第一話 奇妙な出会い
夜闇がはけ、山頂を覆っていた雲が流れてゆく。
白みはじめた空を見上げ、青年は一升瓶の酒を煽った。
喉を鳴らして酒を飲みくだすたびに、腰の近くまで真っ直ぐに伸びた黒髪が小刻みに揺れる。
茶色い一升瓶に並々と詰まった焼酎が、一瞬で半減する。
瓶を口から離し、青年は深く息を吐いた。秋風に冷やされ、酒気を帯びた吐息が白く濁ってかき消える。
青年は一升瓶を片手に、足場というには心許ない、地上からゆうに数メートル離れた銀杏の木の枝の上で立ちあがった。
彼の眼下では四方を山に囲まれた小さな町が、曙光に照らされ輪郭を取り戻しはじめていた。
「変わらんな、ここは」
誰に言うともなく呟くと、青年は黄金色の葉を茂らせた銀杏の樹上から、朝靄に包まれた町をしばらく眺める。
青年は鋭く切れ上がった双眸をすがめると、真正面にそびえる山へ目を凝らした。
赤土の山――木々が野放図に生い茂り、ところどころに赤い山肌がのぞく。
その山は青年が知る限り、人はおろか鳥や獣すら寄りつかない場所だった。
何十年も前に廃れたきり禁足地となって久しい、俗に「忌み山」と呼ばれる類いの山。
にもかかわらず、その山の頂にほんの一瞬人影がよぎるのを、金色の瞳が確かに捉える。
視線を戻した彼の目に、今度は右斜め向かいの小高い山の中腹にぽつりと建てられた、小さな一軒家が映る。
青年はしばらく何かを考えるように目を伏せ、瓶に半分残った酒を一息で飲み干す。
空になった一升瓶を片手に抱えると、ゆうに五メートルを超える樹上から、音もなく飛び降りた。
* * *
勉強机に突っ伏していた篝は、すぐ近くでけたたましく響いたアラーム音にはっと顔を上げた。
体を起こしたはずみで、机の右端に置いたプラスチックのケースに肘をぶつけてしまう。
しまったと思った時には既に、ケースの中身はざあっと音を立てて床に散乱していた。
「あーあ……」
寝ぼけた視界に飛び込んできた惨状に、篝は頭を抱えた。
床に散乱した無数のオニキスビーズ。
机の上は端布や糸くず、型紙、八割方できあがったテディベアのパーツたちや、道具箱から出したまま、使いっぱなしの裁縫道具が散乱している。
一体何時に寝落ちしたのだろう――
篝はビーズを拾いながらため息をつく。
机の上で居眠りしていたせいか目の奥が重く、体の節々がこわばっていた。
日付が変わる前には、作業に区切りをつけようと思っていたのに。
一度没頭すると、時間を忘れてのめり込んでしまう――自分の短所だと思うが、なかなか治せない。
ざっと片付けを終え、パジャマについた糸くずや小さな端布をゴミ箱にはたき落とす。
背中まで伸びた髪をヘアゴムで後ろに結びながら階段を降りれば、食卓にはすでに朝食が並んでいた。
鯵の塩焼きにシメジと小松菜のおひたし。
さつまいもと林檎の甘煮、大粒の栗がごろごろと入った栗ご飯。
「おはよう篝ちゃん。お味噌汁、飲む?」
台所に立っていた祖母の燈子が振り返る。
「うん」
篝は頷き、燈子からなめこの味噌汁が注がれた汁椀を受け取り、食卓につく。
いただきます、と手を合わせ、湯気を立てる汁椀を手に取る。
祖母の手料理に秋の気配をしみじみと感じるも、ゆっくり味わっている時間は、少女にはなかった。
小鉢のおひたしを早々に食べ終え、焼き魚をおかずに栗ご飯をかき込む。
「ごちそうさまっ」
篝は食器を洗い、そそくさと玄関に向かった。
すると祖母が「待って」と、孫を呼び止める。
「篝ちゃん。お供え、お願いね」
そう手渡されたのは、青い風呂敷に包まれた一升瓶だった。
「分かった。行ってきます」
自転車にまたがり、家を出る。
篝は少しの間、学校とは逆方向へ自転車を走らせた。
ゆるやかに伸びる山道を五分ほど登れば、「山神の止まり木」と呼ばれる、黄金色に色付いた銀杏の大木と、小さな古い祠が見えてくる。
