第四話 真夜中の訪問者
コツン、と再び窓を叩くような、乾いた音が鳴る。
虫や石が窓ガラスにぶつかったようには聞こえず、篝はぱちりと瞼を開いた。
見慣れた萌葱色のカーテンに、月明かりに照らされた「何か」の影が浮かび上がる。
シルエットといい、大きさといい、鳥や猿には見えない――
見間違いであってほしい。
そんな篝の願いもむなしく、コツン、と三度窓が音を立てて小さく揺れる。
「……っ!」
少女は毛布で口を抑え、悲鳴を噛み殺す。
特に物音は聞こえなかった。
窓の外にいる影の主は一体、どのように屋根を登ってきたのか。
こんな夜中に人家の屋根を登るなど、まともな訪問者とは到底思えない。
パニックに陥りそうになったその時、篝の脳裏に、とある人物が浮かぶ。
昼間に遭遇した、奇妙な青年。
祖母が酒と引き換えに雇った「用心棒」が今、一階の客室で寝ているはずだ。
彼を呼ぼうと、篝はそろそろと体を起こす。
まさに今、彼の出番ではないか。
窓の外にいる「何か」を追い払ってもらえばいい。
そのための用心棒なのだから。
少女は藁にもすがる思いで、極力音をたてないよう、ベッドを抜け出す。
だが部屋を出ようと、ドアノブに手をかけた、その時。
「何者だ」
聞き覚えのある低い声が、窓の外で響いた。
訪問者らしき影に被さるように、背の高い人影がカーテンに浮かび上がる。
「……シュテンさん?」
篝は窓に歩み寄り、おずおずとカーテンに手を伸ばす。
「開けるな」
彼女の行動を見越したように、窓の外から制止が飛んだ。
決して大きくはないが、低く鋭い声に、少女の手がびくっと止まる。
「貴様は何者だ。何の用があって、この家に来た」
窓の外の空気がにわかに張り詰める。
篝はカーテンに浮かび上がった二つの影をはらはらと窺った。
「……夜分遅くに、ご無礼を致しました。灯りがついていたのが、この部屋しか無かったもので」
一拍おいて、篝が聞いたことのない、低くくぐもった声が聞こえた。
「私はこの土地を守る者、名を蘇芳と申します。まことに恐れ多くも童子様のお力添えを賜りたく、無礼を承知で参上いたしました」
訪問者の影が、すっと半分の高さまで縮む。
篝は目を凝らし、影の主は縮んだのではなく跪いたのだと気付いた。
「猿の面……貴様、塞の神か」
「はい」
奇妙にくぐもった声だが、話し方は丁寧で穏やかな様子だった。
話が通じない変質者や、泥棒や強盗の類ではないのかもしれないと、篝はほんの少しだけ安堵する。
「どうかお助けください、童子様。この辺りに住む子供らが次々と、何者かに連れ去られています。恥ずかしながら、私ごとき一介の土地神の力ではどうする事も出来ず……」
「えっ?」
思いもよらなかった話の展開に、篝は身を乗り出した。
「連れ去られているって、まさか行方不明になっている高校生たちのことですか!?」
「あ、ああ、そうだよ。いずれも十五から十八の子たちが、何人も拐かされているんだ」
「何か知っているなら教えてください。私の友達もいなくなってしまったんです!」
思いのほか大声が出てしまい、篝は焦って口を閉じる。
一階で寝ている祖母が起きてしまわないか心配だった。こんな場面に居合わせたら、祖母は腰を抜かしてしまうだろう。
「君の友人も……。そうか、すまないね。土地神の私が腑甲斐ないばかりに」
何故謝罪されたのか、篝には今ひとつ因果関係が掴めなかったが、弱々しくかすれた声に警戒心がわずかに揺らいだ。
窓の外にいるのは一体どんな人なのだろうと、そっとカーテンに手を伸ばす。
「勝手に開けるな」
窓の外から再び、容赦の無い制止が飛んだ。
「でもその人、行方不明の子たちのこと知って」
「お前がそれを知ってどうする。土地神ですら歯が立たない相手に、お前のようなただの小娘がどうにかできると思っているのか」
「こっ、小娘って……私じゃなくて、警察に通報すれば」
