝はそう解釈し、こくりと頷いた。
「じゃあ、行きます」
宣言し、篝は二人に背を向ける。
地面に膝をつき、体を低くして一メートルほどの高さに張られた縄をくぐった。
どこからか「チチチ」と鳥の鳴き声が聞こえ、篝はなにげなく顔を上げる。
「……えっ?」
すると視界を墨で塗りつぶすように、目の前が真っ暗な闇に覆われてゆく。
わけがわからず、篝は何度も目をこすった。
自分の目が見えなくなったのか、それとも周囲が突然暗くなったのかわからない。
「な、なに? どうなってるの⁉」
混乱しつつも、とにかく門に張られた縄を切らなくてはとナイフを握り直す。
しかし振り返ろうとして、篝は周囲をせわしなく見回した。文字通り黒一色の闇に四方を覆われ、門や縄はおろか、自分が向いていた方向が分からない。
門のすぐ手前に立っていたはずの二人の気配さえまるで感じられず、篝は焦って立ち上がった。
「蘇芳様!? シュテ――」
しかし助けを呼ぼうとした彼女は、背後から自分に近寄る影に気付かなかった。
「うぐっ」
すぐ後ろから口を塞がれ、篝はくぐもった悲鳴をあげた。
振り返る間もなく右腕をひねり上げられ、手のひらからナイフが滑り落ちる。
「嬢ちゃん、あの土地神の差し金かい?」
耳元で響いた声に、篝は自分の耳を疑った。
自分の声に、ひどく似ていた。
まるで背後でもう一人の自分が喋っているのかと、錯覚しそうになるほど――――
「内側から結界を崩すっていう発想自体は、悪くなかった。土地神の入れ知恵だろうが、残念だったなァ。それにしても……」
吐息が耳に当たり、奇妙なにおいが鼻をかすめた。篝の肌がぞわりと粟立つ。
「礼を言うよ。ちょうどいい時に来てくれたなァ、お嬢さん」
声がガラリと低く、別人のように転調する。
掴まれた右手は万力で固定されたように、全く動かせない。
口を塞いでいた手が離れたのも一瞬、べたりとした何かが口元に貼りついた。
ガムテープを貼られたのだと、においで気付く。
がくがくと、膝が震えた。
全身の毛穴からどっと汗が噴き出す。
ガムテープで塞がれ、息がうまく出来ない。目眩がする――
「悪いなァ。手荒な真似はしたくないが」
胴に手を回され、びくっと体が竦む。
そのまま抱え上げられ、篝の足が地面から浮いた。
麻音もこうして誘拐されたのかと、恐怖に凍てついてゆく思考の片隅で考え、恐慌に陥りそうになる。
もう駄目だと、きつく目を閉じた、その時。
篝の指先が、何か硬い物にぶつかった。
少女はパッと顔を上げる。
右手と胴体を羽交い締めにされているが、左手は自由だった。
ポケットを探り、小さな缶を取り出す。
背後で自分を拘束する何者かの顔を目がけ、思い切り噴射した。
「うおっ⁉」
刺激臭を含んだ白い煙が、勢いよく舞い上がる。
山に入るからと、熊よけスプレーをポケットに入れた数分前の自分に、篝は心から感謝した。
反撃が予想外だったのか、拘束の手が緩む。
篝は渾身の力で背後の相手を振り払い、地面に転がるようにして距離を取る。
「がはっ……‼ くそっ、なにしや」
獣じみたうめき声を背に、篝は口に貼られたガムテープを急いで剥がした。
転がるようにして立ち上がり、必死で周囲を見回す。
相変わらず視界は闇に塞がれたまま、門と縄がどこにあるか全く見えない。
考えろ、思い出せと、篝は自問自答する。
門をくぐる前、蘇芳は自分に何と言っていた?
