熄まない狂沁み⑧
「カァァァアアア!」
空間そのものが膨らんでは爆ぜる。
それを辛うじて鼻先という余裕の無さで回避した冥は、またも左腕から組織液を迸らせるとそれを赤い蜉蝣へと変貌させる。
彼女の行使する【自決廻廊】は、そんな風に自身の血液を蜉蝣へと変じさせ、取り憑いた対象の精神に影響を与える。
影響とは感情の固定。冥に対する憎悪を植え付け、そしてそれを増徴するのだ。
怒り狂った人間は本来の賢慮を失い、あらゆることに短絡的となる。また、その視界も狭まり、故に攻撃は裂帛となるが同時に単調にもなっていた。
それは読み易く、つまり躱し易い。
しかしそれでも尚、クルード・ソルニフォラスという異骸は稀代の魔術士だった。
空間を操って作用する空間魔術。
火と熱を統べる炎熱魔術。
氷と冷気を司る氷冷魔術。
風と音波を繰り出す気流魔術。
液体と奔流を自在とする流水魔術。
金属をはじめとする鉱物を操る鉱石魔術。
光と雷電を司る電光魔術。
物理法則と力場を操る重力魔術。
彼が操る魔術は多岐に渡り、一度として同じ攻撃が来ることは無い。
つまり全てが初見であり、培った経験など回避の役には立たない。
それでも冥がクルードの繰り出す殺意を込めに込めた魔術の数々を避け続けているのは。
冥の【自決廻廊】が功を奏し、また彼女の“死の予兆を嗅ぎ取る”という能力が凄まじいからだ。
特に後者は限定的ではあるが、もはや未来視に近しい程度で発揮され、彼女を窮地から遠ざける役割を今この時は担っている。
しかしそのどちらとも、本来の使い方とは異なっている。
【自決廻廊】は対象の攻撃を単調にするような魔術では無く、“死の予兆を嗅ぎ取る”能力も、自らを死から遠ざけるものではない。
全くの逆だ。あべこべなのだ。
それは自らを死に追い遣るためのものであるべきだ。何故ならそのどちらとも、彼女に刻まれた【我が死を、彼らに】という唯一無二の魔術を行使するためのものだからだ。
いや寧ろ、その二つはその一つから派生した魔術、と論じてよい。とどのつまり、対象に自らを攻撃させ、それで以て対象を完殺するためのものなのだ。
しかし冥は逡巡していた。何せ相手は異骸、通常ならざる生命を有するような存在だ。すでに死んでいる存在だ。
対象に死を与え、それを以て対象の生を自身と逆転させて生還を果たす【我が死を、彼らに】が本来の効果を発揮するのか定かではない。死んでいる存在に生があるとは思えないからだ。
だから冥は自身を死から遠ざける。そうしながら、【我が死を、彼らに】では無い手段で以てクルードを封じなければならない――その手段を、そして彼女は知らない。
元々彼女が宿っていた森瀬芽衣という人物は“アイドル”を目指す“女子高生”だ。凶悪とも言える魔術を内包していようが、元より戦闘に適した存在ではない。そしてそれは、その別人格に過ぎない芽異、そしてそれから創られた冥も同じだ。
クルードの手によって創り変えられた冥は躯体の性能こそ戦闘に適したものにはなっているが、如何せんまだ中身は追いついていない。経験が足りないのだ。彼女に施された実戦経験とは、その実、彼女の魔術の試運転に過ぎなかったのだから。
そしてその試運転、実験もまた、クルードのような異骸を対象としたものではない。だからこそ彼女は、自分の【我が死を、彼らに】が彼に通用するとは考えていなかった。それこそまさに、“死の予兆”がぷんぷんとする事項だ。
レヲンが捻り出した“解”もまた、そんな風に異骸に対して行使するようには出来ていない筈だ。無論、そのように使ったことも無い。
だからそれが巧く行くとは限らず、レヲン自身、そんな浅はかな期待を込めたわけじゃ無い。
だが、確信めいた希望ならばあった。
後は、覚悟だけ――その存在そのものを、抹消してしまうことへの責任感だけ。
「ゴォォォオオオオオ!」
飛び出そうとした矢先、クルードの放った爆撃が遂に冥の左足に着弾した。
太腿から下を焦がしながら吹き飛ぶか細い体は、色濃い苦渋の表情を伴っている。
「“獅子の牙”――“跳躍転移”!」
見てはいられない。もはや看過するべきではない。
まだ決意は固まっていないものの、ただそれだけでレヲンは跳び上がった。
どちらとも、失いたくない存在には違いない。
片や友達になれそうな存在と。
片や憧れの生みの親という存在。
だから魔術による低い跳躍推進の最中にも、思考をフル回転させて他の方法を探し続けた。
極限に集中の研ぎ澄まされた緩慢な、色と音の無い世界。
冥の施した【自決廻廊】の効果により、クルードは冥に対する仮初の、しかし膨大に増徴された憎悪により彼女しか頭に無く。
それ故の意識の死角から彼の元へと到達したレヲンは、手に握る獅子の牙を棄却した。
そこには、動いてはいるが“遺体”があり。
そこには、狂ってはいるが“魂”が宿る。
ならば、その魔術の行使条件は合致する。
「――|“死屍を抱いて獅子となる”《デイドリーム・デッドエンド》!」
レヲンの両腕に刻まれた魔術紋が蠢いて、妖しく光を解き放つ。
その光は驚愕の眼で未だ冥を睨み付けるクルードを包み込み、そして光の粒子――霊銀へと変換していく。
変換された霊銀は老狂人の身体から剥がれると同時に、レヲンの両腕の魔術紋へと吸い込まれ、そして溶け込んだ。
命とは、命を奪い生きていくものだ。
しかし異獣化により通常ならざる存在である異獣となったレヲンは、その理からも外れてしまった。
レヲンと言う命は、終えた命をこそ糧とする。
その術式の名が冠するように、その命は死をこそ喰らい、永らえる。
だが闘争は終結したのではない、寧ろここからだった。
吸収した死は、狂い果てた亡者の執念。
全ての光を吸い込んだ身体の奥底で、魂が自らを規定する霊座の中心で。
クルード・ソルニフォラスの魂は、今まさにレヲンの魂を蹂躙せんと猛威を振るう。
「ぐっ、ぅ――ああああああああ!」
「レヲン!?」
茫然とその結末を眺めていた冥も、レヲンの急変にたじろぎ、しかし駆け寄った。
地に両手を着き、血走った眼からは赤黒く変色した血を、同様に鼻や耳、口からも夥しく流血するレヲンはやがてのたうち回り、苦悶の呻きを喚き散らかす。
確かにその手段とは、冥を守るものではあった。
だがクルードをどうにかする、というのならば、ここからなのだ。
深層心理のそのまた奥、奈落よりも深い霊座の果て。
レヲンとクルードの対話が、漸く始まる。
“冥”が気になった方、
よろしければ前作「げんとげん」も読んでみてくださいませ。
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