「その気持ちは、とても有り難いけれど」
面食らいつつも色めき立つ篝を、暗く沈んだ声が遮る。
「彼らはおそらく、人の世の理が通じる者たちではないんだよ。相手が普通の人間なら、それこそ君たち人間だけで解決できたけれど」
予想の遥か斜め上をいく言葉に、篝は更に混乱した。
相手が普通の人間なら。普通の人間ではない相手とは、一体どういう意味なのか。単なる精神異常者や凶悪犯を指しているようには聞こえない。
「どういうことですか?」
「言葉通りの意味だよ。たとえ警官を何人呼んだとて、おそらくあの地に入ることすらかなわない」
言いようのない悪寒が背筋を這い上がった。
先週末から今日にかけて続く失踪事件。
行方不明となった高校生たちの消息は、未だ誰一人として分かっていない。
なのにカーテンの向こうにいる何者かは、行方不明になった子達がどこにいるのか知っているような口ぶりだ。
けれど、こんな深夜に二階の部屋の窓を叩くような来訪者を信用していいものか。
篝の脳裏に親友の顔が浮かぶ。軽はずみに関わるべきではないのかもしれない。
知らなくていいことは世の中にたくさんあるし、君子危うきに近寄らずという昔の人の言葉は正しいと、篝は常日頃から思っている。
だが窓の外にいる何者かは、事件の詳細を知っているらしい。
ここで知らないふりをすることは簡単だ。でもそれで、親友が戻って来なかったら。
自分はもう二度と自分を許せなくなると、篝は唇を噛む。
「……でも」
やっとの思いで絞り出した声が震える。
「お願いします、教えてください。どうして皆がいなくなったんですか? 連れ去られてるって、一体どこに」
とにかく話を聞いてみないことには、何もわからない。矢継ぎ早に質問しながら、篝は意を決してカーテンを開く。
「――――っ!?」
少女はかろうじて悲鳴を飲み込んだ。
カーテンを開いて、真っ先に視界に飛び込んできたのは、まるで絵のような猿の顔。
それはピクリとも表情を動かさず、窓の外に浮かんでいた。
篝は思わず後退る。
よくよく見れば目の前の顔が本物の猿ではなく「お面」で、更に首から下は着物を纏った体があることに気付いた。
暗がりに浮かび上がる面の周囲から、白く長い髪が垂れ下がっている。
猿の面に、漂白したような真白い長髪。
更に輪をかけて奇妙だったのは、訪問者の服装だった。十二単のようにぞろりと裾の長い、山吹色の和服を身につけているが、その衣装がコスプレなのか本物の着物か篝には判別できない。
月明かりに照らされた長い白髪が、夜風に吹かれて小さく揺れる。
人を見た目で判断するのは良くないと思うも、目の前の者のあまりに奇妙な外見に、篝の決意は早くも折れそうになった。
来訪者の背後にシュテンが立っていなければ、反射的にカーテンを閉じていたかもしれない。
「よければ開けておくれ」
半ば相手に気圧される形で、篝はそろそろと窓を開けた。すると来訪者の背後に立っていたシュテンが音もなく屋根をつたい、軽々とした身のこなしで窓から部屋に入る。
その背後で猿の面をかぶった来訪者は、屋根の上で白い雪駄を脱ぎ、丁寧にそろえて置く。
上体をかがめて窓枠をくぐり、篝の部屋に踏み入った。
「怯えさせてしまって、すまなかったね。そういえば、君は?」
思い出したように尋ねられ、篝は内心抵抗があったが、おずおずと答える。
「……宮代篝です」
「篝火の篝かな? 私は塞神の蘇芳。花蘇芳の蘇芳という字を書く」
「さえのかみ?」
篝が聞いたことのない言葉を聞き返すと、猿の面が頷くように小さく揺れる。
「そうだね、平たく言えば土地神かな」
「はあ……」
神様を自称されて即座に信じるほど、篝は信心深くも、おめでたい人生を送ってはいないつもりだった。
曽祖母は拝み屋のようなことをしていたと祖母から聞いたことがあるが、篝自身はからきし霊感はない。