――――困った時は唱えるといい。
「……とこやみを」
蘇芳に教わった「歌」。
言葉の意味など、ほとんど分からない。
それでも篝は脳裏で鮮明によみがえる、土地神の声をなぞった。
「うがちてらすはかがちのめ、われらがゆくてをみちひらきたまえ!」
張り詰めた声が闇の中で響く。
チチッと鳥が囀るような音が、再び頭上で聞こえた次の瞬間。
常闇を 穿ち照らすは 酸漿の眼
吾らがゆくてを 道ひらき給へ――――
闇を裂いて、篝の目の前で青白い光が閃く。
「くそっ、あの土地神の神歌か!」
何者かが吠えるような声で叫ぶ。
相手の声の近さに後退ったその時、篝は視界の端に細長い影をとらえる。
篝は足元に落ちていたナイフを拾う。右手でしっかり握り、振り向きざまに振り上げた。
だが間髪入れず、背後から何者かに右手を掴まれる。
「させるか、このガキッ……」
篝は間髪入れず、もう片方の手を伸ばした。
門に張られた藁縄を鷲摑み、力任せに引きちぎる。
「しまった!」
周囲を覆っていた暗闇が霧散する。
その瞬間、篝の目前に蘇芳とシュテンが忽然と姿を現した。
「篝、よくやってくれた!」
勢い余って後ろに倒れそうになった篝を、蘇芳はすかさず支えた。
同時にシュテンは跳躍し、目にも止まらぬ速さで篝の背後に回った。
肉を打ちすえるような、重く鈍い音が鳴る。
「ぐえっ!」
背後で聞こえた生々しい悲鳴に、篝は体を縮こまらせた。
続いてズドン、と地響きのような音が轟き、足元が大きく揺れる。
「!?」
「無理をさせてしまったね。怪我はないかい?」
「だ、大丈夫です……けど」
一体何が起きたのかと、篝はおそるおそる振り返る。
そこには舞い上がる落ち葉と、土埃の中、悠然と立つ用心棒の姿があった。
その傍らに倒れた「何か」に、篝は目を疑った。
百五十五センチの華奢な体に、薄手のパーカーと紺色のジャージ。
肩まで伸びた黒髪に、紺と白のスニーカー。
頭が地面にめり込んでいるため顔は見えないが、背格好から服装、靴、髪型までが――まるで鏡映しのように、自分とそっくりだった。
すると篝に背を向けたまま、シュテンがぼそりと呟く。
「逃げられたか」
その瞬間、うつ伏せに倒れ伏した体から、勢いよく白煙が立ちのぼる。
篝が顔を手でかばうと、それは煙と共に、音もなくかき消えてしまう。
「き、消え……」
「あれは、きっと狢だね。篝を化かそうとしたんだろう」
「……むじな?」
篝はまるで自分がオウムになったような気分だった。
先ほどから知らない言葉の意味を尋ねてばかりいる。
「猥畾とも呼ぶ。狐狸精……狐や狸のように、人を化かす類いの獣だ」
普段と変わらないトーンの声で補足し、用心棒が歩き出す。
篝はあわててシュテンを追いかけ、その最後尾を蘇芳が歩いた。
集落へと伸びる山道を、三人は連れたって黙々と登ってゆく。
しかし一時間も経たないうちに、篝は音を上げたくなった。
斜面を這うように伸びる坂道は草木に覆われ、ところどころ倒木や落石に遮られ、もはや山道の体をなしていない。
更に木が間引かれていないせいか、元々水はけが悪い土地なのか、足元はじめじめと湿っていた。
ぼうぼうに生い茂る草木の下は、養分が行き届かず枯れ腐った雑草や落ち葉で覆われている。
篝は自分の見通しの甘さを痛感した。
舗装された山道と、気をぬけば石やに足を引っ掛けてしまうような、荒れたけもの道では全くの別物だった。
草木をかき分け、倒木をまたぎながら、かろうじて人が歩ける程度のけもの道を何度も足をとられながら必死に歩く。
水はけが悪く、荒れた山道を登るのは、彼女が予想していたよりはるかに過酷な運動だった。
だが四苦八苦する篝とは対照的に、シュテンと蘇芳は慣れた足取りで悪路を進んでゆく。
その途中、木々に隠れるようにしてぽつりと立つ小さな石碑に、篝は目を留めた。
苔に覆われた、小さな楕円形の石碑。
初めは墓か地蔵の類いかと思ったが、そこに彫られた文字にぎくりとする。