苔むした低い石垣に鎮座する、古くこじんまりとした木製の祠。
周囲に蛇や猿がいないか用心しながら、篝は道の端に自転車を止め、祖母からあずかった包みをカゴから取り出した。
青い風呂敷をほどけば、中からは茶色い、清酒の一升瓶があらわれる。
それを右手に抱え、篝は祠の扉を開いた。
錆びた蝶番が軋み、音を立てる。
中に散らばった落ち葉を軽く払いのけ、一升瓶をコトリと置いた。
手を合わせ、軽く目を閉じれば、山頂近くの滝の音や、遠くで鳴くカワセミの声が聞こえてくる。
心の中で十秒ほどカウントすると、篝は祠の戸を閉じて立ち上がり、足早に自転車へと戻った。
獣道を抜けるまでは自転車を押して歩き、山道の手前でサドルにまたがる。
コンクリートで舗装された山道はなだらかな下り坂になっており、少しガタつくものの、ペダルを漕がなくても自転車が勝手に進んでゆく。
時折ブレーキを交えながら三十分ほど山道をくだれば、木々の合間から篝が通う私立高校が見えてくる。
レトロな赤レンガの校舎に、昨年改築されたばかりの真新しい体育館。
しかし高校に近付くにつれ、篝は見慣れた風景に違和感を覚えた。
高校の周辺に、どことなくあわただしい雰囲気が漂っている。
側道や駐車場には、パトカーや見慣れないワゴン車が数台停まっていた。
篝が自転車を停めて正面玄関に向かえば、そこには生徒や教師たちに混じって警察や新聞記者、地元のテレビ局のカメラクルーやレポーターが行き来していた。
教師たちはあわただしくマスコミや警察官への各々の対応に追われ、生徒達はその様子を遠巻きに、どこか興味深そうに眺めている。
「私どもとしても一刻も早く、行方不明になった生徒が無事戻ってきてくれることを心より……」
マイクを向けられた校長が、緊張した面持ちでインタビューに答えていた。
「行方不明……?」
不穏な単語に、篝はどきっとする。
野次馬の生徒たちの中に、ひときわ目を引く親友の姿を見つけ、駆け寄った。
「おはよう。ねえ、何かあったの?」
わずかに赤みのかかったショートボブの茶髪を揺らして、麻音が振り返る。
「おはよ。私も昨日知ったんだけどさ、うちの学校の生徒が行方不明なんだって」
「えっ。行方不明って、誰が」
「三年生の近藤先輩に、生徒会の平子先輩でしょ、あと他には、ええと……」
「うそ、一人じゃないの?」
行方不明と聞いて、なんとなく一人だと思い込んでいたため、篝は驚きを隠せない。
麻音はポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを開くと、画面を篝に向けた。
「何人かいるらしいよ。ほら」
篝はおそるおそる、小さな液晶画面をのぞき込む。
麻音が所属する茶道部のグループトークに、行方不明者三名の氏名と学年、消息が分からなくなった日時、そして情報提供をよびかける旨のメッセージが記されていた。
篝がなんとなくそれを眺めていると、二人の背後から影が差す。
「宮代、本条」
聞き覚えのある低い声に呼ばれて振り返ると、いつの間にか彼女たちの背後に、薄い銀縁のメガネをかけた若い男性が立っていた。
レンズに陽光が反射し、白く光る。
「沢木先生。おはようございます」
「野次馬もいいけど、もうすぐホームルームだぞ。本庄は今日、日直だったはず……」
「わ、やべっ!」
あわてふためく麻音に、担任の教師が日誌を手渡す。
スピーカーから予鈴が鳴り、二人が教室に駆け込むと、一足おくれて沢木も入ってくる。
「はい、席について。出席を取ります」
途端にざわついていた教室が静まり返る。
出欠確認がはじまり、篝は「あれ」と首をかしげた。ホームルームが始まっているにも関わらず、彼女の前の席は空席のままだ。
「幸野は――――」
点呼の順番が回ってきても当然返事はなく、にわかに教室がざわめいた。
「まさか、幸野も?」
「行方不明なんじゃ……」
