熄まない狂沁み⑨
だがしかし、クルードの凶行を止められたとしてもそれは一時的なものである。
レヲンの取ったこの一手というのは、他にやりようが無かった末の一手だった。レヲン自身それをよく承知している。
遺体と魂を取り込み、以て武器と成す――それを異骸相手に使った例などない。
相手がもう物言わぬ骸だからこそ、また相手が自分を好んでくれていたからこそ、その結末に同意を示してくれたのだ。
だがクルードは違うだろう。ならばここから先は、レヲンという一個体の強さで以て屈服させなければならない。
そのことこそ、寧ろ揺らぐ。
あの老いた狂人に勝てる道筋はあるのだろうか――考えても答えなど出ない。
しかし臨まなければならない。この戦いは、あくまでも自らが望んだ戦いなのだ。
そして、魂の霊座にやがてクルードの霊体が具象する。
「貴様、その術――」
意外にも老狂人の一言目とは、【死屍を抱いて獅子となる】に対する興味だった。
霊座は個々人の固有座標域の中心に位置する深層心理の底だ。故にそこで具象された存在は、自らも含めてその宿主の心象風景を垣間見る。
レヲンの霊座に広がる風景とは――それは、三つの場所で構築されていた。
一つ――シシとしてシュヴァインと過ごした、食肉の楽園の宿舎。
二つ――シシとしてエーデルワイスと過ごした、【禁書】のイェセロ支部。
三つ――シシがノヱルから託された【銃の見做し児】により刻まれた、教会跡を改装した孤児院。
それら三つの場所が混じり合い、綯い交ぜの様相を見せていた。
だからこそ答えを待たず、クルードはその風景の一端を見て呟く。
「……ノヱル。そうかお前は、ノヱルから――」
言葉の代わりに首肯をひとつ差し向けたレヲン。彼女の目に映るクルードの姿は、あらゆる狂気から解放され正気を取り戻したように見えた。
「しかしワタシがノヱルに宿した術式とは術の構成が異なる……」
「それは、あたしに異獣化が起きた時にそうなったんだと思っています」
レヲンはすでに自身の身の上をクルードに聴かせている。クルードは狂気に塗れた中で聞いたその物語を脳内で反芻すると、薄く目を細めてレヲンを見遣った。
いや、その両の眼が捉えていたのは――レヲンの傍らに佇む、二人分の人影だ。
片や、老齢にも関わらず端整な肉体を保持し、白く髭を蓄えた男性。
片や、戦士然とした屈強な肉体と、強さゆえの美しさを兼ね備えた女性。
その二つの人影はレヲンには知覚できない。同じく術に取り込まれた存在だからこそ、クルードは視認できたのだ。
「シュヴァイン……そして、エーデルワイス、か……」
「どうしてその名前を?」
レヲンが発した問いにクルードは答えない。ぼんやりと佇む二人に向けて、遠く仰ぐような視線を投げるだけだ。
「成程。その者たちと同様に、このワタシをも取り込み、己が力とするつもりか」
「……それは、判りません」
深く皺の刻まれた目尻の傍で、眼光が力強さを増す。
「判らぬ? お前は一体どのような心積もりでワタシをこの場に誘いこんだのだ?」
「……無我夢中で、としか言いようがありません」
「ほう、実に不愉快な回答だな仔獅子よ。お前に起きた異獣化の果てに齎されたあの術の特性を理解した今、お前の一手は実に見事だったと賞賛したいところだ。だがしかし、お前にはその後の展開を全く思い付けないでいると見える。甚だ不愉快だ、ワタシはこのような愚者に取って食われたか!」
ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。
「我が亡骸とともに魂までをも取り込んだのなら、確かにワタシの次の義体が動き出すことも無い。天晴だと言おう、仔獅子よ。実に、実に素晴らしい手だ。お前の頭の中身とともに、非常に天晴だ!」
レヲンの心を揺さぶる、クルードの辛辣さ。霊座に具象した二人は霊なる存在だからこそ、精神的な側面こそが強く影響する。
この場における闘争とは、より強く心の在る方が勝鬨を上げる――無論、クルードに戦況は傾いている。
「だからこそ愚かしいにも程があるぞ仔獅子! よりにもよって我が愛基の名を語ったのだ、お前は! ならばその名に相応しい振る舞いを見せてみよ!」
そして霊体であるからこそ、想いが全てを再現する。もはや霊基配列を通さずとも描いた魔術は霊座に繰り出され、クルードの突き出された手からは何本もの光条が思い思いの軌道を描いてレヲンの身体を穿つ。
「――っ!」
内臓を直接焙られたような激しい熱が苦悶を呼び覚まし、次いで現実とは比にならないほどの激痛が全身で爆ぜた。
堪らずぐらりとよろめいたレヲンは、しかし地に手を、膝を着くことは無かった。
耐え、くの字に折れた身体でクルードを仰いで睨み、力強く奥歯を噛む。
その両側に佇む亡霊の如き揺らぎは、彼女を支えようとはしない。
ただそこにいるだけ――ただそこで、見守っているだけなのだ。
「……差し詰めここは、千尋の谷というわけか」
それはレヲンに向けた言葉では無かった。その残響が消えるのと同時に、二つの人影もまた揺らめいて消える。