「……〝餓鬼〟?」
墓にも地名にも似つかわしくない単語に気を取られ、篝はぬかるみで足を滑らせた。
「わっ⁉」
つんのめる少女を、蘇芳が後ろから支える。
「大丈夫かい?」
不意に視界が滲んで歪み、篝はあわてて俯く。
泣いてはいけない。自分が二人の足を引っ張ってはいけない。
だが極度の緊張に加え、荒れた山道を歩き通しで彼女はひどく疲弊していた。
慣れない異臭と悪路。
先ほどのようなものがいつ襲ってくるか分からない不安と恐怖。
呼吸するたび脇腹がちくちく痛み、足が思うように上がらない。
すると先頭を歩いていた用心棒が立ち止まり、彼女を振り返る。
「引き返すか?」
シュテンの率直な問いに、篝の心は揺れた。
つい先ほど誘拐されかけたばかりだという事実。
自分の姿に化けたという「狢」を思い出すだけで、恐怖が湧き上がり、足が震える。
けれどこの先にも結界があれば、シュテンと蘇芳はそこで行き止まりになるのだ。
「……行きます」
「そうか。なるべく深く呼吸しろ」
篝はごしごしと目を拭い、顔を引き締めた。
「無理はしないようにね。あの大岩のところで、少し休憩をとろう」
ねぎらうように言って、蘇芳は篝からそっと手を離す。
その提案通り、三人は坂を登り切った大岩の近くで休憩をとった。
シュテンからリュックを受け取り、篝は水筒のお茶で水分を補給する。
疲れ切った体に冷たい緑茶が染み入った。
スマホの時計は午前九時過ぎを指している。家を出てから二時間近く歩いているのに、篝の荷物を持ち、休憩もなく歩き通した用心棒は座ろうともしない。
岩にもたれ、息も切らす様子もなく、平然と立っている。
「すみません。私、足手まといで……」
いたたまれなさから謝る篝に、蘇芳が「とんでもない」と応える。
「篝はよく頑張ってくれているよ。こんな荒れた道を、弱音も吐かずについてきてくれたんだから。こちらこそ、もっとこまめに休憩を取るべき所を、すまなかったね」
穏やかな言葉に、篝の涙腺が再び緩む。
ぶんぶんと首を横に振った篝に、猿面の土地神は手を伸ばし、幼子をあやすように頭を撫でた。
「しかし忌み山とは聞いていたけれど、ここまで荒れていたとは……」
蘇芳の呟きに、篝はここまでの道中、ずっとわだかまっていた違和感の正体に気付く。
人の手を離れた山の中を歩いているのに、動物の姿をほとんど見ていないのだ。
虫はちらほらいるが、鳥や獣の姿が全く見当たらず、鳴き声すら聞こえない、
気配はおろか、それらが暮らしている形跡もなさそうだ。
結界をくぐった時は、確かに、小鳥の囀りのような音が聞こえたのに――
「どうして……」
不意に、シュテンがぴくりと顔を上げた。
同時にざりざりと、何かを引きずるような奇妙な音が風上から聞こえた。
篝はなんとなしに用心棒の視線を追った。
「来る。下がっていろ」
「へ? 来るって」
シュテンは前方をじっと見据えたまま、それには応えず音のする方へと踏み出す。
すると茂みの奥で、何か小さく並んだものが二つ赤く光った。
蘇芳が篝をかばうように前に出た。
「篝。危ないよ、こっちに……」
土地神が言い終える前に、パキパキと枝を折るような破裂音が鳴る。
同時に何かを引き摺るような、鈍く重い音がした。
篝が茂みの奥へと目を凝らすと、倒木の間から、何かがずるりと這い出す。
それは彼女もよく知る生き物だった。
鈍く光を照り返す赤黒い外殻に、無数の関節と足を蠢かせる虫。
「うそ……?」
ムカデ――だがそれは彼女が知っているムカデより、遥かに巨大な体躯を有していた。
倒木の間からはみ出した頭だけでも、既にバスケットボールほどの大きさがある。
篝はもしや自分たちの体が縮んだのかと錯覚しそうになった。
音を立てないよう、じりじりと後退る。
「大蜈蚣か」
そんな少女に巨大なムカデは目敏く気づき、爛爛と赤く光る目玉をぎょろりと向けた。
「……いっ」
「篝?」