「うそ、マジで? いつもの無断欠席じゃないの?」
担任は「しずかに」と注意し、すかさず補足する。
「幸野は家の方から連絡があった。体調不良で欠席するそうだ」
にわかに生徒達の囁き声がやみ、篝は小さく胸をなで下ろした。
まさか彼も行方不明になってしまったのかと思ったため、病欠と聞いて安堵する。
「知ってる人も多いと思うけど、このあたりの地域で中高生が数名、一昨日から行方が分からなくなっています」
そう語りかけながら、沢木はプリントを配った。
「今日は緊急の職員会議があるので、午前授業に変更になります。行方が分からなくなった生徒を見かけたり、彼らについて何か知っていることがあれば、どんな些細なことでも情報提供してください」
篝は手元に渡ってきたプリントに視線を落とす。そこには行方不明になった五名の生徒の学校名・学年と氏名、行方が分からなくなった日付、注意喚起と情報提供をよびかける旨が記されていた。
この学園の高等部の生徒が二名、中等部の生徒が一名。近隣の公立高校から二名。
いずれも金曜の夜から日曜日にかけて、消息が途絶えてしまったのだという。
ホームルームが終わり、教室が喧噪に包まれる。行方不明者を心配しつつも、降って沸いた午前授業に、皆は浮き足立っていた。
行方不明になった友人を心配する者、不安しながらも好奇心を隠し切れない者、面白がる者。
事情を詮索する者、無関心な者と、反応はさまざまだ。
授業が始まっても生徒達は、普段より明らかに集中力を欠いていた。
四限目が終わると、生徒達はいそいそと帰り支度を整えはじめる。
帰りのホームルームでは担任教師が、生徒たちに口酸っぱく外出禁止令を敷いた。
怪しい者を見かけたら通報すること、下校時は一人でなく複数人で集まって帰ることを、担任から念押しされる。
明日は臨時休校、事件が解決するまでは部活や委員会も中止となった。
篝が荷物をまとめていると、麻音がカバンを振り回しながら寄ってくる。
「よっしゃ、さっさと帰ろうぜ!」
満面の笑みを浮かべた友人に、苦笑した。
完璧じみた美少女の外見をしているくせに、妙に男らしいというかサバサバしているというか、そんな麻音のギャップが篝は憎めない。
「ちょっと、堂々と笑わないの」
不謹慎とは思いつつ、降って湧いた半休は、自分も率直に嬉しい。
篝は自転車を押しながら、麻音は徒歩で、校門を出て駅へと向かう。
「大きな声で言えないけど、正直ありがたいってうかさ。リハまでに台本、もうちょい読み込みたかったんだよな」
「リハーサル、いつあるの?」
篝が尋ねると、麻音は小さく笑った。
「今日。夕方から、オンラインで読み合わせ」
学生と芸能活動の両立は大変だと、篝は多忙な親友を見るたび、しみじみと感心する。
麻音は高校に通うかたわら、舞台演劇にもいそしむ役者だ。
小学生の頃から劇団に所属し、演劇やミュージカル、朗読劇など様々な舞台に出演してきた。
将来は女優になるのが目的だという。
夢に向かって邁進する親友が、取り立てて将来の夢や希望がない篝には、少し眩しい。
「そっか。大変だね……」
今度の舞台で、麻音は念願の主役を務める。
歴史小説が原作となった作品で、麻音は巫女に扮するという。
篝はステージに立つ親友の姿を想像し、ほうっとため息をついた。
すらりと細く、均整のとれた背の高い体。
赤みがかかったショートボブの茶色い髪。
吊り目に鼻筋の通った、少し気の強そうな、けれど猫のように愛らしく整った顔。
友人の贔屓目がなくとも、麻音は華がある少女だと篝は常々思う。
家が厳しいため、大学になるまで芸能活動はあくまで学業の次と制限されているという。
麻音のような将来有望な子こそ第一線で活躍すべきだと、篝は演劇に打ち込む友人の姿を目の当たりにするたび、もどかしさを感じてしまう。
けれど高校を卒業すればきっと、麻音はこの小さな町を出て、もっと広い世界に羽ばたいてゆくのだろう――