だが用心棒に輪をかけて奇妙な目の前の自称「神」が、普通の人間だとは到底思えない。
白い長髪と奇妙な和装、更に猿の面で顔を隠され、性別さえ判別がつかなかった。
ぞろりとした着物の裾から、銀杏の葉がひらりと舞い落ちる。
蘇芳は履き物を脱いだが、猿の面を外そうとはしない。
というか本当にお面なのだろうかと疑い、篝はぶるりと身震いする。
篝は内心、こんな夜中に素性不明の訪問客を自室に軽率に招き入れてしまったことを後悔しはじめていた。
「蘇芳と言ったな。詳しく話せ」
シュテンが口火を切る。
猿面の土地神は「はっ」と居住まいを正し、話をはじめた。
「異変に気付いたのは昼過ぎ頃でした。村境の近くで異質な妖気を感じて、様子を見に行ったところで、にわかには信じがたい光景を目にしたのです」
「異変に気付いたのは昼過ぎ頃でした。村境の近くで異質な妖気を感じ、様子を見に行ったところで、にわかには信じがたい光景を目にしたんです」
篝は固唾を呑み、土地神の声に耳を傾ける。
「十五、六歳ほどの少女が、なんの前触れもなく忽然と、真っ黒な闇に覆い隠されてしまったのです」
「や……闇⁉」
停電のことを言っているようには聞こえない。
絶句する篝の隣で、シュテンは目で続きを促した。
「あれは人間業ではありますまい……黒々と濃く、一寸先すら見通せぬような暗闇でした。更に闇の中で空間がねじれ、霊道……この世ならざる道が開いたのです」
猿の面から漏れる声が、一段と低くなる。
「娘は何故か自分から、まるで誘われるように、ふらふらと真っ暗闇の路を進んでゆきました。その時、娘の他にもう一つ、闇に姿を隠した何者かの気配を感じました。おそらくその者が娘を拐かしたのでしょう。その異質な気配を追ったものの、結界に阻まれてしまい、娘を取り戻すことはかなわず……」
うなだれる蘇芳とは対照的に、シュテンは何かを思案するように顔を上げる。
「周到な手口だな。その娘が消えた場所は?」
「ここから一里ほど離れた、関原という駅です」
土地神の言葉に、篝は目を見開く。
「あ、あの! その女の子って、どういう子でしたか。見た目とか服装とか、持ち物とか」
「痩せて背の高い、十六か七歳ほどの娘だったと思うよ。髪が少し赤茶色で短く、赤と黒の格子柄の鞄を背負っていた」
痩せ型の長身にショートヘア。赤いタータンチェックのリュックサック。外見や持ち物、時間帯や場所から考えるに、土地神が語ったのは篝がよく知る親友のことだ。
「麻音……」
「もしや、さっき言っていた君の友人かい?」
篝は返事ができなかった。
麻音の身に一体、何が起きたのか。吐き気がこみ上げ、目の前が暗く歪む。
「霊道はどこに通じていた?」
すぐ真横から響いた低い声に、篝は顔を上げた。
シュテンの問いに、蘇芳はわずかに口ごもる。
「六道坂という、もう何十年も前に廃れた集落です。場所はここから山を一つ越えたところでしょうか。おそらく消えた子供らは皆、そこに集められております。ですが、ひとつ決定的な問題がありまして」
「結界か」
「はい。まるで山全体を囲むように張られた結界がかなり強固です。おそらくは選ばれた人間以外を通しません。童子様でも破れるかどうか……」
篝は頭を抱えた。
蘇芳とシュテンの会話を半分も理解できない自分に、ただ焦燥ばかりが募ってゆく。
今回の失踪事件は、単なる誘拐ではないこと。麻音たちが「六道坂」という場所に連れ去られたらしいこと。
その二点だけは、辛うじて分かったが――
不意に視線を感じて顔を上げると、蘇芳がじっとこちらを見つめていた。
カーテンを開け放した窓の外で、草木がざわざわと風に揺れる。
「篝。君は今、いくつだい?」
沈黙も束の間、猿の面からぽつりと声が漏れた。
質問の意図が読めず、篝は戸惑う。
「へ? 十六歳、ですけど」