大蜈蚣から目を逸らすこともできず、篝は土地神の背中に隠れた。
そのはずみで、ジッパーを開けたままのリュックサックを蹴り飛ばしてしまう。
中身が地面に散らばったが、拾っている余裕はなかった。
「いやああああああ!!」
大蜈蚣がガチガチと顎を鳴らす音と、篝の絶叫が、ほぼ同時に響き渡る。
「お、落ち着いて。大丈夫だよ、あの程度の蟲なら童子様が退治してくださる」
にわかにパニックに陥った篝を、蘇芳はなだめようとする。
しかし篝には、蘇芳の話を聞く余裕がなかった。
「に、逃げなきゃ! あんな大きなムカデ、もし噛まれたら死んじゃう……」
ムカデは体が大きいほど強い毒を持つと、祖母の教えを思い出す。
その時、大蜈蚣の体重を支えきれず、乾いた音を立てて倒木が折れた。
ずるりと威嚇するように鎌首をもたげると、それだけゆうに体高は二メートルを超える。
土地神の背後で縮こまる篝を、シュテンは呆れたように振り返った。
「噛まれて済むなら、マシだ」
「え?」
「もっと後ろに下がれ」
呟くと同時に、大蜈蚣に向かって素早く跳躍する。
大岩を足場に、たったの一足飛びで青年は二メートルを軽々と越え、大蜈蚣の頭上まで跳び上がった。
ヒュッと空を裂く音が鋭く鳴る。
シュテンは相手の頭部を目がけて、左腕を振り下ろした。
頭と体の境目がわずかにずれる。
びくん、と巨体が大きく痙攣し、大蜈蚣の頭がずるりと地面に滑り落ちた。
「おおっ!」
蘇芳が感嘆を漏らす。切り落とされた頭は地面に落下し、更に縦に真っ二つに割れた。
頭を失った大蜈蚣は狂ったように長い胴をくねらせ、無数の足を蠢かせていたが、やがて糸が切れたようにぱたりと動きが止まった。
ざらりと砂山を崩すような音を立て、巨大な体が瓦解してゆく。
大蜈蚣の巨躯が突然、何百、何千匹という、普通の大きさのムカデたちに姿を変えた。
「なっ、なに……次は何なの!?」
「落ち着いて、よく見てごらん。皆、既に死んでる。あれらは全て死骸だ」
「死んで……? 本当ですか?」
篝は土地神の背中から、そっと顔を出す。
確かに本来のサイズのムカデたちは、地面に転がったきりピクリとも動かなかった。
うずたかく積もった死骸の山から、何か小さな黒いものがもぞりと這い出す。
他のものより大ぶりな体を持つ、一匹のムカデだった。
生きているものもいるではないかと目を白黒させる篝を横目に、シュテンは躊躇なくそれを踏み潰す。
高下駄の下からジュッと音を立て、どす黒い煙がひとすじ立ちのぼった。
にわかに目鼻を刺すような死臭が漂い、篝は袖で、鼻と口を覆う。
「……なんなんですか、これ」
「おそらく蜈蚣蠱だ」
用心棒の答えに、篝は首をかしげた。
「ごこう……? ムカデじゃなくて?」
蘇芳が見かねたように口をはさむ。
「虫や獣を共食いさせてつくる〝巫蠱〟という呪いがあってね。これはおそらく何百、何千匹というムカデたちを、壺の中で共食いさせて造った巫蠱なんだ」
「共食い⁉」
「どうやら蠱師がいるようだな」
シュテンが周囲を見回す。
しかし「蠱師」の姿を見つけられなかったのか、目をすがめて篝に向き直った。
「巫蠱には蛇や蜈蚣、蜘蛛といった獰猛な虫がよく使われるが、そいつらの餌はなんだ?」
「餌? ええと、確か虫とかネズミとか、カエルを食べるんでしたっけ」
蘇芳が小さく首を横に振る。
そして用心棒の説明をやんわりと、少し気まずそうに引き継いだ。
「いずれも他の生き物を食う獰猛な虫だからね。これだけ体が大きいと、獲物の対象もその分大きくなるというか……人間を襲って食べることもあるんだ」
「えっ」
篝の思考回路が一瞬フリーズした。
もしかして先ほど、大蜈蚣が自分を見た理由は――?
同時に気付く。巨大な虫も妖怪も、充分恐ろしい。でもそれ以上に怖いのは、そんな化け物を苦も無く一瞬で殺してしまう用心棒なのではないかと。
「そういうことだ。餌になりたくないなら、せいぜい俺か蘇芳の側を離れるな」