「腹立たしい……我が悲願がここで潰えると言うのか? いや、そうはさせん。貴様の魂を擂り潰したその後で、この術の構造を再構築しワタシは帰還する!」
「駄目……させ、ない……」
「いいや帰還する! そして冥を仕上げ、憎き神の軍勢を根絶やしにしてやるのだ!」
「駄目だ、って、言ってるでしょ……」
「ならば止めてみよ仔獅子ぃ! ワタシを完膚なきまでに叩き潰し、食い尽くして見せろ!」
想いが全てを支配すると言うのなら。
その胸や腹に空いた孔もまた、想いの果てに元に戻る。
それを実践して見せたレヲンは倒れた上体を腰の上に据え、そして両手を横に大きく広げた。
「うああああああああ!」
右手――そこには三日月状の刃を持つ大きな戦斧が。
左手――そこには魔術式を構築する機構の収まる大剣が。
三日月と獅子の牙――ともに両手で扱うように設計された長重武器。現実の物理法則に従わない霊体だからこそ可能な二刀流。
跳び出したレヲンを迎え撃つはクルードの繰り出す様々な魔術だ。火球は爆ぜ、氷柱が降り注ぎ、嵐が暴れ、雷が劈く――それらを獅子の牙の障壁魔術で防ぎながら、右手で振るう三日月の斬撃をお返しとばかりに撃ち出した。
「甘いわ仔獅子ぃ! 貴様ワタシを誰だと思っている!?」
飛翔する斬撃を空間の断絶で弾いたクルードは、そうしながらも新たな魔術を展開する。
追尾する重力球は威力は然程では無いものの、着弾すると見当違いの方向に身体が弾き飛ばされた。
そこへ大地が割れ裂け――それを【跳躍転移】で回避したレヲンに、次々と追撃の魔術が雨霰の如く射出される。
獅子の牙に込められたエーデルワイスの魔術を駆使しそれらを躱したとしても、クルードの魔術はレヲンの心象風景を壊していく。それもまた、レヲンの心を蝕み、徐々にその火勢を奪っていく。
「どうした仔獅子ぃ! ワタシを誘い出したのは貴様だ、ワタシとの闘争を望んだのは貴様だ! これは貴様が始めた戦いだ! 貴様の戦いだ! その戦斧と大剣など見飽きた! もはや効かぬ届かぬと知れ!」
防戦一方――いやしかし、これではあまりにも一方的だ。
為す術が無い、見当たらない。果たして勝機はそこにあるのか――だが対峙するクルードは、もはや正気を取り戻していると思えた。
その眼光には知性が宿っている。つい先程まで、レヲンと冥を滅ぼそうと向かってきた者のそれとは違う。
そして紡がれる言葉の端々には、何かを伝えようとしている節さえあった。
レヲンは全力で追撃に対する迎撃を繰り出しながら、焼き切れそうなほどの速度で思考を回転させている。
付け焼刃と言われようと、自分には父の形見である三日月と、母の形見である獅子の牙しか無い。
戦闘技術はエーデルワイスから受け継いだものだ。この身にある知識はシュヴァインから教えられたものだ。それ以外に――
(あ……)
そうしてこの霊座における戦いでの“解”を――クルードが正気の沙汰で伝えたかったその“解”を得たレヲンは、三日月と獅子の牙とを棄却した。
「漸く思い至ったか、仔獅子――いや、レヲンよ」
その呆れ果てた笑みはしかし、嘲りから来るものでは無い。
レヲンの【死屍を抱いて獅子となる】という魔術の特性により、この霊座にある限りは身を灼く狂想から解き放たれたクルードは、同時にこの魔術がどのようなものであるかを理解していた。
そしてレヲンがその魔術を使いこなしてなどいないことをも。
しかし本当にそんなことが可能なのか、レヲンは逡巡している。
故に舌打ちし、クルードは獅子の成長を願い、期待し、ありったけの魔術をぶつける。
「やはり仔獅子か! いいか、戦場に慈悲など無い! 貴様の迷いに付き合う敵などいない! 思い付いたなら全てを試せ! 即刻その場で試行せよ! 錯誤ならその場で勝利への布石としろ! 迷う暇があれば思考を回せ! 命無くば成就能わず、死ねど潰えぬ切願に飲み込まれた成れの果てが目の前にいるぞ! 貴様もこうなりたいと言うか!?」
ああ、やっぱり――――この人は、優しい人だと呟いて。
憧れの生みの親を抹消させるための最後の手段を、レヲンは放った。
◆
「――“死屍を抱いて獅子となる”」
「えっ?」
地面に両膝を着き、しな垂れて動かないレヲン。今まさに霊座にて屈服の儀を行う彼女の傍でただそれを見守ることしか出来ない冥は目を丸くした。
今しがた彼女の口から発せられたのは、異獣となった際に変換された彼女固有の魔術、その術式名だ。
そしてそれが引鉄となり、彼女の周囲に満ちる霊銀が振るえ、夥しいほどの共鳴を見せる。
狼狽え、周囲を見渡す冥。
これはまるで、《《死都全体》》の霊銀が共に鳴いているようだとさえ――
「……レヲン?」
見遣る視線の先の身体はやはり動かない。
しかしその奥深く、霊座にて繰り広げられる戦いは、終焉を迎えようとしていた。
“冥”が気になった方、
よろしければ前作「げんとげん」も読んでみてくださいませ。
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