篝が答えると、蘇芳はなぜか彼女ではなく、隣に立つシュテンを窺うように見た。
だがシュテンは特に反応はなく、蘇芳は気を取り直した様子で話を再開させる。
「連れ去られた友人を取り戻したいかい?」
低く尋ねられ、篝は気圧されたように頷く。
「は、はい」
「実は君にひとつ、協力してほしいことがある」
「私に……ですか?」
蘇芳は頷くと、懐から小さな青い箱のようなものを取りだした。
「あの村に入るには、私でも童子様でもない。おそらく君が要となるはずだ」
自分に向けられたそれを見て、篝は目を剥き出した。
青いプラスチックカバーに包まれた、最新機種のスマートフォン。蘇芳が電源スイッチを押したのか、振動に反応したのか、画面がパッと光った。見覚えのあるロック画面が表示され、篝は確信を持つ。
間違いなく親友のものだ。見間違うわけがない。
青にシルバーのラメをあしらった夜空模様のスマホカバーは、麻音の誕生日に篝が手作りしたプレゼントだ。
「そのスマホ、麻音の……」
「やはり君の友人のものか。連れ去られた時、何かのはずみで落としてしまったんだろう。拾っておいて良かった」
蘇芳はスマホを膝の上に置く。
篝が画面を覗き込むと、液晶画面が再び発光する。バッテリーの残量が残り5パーセントを切ったと、警告画面が表示された。
「……ん?」
錯覚だろうかと、篝は目を凝らす。
蘇芳が顔につけている、能楽や神楽に使われるような、木製の猿の面。
その目元に空いた二つの穴の奥が一瞬、スマホの光を反射して赤く光ったように見えた。
****
翌朝、篝は病院に行く祖母を、シュテンと二人で見送った。
「二人とも、戸締まりは気をつけてね。知らない人が来ても、出なくていいから」
心配そうに念を押す祖母の後ろで、シュテンは空の酒瓶を詰めたケースを軽々と、車のトランクに積んでゆく。
「ごめんね、ばあちゃん。一緒について行きたかったんだけど」
申し訳なさそうにうつむく篝の頭を、祖母は幼子をあやすように撫でた。
「謝ることないよ。ゆっくり休んでなさいね」
柔らかな祖母の声に、篝はちくちくと胸が痛む。
朝食の時、今日どうするか祖母に予定を尋ねられた篝は、苦肉の策で「体調が思わしくないため留守番をしている」と答えた。
確かに体調はお世辞にも良好とは言えない。
これから自分がしなくてはならないことに対する緊張で昨晩はあまり眠れず、朝食もろくに喉を通らない有様だった。
「戸締まりはしっかりね。誰かピンポン押しても、出なくていいから」
篝は鼻の奥がつんと痺れた。
祖母に隠し事をする罪悪感はもちろん、病院についていけない申し訳なさ、検査の結果が異常なしであってほしいと切に願う気持ち、自分や麻音が無事に戻れるかという不安――様々なものが渾沌とぶつかり合い、旨の内側で渦を巻く。
目の前が歪んでぼやけ、前髪を分けるふりをして密かに目をぬぐう。
「……検査の結果、ちゃんと教えてね」
「はいはい、ちゃんと連絡するよ。それじゃあシュテンさん、篝ちゃんをお願いします」
トランクを閉め、シュテンが振り返る。
「わかった」
素っ気なく頷いた用心棒の青年に、祖母は深々と頭を下げ、運転席に乗り込んだ。
年期の入ったエンジン音と共に、車がゆっくり発進する。
軽自動車が山道を下ってゆくのを見届けると、シュテンはおもむろに切り出した。
「本当について来るつもりか」
「足手まといにならないよう努力します。囮でも雑用でも、私に出来ることなら何でも協力します。だから」
ばくばくと嫌な音を立て始めた胸を右手で押さえつけ、篝は用心棒の顔を見た。
「私からもお願いします。麻音を……行方不明になった子たちを、助けてください」
「それが、お前の望みか?」
シュテンがじっと篝を見下ろす。
「はい」
篝が迷いなく頷く。
対照的に、青年は何かを考え込むように口を閉ざした。
「……シュテンさん?」