「……あのさ。かがりんは、巫女ってなんだと思う?」
通学路を歩きながら、麻音が尋ねる。
「巫女? うーん、神社で働く女の人。なんていうか、清純なイメージ」
役作りの一環だろうか。
思いもよらない質問に、篝はぼんやりとした知識とイメージで答えた。
「それが歴史上の巫女って色々あってさ。私が演じる巫女は信濃巫女っていう、大名に仕えてスパイみたいなことをしていた人なんだよね」
「スパイ?」
「全国を旅して情報を集めるってやつ。女なら男より怪しまれないから」
巫女の役と聞いて神秘的なキャラクターを想像していたため、篝は少し意外だった。
「へえ、面白そう。原作読んでみようかな」
篝が何気なく呟くと、麻音は破顔する。
「マジ? 貸すよ、明日持ってくる!」
「いいの?」
「いいよ、二冊持ってるから」
会話を弾ませているうちに、あっという間に高校の最寄り駅までたどり着く。
「じゃ、またな」
麻音が右手を軽く上げる。
すると、麻音の右目のあたりに、小さな黒い靄のようなものがまとわりついていた。
篝は無意識のうちに、立ち止まった。
「あ……」
「ん? どした?」
不思議そうな顔をする麻音に、篝はそっと手を伸ばす。
「まつげ、目元についてるよ」
白い指先が、麻音の目元に軽く触れた瞬間、靄は音もなく霧散する。
篝は内心ほっとして、友人からそっと手を離した。
「とれた。もう大丈夫」
「ありがと」
「ううん。じゃあ、また明日ね」
麻音と駅前で別れ、篝はもくもくと自転車を押して山道をのぼった。
十月とはいえ日差しは強く、うっすらと背中に汗が浮いてくる。
篝は自転車を道端にとめ、祠に向かった。
格子戸を開けば、朝に供えた焼酎はすでに祖母に回収されたらしく、見当たらない。
少女は手を合わせ、瞼を伏せた。視界が遮断されると、かすかな音が耳に入ってくる。
遠くで鳴く翡翠の声。草木が風に揺れる音や渓流のせせらぎ。
不意に、静寂を裂くように、ひときわ大きく木々がざわめいた。
風も無いのに、枝葉を大きく揺らすような音に、篝は顔を上げ、周囲を見回す。
すると視界の片隅で、背後の銀杏の木から大きな、真っ黒な影が降ってくるのが見えた。
少女が身構えると同時に、黄金に色づき始めた葉が、大きな影の後を追うようにはらはらと宙を舞う。
猿だろうかと、篝はとっさに後退る。
しかしその正体を視認した瞬間、少女は黒目がちな目を、こぼれ落ちんばかりに見開いた。
「えっ」
猿だと思った影は人間で――ひどく奇妙ないでたちの男性だった。
腰の近くまで伸びた黒い髪。
剥き出しの上半身には、服らしき服が見当たらない。
袴なのか、ゆったりとしたパンツなのか、ぱっと見ただけでは区別がつかないほどボロボロの黒い下衣だけを身につけている。
突然現れた半裸の男を、篝は呆気にとられてまじまじと見た。
「おい」
低い声が空気を震わせる。聞いたことのない低い声に、篝はびくっと体を硬直させた。
「お前は……の娘か?」
「は、はい?」
何を言われたのか上手く聞き取れず、篝は目の前の男をおそる窺う。
体つきを見る限り男性のようだが、まっすぐに伸びた黒髪は腰の近くまであった。
「酒はあるか?」
逆光で相手の顔がよく見えない。
こういう場合、どうすればいいのかと、少女は混迷を極める頭で必死に考えた。
確か相手から目をそらさないように、なるべく刺激しないように、静かに後ろ歩きで遠ざかる――そこまで思い出し、それはクマに遭遇した時の対処法だと気づく。
焦るあまり、喉から変な声が出た。半裸の男が怪訝そうに眉をひそめる。
「聞いているのか?」
尋ねるように言うと、男は篝に向かって一歩踏み出した。
おのずと篝も一歩、後ろに退がる。
「へっ……へ………」
「なんだ」
「変質者ああああっ!」
反射的に叫んだ言葉が、木々の合間を縫って、静かな山の中にこだました。